May 19, 2019

論理と勇気

 内田樹先生がブログで、文科省の「論理国語」という新しい科目を批判して、とても重要な考えを説明しています。

 論理的であることは、その先の飛躍、跳躍を果たすためであり、そのためには「勇気」が必要である。教育の目的は、子どもに「勇気」を育てることである、という主張です。

論理は跳躍する

 まったくその通りで、強く同意します。

 論理を突き詰めて開ける世界とは、単純な因果律に従うことではなく、飛躍、跳躍をすることです。そこでは失敗するリスクを引き受ける必要、すなわち勇気があります。

 アドラー心理学的教育論とばっちり符合します。

 ただ、あえて言わせてもらえば、内田先生、「勇気」を言いながら、ここでもフロイトを例にとりだし、「勇気の心理学」アドラーへの言及は全くありません。別にフロイトだっていいけれど、まったく知らないというのはどうなんだろうという気がしてなりませんね。あるいは知っていてもフロイトの威光に逆らえないのでしょうか、あるいは、どっかのアドレリアンと何かあったのか。仲良しの名越康文先生はれっきとしたアドラー派出身ですけど、彼との対談本でさえフロイトしか持ち出さなかったですからね。

 リベラル派知識人はいまだにフロイトが好きであり、それが限界という気がいつもしています。

 跳躍したのは別に「死の本能」のフロイトだけでなく、「共同体感覚」のアドラーや、影響力という点では「条件反応」のパブロフやスキナーの方が絶大です。知識人には精神分析学が高尚で、アドラーや行動科学のような実際的な心理学が嫌いなのかもしれません。

 思わず、内田先生をdisってしまいましたが、主張は素晴らしいのでご一読ください。

(引用始め)

論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。
 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです
 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。
 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。
 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。
 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。
 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。
「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。
The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become. 「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」
 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。
 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです
「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。

(引用終わり)

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May 14, 2019

『アドラー流 リーダーの伝え方』

 最近、『労基旬報』という労務管理系の実務者向けの新聞に、リーダーシップの原稿を書いています。私は自分ではリーダータイプではなく、参謀タイプ思っていますが、子どものころから意外にリーダー的役割をさせられたり、務めることがありました。学級長から始まって生徒会、サークルの幹事長などなど。第1子の長男であるからか、自然とそういう役回りをしているのかもしれません。アドラー心理学の家族布置そのままですね。

 ただ、リーダーについて書くとなると専門外という感は否めず、やはりアドラー心理学を頼みます。そこで今年のはじめに岩井俊憲先生が出した本を参考にします。

『アドラー流 リーダーの伝え方 「勇気づけ」でやる気を引き出す!』(秀和システム)です。

 岩井先生らしいやさしさで、噛んで含めるように、組織の中でリーダーはどのように考えてふるまえばよいか、部下への接し方、勇気づけ方がとてもわかりやすく説かれています。リーダーシップについて、岩井先生はこれまでも何度も著してきていますが、私は今まで読んできた中で一番スッと胸に入った読後感でした。

 字も適度に大きく読みやすく、ちょうど老眼になるリーダー世代にはやさしいですね。編集の妙も感じます。

 組織がハイパフォーマンスを出すためには「生産性」と「人間性」が車の両輪のように働かなければならないと、本書では説かれています。新自由主義は生産性ばかりが強調され、結果、その生産性も落ちることとなりました。人間性の部分は、アドラー心理学などの実績のある心理学的アプローチが基盤になると思います。

 最近、何かのリーダーになられた方には、本書が参考になりますよ。

 

 

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May 11, 2019

アドラー心理学は宗教ではないが

 前記事で、心理臨床家はいわゆるスピ系や宗教について、同意はしなくても理解はしておいた方がいいということ書きましたが、実はアドラー心理学を宗教のように扱うのは反対です。

 アドラー心理学の理論や技法は、何も特別のものではなく、既存の臨床心理学の大部分と連携可能であり、別の立場からも十分に接近可能なものです。ところがまだその辺が、日本では未開拓でした。この辺を、私は公認心理師や臨床心理士の世界で活動していきたいと思っているところです。これはこれまでのいわゆるアドラー心理学ムーブメントでは、先ず届かないところです。実際、ここ40年近く、日本のアドラー心理学はその分野で、まったくといっていいほど目立った貢献はありませんでした。むしろ外部からは、排他的な印象があるとよく聞きました。

 つい最近まで、専門家のほとんどがアドラー心理学をろくに知らなかったのがその証拠です。その点で、岸見一郎先生の功績は偉大です。けしてN先生ではありません。

 ではスピリチュアリティ―や宗教的なものと無縁かというとそうでもないところが、アドラー心理学の面白いところで、ユング心理学みたいに宗教どっぷりでもなく、精神分析学みたいに宗教批判でもなく、認知行動療法みたいに宗教を科学するわけでもないのです。

 スピリチュアリティや宗教的なるものと日常の心の在り方を結ぶ働きが、アドラー心理学にはあるように思います。もちろん、「全体論」や「共同体感覚」がそのキーワードにはなるでしょう。

ここをどう表現するかが、考えどころです。

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May 08, 2019

いろいろな世界との連携

 連休最後の5月6日(月)、久しぶりにヒューマン・ギルドに行き、アドラー心理学ゼミナールとカウンセリング演習に出ました。

 ゼミナールでは、「眠れる予言者」と言われたエドガー・ケイシー由来のケイシー療法を、クリニックでがん患者などに実践している方の発表でした。その様子は岩井俊憲先生のブログに出ていますが、発表なさったのは穏やかな上品な感じの女性で、誠実にスピリチュアル・ケアに携わっておられる様子が伝わってきました。

 エドガー・ケイシーなんて普通の人や、心理職の人は知らないと思いますが、オーソドックスな、というか昔からのスピリチュアルな世界に親しんでいた人にはおなじみの名前です。当時はシュタイナーやグルジェフ、クロウリーなどと並んで、「本格的オカルティスト」には人気がありましたね。

 私は30年以上前の大学時代に、サークルの友達にエドガー・ケイシーに関心を持っていた人がいて、話や様子を聞いていました。私も詳しくはないけれど、ケイシーは催眠療法を受けたらかなり深い状態になって、「あっちの世界」につながってしまった人みたいです(かなりいい加減な言い方ですみません)。

 詳しくはこちら。

 エドガー・ケイシー Wikipedia

 日本エドガー・ケイシーセンター

 私はエドガー・ケイシーに特に関心を持たなかったですけど、時に催眠がこういう現象を起こすことには関心を持ちました。心理学レベルの真っ当な催眠療法家なら、まず対象にしないところですが、現象としてはエドガー・ケイシーやチャネリングなど、たまに生じることがあるようです。

 それにしても、ここがアドラー心理学の懐の深さだと改めて思いました。エドガー・ケイシーも自然に統合できてしまう。これは他派にはなかなかないところだと思います。

 そう思ったのは、先日Twitterである心理士さんが、臨床心理士や公認心理師のような臨床家が、街のスピリチュアル屋さんや拝み屋さんから紹介されたりして、「連携」する可能性があることをつぶやいていたからです。いろんな意見があったのですが、実は確かにこのようなことは、開業しているとありうることなのです。そういう時に、こちらが変な色眼鏡を持たずに、その人たちと良い関係を作れると、クライエントにとって利益になるかもしれません。

 反対にクライエントが変なところに行きそうだったり、行っているようなら何らかの助言をする必要がある時もあるかもしれません。

 いずれにしても心理臨床家は、いわゆるスピ系や宗教は視野に入れておいて損はないでしょう。

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May 04, 2019

「間」を動かす

 ゴールデンウイークも10連休も、客商売の自営業には不要です。ぼちぼち予約はありますが、いつもより大分少ないので、商売上がったりです。クライエントさんたち、カウンセリングなんか来なくて元気に遊んでくれているのならそれはそれでいいですけど、なんか変な気を使ってくれる人もいるみたいで、「先生もお忙しそうだから、悪いから」と遠慮して入れない人もいるみたいです。気を使ってくれなくて全然いいのですけどね。

 さて、少し前に紹介した甲野陽紀著『身体は「わたし」を映す間鏡である』(和器出版)では、身体と言葉の深遠なつながりを学べます。甲野さんの仕事の素晴らしいところは、武術とかスポーツとかの特殊、専門的な動きではなく(それにも役立ちますが)、日常生活の何気ない動作を通して、「新しい身体の経験」を体験できることです。

 「注意の向け方」と「身体の動き」がどのように関係しているかを、甲野さん独自のワークを通して知ると、みんな一様に驚き、笑い声をあげます。その様子が楽しいので、私もスクールカウンセラーの勤務先の学校でメンタルヘルスの授業を頼まれて、試験の時の緊張対策を甲野さんに質問して教えていただいたやり方をやって、大いに盛り上がりました。

 例えば、相手に普段通りに立ってもらって、こちらは身体を左右に揺らして安定感を確認してもらいます。その後、「その立ち姿勢のまま、注意を指先に向けてください」と伝え、そうしてもらって再度身体を揺らすと、安定感がはっきりと増すはずです。ちょっとした注意の向け方で、身体の安定度がとたんに変わるのです。注意の向ける先は、指先以外にいろいろあると考えられています。

 本書の後半にそれらのワークの発展形として、お盆のワークがあります。

 二人が差し向いに一つのお盆を手に持って立ってもらいます。そして一方の人がお盆を前に出します。軽く押すわけです。もう片方の人は、自分に向かってくるお盆を受け止めます。それだけです。

 その時、押す役の人は次のように心の中でつぶやいてからお盆を出します。

A 自分が持っているお盆を出す
B 相手が持っているお盆を出す
C 相手と持っているお盆を出す

 やってみるとわかると思いますが、AとBでは、押すと相手からの抵抗感を感じて押せない、止まってしまう、こちらが相手より力があってもなんかスムーズでない感じがすると思います。

 ところがCは、「あれ?」というくらいスムーズに押せます。相手の踵が浮いて、後ろに軽く飛んでしまうこともあるかもしれません。なんか武術の達人になったみたいです。

 ある動作をする時に、どのような言葉を考えるだけで動きの質は大きく変わることを体感できます。

 甲野さんは、「ある物事を表現するコトバ(文章も含みます)が変わると同時に、自分の中の認識や物との関係性も実は変わってくるのです。ここが「コトバ」と「身体」の関係のとても興味深いところです。 p186」と述べています。

 アドラー心理学でいう「認知論」の原初的な表現がここにあるように思われます。さらに、AとBのように、自分あるいは相手に注意が向いているときは動きがスムーズでないのに対して、Cのように相手と共有しているところに注意を向けると動きが良くなるところはとても興味深いところです。これについて甲野さんは、

「つまり、そのお盆は相手と自分が共通して持っている物であり、相手のものとも自分のものともいえない中立的なもの」であり、「注意は自分や相手の一方に偏ることなく、その両方の共通項であるお盆そのものに向かう」ことがポイントと言ってます。

 つまりこの場合のお盆が、自分と相手との「間(ま)」になります。ここに注意を向けること。相手と対したとき、私たちは通常見えるもの、操作の対象となるもの、つまり自分か相手に注意が向いてしまうものです。しかし、過剰に一方に向けすぎると動きは効率的ではなくなってしまいます。

「間にある「共通のものに注意を置く」と、動きの質がいい意味で変わってくるのです。 p193」

 甲野さんは、この原理は、具体的な物を動かすだけでなく、人間関係にも敷衍できるのではないかと推論しています。

「相手でもあり自分でもあるもの。共有しているものを動かしてみよう。共有しているものを動かすなら二兎を得るということになるのではないか! p207」

 例えば親子関係ですれ違ったようなとき、「二択じゃない、三択目があるよと「ま」を示してあげる」ことを提案しています。

「物事と物事のあいだに、ある関係を見出そう、とらえようとした人だけに見えてくるもの、ともいえますから、その「ま」の性質を理解すればするほど見えてくるもの、… p210」

 家族療法のシステム論やアドラー心理学でいう「人間関係論」そして、「課題の分離」の「共通の課題」の意義を考えるときに大いに参考になると思いました。

 

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May 02, 2019

令和最初の記事はなくなった。。。

 令和最初の記事です。

 といって勇んで書いていた長文記事の仕上げ直前に、どこかに触ったみたいでページが飛んでしまった。すべて消えた。

 ショック・・・

 世間は改元便乗で、そう状態になっているというのに、こちらは落ちました。

 どうも@niftyのブログサービスのシステムが先ごろ変わってから、使い勝手が悪くなった気がします。同じような声はあちこちで聞きます。

 もう疲れたので今日やめた。寝よう。

 後日アップしま~す。

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April 30, 2019

平成最後の

「平成最後の~」がまさにインフレ状態で、何にでも使われてますね。それも今日まで。

 なので、ここでもそれに乗りましょう。「平成最後の記事」です。

 最近は平成を振り返る新聞記事やテレビ番組が多かったですが、私にとっても公私ともにいろいろありました。20代から50代、人生の中心とでもいえるのが平成だったといえるでしょう。これはほとんどの方にとってそうでしょう。

 その中でここでいえる最大のことはなんといっても、このブログを始めたことですね😃

 本ブログを始めたのが、平成17年2月でした。なんと14年前!早いなあ。書いた記事の数は、1,689にもなります。

 平成はインターネットが普及、拡大した時代でもありました。

 その初期にブログというものが登場して、芸能人や誰も彼もが始め出してブームになった時期に、私も面白そうだと思って始めました。それがこれほど続くとは、よほど自分の性に合ったメディアなのでしょう。

 臨床心理学、アドラー心理学、武術、身体論というマイナーでニッチなことに焦点を当てているだけでしたが、それらが社会の表舞台に出るようになって、先見性があったわけではないのですが、何となく時代の端っこには常にいるような感じではあったと思います。私自身、ブログを通じて、広がったものがたくさんあったと思います。

 ここまでの間、いろいろなタイプのSNSが登場して、一応いろいろかじってみましたが、あまり熱心になることはなかったですね。ミクシィもファイスブックもTwitterもめんどくささの方が先立って、読むだけでした。

 なんででしょうね。人とつながることに関心が薄いのかもしれません。愛想もないし、時に攻撃的だし、アドレリアンとしてどうなんだという気もしますが、「嫌われる勇気」はあるのかもしれません。

「令和」になってもブログは続けられそうです。

 ユーチューバーになる気は、ありません。

 ただ、スタート以来続けている古臭いテンプレートを、新時代になったのだから変えたいなとは思っています。

 令和時代もよろしくお願いします。

 

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April 28, 2019

『身体は「わたし」を映す間鏡である』

 最近私は、身体技法研究家の甲野陽紀さんの講座に出ています。毎月山梨の某所で行われているものに参加させていただいているのですが、毎回驚きの連続でとても楽しい体験をさせていただいています。

 注意の向け方、内言(心の中でつぶやく言葉)で動きの質や安定性がてきめんに変わるワークの数々はとても面白く、人の身体と意識の深遠な関係に気づかせてくれます。

 例えば、普通身体を安定させるといえば、足の裏に注意を向けたり、へそ下の下丹田を意識したりと、割と中心となるところを定めたり、軸や正中線などの言葉が飛び交いがちでした。これまでの身体技法のワークはそういったものを強調したものが多かったと思います。

 ところが甲野さんのワークは、身体の末端に注意を向けたり、同じ注意を向けるでも言葉の使い方(「見る」と「目線を向ける」の違いとか)でより良い動きができることを実感させてくれます。これはとても画期的な内容だと思いました。

 さすがお父様が有名な武術研究家・甲野善紀さんなだけに、陽紀さんは類まれな身体への感性を持っている方であります。

 お陰様で、私でも太極拳や推手(中国武術の組み手)の時に、自身では非常に良い安定感と強さを体感したり、相手にも感じさせたりできるようになりました。もちろん、まだまだですけど。

 甲野さんのワークは、単に武術やスポーツに使うだけでなく、日常生活で使えるものばかりなので、一般の方にこそ学んでもらいたいです。

 実際、私はスクールカウンセラーとして勤務先の中学校でメンタルヘルスの授業を依頼されたとき、緊張したときに心身を安定させるための技法として、甲野さんに教わったあるワークを教えました。あることをすると、瞬時に身体が安定することを体験できるので生徒さんたちも驚き、大変盛り上がりました。中には「神だ!」とふざけて叫ぶ子どももいましたね。普通スクールカウンセラーなどがする授業では、認知行動療法に基づいたストレスマネジメントの座学と、せいぜい簡単な呼吸法かマインドフルネス瞑想を紹介することが多いと思いますが、これは再現性が高く、ほんとにお勧めです。

 いつか日本心理臨床学会とか、最近作った日本個人心理学会でも紹介したいと思います。

 その甲野さんが最近出した本が、甲野陽紀著『身体は「わたし」を映す間鏡である』(和器出版)

 甲野さんの多彩なワークの片鱗が感じられる良書です。

 次回もまた、少し紹介します。

 

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April 24, 2019

社会の複雑性が神を生んだ

 知人に教えてもらったのですが、慶應大学が興味深い研究をプレスリリースしました。神への信仰は、人類史のどの辺で発生したかという研究です。ビッグデータを扱った、いかにも今風の研究のようです。

(転載貼り付け始め)

 社会の複雑性によって「神」が生まれた? -ビッグデータ解析により世界の宗教の起源を歴史的に解明ー

慶應義塾大学環境情報学部のパトリック・サベジ特任准教授、オックスフォード大学のハーヴェイ・ホワイトハウス教授、ピーター・フランソワ教授、コネチカット大学のピーター・トゥルチン教授らの国際共同研究グループは、「セシャット(Seshat)」と呼ばれる人類進化史に関する大規模データベースの構築とそのビッグデータ解析を行い、社会の複雑性の進化が原因となって、世界中の宗教や「神」の信仰が生み出された可能性を明らかにしました。本研究の成果は、英国の科学雑誌『Nature』誌に3月20日(現地時間)に掲載されました。

研究グループは、1万年にわたる人類進化の歴史的記録データ(世界400以上の国家に関する20万件以上の歴史的記録データ)について、オープンアクセスのデータベースを構築し、セシャットと名付け世界に公開しました。また、なぜ人類が大規模かつ複雑な社会で互いに協力するように進化したのか、その科学的な検証を行うために、セシャットのビッグデータ解析を行いました。研究の結果、これまで唱えられていた既存の理論に反して、「神の信仰」は、「社会的複雑性」が進化した結果生まれたものであることが示されました。人類学者、歴史学者、考古学者、数学者、進化論者、コンピュータサイエンティストが共同して発見したこの成果は、ビッグデータ解析の発展が、人類進化の歴史や起源の解明に変革をもたらすことを示唆しています。

 

 

(転載貼り付け終わり)

 本論文によると、これまで宗教の起源は何かという問いには諸説あって、有名なのは「神の信仰」仮説というもので、人々が「神」を信仰し、社会にとって協力的でない人々を「神」が罰すると信じることで、結果として人々が公正に協力し、大規模な社会が形成されるというものだったそうです。ただ、それは検証されてはいませんでした。検証しようがなかったのかもしれません。

 本研究グループは、2011年にセッシャットと呼ばれるオープンアクセスのデータベースを構築して、世界中の人類学者、歴史家、考古学者、科学者の専門知識を結集したそうです。そうして集めたビッグデータを統計解析しました。

 結論として、「神の信仰は社会的複雑さの増大に先行するのではなく、むしろ後続する傾向にあることが明らかになりました。さらに、宗教的儀式は、神の信仰が生まれる何百年も前に出現する傾向にありました。これらの結果は、宗教的儀式を通じた集団行動が、人々の協力関係を促し、大規模な人類社会を形成する要因となった可能性を示唆しています」とのことです。

 なんか当たり前のような気もしますが、厳密には新しい理論ということなのかもしれません。あるいは西欧人には意外な結論だったのでしょうか。

 善悪をジャッジする神が最初ではなく、人々が協力し合うために「神」が必要になったといえそうです。これはアドラー心理学の「人の本性は葛藤ではなく、協力である」という前提にも通じるし、神道の「結び」とも通じるように思えます。

 宗教やスピリチュアリティについて、何か書いたり話したりする時に引用できそうです。

 

 

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April 19, 2019

『子どものための精神医学』

 各方面から絶賛されています。子どもの発達支援に携わる人には必須でしょう。

 滝川一廣『子どものための精神医学』(医学書院)

 精神医学は、大人の精神病を基に発展してきたので、子どもの問題については、発達障害とかある問題に特化したものはあっても、全体を網羅した良書はなかなかありませんでした。

 本書は医学関係者以外の支援者や教師、保護者向けということなので、噛んで含めるように丁寧に説明されていて素晴らしい内容です。公認心理師などの心理カウンセラー、福祉などの支援者にこそ読んでもらいたいと思いました。

 本書は発達障害や虐待、PTSD、不登校、緘黙、など子どもの心理的支援者が遭遇する問題のほとんどが網羅されています。本書を通読すれば一通りのことはわかります。一人の臨床家、研究者がよくここまで書けたと思います。著者の臨床能力は半端ないのでしょう。

 特に認識の発達(知的発達)を縦軸に、関係の発達(人間関係の形成や共感性など)を横軸に、子どもの発達を整理した図と論説は大変参考になりました。私も発達心理学系の講演や研修をする時に、早速使わせていただいています。

 ただ、科学的精神医学とフロイト、ピアジェをベースにしているので、親子のアタッチメントを強調していても、きょうだい関係には言及していないところなどはアドラー心理学としてはもの足りなさを感じますが、共同体感覚的なものの重要さは理解されているので、アドレリアン諸氏にも大いに参考にしてもらいたいです。

 厚いですけど、一家、一職場に一冊です。

 

 

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