June 15, 2019

北米アドラー心理学会に参加

 少し日が経ちましたが、第67回北米アドラー心理学会の大会に参加した様子をお伝えします。

 アリゾナ州の都市、ツーソンで5月30日(木)~6月2日(日)の4日間、最初と最後の2日はワークショップで、5月31日と6月1日は発表と講演会でした。私は2日間の発表と夜の懇親会だけ参加して、あとは観光してました(笑)。観光の様子は、前々記事で報告させていただきました。ツーソンはとにかく、暑く、乾いていました。メキシコ国境に近いだけに、景色だけでなくメキシコテイストの建物、食べ物、そして人々が目立ちましたね。

Photo_16

 受付です。会場はアリゾナ大学の隣にある、マリオット・ユニバーシティー・パークという大きいホテルで、ほとんどの参加者は私も含め、そこに泊まりました。

Photo_17

 受付のホワイトボードにあるウエルカム・メッセージ。手作り感がありますね。アドラー心理学関係の本やグッズも売っていて、私はTシャツを買いました。

Photo_18

Photo_19

 ポスターセッションの様子です。やはり若い学生さんが出していました。トラウマ、発達障害、マインドフルネス関連が多かったようでした。アニメのヒーローについて論じているのもありました。

Photo_20

 懇親会で、今年始めに二度目の来日をされたマリーナ・ブルヴシュタイン先生のスピーチ。

Photo_23

 そのマリーナ先生、同行してくれた梶野さんと。私は安っぽい中米のチンピラみたいな恰好になってしまってますな。屋内は冷房が効いて寒いくらいなので、上着が必要に感じました。

Photo_24

 昨年4月に来日された、早期回想のエキスパート、アーサー・クラーク先生にも再会して大いに喜び合いました。

 パーティーの後は、梶野さんが持ってきてくれた日本酒数本を囲んで「Sake Party」をホテルのテラスでしました。日本酒好きのアドレリアンもいて、初めて飲む方に解説してくれていました。

Photo_21  

 左端が前会長のジョン・スペリー先生、私の左がアドレリアン・アート・セラピストのクレイグ先生。アドラー心理学のテキストで知ったお名前の先生たちをたくさんお見かけして、その何人かには挨拶させていただきました。

 3次会は街のにぎやかなパブに繰り出しましたが、さすがに私は英会話の実力が追いつかず、早々にホテルに戻って休みました。

 発表は朝8時から,という日本では早い時間からスタート、それほど大きな学会でありませんが、同時間帯に3~5つの発表がありましたね。アドラー心理学に基づいたトラウマケア、プレイセラピーがあったり、とりわけマインドフルネス瞑想がここでも流行っているようで、3つ、4つの発表がありました。

 その流れか、毎朝午前6時半にはヨガ教室が開かれていました。私は寝てて不参加。

 招待講演では、アリゾナ大学で統合医療を研究、実践している先生が登壇されて、思春期の不安の治療にエビデンスのある方法として通常の医学的方法の他に、鍼灸やボディーワーク、サプリメントなどもどんどん取り上げていました。アメリカはここまで統合的にやっているのかと、印象深かったです。

 また、アドラー心理学のエビデンスを出そうという研究報告もありました。

 私がのぞいた発表のタイトルだけメモします。

Trauma, Community Feeling & Resilience

Counseling Parents of Children With Severe Disabilities

Heatfulness : Cultivating Community Feeling Through Mindfulness

Adlerian Family Counseling : A demonstration (いわゆるオープンカウンセリング。実際のボランティアの家族にジェームズ・ビター博士がやって見せてくれました)

Number One Priority / Top Card

Evidence-Based Adlerian Therapy: The Future is Now

Classical Adlerian Depth Psychology

A Trauma Narrative Treatment: Recreating Self-Identity and Social Connectiveness For Trauma Victims

Various Purposes of Addctions : Applying Teleology in a New Era of Brain-focused Addiction Science

 資料やスクリーンを見ながら一生懸命聞いていたけど、残念ながら私にはまだ十分に聞き取れなかったところもありました。次の英語の勉強の動機づけになりました。おおよそはわかったかな。でも、アメリカのアドレリアンたちの動向、問題意識を知ることができたのは収穫でした。

 皆さんとてもフレンドリーで、やはりアドラー心理学を学ぶ人たち特有の温かみを感じましたね。今度行くときは日本酒を持っていくだけでなく、発表できるように、実践と英語をがんばろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

|

June 10, 2019

心理臨床学会でアドラー自主シンポジウム

 アメリカの報告の前に直近の報告を。6月9日(日)、パシフィコ横浜で行われた日本心理臨床学会第38回大会で、アドラー心理学の自主シンポジウムを無事開催しました。

20190609

 6月6日から始まった4日間もある日程の最終日の最後の時間帯で、いまだマイナーなアドラー心理学を聞きにどれだけの人が来るか心配でしたが、蓋を開けてみると会場いっぱいの40人を超える人が来てくれました。それほど広くはない会場なので、びっしりでした。

20190609_1

  同学会でアドラーの自主シンポをやるのはこれで5回目になると思うのですが、これまでで一番多いのではないかと思います。回を重ねるごとに増えているかもしれません。

 司会進行は私、アドラー心理学に初めて触れる人のために全体像を説明しました。

 続いて山口麻実先生(東京都スクールカウンセラー)による実践報告。スクールカウンセリングの中で、どのようにアドラー心理学を実践しているかわかりやすく説明していただきました。会場にはスクールカウンセラーさんが何人もいたみたいで、フロアからの質問もありましたね。

 そして浅井健史先生(明治大学)から、アドラー心理学の実践思想としての共同体感覚について、先生独自に作られたモデルを通して説明され、長年続けてこられた勇気づけ研究と、開発しつつある新しい勇気づけプログラムについての紹介がありました。専門性が高く、フロアからの関心も高かったようです。

 最後に箕口雅博先生(立教大学)の指定討論、話題提供者への質問と、アドラー心理学とご専門のコミュニティ心理学の共通性と統合の可能性について説明していただきました。コミュニティ心理学は既に臨床心理系の大学院では授業等に入っているところも多く、専門家の認知も進んでいるので、アドラー心理学と重ねていただいたことで、フロアの方々の理解も深まったと期待できます。

 終わってみれば2時間はあっという間でした。

 新しい学会もできたことだし、地道に毎年こういう活動は続けていった方がいいと改めて実感しました。

|

June 07, 2019

ツーソンから帰還

    私としては、長いこと更新していませんでした。

 5月29日~6月5日まで、アメリカのアリゾナ州ツーソンという都市にいました。私にとっては4度目の訪米。今回は、北米アドラー心理学会に参加するためです。この学会には2回目の参加になります。別に自分が発表するわけではないのですが、3年前にミネソタ州ミネアポリスでの大会に参加したときに、その雰囲気がとても良くて、また行きたくなったのでした。同行の士は今回もミネソタのアドラー心理学大学院を卒業された梶野真さん、彼がナビゲーター兼通訳的役割を果たしてくれてとても助かりました。頼りない旅の友で申し訳なかったです。

 学会の話は追々するとして、旅の見聞録を。

 成田空港からロスアンゼルス経由でツーソンへ、合計13時間ほどのフライトでした。

Photo_7

 ツーソンはアリゾナ州南部の砂漠に囲まれた街で、とにかくとても暑かったです。外気温は30度後半から40度を超えていたようです。

 焼けつくような暑さですが、空気はドライなので日陰は涼しかったです。

Photo_8

 サボテンが大きくてびっくり。

Photo_9 

Photo_10

 フリータイムにツーソン郊外のサビノキャニオンということろに行きました。たくさんのサボテンと枯れた大地、水を携行していないと乾ききってしまいそうでした。ツーソン市民のピックニックコースらしいですが、なかなかハードです。

 いろいろな種類のサボテンが原生していて、アドレリアンで多肉植物好きのS先生ならきっと喜ばれるかもしれません。

Photo_11

 アリゾナ・ソノラ・デザート・ミュージアムというところにも行きました。

 ソノラ砂漠の中に忽然とある博物館です。砂漠を歩く体験もできますが、子どもや家族も楽しめるように動物園や屋内展示施設も充実していて、なかなか勉強になりました。

 砂漠は死の土地ではなく、実に多様な爬虫類、植物、プーマやクマなどが生きる場所だということがわかりました。

2_1

Photo_12

 学会会場のホテルは私たちも宿泊したのですが、その隣がアリゾナ大学。ここも素晴らしく美しく、広大なキャンパスでした。

Photo_13

 この中にアリゾナ州立博物館があって、アメリカ先住民、インディオの歴史が詳しく展示されています。

 昔はたくさんの先住民の部族がこの一帯で生活していました。彼らの豊かな文化と、侵入してきた白人との壮絶な戦いの歴史をうかがい知ることができました。

 私は若い頃、インディオの歴史や、人類学者カルロス・カスタネダの本などからシャーマニズムにも関心があったので、名前だけは知っていたジェロニモとかホピ族とかの実際の道具や写真を見ることができて、大変興味深かったです。

Photo_14

 アメリカですから、食べ物はなんでもでかい。アジアンレストランに入って、ラーメンを頼んだら、とても辛い焼きそばが出てきました。間違いではなく、ここではそういうものだそうです。

 ステーキやメキシコ料理、そして日本料理もいろいろ楽しみましたね。

Photo_15

 これは日本料理店で注文したマグロ丼。左奥にはアボカドがびっしり。最初は美味しかったけど、量が多くて飽きてきて食べきれなかったな。

 学会の内容は次回以降に。

 まだ時差ボケっぽいですが、日本心理臨床学会が始まっているので、これから横浜に出かけます。

 6月9日には、アドラー心理学の自主シンポジウムを仲間とします。アメリカ学会の成果が出るといいのだけど。

 そんなんで、この二週間まったく仕事をしていません。

 更新もそれ以降になるでしょう。

|

May 29, 2019

旅に出ます

 なかなか更新がままならない中で、ちょっと長期の出張に行ってきます。

 行先はなんとアメリカ。

 また戻ってきたら報告します。

 朝の甲府発の高速バスで成田へ。もう出なきゃ。

『旅先で役立つかんたん英会話』みたいな本、空港で買わなきゃ(遅い)。

|

May 24, 2019

『ホモ・デウス』

 今年前半に読んだ中で、一番面白く、考えさせられることの多い本でした。

 ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(河出書房新社)

 ご存知の方も多いでしょう。ベストセラーになった前作『サピエンス全史』も大変面白かったのですが、あれはまさに人類史を凝縮して描いた力作でした。今度は人類の未来の方向性、著者によれば現時点で最もありうる選択肢を示したものです。

 人類は何百年、何千年と闘ってきた飢饉、疫病、戦争をほぼ克服しつつある、その先に人類は何を目指すのか、という問いを著者は立てます。

「世界には、飢饉も戦争もなくなっていないじゃないか」という反論はあるかもしれませんが、それは技術的、社会体制のシステム的な問題に過ぎず、理論的にも、技術的にもほぼ克服しつつあることを著者は根拠を示して説得します。現代では、過去のような物理的な戦争はほとんど意味がなくなっています。それは支配層が平和主義者になったからではなく、もう情報と資源と人を戦争では奪うことができず、端的に金儲けができないからです。

 著者は、中国がシリコンバレーに侵入しても全く意味はなく、メルセデスベンツが東ヨーロッパで販売戦略の構想を練るときには、ドイツがポーランドを征服する可能性は考慮に入れない、と面白く例えています。

「2010年には肥満とその関連病でおよそ300万人近くが亡くなったのに対して、テロリストに殺された人は、世界で7697人で、そのほとんどが開発途上国の人だ。平均的なアメリカ人やヨーロッパ人にとっては、アルカイダよりもコカ・コーラのほうがはるかに深刻な脅威なのだ。 p29」

 その通りです。

 そして人類は、科学テクノロジーを駆使して、あるいはそれらが自動運動のように駆動して人類を急き立てて、「不死、幸福、神性」の獲得を目指すことになると予測します。

 ホモ・デウスのデウスとは、「神」のことです。「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている」といいます。どういうことか。21世紀には宗教やスピリチュアリズムがまた流行るのでしょうか。

 まったく違います。むしろそれらは、下手をすると跡形もなくなってしまうかもしれません。また、今私たちが信奉している「人間至上主義」すらも土台が崩れていく可能性すらあります。

「人間を神へとアップグレードするときに取りうる道は、次の三つのいずれかとなるだろう。生物工学、サイボーグ工学、非有機的な生き物を生み出す工学だ。 p59」

 生物工学で遺伝子コードを書き換え、脳の回路を配線し直し、新しい人を作り出し、そしてサイボーグ工学で人工の目や手足などと一体化し、さらにAIという非有機的な生命が誕生し、ついに人類はこの身体という「拘束衣」からも抜け出すかもしれません。

 著者のハラリさんは、きわめてすぐれた書き手で(翻訳も良いからですが)、独特の皮肉を利かした文体でやや冷めた視線から解き明かしていて、読者は知的楽しさを味わえます。けして未来を礼賛しているわけではありません。

 実は本書には、アドラー心理学的にも臨床心理学的にも看過できない問題を述べているところがあります。それはいずれ引いてみたいと思いますが、「分割できない個人(Individual)なんてない、人には主体性なんてない、という主張で、下巻にはセラピストのことがやや揶揄されて登場します。これにどう答えていくか、答えていけるのかが、私たち心理学領域に住む者の課題になるでしょう。

 とにかくこういう本がまだ売れるとは、日本人も政権や体制に迎合ばかりして大分アホになってしまったといえ、まだ捨てたものではないかもしれません。

 

 

|

May 19, 2019

論理と勇気

 内田樹先生がブログで、文科省の「論理国語」という新しい科目を批判して、とても重要な考えを説明しています。

 論理的であることは、その先の飛躍、跳躍を果たすためであり、そのためには「勇気」が必要である。教育の目的は、子どもに「勇気」を育てることである、という主張です。

論理は跳躍する

 まったくその通りで、強く同意します。

 論理を突き詰めて開ける世界とは、単純な因果律に従うことではなく、飛躍、跳躍をすることです。そこでは失敗するリスクを引き受ける必要、すなわち勇気があります。

 アドラー心理学的教育論とばっちり符合します。

 ただ、あえて言わせてもらえば、内田先生、「勇気」を言いながら、ここでもフロイトを例にとりだし、「勇気の心理学」アドラーへの言及は全くありません。別にフロイトだっていいけれど、まったく知らないというのはどうなんだろうという気がしてなりませんね。あるいは知っていてもフロイトの威光に逆らえないのでしょうか、あるいは、どっかのアドレリアンと何かあったのか。仲良しの名越康文先生はれっきとしたアドラー派出身ですけど、彼との対談本でさえフロイトしか持ち出さなかったですからね。

 リベラル派知識人はいまだにフロイトが好きであり、それが限界という気がいつもしています。

 跳躍したのは別に「死の本能」のフロイトだけでなく、「共同体感覚」のアドラーや、影響力という点では「条件反応」のパブロフやスキナーの方が絶大です。知識人には精神分析学が高尚で、アドラーや行動科学のような実際的な心理学が嫌いなのかもしれません。

 思わず、内田先生をdisってしまいましたが、主張は素晴らしいのでご一読ください。

(引用始め)

論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。
 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです
 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。
 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。
 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。
 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。
 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。
「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。
The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become. 「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」
 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。
 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです
「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。

(引用終わり)

|

May 14, 2019

『アドラー流 リーダーの伝え方』

 最近、『労基旬報』という労務管理系の実務者向けの新聞に、リーダーシップの原稿を書いています。私は自分ではリーダータイプではなく、参謀タイプ思っていますが、子どものころから意外にリーダー的役割をさせられたり、務めることがありました。学級長から始まって生徒会、サークルの幹事長などなど。第1子の長男であるからか、自然とそういう役回りをしているのかもしれません。アドラー心理学の家族布置そのままですね。

 ただ、リーダーについて書くとなると専門外という感は否めず、やはりアドラー心理学を頼みます。そこで今年のはじめに岩井俊憲先生が出した本を参考にします。

『アドラー流 リーダーの伝え方 「勇気づけ」でやる気を引き出す!』(秀和システム)です。

 岩井先生らしいやさしさで、噛んで含めるように、組織の中でリーダーはどのように考えてふるまえばよいか、部下への接し方、勇気づけ方がとてもわかりやすく説かれています。リーダーシップについて、岩井先生はこれまでも何度も著してきていますが、私は今まで読んできた中で一番スッと胸に入った読後感でした。

 字も適度に大きく読みやすく、ちょうど老眼になるリーダー世代にはやさしいですね。編集の妙も感じます。

 組織がハイパフォーマンスを出すためには「生産性」と「人間性」が車の両輪のように働かなければならないと、本書では説かれています。新自由主義は生産性ばかりが強調され、結果、その生産性も落ちることとなりました。人間性の部分は、アドラー心理学などの実績のある心理学的アプローチが基盤になると思います。

 最近、何かのリーダーになられた方には、本書が参考になりますよ。

 

 

|

May 11, 2019

アドラー心理学は宗教ではないが

 前記事で、心理臨床家はいわゆるスピ系や宗教について、同意はしなくても理解はしておいた方がいいということ書きましたが、実はアドラー心理学を宗教のように扱うのは反対です。

 アドラー心理学の理論や技法は、何も特別のものではなく、既存の臨床心理学の大部分と連携可能であり、別の立場からも十分に接近可能なものです。ところがまだその辺が、日本では未開拓でした。この辺を、私は公認心理師や臨床心理士の世界で活動していきたいと思っているところです。これはこれまでのいわゆるアドラー心理学ムーブメントでは、先ず届かないところです。実際、ここ40年近く、日本のアドラー心理学はその分野で、まったくといっていいほど目立った貢献はありませんでした。むしろ外部からは、排他的な印象があるとよく聞きました。

 つい最近まで、専門家のほとんどがアドラー心理学をろくに知らなかったのがその証拠です。その点で、岸見一郎先生の功績は偉大です。けしてN先生ではありません。

 ではスピリチュアリティ―や宗教的なものと無縁かというとそうでもないところが、アドラー心理学の面白いところで、ユング心理学みたいに宗教どっぷりでもなく、精神分析学みたいに宗教批判でもなく、認知行動療法みたいに宗教を科学するわけでもないのです。

 スピリチュアリティや宗教的なるものと日常の心の在り方を結ぶ働きが、アドラー心理学にはあるように思います。もちろん、「全体論」や「共同体感覚」がそのキーワードにはなるでしょう。

ここをどう表現するかが、考えどころです。

|

May 08, 2019

いろいろな世界との連携

 連休最後の5月6日(月)、久しぶりにヒューマン・ギルドに行き、アドラー心理学ゼミナールとカウンセリング演習に出ました。

 ゼミナールでは、「眠れる予言者」と言われたエドガー・ケイシー由来のケイシー療法を、クリニックでがん患者などに実践している方の発表でした。その様子は岩井俊憲先生のブログに出ていますが、発表なさったのは穏やかな上品な感じの女性で、誠実にスピリチュアル・ケアに携わっておられる様子が伝わってきました。

 エドガー・ケイシーなんて普通の人や、心理職の人は知らないと思いますが、オーソドックスな、というか昔からのスピリチュアルな世界に親しんでいた人にはおなじみの名前です。当時はシュタイナーやグルジェフ、クロウリーなどと並んで、「本格的オカルティスト」には人気がありましたね。

 私は30年以上前の大学時代に、サークルの友達にエドガー・ケイシーに関心を持っていた人がいて、話や様子を聞いていました。私も詳しくはないけれど、ケイシーは催眠療法を受けたらかなり深い状態になって、「あっちの世界」につながってしまった人みたいです(かなりいい加減な言い方ですみません)。

 詳しくはこちら。

 エドガー・ケイシー Wikipedia

 日本エドガー・ケイシーセンター

 私はエドガー・ケイシーに特に関心を持たなかったですけど、時に催眠がこういう現象を起こすことには関心を持ちました。心理学レベルの真っ当な催眠療法家なら、まず対象にしないところですが、現象としてはエドガー・ケイシーやチャネリングなど、たまに生じることがあるようです。

 それにしても、ここがアドラー心理学の懐の深さだと改めて思いました。エドガー・ケイシーも自然に統合できてしまう。これは他派にはなかなかないところだと思います。

 そう思ったのは、先日Twitterである心理士さんが、臨床心理士や公認心理師のような臨床家が、街のスピリチュアル屋さんや拝み屋さんから紹介されたりして、「連携」する可能性があることをつぶやいていたからです。いろんな意見があったのですが、実は確かにこのようなことは、開業しているとありうることなのです。そういう時に、こちらが変な色眼鏡を持たずに、その人たちと良い関係を作れると、クライエントにとって利益になるかもしれません。

 反対にクライエントが変なところに行きそうだったり、行っているようなら何らかの助言をする必要がある時もあるかもしれません。

 いずれにしても心理臨床家は、いわゆるスピ系や宗教は視野に入れておいて損はないでしょう。

|

May 04, 2019

「間」を動かす

 ゴールデンウイークも10連休も、客商売の自営業には不要です。ぼちぼち予約はありますが、いつもより大分少ないので、商売上がったりです。クライエントさんたち、カウンセリングなんか来なくて元気に遊んでくれているのならそれはそれでいいですけど、なんか変な気を使ってくれる人もいるみたいで、「先生もお忙しそうだから、悪いから」と遠慮して入れない人もいるみたいです。気を使ってくれなくて全然いいのですけどね。

 さて、少し前に紹介した甲野陽紀著『身体は「わたし」を映す間鏡である』(和器出版)では、身体と言葉の深遠なつながりを学べます。甲野さんの仕事の素晴らしいところは、武術とかスポーツとかの特殊、専門的な動きではなく(それにも役立ちますが)、日常生活の何気ない動作を通して、「新しい身体の経験」を体験できることです。

 「注意の向け方」と「身体の動き」がどのように関係しているかを、甲野さん独自のワークを通して知ると、みんな一様に驚き、笑い声をあげます。その様子が楽しいので、私もスクールカウンセラーの勤務先の学校でメンタルヘルスの授業を頼まれて、試験の時の緊張対策を甲野さんに質問して教えていただいたやり方をやって、大いに盛り上がりました。

 例えば、相手に普段通りに立ってもらって、こちらは身体を左右に揺らして安定感を確認してもらいます。その後、「その立ち姿勢のまま、注意を指先に向けてください」と伝え、そうしてもらって再度身体を揺らすと、安定感がはっきりと増すはずです。ちょっとした注意の向け方で、身体の安定度がとたんに変わるのです。注意の向ける先は、指先以外にいろいろあると考えられています。

 本書の後半にそれらのワークの発展形として、お盆のワークがあります。

 二人が差し向いに一つのお盆を手に持って立ってもらいます。そして一方の人がお盆を前に出します。軽く押すわけです。もう片方の人は、自分に向かってくるお盆を受け止めます。それだけです。

 その時、押す役の人は次のように心の中でつぶやいてからお盆を出します。

A 自分が持っているお盆を出す
B 相手が持っているお盆を出す
C 相手と持っているお盆を出す

 やってみるとわかると思いますが、AとBでは、押すと相手からの抵抗感を感じて押せない、止まってしまう、こちらが相手より力があってもなんかスムーズでない感じがすると思います。

 ところがCは、「あれ?」というくらいスムーズに押せます。相手の踵が浮いて、後ろに軽く飛んでしまうこともあるかもしれません。なんか武術の達人になったみたいです。

 ある動作をする時に、どのような言葉を考えるだけで動きの質は大きく変わることを体感できます。

 甲野さんは、「ある物事を表現するコトバ(文章も含みます)が変わると同時に、自分の中の認識や物との関係性も実は変わってくるのです。ここが「コトバ」と「身体」の関係のとても興味深いところです。 p186」と述べています。

 アドラー心理学でいう「認知論」の原初的な表現がここにあるように思われます。さらに、AとBのように、自分あるいは相手に注意が向いているときは動きがスムーズでないのに対して、Cのように相手と共有しているところに注意を向けると動きが良くなるところはとても興味深いところです。これについて甲野さんは、

「つまり、そのお盆は相手と自分が共通して持っている物であり、相手のものとも自分のものともいえない中立的なもの」であり、「注意は自分や相手の一方に偏ることなく、その両方の共通項であるお盆そのものに向かう」ことがポイントと言ってます。

 つまりこの場合のお盆が、自分と相手との「間(ま)」になります。ここに注意を向けること。相手と対したとき、私たちは通常見えるもの、操作の対象となるもの、つまり自分か相手に注意が向いてしまうものです。しかし、過剰に一方に向けすぎると動きは効率的ではなくなってしまいます。

「間にある「共通のものに注意を置く」と、動きの質がいい意味で変わってくるのです。 p193」

 甲野さんは、この原理は、具体的な物を動かすだけでなく、人間関係にも敷衍できるのではないかと推論しています。

「相手でもあり自分でもあるもの。共有しているものを動かしてみよう。共有しているものを動かすなら二兎を得るということになるのではないか! p207」

 例えば親子関係ですれ違ったようなとき、「二択じゃない、三択目があるよと「ま」を示してあげる」ことを提案しています。

「物事と物事のあいだに、ある関係を見出そう、とらえようとした人だけに見えてくるもの、ともいえますから、その「ま」の性質を理解すればするほど見えてくるもの、… p210」

 家族療法のシステム論やアドラー心理学でいう「人間関係論」そして、「課題の分離」の「共通の課題」の意義を考えるときに大いに参考になると思いました。

 

|

«令和最初の記事はなくなった。。。