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August 12, 2005

勝手に師事した恩師たち3・グレゴリー・ベイトソン

 お暑うございます。勝手にお世話になった方々を顕彰する久々の恩師シリーズ、再開します。書きたいことが次々に浮かんでくるので、最初の頃やってことを忘れてました。

 自慢するほどのことではありませんが、僕が一番長く勝手に(陰で)私淑しているのは、実はアドラーでもM・エリクソンでもなく、現代思想の賢人とか知の巨人とも呼ばれる、かのグレゴリー・ベイトソンなのです。といっても、この世界は何でもそうですが、知っている人はすごく知っている、知らない人はさっぱり、というものの代表格かもしれませんね。でもこの小さなブログで、なんと紹介したらよいのかわからないほど、関わった領域が多岐にわたり、スケールの大きな学者、思想家なのです。

 先ずは略歴。グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson,1904~1980)。英国生まれケンブリッジ大学で生物学を学び、人類学に転じ、ニューギニア、バリ等でフィールドワーク。1942年サイバネティックスと出会い、大きな影響を受ける。戦後は動物生態学、精神医学、コミュニケーション論にも関心を広げ、ダブルバインド理論で名をはせる。精神医学や心理療法、現代思想などに大きな影響を与えた。主著に「精神の生態学」(Steps to an Ecology of Mind,1972)(佐藤良明訳、新思索社)。「精神と自然」(Mind and Nature)(佐藤良明訳、新思索社)がある。晩年はニューエイジ運動、新しいサイコセラピーの実験場として知られていたカリフォルニアのエサレン研究所で過ごしていた。

 アホで体育会系な僕はベイトソンの言説を正確に引いたり、立派な論文をものにすることは不可能です。この機会に検索したら、結構本格的なサイトやブログがあることがわかったので、ご紹介します。ベイトソン研究会  クレアトゥーラの庵  グレゴリー・ベイトソンの学際的研究

 ガッツのある人は著書に是非トライしてみて下さい。僕は、ベイトソンの深い思索をヒントに、日々の物事や臨床を考えていくことで、ベイトソンの「思想」について語るより、ベイトソンで生きる、「ベイトソンする」試みをしてみたいと常々思っていました。だから、ここではベイトソンからの情報と僕の何かが交流してできたあるマインド・システムの軌跡のお話です(その方がベイトソン的?)。

 あれは84年頃、大学入学後に入った妖しいサークル「W大神秘学研究会」の最初の集まりの時、僕の隣にいた1年上の先輩(西洋哲学科にいて後にAIの研究者になった人でした)が、黙々と読んでいたのが「Mind and Nature」(邦訳「精神と自然」)でした。「へー、すげえ、大学生って原書で読むんだ」と田舎者はいたく感心して、そこで紹介してもらって読み始めたのが、ベイトソンの深みにはまるきっかけとなりました。

 最初は「精神と自然」、それからまだ「精神の生態学」として翻訳の出ていなかった「Steps to an Ecology of Mind」を何回も何回も読み返しました。そのうち次第に翻訳や紹介が思想誌やF・カプラなどのニューサイエンス系の本なんかに出てくるようになり、だんだん全体像が自分にも見えてきました。特に翻訳者の佐藤良明さんの記事はわかりやすくて面白くて、見つけては熱心に読んでいました。ただ、それでベイトソンを理解したか?と聞かれると「うーん」、ベイトソンってどんなこといっているの?と聞かれても、「一言ではちょっとな、何だろう・・・うーん」ってな具合で、全然うまく伝えられないのでした(*^_^*)。でもそれは僕だけではないみたいです。「天使のおそれ」(青土社)を翻訳をした星川淳氏も「では、肝心の理解の方はどうかというと、それがよくわからない。どうも彼のものは『これ』という実体が残らないのだ。まさに実体がなく関係性のネットワークだけがあるという感じで、つかみどころがない。いくら読んでも自分の中へ消えてしまう」と述べていて、その通りなのです。

 でも有名なダブルバインド理論、遊びとファンタジーの理論、分裂生成、メタ学習理論、イルカのコミュニケーション研究、サイバネティクスなどから定義される新たな精神の姿・・・・。まぶしかったですね。ベイトソンは精神や自己という現象を脳みそや皮膚の中の単なるイベントととらえるのではなく、

 人間の唯一真実の自己とは、人プラス社会プラス環境からなる全サイバネティック・ネットワークである。

 わたしはさまざまな生命体の内部およびそれら相互のあいだで起こるそれより下位のあらゆる情報と指令の交換、つまりわれわれが、<生命>と呼ぶものの全体を「精神過程」に含めて考える。                       「天使のおそれ」

 といった言い方で、精神はあらゆるものとの情報の行き交いの中に立ち現れることを何とか科学の思考の根源まで遡りながら表そうとしました。「超自然論でも機械論でもなく」「正しい問いを立てること」「従来の問い方の前提となる仮定を問い直すこと」といった問題意識を常に持ち、彼は我々の世界観(認識論)に揺さぶりをかけ続けました。20世紀の中心的思考であった科学主義と超自然主義という一見相矛盾する世界観が、最も深い前提において同根であること、アイデンティティーをメッセージの経路に沿った関係のネットワークとして拡大したことで、その後の閉塞する時代を予見し、何とか切り開こうとしているかのようでした。

  けしてわかりやすくはない、というかよくわからない。でもおもしろい。よく「ベイトソンの書き物は、始め読んだときには、頭がおかしくなるほど何のことかわからない。しかし、そのうちに、頭がおかしくなるほど鮮明に理解されてくる」といわれるのですが、そういうお悟りがある時くる(らしい)のです。頭のよい人でも、ベイトソンを理解するのにすごく苦労する人は多いらしいのですが、僕はあまり先入観がなかったためか、早くにお悟りがやってきまして、実体とか要素ではなく、関係という視点を身につけることができたように勝手に思っています。そして、専攻した心理学の領域でも、ベイトソンから当時最先端として心理療法界を席巻しつつあった家族療法が生まれたとか、どこでもベイトソンはすごいという話ばかりで、僕のベイトソン信仰は強まっていくばかりでした。

 ただ、そこから僕にとって大きな問題がありました。ベイトソンほど頭のよくない僕は(当たり前か)、彼の思考がわかり、共感していくにつれ、その時やっていた基礎的な学問への情熱がなくなってしまうのでした(アドラー的にはさぼる目的に使われる言い訳ともいえるが)。だって彼は、精神分析学のみならず既存の実験心理学や学習理論まで厳しく批判しているんだもん。学問なんてとりあえず諸概念を実体的に信じて操作しなければやっていけないように思えて、全然そんなことをする気が起きずに研究者の道は断念。まあ柔軟性がなかったのね。あまり若いうちに過激な思想に触れてはいけません(^_^;)。

 僕の知人にはアメリカへ飛んでトランスパーソナルなどの最先端のサイコセラピーの道に進んだり、チベット仏教の修行をしたり(オウムじゃないよ)、田舎で農業やエコロジーの実践をしたりと筋金入りの人が多かったのですが、僕はそこまで突き詰めることはできず、身体を使う世界である中国武術にのめり込み、地方で福祉の仕事にありつきながら、アドラー心理学に出会うのでした。

 日本では、ベイトソン・ファンは現代思想系の人とニューエイジ・エコロジー系、あと心理療法系の人と分かれるようですが、ベイトソン自身は両方の世界、いやそれ以上の領域を柔軟に行き来した人でした。時代の中心や最先端にいるようでいながら、いつも境界、辺境をさまよっていた人のように思えます。30代以降のほとんどの人生をアカデミックな世界から外れて生きていたようだし。真っ当で正当な思考を丁寧に進めながら、「知の体制下では問われない問いを転がし続け」、関心があればあやしい世界にも踏み込んでいく、そんなベイトソンの生き方全体を僕はモデルにしたいと思っているのです。

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Comments

このブログの話題の豊富さに脱帽です。
ベイトソンは,修士1年のゼミでMRIの文献購読をしていたためか,「必須」という形で先生から提示され,『精神と自然』を読み,特に「論理階型」という概念がススーッと頭に入ってきて,認知心理学や認知科学の学習が促進された記憶があります。同じ人物や同じ著書が,多様な影響を与えるということ自体がとても面白いですね。
「恩師たち」シリーズも,続きを楽しみにしております。

Posted by: coping | August 12, 2005 at 03:52 PM

 いいな、そんな大学なら僕でも向学心が湧いてたかも(^^)。
 僕も論理階型論で学習という現象が整理できたような記憶があります。ほんとにベイトソンは頭の体操になります。
 ベイトソンの受け方って、一昔前のマルクスやニーチェを好んだ人たちのような「熱さ」はないけど、深く静かにいろんなところに影響を与えているような気がしています。
 若いときの僕は生意気で入れ込むタイプだったから、「被害」が大きかったけど、おかげで読解力と批判力はついたかもしれません。
 今の学生さんには、そんな入れ込む学者なんているのかな、なんて自分もおじさん臭くなってしまった(^^;)。

Posted by: アド仙人 | August 13, 2005 at 12:12 AM

こんにちは。いつも面白く読ませていただいております。
先日坂本洲子さんの講演会を聞いてきました。
興味深い内容でしたが、子供が既に、小学生と中学生になっている私には、子供がもっと小さいときに聴けば役に立ったなあ、と思ってしまいました。
正直なところ、子供が大きくなって問題を感じている人は、じゃあどう対処していけばいいのか、というヒントが今回のお話ではなかったように思え、救い様のない状況に追い込まれた心境になってしまいました。
たとえば、“自尊心の低い子供はこういう傾向がある”と例がつらつらと挙げられていたのですが、もう小学生以上になったそういう子にはどう接していけばいいのか、よくわかりませんでした。
実を言うといいおばちゃんの私が“自尊心の低い・・・”にばっちり当てはまってしまうのです。
自分が問題を抱えているのに(以前から自覚していますし苦しんでいます)子供のことも考えなければならないし、結局自分の問題が子供にも影響してしまっていることを痛切に感じています。いずれこのままでは子供が大きな問題を起こすのではないか、と不安を感じながら、現在の状態ではどこに、誰に相談すればよいかもわからない。
児童相談所などは、問題がおきてから相談に乗ってくれるわけですよね。本当は、何か起きる前に相談できるところ、問題が起きないように予防することのほうに力を注がないといけないのでは、と思うのですが、そういうところがあるのでしょうか。
正直自分の問題で、他人(心理関係も含めて)に頼ってあまりいい感触はないのですが、子供に今後問題が起こりそうで、私はとても不安な毎日を送っています。
坂本さんやアド仙人さんや心理関係の方を頭から批判しているわけではありません。
不安を専門家の方に伝えたかったのです。
失礼いたしました。
蛇足ですが私は多分アド仙人さんと同年代みたいです。アド仙人さんみたいに学があれば悩まないのでしょうね・・・。

Posted by: akino | August 13, 2005 at 09:33 AM

 akino様
 丁寧なコメントありがとうございます。講師の先生とは直接の関係はほとんどないのですが、講演会は一般的な内容に終始してしまうので、個々の問題に届かないってことはあるでしょうね。その講演の内容はわかりませんが、ただ僕なら、こういう問題があるから、これから別の問題が起こるという論法は取りたくないですね。どうやって、人は変われるか、というところに焦点をすえたいと思いますが・・・。「変化」に年齢は関係ないし、どんな時でも「遅い」ということはないと思っています。
 でもakinoさんは、問題や不安を抱えながらも、何とかしようというお気持ちを持って行動されているのですごいことだと思います。
 児童相談所でも、具体的な問題がなくても相談に応じてくれると思いますが、地域や人によって「受け心地」がきっと違うので、何ともいえませんね。各自治体では、「子育て支援策」として、児相以外にも相談機関を設けているところがありますから、児相も含めて当たってみられたらいかがでしょうか。akinoさんにこれからよい出会いがあることを祈っています。
 僕は「学」があるから悩まないのではないですよ。やっぱりアドラー心理学を学んでからです。不必要に人を悩ませる心理学ではありませんからね。もちろん「問題」「困ること」はいっぱいあります、自分の生活にも。でも、困ることはあるけど、悩まない、あるいは悩むことの副作用を最小化しようと努める、といったことかな。その辺は学んでよかったなと思っています。
 だから、あまり能天気な人間と思わないでね(笑)。

 こういう場だと、十分なお答えができませんが、精一杯自分なりに考えたいと思います。これからもよろしくお願いします。

Posted by: アド仙人 | August 13, 2005 at 05:57 PM

 ご無沙汰しております。
 学生のころ聞いたベイトソンの名前を、このブログでたびたび目にしていたこともあり、、一念発起、「精神の生態学」をふーふーいいながら読んでいます。

 1980年代でしたから、流行だったということもあるかもしれません。教養の心理学の講義と、精神医学の講義とで、2度ベイトソンの話を聞いております。医学部での講義ですので、当然ながら両方とも統合失調症の病因論と二重拘束説という内容でした。ただ、残念ながらいずれも「ベイトソンのここが凄い」という話ではありませんでした。精神医学の講義での紹介のされ方は、統合失調症の病因論として、その当時としてはいささか疑わしいような学説のひとつとして紹介されていたような気がします。
 当時は、わたし自身、統合失調症が内因(なんだかよく分かってないけれど、持って生まれた生物学的な要因)によって引き起こされると、ほぼ固く信じていました。ですから講義の中での生半可な二重拘束説の説明から、それがいかに画期的な理論であるかなどと言うことに気づくということがありませんでした。でも、言葉はどこかに引っかかっていたのですね。
 最近になって、このブログを拝見したり、NLPやヒプノの本を読んだり、佐藤訳の「精神の生態学」を読んだりして、20年前の講義の不親切さに今更のように気づき、頭を抱えている次第です。
 これって、精神医学者の怠慢や不明というより、むしろ「二重拘束説」の適切さ、有用性に気づいた大先生たちが、「これじゃ、俺たちおまんまの食い上げだ」とばかりに、封殺をはかったのではないかという気さえしてきます。たとえば、それまで薬物療法の専門家としての精神科医を養成するのに費やした人、物、カネを心理療法の専門家を養成するために回されてしまったら・・・薬だけでスグ良くなってしまうような、あるいは心理療法をあまり必要としない程度の精神病と、心理療法ではまるで歯が立たないような重症の精神病の治療は、実は元々内科の仕事みたいだったり、収容所の仕事みたいだったりしていましたが、従来の精神科のエリアのこうしたごく一部だけが精神科医の手に残って、残りのほとんどは心理療法家と、必ずしも精神科医である必要はない医師の手の内に落ちてくることになるのかななどと想像します。向精神薬の消費もぐっと減るかもしれませんし・・・なんてことがあるかどうか分かりませんが、自分自身が食いっぱぐれないように、腕を磨いておかなくてはと考える次第です。
 二重拘束説のパラダイムと、生物学的精神医学のパラダイムとの両方を上手に使うための方法を考えるというのも、腕を磨くことのひとつかと思います。

Posted by: 蚯蚓海豹 | June 19, 2006 at 06:36 PM

 蚯蚓海豹さん

 お久しぶりです。
 ベイトソンに挑戦中とのこと、慶賀の至りです(^^)。根を詰めずに、一緒に考えていくような感じで読んでいったらどうでしょうか。少し、普通の専門書とは質が違うような気がします。

 いわゆるダブルバインド説が統合失調症の原因論とはいえないというのが通説と私も聞いていますしその通りでしょうけど、内因があるにせよ、それ含めたコミュニケーション・ネットワークの歪み、もつれというものはあるのだろうと思います。

 ご自分の専門の精神医学に引きつけて理解されようとするのはすばらしいですね。なるほど、こういう理解もあるのかと参考になります。100人いれば100通りのベイトソン論があるのではないでしょうか。
 またベイトソンについても、いろいろと話し合いましょう。

Posted by: アド仙人 | June 19, 2006 at 11:51 PM

日本語でベイトソン探していてここに辿り着きました。ブラジルで生物進化学と遺伝学を専攻した研究携わってきましたが、ベイトソンの進化学と遺伝学のVisionは実に素晴らしいと思います。彼のお父さん、Wilian Bateson も歴史的人物ですね。私にとっても密かに慕う心の恩師です!

Posted by: ニール | July 18, 2013 at 10:38 AM

 ニールさん

 ブラジルからですか!
 本当にコメントありがとうございます。

 専門の研究をしていた方にもベイトソンの影響を受けている人がいると知ってうれしいです。
 だいぶ前に書いた記事でしたが、コメントをいただいて改めてベイトソンを読んでみたいと思いました。
 

Posted by: アド仙人 | July 19, 2013 at 10:31 AM

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