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October 01, 2005

共同体感覚のスペクトル

 再び共同体感覚について考えてみます。共同体感覚に科学的定義はない、と前回書きましたが、同じようにアドラー心理学では、共同体感覚の「起源」とか「可能性の中心」とかいった思想的、学問的考察にはあまり関心を払わないようです。せいぜい、人間は集団で生きなければならないとか、未熟な状態で生まれてくるとかいったある意味当たり前のところから出発しているみたいです。

 そういう学問的厳密さや深さを、アドラー心理学ではあまり求めないのですね。あくまでも援助の学として存在したいということなのでしょう。そこらが現代の思想家や文芸評論家あたりに今ひとつアドラーが受けない理由でしょう。アドラーで古事記や昔話、小説を分析しても面白くないでしょうからね。

 でも現場的には、アドラー心理学に直接間接に関係なくても、同じような発想に基づいた心理療法が続々と登場している最近の流れを見ると、精神分析のくびきから100年かかって脱しているのは明らか、1910年頃の二人のケンカは「勝負あった」と見るのはひいき目に過ぎるでしょうかね。まあ精神分析もフロイト以来、いろいろな脱皮を繰り返して、我々の姿とそう変わらなくなってきているみたいだし、今さらどうでもいいことでしょうけど。

 それはさておき、共同体感覚に類する概念って他にどんなのがあるのかな?普通にいう「仲間意識」とか「隣人愛」「人類愛」、発達心理学なんかの「社会性」とか「道徳性」や「基本的信頼感」とか、大分昔の実存主義のアンガージュマンとかとも関わりそう。また共同体感覚には、現実の社会や他者に対する関係性だけでなく、自他の境界を越える「トランスパーソナルな意識」というのとも関係するという考えもあるそうですよ。

 共同体ということばは、人間社会だけでなく、全宇宙との同一化の態度が内包されている。共同体ということばには、人間仲間への愛だけでなく、自然への愛が、さらには、無生物への愛さえも包含されている。それはすべての命あるものたちへの、大地への、海への、空への、われわれの美意識にもとづく親近感である。それはコミュニオンの感覚、本質的にわれわれに好意的な宇宙との交感の感覚である。    ルイス・ウェイ(野田俊作訳)

 けっこうぶっ飛んでますね。これは完璧に人間社会を越えたトランスパーソナル的な発想です。でも共同体感覚は、「近代的自我の超克」なんていうようなある種の思想や、ユングやトランスパーソナル心理学みたいに文学的というか神秘めかしていないで、われわれの日常感覚と連続的に広がっていくというイメージが強いような気が僕にはします。

 以前富士山麓で仕事をしている時は、職場を囲む森を歩いたり、立ち止まって気功をするのが大好きでした。じっと耳を澄ませて身体の内外の「気」の感覚を研ぎ澄ませていると意識が透明になって、そこにある自然の命との一体感を確かに感じました。その一方、麓の広大な森のあちこちに虫食いのように存在する道路やゴルフ場を見る度に、胸が痛みました。確かにあの森に僕はコミュニオンの感覚を持っていたのだと思います。

 ユダヤ人にこういう感覚が普通にあるのか知りませんが、アドラーは第1次世界大戦に軍医として従軍した時、戦争の惨状を見て、「今人類に必要なものは共同体感覚だ」と直感したそうです。「大量破壊兵器」が歴史上初めて登場した第1次世界大戦は、その後の戦争のモデルになったといいます。アドラーの直感は、現代にストレートにつながっているのです。

 その直感は、その後の反戦運動や「宇宙船地球号」的なグローバルな意識、トランスパーソナルやエコロジー思想につながるものを心理学的に先取りしていたものといえるかもしれません。

 

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