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November 29, 2005

「気」との付き合い方

 最近忙しくて、眠くて、つい稽古不足です。
 私の武術は「筋肉を増やす系」じゃなくて、「どんどん力を抜いていく系」で、多少さぼっても実力が落ちることはないのですが、やっぱり稽古しないと技は鈍ります。せめてもと、自宅で読書の合間に気功を数分しています。立禅、站とうと呼ばれるじっと中腰で立ち続ける気功のポーズです。中国武術の基本稽古で、「気の鍛錬」をするということですが、これがなかなか奥深いのです。自分の微々たる修練によっても、長い期間やっていると体の中が何か変わっていくのを感じるのですね。
 この感覚をどう心理学をやっている人や部外者の方に説明したらよいか、今まで悩んできました。
 は東洋思想の中核概念のひとつであり、それを基に中国武術は成り立っています。あだやおろそかにできないはずですが、近代人たる私たちの多くは、それを直感的に理解するだけの感性を失ってしまいました。でも非科学的とバカにされるのも悔しいし、何とかわかっていただけるように翻訳をしたいものです。

 気功法がブームになった頃から、何人かの研究者が「気の測定」の生理学的な研究したようです。唯物論を信奉していた中国では「気の物質的基礎」を見出そうとしたそうです。でも今のところ、そういう視点での気の理解は、依然として曖昧なまま、気功とかすると、何か気に対応する生理学的な現象は起こるらしいというくらいのようですね。

 私は、気を物質の側面から見ようとしても今のところはダメで、意識の在り方、認識の次元でアプローチした方がよいのだと思います。
 でも寡聞にして、気をストレートに取り上げた心理学はあまり見かけません。むしろそういう言葉や世界を語らないことをもってよしとしていたパラダイムがありました。不用意に「気」なんて言葉を出してしまうと、「神秘主義」とかエセ科学扱い扱いで、「負け」でした。当分はこんな感じでしょうね。

 その点で、私の尊敬する運動科学者高岡英夫氏は気との付き合い方がうまいと思います。

 気というものが存在するのではないかという立場に立つ、科学的にいうと気は存在するという仮定から出発すると、人間や社会におけるいろいろな重要なことが、よりよく解釈できる、説明できる。また、その仮定を前提にすると、気を導入・運用する気功法が成り立ち、その方法によって人生や人間関係や社会をよりよい方向に変えていくことができる。ということであるならば、この仮定を前提に出発することは決して間違ったことではないのではないか。気が存在すると仮定することで、人間、人生、社会がよりよい方向に向かうのであれば、それは採用してよい道ではないか、というのが私の考え方です。なんなのかわからないのに、気は絶対存在すると100%思いこむのは信心みたいなものです。私は気に対して信心したくない。あくまでも科学的な態度で、気というものは自然科学的には立証、解明されていないことを常に忘れずに行動することが大切である、と考えます。        「からだには希望がある」(総合法令)

 その上で高岡氏は独自にとても効果的な気功法を開発し、一流アスリートや武道家に指導しているのだから大したものです。 

 考えてみれば、臨床心理学の諸概念だって最近は威勢が良いけど、両方の世界にいる者から見れば、気とどっこいどっこいの感じがします。でも同じように少なからず役に立つ(はず)ですから、やはり気の世界と同様な態度でお付き合いしていくと良いのかもしれません。   

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