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January 10, 2006

臨床心理学の三つの相

 諸説ある臨床心理学の学派をどのように見ていくか、というのは、理論の統合や横断的資格が叫ばれている昨今でも、この世界の永遠のテーマのような気がします。
 今回は、日本に初めて本格的にアドラー心理学を紹介した精神科医の野田俊作先生が、以前書いた所論(「折衷主義をめぐって」『アドレリアン第2巻第2号』所収、1988年、日本アドラー心理学会)を基にしながら考えてみたいと思います(自分なりの読解、解釈ですから、もちろん文責は我にありです)。

 ちなみに野田先生は一時期学んだことはありますが、私の直接の師というわけではありません。それでも私の知る限り、日本屈指の天才肌の理論家、治療者として認めておりますし、自分なりにかなり影響を受けた方でもあります。

 一口に臨床心理学といっても、一つの固まりのようなものではなく、三つの相、次元に分けて考えることが肝要とのこと。それは理論、メタ理論(思想)、技法です。

まずは理論
 これは一般に臨床心理学理論と教科書的に呼ばれるものを指します。精神分析等の各力動心理学、行動療法、家族療法等々、それぞれの流派には独特の理論を有していて、それに基づいて心理療法を行うことは周知の通りです。
 ポイントは、まず最初に治療構造、コミュニケーションがあって、そこで起こる現象から臨床家、理論家が理論を「見出し」、析出してくるということです。
 フロイトは彼自身のパーソナリティーと上流階級の婦人のヒステリー患者との「疑似親子関係的状況」という治療構造から、精神分析を「創造」しました。

 いったん治療理論が出てくると、「人はおのれの知っているものを見出す」という西洋のことわざそのままに、治療構造はますます治療理論を証明する事実が出てくるような方向に傾いていくだろうと思います。こうして、はじめはそれほど違わなかった治療構造と治療理論とは今ではまったく違ったものになってしまいました。
 

 臨床心理学の歴史は、たまたまある治療構造、コミュニケーションの中からこしらえた治療理論でなにかしらうまくいくことが出てくるために、自己成就的に理論が強化、発展していったということだったのかもしれません。
 アドラー心理学的な治療構造、理論の中では、転移・逆転移について考える必要がほとんどないのもこのためです(臨床家の中にはそれが信じられない人がいるらしい)。

そしてメタ理論(思想)
 これは直接の観察に基づくものではないし、実際には検証不能の説明理論です。つまり、一種の妄想体系です。
 イドやリビドーとか心的装置論、集合的無意識や元型論、共同体感覚や使用の心理学、還元主義や科学主義、感情の起源や機能とか、もっと雑ぱくにいうと人間観、世界観みたいなものです。
 検証不能ならそんなものなければいいじゃないかといきそうだけど、そうはいかない。これなくしては実際の治療は成り立たないものです。それは臨床家に力を、クライエントにメッセージの意味を与えるものです。

 山の中を地図なしで歩くのが危険であるように、メタ理論なしで治療をすると道に迷います。しかしこのことはメタ理論の科学としての正しさを保証する根拠にはならない。山の地図は山では便利だけど都会では使えない。メタ理論は特定の治療構造の中での地図ではあっても、人間精神の地図ではない。一部の書斎心理学者たちのように、フロイト派やユング派のメタ理論をあたかも科学的真理であるかのようにふりかざして、治療室外の一般社会の出来事の説明に使うのは、文学として面白くても、心理学としては暴挙であると思います。

最後に技法
 これは、理論やメタ理論と違って、かなり自由に他派の技法を借用できるように思われます。
 行動療法の諸テクニックや催眠、箱庭や描画などの表現療法など、臨床心理学の蓄積してきた技法を立場を越えて使うことは可能だと思います。ただ、理論とメタ理論によってその意味づけが変わることがあるわけです。
 私なんかも年の功で、技だけは豊富に持ってますよ。おかげで「引き出しがたくさんある」「マジック」なんて言われることもあるくらいで・・・。一見まとまりがないのですが、自分としてはアドラー心理学やブリーフセラピーのメタ理論の下で意味づけて使っていることになるのでしょうけど。

 では、よくいわれる臨床心理学派間の折衷は可能なのでしょうか。
 基本的には無理だというのが野田氏の考え。

 アドレリアン・カウンセリングとロジェリアン・カウンセリングというものは存在するけれど、その混合物はアドレリアン・カウンセリングとロジェリアン・カウンセリングの折衷ではなくて、実は折衷派という新しい流派であって、その構成要素になった諸流派とは独立の一派だと考えるべきではないでしょうか。自動車の部品と飛行機の部品を使ってモーターボートを作ることはできますが、それは自動車でも飛行機でもなくモーターボートであるように。

 特にメタ理論(思想)の折衷はほとんど不可能。「メタ理論は妄想体系であり、その一部でも変更すると全体の構造が変わってしまうシステムだから」です。
 確かに、精神分析とユング心理学と行動療法の思想的折衷なんて、到底考えられない。キリスト教とイスラム教だけでなく、これを私は「臨床心理学の百年戦争」と呼んでいます。
 これを乗り越えようとする努力や実証的研究もあるようですが、思想闘争は常に残るでしょうね。だからこそ純粋に科学というより、人間的、文化的営みともいえるのではないかという思います。 

 ちょっと引用が多くなりましたが、私は、この理論/メタ理論(思想)/技法という視点を持つことで、臨床心理学について論じ合ったり、学ぶときに、お互いがどこに足場を置いているのかを相対化しながら理解することができるように思っています。

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Comments

アド仙人様

面白く拝読しました。CBTの場合,
「理論→モデル→技法」というように
理論と技法の間に各種モデルを挿入して考察する場合が
多いように思います。私もそうです。
良し悪しはともかく,理論と技法をつなぐためのモデルを
図的に考えてみたくなるのですね。
モデルとは「準理論」であるとも言えるのでしょうが。

> そしてメタ理論(思想)
> これは直接の観察に基づくものではないし、
> 実際には検証不能の説明理論です。
> つまり、一種の妄想体系です。

なるほど・・・

メタ理論=思想=妄想体系=検証不能

ここまで言い切っていただけると,むしろすがすがしい気がいたします。

「メタ」の部分まで行ってしまうと,
それは「メタ」であるがゆえに,
確かに検証不能になってしまうのだと,妙に納得してしまいました。
相変わらずCBTにひきつけて考えると,CBTのメタ理論は「科学的実証性を追求する」ということになるのでしょう。
それは私にとっては「当然のこと」ですが,別の志向性をもつ臨床家と話す際に,あまりにも話が通じないと感じるときがあるのは,まさに私が志向するCBTのメタ理論ゆえだったのだと,これもアド仙人さんの記事を拝読して,深く納得してしまったのでした。

個人的にはここであきらめず,メタレベルの理論をさらに比較検討できるような「メタ・メタ理論」的視点ぐらいは,持ってみたいような気がしますが,私の脳味噌では追いつかないかもしれません(笑)。

それでは今後の新記事,楽しみにしております。

Posted by: coping | January 12, 2006 at 12:56 AM

 Coping様

 かなり言い切っちゃってて、大丈夫かと不安もありますが(笑)、こう考えるとわかりやすいかなと思います。

 私も、現在みんなが共有できるメタ理論は「科学的実証性を追求する」だと思うのです。でも、同じ言葉を使っていても、なんか人によって違う意味になっていることもあるような・・・。
 そこでCBTには先陣を切ってもらいたいと思っています。

 心理学に限らず、様々な視点や思想を相対化する「メタ・メタ視点」を持ちたいですね。
 

Posted by: アド仙人 | January 13, 2006 at 12:18 AM

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