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May 07, 2006

連休後半 「僕の叔父さん 網野善彦」

 連休後半は、晴耕雨読ならぬ晴読のみという感じで、リラックスして過ごせています。自閉症療育や学会誌、アドラー関係の洋書など何冊か併読しているのですが、今日改めて読み終えたのが、中沢新一さんの「僕の叔父さん 網野善彦」(集英社新書)。

 今まで何回か中沢新一さんと網野善彦さんのことは書いてきましたが、
 県立博物館に行ってきた
 アースダイバー
 本書では、この二人の天才が、在野の学者一家の中で理想的な叔父-甥関係を結び、互いに刺激し合い、それぞれの学問を深めてきた物語が感動的に描かれています。

 中沢さんも網野さんも、その仕事ぶりから確かに本質的な意味で甲州人だなと思います。反骨的で体制的視点とはまったく違った見方ができ、精神の自然を追い求め、そこから権力と人間の関係、歴史についての思索をしていくのです。

 私には天皇制が日本人の精神にどれほど深い根を下ろしているかを探求する後半のプロセスが興味深かったです。
 その中でも指摘されたことで、私も常々感じていたのですが、いわゆる「差別」に当たるものが歴史上この甲州の地域にはあまりないということです。稲作を中心とした農業民や都を中心にした世界観から遠く隔たった東国の山国で、古来から非農業民が多く住んでいたため人間観も違っていたらしいのです。
 網野さんは言います。

「でも甲州では中沢も網野も差別などはされなかった。ここなんだよ。ぼくが中世前期にはまだ非人は差別などされていなかった、聖なるものにかかわる特別な人たちであるという意識はあっても、賤しい人間と差別などされていなかった、そういう差別が本格的にはじまるのは南北朝ののちだ、というようなことを書くと、関西の歴史学者なんかから猛烈な反発がやってくるというのは、君も知っているだろう。非人の系譜に連なるものが、今にいたるまで差別されたことなどない世界というのを、そういう歴史学者は体験したことがないんだよ。貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だと言われてきたけれども、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始・未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたとも言えるなあ。貧しいということは偉大なことでもあるのさ」

 そう、私の住む土地では「部落」なんてほんとに日常語で、隣町に行くのを「おう、ちょっくらあっちの部落に行ってくらあ」なんてよく言います。
 だから、関西に行くときに「その言葉は使っちゃダメだぞ」と釘をさされたことがあります。

 古文書に埋もれるばかりのイメージの歴史学は、ほんとは精神の学問であることを教えてもらいました。
 

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