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November 10, 2006

「対称性人類学」

「対称性人類学 カイエ・ソバージュ」中沢新一,講談社メチエ

 本ブログで何度か取り上げている中沢新一さんの本です。小林秀雄賞を受賞したとか。
 最近中沢さんは、教育テレビの「人物伝」で民俗学者折口信夫を紹介しています。
 本書も折口民俗学を基盤に、人類の「精神の古層」を解き明かそうとしています。元になったのは多摩美術大学での講義だそうで、カイエソバージュ・シリーズとして刊行されています。本書はその最終巻になります。

 中沢さんは人類の思考様式を非対称性と対称性とに分けます。
 非対称性思考とは、区別と分析を得意とし「アリストテレス論理」を押し進めます。普通いわれる理性に相当するのでしょう。対称性思考とは、レヴィ・ストロースのいう「野生の思考」、神話や夢の論理などに表れる無意識の思考であり、中沢さんはそれを「流動性知性」と呼びます。

 簡単にいうと、人間と熊は別々の存在であると考えるのが非対称的思考、そこからどのように別であるかは無限に分解・分析していけます。
 人間と熊は同じ存在であると考えるのが対称的思考、であるからお互いに深いレベルからのコミュニケーションが可能と考えます。

 対称性論理、流動性知性は、人類の心の基体でありながら、近代はそれを否定し抑圧し続けてきた。非対称的知性が暴走し続けている現代によみがえらせていくことが、21世紀の「第三の形而上学革命」には必要となると中沢さんは考えているようです。
 ちなみに第一の形而上学革命は一神教の成立、第二は科学の誕生だそうです。

 この流動性知性は、精神分析学が「無意識」と呼んできたものにほかならないのですが、それを「心」の中の抑圧された部分と見なしてきた精神分析学の考え方とはちがって、私たちはこの無意識こそが現生人類の「心」の基体であると考えたのです。無意識はもともと抑圧とも欠如とも関係なしに、私たちの「心」の中で作動し続けています。別の言い方をすれば、対称性の論理こそが、もっとも人間らしい人間の<徴>をあらわすものである、と言えるのだと思います。

 これはフロイト的無意識ではなく、アドラー、ミルトン・エリクソン、ユング、トランスパーソナル的な、相補的で全体論的な無意識観といってもいいでしょう。
 それでも「思想家」中沢新一は、プラグマティックな臨床心理学者たちより、どうしてもフロイトだけに言及しています。その枠はとっくにはみ出しているのに、知識人に受けがいいのはいつもフロイトだからでしょうかね。

 そういえば本ブログでたびたび取り上げて賞賛する中沢新一さんと内田樹さんですが、思想的には私と根本的に違うところがあります(というのもおこがましいですが)。

 それは「起源への欲望」と内田さんが呼ぶものです。
 中沢さんは人類学とチベット仏教、民俗学、内田さんはフロイトとラカン、マルクス(レヴィナスはどうなのか知りませんが)を基に思考を遡っていきます。そして対象の構造をつかみ取ろうとします。
 でも私は起源は正直どっちでもいい、「幸せ」になるのにそれは要らないとさえ思います。
 仏陀がいうように、矢が刺さった人に「矢はどこから来たか、誰が撃ったか、どうして撃たれたか・・・」などと聞くより、矢を抜くことを先ず考えるのです。
 この辺が知識人と実務家を分けるのだと思います。

 それでもお二人のような外れ知識人(失礼)をよく読むのは、臨床心理学特有の狭い人間観を離れ、一気に視野を俯瞰的に広げるのに役立つような気がするからですね。

 特に思想のスタイルは違っても、前にやったうう脳じゃないけど、あまり左脳的でなく、情報入力・処理とも右脳を優先的に使っていると思える私には、中沢さんには同じ臭いを感じてしまうのですな。

 

 

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