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November 30, 2006

「私家版・ユダヤ文化論」

 以前本ブログを始めた頃、ファンだった栗本慎一郎氏の「パンツを脱いだサル」を取り上げましたが、それ以来ユダヤ問題に陰ながら強い関心を持ってきました。同書以外にアーサー・ケストラーの「ユダヤ人とは誰か」(三交社)など何冊か当たったり、ネット情報も折に触れ渉猟しています。
 別に専門でもないから、気楽にマイペースで学び続けているところです。趣味の勉強って楽しいよね。

 それにしても知れば知るほど、この問題は奥が深い、まさに硬軟、正統異端、聖俗、歴史・現代、政治・金融・戦争等々ありとあらゆるレベルでユダヤ問題が顔を出し、論じられていることがわかってきました。

 ユダヤ問題のすべてを知ることは不可能ですが、まさにこれが人間と世界理解の核であることは間違いがありません。

 極東の田舎にいる私だって、アドラーやフロイト、フランクル、フッサール、チャップリン、ビリー・ジョエル、サイモン&ガーファンクル、スティーブン・スピルバーグ等ユダヤ的知性・感性抜きの人格形成は考えられない。
 おまけに今や我々日本人は、財布の中身や命の行く末まで一部の金融ユダヤ人どもに握られているような今日この頃です。

 感謝していいのか憎んでいいのか。

 そんな中、やはりファンをさせていただいている内田樹さんの「私家版・ユダヤ文化論」を読みました。
 今までの内田本の中でも最もおもしろい部類に入る名著だと思います。こんなのが新書でいいのだろうか。

 本書のテーマは「なぜユダヤ人は迫害されるのか」です。しかしそこは頭脳が空中一回転ひねりしている内田さんのこと、問いの設定を巧みに変えていきます。

 この問いに対しては、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい回答」である。だが、そう答えてみても、それは「人間はときに底知れず愚鈍で邪悪になることがある」という知見以上のものをもたらさない。残念ながら、それは私たちにはすでに熟知されていることである。
 この問いに対して、「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と答えるのは「政治的に正しくない回答」である。なぜなら、そのような考え方に基づいて、反ユダヤ主義者たちは過去二千年にわたってユダヤ人を隔離し、差別し、追放し、虐殺してきたからである。
 ユダヤ人問題の根本的なアポリアは「政治的に正しい答え」に固執する限り、現に起きている出来事についての理解は少しも深まらないが、だからといって「政治的に正しくない答え」を口にすることは人類が犯した最悪の蛮行に同意署名することになるという点にある。政治的に正しい答えも政治的に正しくない答えも、どちらも選ぶことができない。これがユダヤ問題を論じるときの最初の(そして最後までついてまわる)罠なのである。

 こうして内田さんは「問題の次数をひとつ繰り上げ」て、問いを書き換えます。「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か、と。

 経験的に言って、人間はまったく無動機的に愚鈍になったり邪悪になったりすることはない。私たちは熟慮の末に選んでいるのである。私たちが自分の暴力性や愚かしさを肯定するのは、それによって得られるものがそれによって失われるものより大きいという計算が立った場合だけである。
 では、自分が暴力的で愚鈍であるとう事実を受け容れてまで私たちが手に入れたいと望む「疾病利得」とは何なのか?それはどうして反ユダヤ主義という形態を選択することになるのか?

 行動分析学的には、反ユダヤ主義の強化随伴性は何か、アドラー心理学的にはその目的は何か?ということでしょうか。

 充実した内容は本書を開いていただくしかないのですが、そのようなメタレベルの問題設定の上で展開されていくところはスリリングです。

 私には、ユダヤ人とは何なのかという問いを巡って、それは国名でも、人種でも、ユダヤ教徒でもない、「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきたとする下り、サルトルの社会構築主義的定義(ユダヤ人とは宗教的、経済的、社会的「状況」が作ったもの)とそれに対するレヴィナスの「選びの立場」(ユダヤ人とは自分が犯していない罪について「有責性」を負うことを選んだ人々)の対比と展開がおもしろかった。

 それでも結局は答えがないんだなということに納得しました。

 本書は「ユダヤ研究30年」の著者の「私家版」なので、もっぱら著者の私見が開陳されていて、議論の抽象度が高い分、生身のユダヤ人は見えてきません。

 今度はそういうユダヤ人自身の語りを聞いてみたいと思いました(政治的立場を越えて語ることは難しいでしょうけど)。

 私が接した「本物の」ユダヤ人って、考えたら昔東京の本部道場で腕を交わした(推手という組み手)稽古仲間くらいしか思い当たらないからな。

 今度は、よくあるユダヤ商法でお金持ちになる本みたいなのに手を伸ばしてみるかな。

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