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January 29, 2007

「武田信玄はどこから来たか」

 大河ドラマ「風林火山」の出足は好調のようで何よりです。このまま盛り上がってほしいものです。

 しかし、戦国最強と言われる武田騎馬隊とはいったい何なのか、武田信玄はどうして強かったのか、などという素朴な疑問が山梨土着民の私には以前からありました。
「強かったから強かったのだ」では答えになりませんね。

 元々甲斐の国は貧しい土地で気候は厳しく人口が少ないところです。隣国の駿河の今川、相模の北条の方がかなり豊かで人口も多かったはずです。国力が小さいはずなのに、なぜ武田は強くなれたのか。

 一部には、日本の戦国時代には、歴史ドラマや西洋の騎馬隊のような馬の集団突撃みたいなものはないはずだとして、騎馬隊の存在を否定する研究者もいます。
 しかし昔から「武田の騎馬隊」という印象が根強くある以上、何らかの根拠があると考えてもいいでしょう。

 そこで、昔私に小説を指南してくれた山梨在住のミステリー作家、岩崎正吾さんの「武田信玄はどこから来たか」に、その疑問に対するユニークな答えがあります。

 信玄はなぜ強かったのであろうか。・・・・
 そう思い、調べ始め、山梨の「騎馬の伝統」というものに気がついた。山梨には古代から、走るのにすぐれた良い馬がいた。もちろん、乗る道具としての馬は、大陸から伝来したものである。
 また古代において、騎馬で戦う技術を持った人たちがいた。馬を自在に操るだけでなく、そうしながら刀をふるい、馬上で弓を射ることの出来る人々である。これらが簡単な技術でないことは、わたしたちにも想像がつく。良き先達者を持ち、長い厳しい習練をへて、獲得できる技術だったろう。
 さらにまた、生き物である馬を育て、増やし、乗る道具として訓練するのも、容易ではあるまい。これにも長い間の習練で培った、プロの技術というものが必要とされたろう。
 つまり、簡単に馬に乗って戦いに加わったというが、そこには高度な「騎馬文化」の裏付けがなければ不可能だった。文化というものは、高いレベルの技術はもちろんだが、それと一体となる精神がなければならない。

 武田が勃興する遙か以前、日本書紀に既に甲斐の国は優秀な馬の産地であったこと、そこに高度な「騎馬文化」が存在し、勇猛な戦士がいたことが記載されているそうです。
「甲斐の黒駒」と呼ばれたり、聖徳太子がそれに乗って空を飛んだとか、壬申の乱で「甲斐の勇者」と呼ばれる武士が活躍して大海人皇子(後の天武天皇)を助けたと思われる記事があるそうです。

 大和朝廷の時から甲斐にはいくつもの大きな牧(馬の牧場)があって、甲斐の黒駒として、そのブランドは全国に鳴り響いていたのです。

 おそらくそれを支えたのは、当時の朝鮮の強国で、遊牧民族の新羅系の渡来人ではないかというのが、岩崎さんの推理です。
 実際山梨には、巨摩(コマ:新羅や百済と並ぶ古代朝鮮の国、高麗の発音)とか古代朝鮮の名残と思われる地名が最近まで残っていました。

 そして甲斐源氏、武田氏の祖とされる平安時代の源義光は新羅三郎義光と名乗っていたことがその証ではないか、と考えられるのです。新羅の字が同じだし、教科書では「シラギ」と読んでましたが、実際の古代朝鮮語の発音は「シルラ」だったそうで「シンラ」とほとんど重なります。

 その他にも岩崎さんは本書で、武田家の騎馬民族的特徴を興味深くいくつか描き出しています。

 古代から連綿として続いた大陸~朝鮮から伝わる騎馬文化の頂点に武田信玄がいたということになります。

 ということは、先祖代々この地にいたと思われる私も騎馬民族の末裔ってことになるのかな?
 どうりで定住を嫌い、荒っぽいわけだ(笑)。

本書は地方出版社で出しているので、下記に直接お求め下さい。
 岩崎正吾と山梨ふるさと文庫

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Comments

武田の騎馬隊、良いですねぇ、甲斐駒とも言いますよね。
私の祖父も、お祭りの時は騎馬軍団の一員としてパレードに参加していましたっけ。

「各々馬は飼いざるや」とうたわれる通り、実家の村でも私が幼少の頃はまだ馬を飼っている家も少しは残っていました。また、隣村(市町村合併しちゃったけど)では今でも「やぶさめ」の行事がお祭りで行われ、やぶさめの達人も今尚居ます。

そういえば、甲府国中地方では「馬刺し」は隠れ名物だし、「吉田のうどん」での肉うどんは、基本的には馬肉を使っていますもんね。

釈迦に説法となりますが、

甲斐の国の武者たちは、やっぱり馬上で戦うことを得意としたのは間違いないですよね。
武田の武術として存在したものが、江戸時代では会津藩の御留武術として存在し、「武田」性の達人が排出され、現代にその伝統が受け継がれているということ。

そして更に、中国大陸でも、馬上で戦うのを得意とした人が居て、やっぱり独自の武術を持っていたこと。
「南船北馬」という例えも有り、中国北方では騎馬民族が多く、騎馬民族の武術として、所謂「内家拳」が存在したこと。

これらが、今更この時代になって、山梨県に置いて再び融合され、還ってくるというのはすさまじいロマンを感じずには居られないです。

そして、この時代において、大陸の騎馬民族の武術と、武田の武術の嫡流とを融合させ、「柔拳」という名になったものを山梨県に持ち込んだ第一人者を私は知っています。

なかなか面白い話だと私は思っています。

 渡辺さま

 なかなか雄大なコメントありがとうございます。

 そうですね。思い返せば、今の山梨にも馬の文化の痕跡はあっちこっちに見つけられますね。足下を見ることは大切なことだと、改めて気づきましたよ。ありがとう。

>これらが、今更この時代になって、山梨県に置いて再び融合され、還ってくるというのはすさまじいロマンを感じずには居られないです。

>そして、この時代において、大陸の騎馬民族の武術と、武田の武術の嫡流とを融合させ、「柔拳」という名になったものを山梨県に持ち込んだ第一人者を私は知っています。


 そうか、僕も君も大きな歴史の中で、ある使命を帯びているのかもしれないな、そう思うと、今までやってきたことの意味が見つけられそうな気がします。

 騎馬民族同士、歴史の記憶をたどりながら励みましょう。

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