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March 20, 2007

速ければいいってものではない

 引き続き内田樹・甲野善紀「身体を通して時代を読む」から、興味深い箇所を。

 対談本はけっこう好きなのですが、甲野さんは、ご本人には悪いですが特に単著より良いような気がしています。
 論理性が際だつ高岡英夫さんと違って、どうも甲野さんは体感覚タイプみたいで(武道・スポーツマンにありがちですが)、やはり言語化するのに一人では限界があるのかもしれません。普通のアスリートより言語感覚はかなり優れた方だと思いますけど。

 そこにインタビューアー兼解釈者、助言者になれる対談相手がいると、けっこうすっきりと楽しく読めるようになる気がします。甲野ファンの方には怒られそうですが。

 内田さんは得意の高速思考・言語回路で、甲野さんの話を引き受けてどんどんおもしろくしていきます。

 今回は教育問題。多様な教育評価軸が必要だという、至極真っ当なテーマについて。

(内田)多様性が大切だとうことは学校の現場でもわかっているんです。でもそれが、教育プログラムにうまく適用できないのは、成績評価に数値的根拠を要求されるからなんです。体育も5段階評価。ある子どもに5をつけて、別の子どもに4をつけたとき、子どもの親から「この差はどうしてついたのか」と問われたときに、100メートル走の数値があれば教師は答えられますよね。「こっちの子どもが0.5秒速かったから」。でも、数値化できない能力を教師が判定する場合、それは主観的で恣意的な判断じゃないかと責められる。「エヴィデンス・ベイスド」ということは言い換えると、数値化できないデータは「ないもの」として扱えということなんです。

 でも、本当に体育教育の場で子どもの多様性を認めた場合、人間の身体能力なんてあまりに複雑で、とても数値的に記述なんてできるはずがない。人が生きていくための身体能力には、ただ筋力が強いとか反射神経がいいというだけではなく、直感力や快楽を享受する能力や、危険を予知する能力なども関係してきます。どこでも寝られる能力とか、なんでもおいしく食べられる能力なんかだって、生存戦略上はあるいは腕力や走力よりはるかに重要かもしれない。でも、こんなものは学校体育の範囲内では計量できない。計れるのは何秒で走るとか、何メートル跳ぶとかいうシンプルな特性だけです。人間が生き延びる上でほんとうに必要な能力が現在の学校体育では計測不能という事実をもう少し重く受け止めてほしいですね。

 まったくです。古くて常に新しい問題ですね。心理学でも行政の世界でも、計量可能なものに結局は頼ってしまう知性の弱さが頻繁に見られます。

 心理学ではそれでも質的なものをどう取り入れるかという研究も最近は盛んなようですが、行政はひどいものですよ。国へ出すから、議会に報告するからと何かと数値データを上部機関から求められますが、質的なものは問われたことがない。
 そのくせ金は出さない、人はつけない。
 小さな政府論が幅を利かせてからは、数値データは望ましい要求を抑える口実にしか使われなくなっています。

 それにしても私は「快楽を享受する能力」と「どこででも寝られる能力」は天才的だと思うのだがなあ。

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