人が一線を越えるとき
ここ数年、突発的で残酷で不可解な事件がたくさん起きているといいます。
いちいち例を挙げませんが、そういう事件が起きるたびに、「日本人はどうしてしまったのだろうか?」と思わずにいられません。
高岡氏も同様な疑問を持ちます。
最近の世相を見ていて気になるのは、日本人の精神構造が変化してきていて、以前では考えられなかったような凶悪な事件が頻繁に起こることです。その度にマスコミは識者にコメントを求め、専門家の分析を報道します。
みなさんはそこである“共通の言葉”が決まって使われていることいお気づきでしょうか。しかも、その言葉は、専門家それぞれの立場からの検証がある程度語られた後、最後の方で締めくくりの一言として語られるのです。「まあ、要するに、そこまで追い詰められ、余裕がなくなっていたということなのでしょう」
これはどういうことなのでしょうか。本来、「余裕がない」という言葉は、「時間の余裕がない」「金銭の余裕がない」というように使われるものであって、「余裕がないから殺人を犯した」などという文脈で使われる言葉ではありません。
一体今、われわれ日本人に何がおこっているのでしょうか。
いわれてみれば、重大犯罪に対して、学者たちから様々な社会的、精神医学的原因が挙げられていて、それはみなそれなりに説得力はありますが、そのような時にどうして犯罪を犯す人といない人の差が出てしまうのかを特定するのは難しい問題です。
結局、最後の一線を越えるのは「余裕がないからだ」といったニュアンスに行き着いてしまうように思えます。
「追い詰められて、ゆとりがない」というのは、心の問題です。そして心は体によって支えられています。ならば日本人の精神構造が変容してきた背景にも、「ゆるみ」を失った身体、つまり硬く固まった体が関係しているといえるはずです。
心は体によって支えられているのですから、これは当然といえば当然です。身体の硬縮化が進むとともに、他人の言葉や関係性、その存在を許容していく「余裕」が急速に減っていきます。
その結果として、限度を知らない陰湿ないじめ、幼児虐待、家族間での殺傷などが日常茶飯事として起こるようになったのです。これは、日本人全体を取り巻く問題です。誰も例外ではなく、全員が全員、そうした方向に追いやられていると考えるべきでしょう。
実際に「余裕がない状態」とはどんな状態か。
高岡氏は2006年に起きた兄が妹をバラバラに殺してしまった事件を取り上げながら、兄妹の中で起きた「余裕のない関係性」を推測しています。
それでは、この痛ましい事件がなぜ起こってしまったのか-そこに存在するのは、やはり「余裕のない」「追い詰められた」2人の存在と関係です。
犯罪に走ろうとする人を思いとどまらせるもの、それは“体のゆるみ”から生まれる“心のゆとり”です。そして“心のゆとり”から生まれる“関係のゆとり”です。興奮したり、緊張すると、体はガチガチに固まります。筋肉が動かなくなり、背中や胸の筋肉までが硬縮して息苦しくなります。さらに緊張すると、血管まで収縮して血液が流れなくなるといった、一種のショック状態に陥ります。緊張の余り倒れるのに近い状態です。こういう緊迫したコンディションでは、精神の余裕が極限までなくなります。直面した現象、出来事だけに視野が狭まり、どんどん自らを追い詰めるようになります。まさに体が固まった結果、精神を追い詰めてしまう、極限的な精神緊張状態といえます。
緊張を強いられる状況が厭なら見方を変えればいいのに、もはや他の見方ができなくなっています。これが毎日続くために、ますます悪い方向へ進む。心身の相関関係のなかでどんどん追い詰められていく。恐らく、兄と妹は恒常的にこの状態に陥っていたのでしょう。
固まることは怖いですね。
体の余裕作りが、心の余裕も作り出す。
アドラー心理学では「全体論」といって、「人の心と体は一体で、本来分割できるものではない」という立場を取っています。
入り口はどこからでもいいと思います。
思い詰めたら、先ずは体をゆるめることから始めてみたらどうでしょう。
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