水の身体
宮本武蔵は『五輪書』の「水の巻」について、次のように「解説」しています。
第二、水の巻、水を本として、心を水になる也、水は方円のうつわものに随ひ、一てきとなり、さうかいとなる、水に碧潭の色あり、きよき所をもちひて、一流のことを此巻に書顕はす也。
この「水を本として、心を水になる也」とはどういう意味かを高岡英夫氏は『宮本武蔵はなぜ、強かったのか?』で、読み解いていきます。
要するに「水を根本原理として、水というものが自分のあり方の根本的なベースになるようにしなさい」と説いているのです。
これはまさに武蔵の身体論の土台ですので、これを読み違えてしまうと、『五輪書』全体を読み誤ってしまうわけですが、非常に残念なことに、これまでの『五輪書』の解釈はすべてここで決定的なミスを犯してしまっているわけです。p31
決定的なミスとは、ほとんどのこれまでの読者がこれを、私たちが普通使うところの心、自我とかそのような心理的働きのことと思い込んで、「精神論的解釈」をしてきてしまったことだと高岡氏はいいます。たとえば「心を水のように清らかにしなさい」とかいった感じで説明するとか。
しかし武蔵は現代人ではないし、心理学者でもない、今でいう「アスリート」で、「殺し合いを含めた試合を行うアスリート」であるのだから、心の意味範囲が違うと考えるべきだという氏の意見に私は同意します。
そんな身体運動のプロフェッショナルである武蔵が、「心」と書いた以上、それはあくまで身心相関、心身一如の「心」のことであり、身体から分離した単なる精神論であることはありえません。
したがって、ここで彼が「心を水になる也」といっているのは、まず身体が水のような状態になっていることが大前提になっているのです。この大前提の役割を果たしている部分が「水を本として」です。p32
では、身体が水のようになっている、とはどういうことなのでしょうか。
端的にいって、身体が極限的にゆるんでいて、水のようなクオリティを持っているという状態だといいます。
けして、筋肉を固め、力を込めたガチガチの状態ではない。
私のやっている太極拳のような武術では、「身体とは固体ではなく、水の詰まった皮袋である」といった身体観が伝えられています。
だからあのように脱力して柔らかく動く稽古をするのですが、それに非常に近い考えを武蔵が持っていたことに改めて驚かされましたし、私としては「武蔵と同じだ」と勇気づけられました。
もちろん実力は雲泥の差ですが。
この辺の本書での解読作業はなかなか読み応えがありますよ。



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