武蔵の全盛期は?
剣豪・宮本武蔵の生涯に思いを馳せるとき、武蔵はどのように強くなっていったのだろうかという疑問が当然のようにわいてきます。
野生児のような粗っぽい10代から、沢庵和尚に「人の道」を仕込まれ、数多くの真剣勝負で剣の道を求め続け、女には目もくれず、ついに佐々木小次郎との試合の時は実力は頂点に達した・・・。
吉川英治以降、ほとんど全ての物語が、まるでユングの元型論に沿うかの如くワンパターンを繰り返しています。
それは教養小説として、人々が安心して読める予定調和の物語だからです。
「宮本武蔵は、なぜ強かったか?」で高岡英夫氏は、定説に挑戦するかのような武蔵論を出しています。
実は天才・武蔵の全盛期は13才の頃、新当流の有馬喜兵衛と立ち合って倒した時が最高レベルで、後は「その時の感覚」の再現を求めるかのように、武蔵は幾多の戦いに望み続け、勝ち続ける中で、いくらかはその感覚を得ながらも徐々に失っていき、その代わりに騙したり意表を突くような「戦術」を使わざるを得なくなり、ついには巌流島の佐々木小次郎との決闘では、武蔵にとって最低、最悪レベルに落ちていた。だからあんな戦いをしなければならなくなった。
そのことに気づいた武蔵は、在りし日の感覚を求めて剣以外の芸道などに打ち込み、「悟り」を求め、ついには「五輪書」を執筆するレベルに至った・・・。
とまあ、ざっとこんなプロセスです。
どうしてこういえるのか。
高岡氏は、「五輪書」の丁寧な読解と自身の武術/身体の鍛錬経験を重ね合わせながら、その考えの根拠を開陳していきます。
そのプロセスがとてもよくて、「なるほど、こうやって兵法書は読み解いていくのか」と、読書自体が頭の鍛錬になる思いがしました。
天才・武蔵は生まれながら無常のゆるみきった身体を持ち、そこから繰り出される水のような無駄のない、まるで天理に沿った動きができたことを「をのずから」と「五輪書」で表しています。
しかしそれなら武蔵はなぜ、半生飽くことなく戦い続け命のやり取りを続けたのか。
連続殺人犯みたいに病的パーソナリティーだったためか。
いや、全く違う道徳、生命観で生きていた人に、今の基準を当てはめても仕方がないでしょう。そんな病的な書なら「五輪書」が世界で人生の指針のように読まれているわけがない。
高岡氏はいいます。
もし仮に、その後も「自ずから天理を離れない」戦いができたのなら、おそらく真剣勝負を数回繰り返せば、もう「これが天理」だなという最終的な悟りに到達してたことでしょう。ところが現実の武蔵はそれから六十余度も真剣勝負を続けていったわけです。
それは有馬との戦いののち、武蔵の心中に壮大な悩み、迷いが生まれたからだと私は考えます。
武蔵の悩み、それは天理、しかも根本さらには究極の天理を見失ってしまったことに他なりません。武蔵の修行遍歴とみられているのは、実は失った天理を求めてさまよう、文字通り血みどろの苦しい道のりだったのではないかと、私は考えています。p226
本書は具体的な二刀流の術理の解説もされていて、そこのところも興味深いのですが、人間・武蔵の新たなイメージを得ることができ、私には今年上半期の「武術部門」ベスト1の本となりました。
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Comments
興味深い記事と書籍の紹介を、ありがとうございます。
ユング元型論については無知で恐縮ですが、僕も、宮本武蔵の生きざまと生涯を、人格形成や精神成長のモデルパターンとして捉えて来ました。教養小説というよりは、教育小説としてです。
剣術家「武蔵」に言術・文術家「武(たけし=しんぷるの実名)」を重ね合わせて生きていた頃もあります。
二年浪人して、芸術学部文芸学科に入学した頃です。
二年遅れていましたし、「言術と文術の領域においては、自分よりも優れたクラスメートがいてはいけない」という頑固な信念を持っていました。
自分のプライドだけが大事で、出発点からして「天理」とは無縁でした。「悩みと迷い」はありましたが、天理を求める崇高な欲求からではなく、「こんな大学で毎日こんなことしていて、将来ちゃんと食っていけるのかな。高校の教員が積の山かな」といった自己中心的な不安と心配から生じていました。
中学高校時代はピンポン術の分野で、同じことをやっていました。「県北地区で俺よりも強いピンポン術者がいてはならない」。
これも、大学時代と同様の「井の中の蛙くん」の信念でした。
戦い続けた若かりし時代の経験を、中年期以降に「知的に昇華」できると思っていました。
武蔵が「五輪書」を集大成したようにです。
しかし、僕が生活のために参入した受験教育業界の現実は激しい競争の渦でした。中年期以降も、競争原理からは逃げられません。
否応なしに、強敵たちと戦い続けている毎日です。
しかし最近、天理と言えるような価値観に触れて学べる機会を増やせるようになりました。
完全にリタイアする日(おそらく死ぬ瞬間)までは、生活をかけた「真剣勝負」から逃げることはできません(僕は、公務員の教育者ではないからです。親方日の丸でもないし、親方地方自治体でもありません)。
勝負し、競争して勝ち抜くことよりも、たとえ同業のライバル同士であっても、助け合ったり、協力し合ったり、有効な知識や情報を交換し合ったり、苦しい時は勇気付け合ったりしていくことが「天理」に沿う生き方かな、と思います。
アドラーの「共同体感覚」、キリストの「愛」、仏陀の「慈悲」を持って、業界でのフェアな競争で勝っていくしかない、僕の現実です。
競争と共存(or共生)の2K。この2Kのバランス感覚を、自分の行動を通して生徒・学生たちに(影響力で)伝えて行きたいと思います。
宮本武蔵は、命をかけた真剣勝負のくりかえしによって「天理」に到達回帰できたのかもしれません。
それにたいし、アメリカ社会的な生涯競争に生きなくてはいけなくなっている我々は、天理を尊び天理に沿いながら「競争社会」を生きていかなくてはいけないのではないでしょうか。勝ち方にも倫理と道徳と美学があるはずです。
予備校の授業口調になってしまいました。失礼しました。
長々とお邪魔しました。
taichiさんの毎回の記事に触発され、僕の貧しい創造力と論考力が活性化します。深く感謝しています。
Posted by: しんぷる | July 01, 2009 at 01:34 PM
先のコメントの誤字を訂正いたします。
下から2行目「創造力」→「想像力」
大変失礼しました。
スペースを活用して、書かせていただきます。
「余暇を利用して身体を鍛えるという方法と考え方ではダメなんだ」ということに気づきました。
僕の武術は卓球なのですが、「ウエイトトレーニング・ストレッチと卓球」をやっているから「知的な勉強と仕事」が進むのです。
前者を怠ると、後者の活力は急激に衰退します。
説明不足ですが、文武は二道なのではなく一道なのです。
知的な作業も身体活動です。
知性と言語だけが身体や身体感覚から遊離して働くということは、ありえないようです。
やっぱり身体が先行し、知能はパーツとして身体の機能と感覚に伴って働きます。
身体の中でも第一に先行しているのは足と脚です。生きること・生活すること全体に渡って、feet&legsが先導しています。
知識と知能に依存しがちな僕のような職業人は、武術家・武芸家の先生方の思想と人間観と健康観を学ぶ必要があると思っています。
これからも宜しくお願い致します。
Posted by: しんぷる | July 01, 2009 at 06:38 PM
しんぷるさん
大変丁寧なコメントありがとうございました。
このように私の記事から触発された思いを表していただき、本当にうれしく思います。
武蔵は人生を真面目に生きようとする誰もを魅了するところがありますね。
一人一人の武蔵論があるのでしょう。
身体、とりわけ足、脚については本書でも言及されています。もしよろしかったら参考にしていただけたら幸いです。
Posted by: アド仙人 | July 01, 2009 at 11:15 PM