武田勝頼は生きていた!
歴史では、武田信玄の息子で、その後を継いだ武田勝頼は織田・徳川連合軍に攻め立てられ、最後は甲斐の国(山梨)の天目山(現甲州市の山奥)に追い詰められ討ち取られ、武田家は滅亡したことになっています。
しかし、最近実は武田勝頼は逃げ延びることができ、はるばる四国まで落ちていたことと主張し、地域興しにまでなっているところがあるらしいです。
その驚きの地はなんと四国は、土佐。
その地には古くから勝頼が落ち延びてきて、名を変えて生き延び、活躍していたという伝説が根強く伝えられているそうです。なんでも勝頼や諏訪ゆかりの寺社や伝承が数多くあるとか。
武田勝頼の会というのがあって、地道な考証を重ね、山梨や諏訪への調査もしてきたそうです。
名だたる戦国武将・武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」は、定説では天正10年(西暦1582年)天目山で自害したとされていますが、高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去され、鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。
「武田勝頼土佐の会」は、土佐(高知県)における武田勝頼落人伝説に基づき、
2009年8月に武田勝頼が没後400年を迎えることからこれを記念するとともに、
この地で伝えられてきた「玄蕃踊り」(踊りの象徴である「花台」も復活!)や「玄蕃太鼓」を通して、さらに周辺地域の民俗芸能団体もご参加いただき、地域を元気に盛り上げていくイベントを開催するものです。
いいですね、まさに歴史ロマンです。
私は山梨生まれの武術家ですから、当然武田ファン。
勝頼が生きていたなんて面白いじゃないですか。
いや、実際そうかも。当時の首実検なんて、実際それが本人かどうかわからないことが多かったそうだし。
武田勝頼は父信玄があまりにも偉大で、しかも長篠の戦いの大敗とその後の滅亡のために徒に評価が低いきらいがありますが、実はとても強くて有能だったという評価も最近出てきています。
実際武田の版図は勝頼の代で最大になっていますし。
時代の流れが味方しなかったのでしょうね。
そんな勝頼の遺徳を遠く土佐の地で偲んでくれているなんて、うれしいじゃないですか。
是非、応援したいと思います。
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