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April 22, 2010

武道の本義

 普通のスポーツではなく、武道をやっていると、これは何のためにやっているのだろう、スポーツや格闘技とどう違うのか、あるいは同じなのかと考えてしまうことがあるものです。

 スポーツは楽しいし、格闘技は強弱がわかりやすい。しかし、武道は一義的には「暴力」「殺人技」以外の何物でもないわけですが、それにもかかわらず私たち、特に日本や中国の人たちはそこに格別の意味を見出してきました。
 特に治癒や教育など、武道は人間性の深いところに関わると思われてきたといっていいと思います。

 なぜでしょう。

 内田樹先生は合気道の立場から、マスメディアの紋切り型の思考と武道の思想は根本から異なっていることを興味深く説いています。
 つまり普通のマスメディアは、昨今の政治報道やニュース・バラエティー番組を見てもわかるように、「正しいか悪いか」「数値的に決着できるか否か」という二分法的思考に拠るしかないので、勝ち負け、強い弱いがデジタルに表せるスポーツや格闘技との親和性が高くなる。
 しかし、武道は本質的にスポーツや格闘技ではない。医療や教育と同じく「なまもの」を扱うものであり、それはけしてそのような二分法的思考で捉えられるものではない、ということです。

 合気道と私の中国柔拳は本質的には同じ思想的立場だと私は思っているので、とても共感をしました。
 内田樹の研究室

 覚えに引用します。

 合気道に興味を持つ人には医療と教育の関係者が多い。懇親会も半数が医療・教育に携わる方々であった。
 メディア論を書いているときに、とりあえずいちばん「不出来」なのが医療と教育に関する報道であるということを書いた。
 おそらくそれはこの二つの領域が本来「なまもの」を相手にしているからだと私は思う。
「なまもの」は定型になじまない。
 とりあえず「善悪・正邪」というような二元論的な切り分けになじまない。
 そもそもそれは「主体と他者」というスキームを採ってはならない領域なのである。
しかし、メディアの定型は「被害者と加害者」「政治的に正しい者と政治的に正しくないもの」の二元論である。
それはメディアの宿命であり、その是非を言い立ててもしかたがない。
けれども、二元論的な思考しかできない知性(そういうもの「知性」と呼べるとしたら)では「なまもの」は手に負えないということは覚えておいた方がいいと思う。 
 医療や教育の現場の方たちは身体を経験主義的・機能主義的に取り扱うシステム、きわだって「非メディア的なもの」に惹きつけられる。
 武道は「身体を機能主義的に取り扱う」ということに徹底している。
そこが、スポーツと違う。
 スポーツは「勝ち負け」や「数値」や「記録」といったデジタルデータが一次的に重要なエリアであり、「なまもの」としてのアナログな身体には用がない。
 だから「スポーツをやって身体を壊す」ということが起きる。
「健康法を実践したら病気になった」とか「長寿法をやったら早死にした」ということは笑い話ではなくて身近に無数の実例がある。
 それは身体「そのもの」ではなく、身体の「出入力」を優先的に配慮することの必然である。
 武道が身体の出力(強弱勝敗)を重んじないのは、それはあくまで「身体そのもの」のパフォーマンスの変化の指標にすぎないからである。
いわば体温のようなものである。
 私たちはもちろん体温計が示す度数を気にすることがある。それが身体内部で起きている計測しにくい現象の断片的な指標だからである。
でも、その指標自体には意味がない。
 だから、現に「世界体温選手権」というようなものはない。
 空腹も眠気も「だるさ」もすべて身体そのものの機能についての重要な指標だが、「世界空腹選手権」も「世界眠気選手権」も「世界だるさ選手権」も存在しない。
 「大食い選手権」はあるが「眠気選手権」はない。
「大食い」は数値化できるが、「眠気」は数値化できないという理由が一つだが、もう一つの理由は「大食い」は身体がそれを求めていなくても脳が消化器に強制できるが、「眠気」は制御できないということである。
私たちが興味をもつのは「身体が求めていること」であり、それだけである。
 当然ながら、その方が「いのちがけ」だからである。
「大食い」の皿数は原理的に人間の生き死にに関係ないが(食い過ぎて胃が破れて死んだというような場合は別だが)、「空腹」は生き死ににかかわる。
 私の身体はどのような姿勢をとることを求めているのか。何に触れたいのか、何に触れられたいのか、どのような響きを感じたいのか、どのような声で語りかけられたいのか、何を食べたいのか、何を飲みたいのか。総じて、どのように生きたいのか。どのように死にたいのか。
 生きることにかかわるさまざまな「訴え」を高い精度で感知するための技法が武道である。
 私たちが焦点を合わせているのは、インターフェイスで出来している「震え」のようなものであり、そこを透過して入力するもの、出力するものには二次的な意味しかない。
 けれども、この「震えのようなもの」はメディアの語法がもっとも扱うことの不得手なものである。
 もちろんメディアにも医療や教育について言いたいことを言う権利はある。
 けれども二元論的な語法で語る限り、それらの領域における「なまの情報」には原理的にアクセスできないということは覚えておいた方がいい。

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Comments

二元論的な語法は、生産効率を優先する近代的合理主義による「知性の堕落」なのだろうと思われます。

勝敗や優劣などの相対的価値を測るには、まことに便利な二元論です。「進んでいる・遅れている」と価値判定したりします。
また、現代人の多くは、二元論的に判断することで、とりあえずの安心や納得や次の選択を得ることができます。「株価が上がったから・下がったから」というようにです。

しかし、「生命体」については、二元論で全体像や本質を把握することは不可能です。
「生成変化しつつあるなまもの(生き物)」だからです。
変化のプロセスに親身に寄り添うことでしか感知できない「なまもの」です。

僕は、武道に芸術を感じています。
説明不足で恐縮ですが、武道が総合芸術であるから、生命体を生成変化する動態として感知把握できるのだと思います。

堕落した二元論的知性の陥穽を回避して、一元論的または全体論的多元論的な知性を保持し育てるためには、マスメディアに依存し過ぎないようにし、本質を見抜く力や透視する力を養う必要があると思っています。

自分で行動し、自分の目で見て、聴いて、触れて、交わって、自分の頭と感覚で見究めて行くしかないようです。
信頼できる著書や文献は、時間の許すかぎりたくさん読みます。

調子に乗って、語りすぎました。
貴ブログのテーマ『武道』に、強く触発されます。
ありがとうございます。

Posted by: しんぷる(mixiHG) | April 23, 2010 04:13 AM

 しんぷるさん

>武道が総合芸術であるから、生命体を生成変化する動態として感知把握できるのだと思います。

 ステキな言い回しですね。

 そう思いながらこれからも稽古を続けたいと思います。

「全体論的多元論的知性」とはまさにアドラー心理学の思想でもあります。

 私たちが追求するものが見えますね。

Posted by: アド仙人 | April 24, 2010 01:34 AM

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