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June 28, 2010

実在した山本勘助

 武田信玄の軍師として名高い山本勘助は大河「風林火山」を始め、数多くのドラマや小説で登場してきたものの、その実在性が長く疑われてきました。
 それは山本勘助が大活躍する古文献が武田信玄の事績を描いた「甲陽軍鑑」のみだったことにあります。

 ところが江戸時代に武士たちに長く愛読されてきた甲陽軍鑑は、明治以来の歴史学の「実証主義」によって、「資料的価値がない」と断ぜられ、戦後は山本勘助の話はフィクションだと決めつけられて「定説」となってしまったのです。
 何より山本勘助の活躍がすごすぎて、甲陽軍鑑は読み物として「面白すぎる」のが、歴史学者のお気に召さなかったのかもしれません。

 しかし、流れが変わってきたようです。近年発見された新文書で「山本勘助」実在説が有力になってきました。
 そんな山本勘助学の現在がわかるのが、今やっている山梨県立博物館「実在した山本管助」展です。
 歴史好きの私は早速行ってみました。

 その内容をレポートします。

 山本勘助実在を疑っていた歴史学者たちに最初に衝撃を与えたのが、1969年に発見された「市河文書」でした。

 これは第3次川中島の戦いの時期に武田晴信(信玄)から信州北部で上杉軍と対峙して退けた市河氏に送った文書で、
「今後の戦の詳細は使者として送る山本管助に聞いてほしい」と信玄のメッセージが書いているものでした。
 この文書が専門家の鑑定で本物の信玄の書状に間違いないと証明されたことで、武田軍に「山本管助」という武者がいたこと、それも信玄の名代として、当時戦況の緊迫していた北信濃の重要な味方の豪族に作戦を伝える役目をする立場だったことがわかったのです。

 しかし、勘と管の字が違うことから、果たしてあの山本勘助と同一人物かには疑問が付され、謎は残されたまま40年が経ちました。

 しかし2008年に驚くべき発見があったのです。
 群馬県安中市で発見された「真下文書」と呼ばれるその文書群には、「山本管助」なる人物が武田家の中で非常に重要な地位にいたこと、そればかりでなく管助の子孫は生き残っていたことがはっきりとわかったのです。

 専門家は最初その文書の存在の知らせを受けたとき、よくある後世の作り物や偽書かと疑って調査に赴いたそうですが、実際にそれを見たときは「本物だ」と衝撃で震えたそうですよ。

 私が今回の展示を理解した範囲でまとめてみます。

・山本管助なる人物は明らかに武田信玄の軍事作戦の重要な位置にいた。武田家が信州を攻略する重要な局面で活躍していた。

・しかし史上名高い第4次川中島の戦いで、管助は戦死してしまった(甲陽軍鑑と同じ)。

・管助には子がいなかったので、信玄の勧めで管助の娘に婿を取らせ、養子とさせていた。しかしその後に実子ができ、初代の死後はその子が「二代目管助」となり、養子はまだ幼かった二代目の後見となった。

・しかし二代目管助は長篠の戦いで討ち死にした(甲陽軍鑑と同じ)。山本家は養子で後見だった山本十左衛門尉が継ぐことになった。

・武田家滅亡後、山本家は徳川に仕えることになった。伏見城の警備に当たっていた時期もあった。その後は浪人の時期もあったが、武田家の軍師として名高い山本管助の子孫の人気は江戸時代に入ってからも甲陽軍鑑のおかげで高く、各家から仕官の誘いがあったらしい。
 徳川家には武田家の遺臣が数多く(1000人近くもいた)、お互いに結束していていて、山本管助(3代目)に仕官を勧めてくれた人物もいた。最終的に管助は松平家に仕え高崎藩士となった。

・家康の子結城秀康は有名な山本管助の孫に病気見舞いを受け、礼状を出した(展示されています)。秀康はけっこううれしかったらしい。

・高崎藩では築城の名人・初代山本管助の子孫らしく、高崎城をはじめいくつかの城の普請を任され、それらには武田流独特の「丸馬出し」が見られる(ちなみ大阪冬の陣の真田幸村による真田丸もその系譜と思われます)。

・甲陽軍鑑を書いた軍学者・小幡景憲と山本管助(3代目)は親しく、管助は年長の小幡に軍学を習っていた。小幡は管助に「あなたに甲州流軍学の奥義を授ける」という手紙を書いている。また病気見舞いに来てくれた管助へのお礼の手紙も残っている(両方とも展示されています)。

・武田信玄100回忌の奉加帳には、真田、保科らの名家に並んで、「山本勘助」が書かれている(ここでは勘の字がある)(展示されています)。おそらくその子孫だろう。

・問題の「勘」と「管」の字の違いについては、当時も疑問に思う人がいて山本家に問い合わせたようで、それに答える山本管助の書状がある(展示されています)。ただ残された手紙は一部でその理由は出ていないようだ。

・江戸に時代の初期には「管助」と「勘助」と同一だという認識でほとんどの人がいたようで、特に問題はなかったようだ。

・山本家の当主は江戸時代も代々、初代の勘助が名乗っていた号「道鬼」を使って自らも名乗っていた(山本道鬼~というように)。いかに山本家は強く初代の管助の末裔を意識していたことがわかる。

 どうです?面白いではないですか。

 歴史の新しい断面を知ることができます。

 なぜ「カン」の字が違うのかは気になりますが、私はやはり「山本勘助=山本管助」説を採りたいと思います。
 なぜなら今回の古文書が書かれた江戸初期は、信玄や勘助の話は「歴史」ではなくまだ「思い出」の時代で、勘助や山本家のエピソードを知る武田の関係者は数多く徳川幕府の中にいたはずだからです。

 もし甲陽軍鑑で活躍する勘助の子孫だと勝手に名乗っていたら、
「あいつ、あんな嘘八百騙りやがって」
 と武田関係者からクレームが出たでしょう。
 それどころか著者とされる小幡景憲と親交があり、旧武田の遺臣同志のネットワークの中でも存在を知られ、仕官を援助されることもあったらしいのです。むしろ、
「山本家の倅は、信玄公に仕えて活躍したあの管助の子孫だから、助けてやろう」
 という動きがあったらしい。
 これは都会の人には想像もできないことでしょうが、今の山梨でも全く同様で、国といっても人口の少ない甲斐では(今だってわずか人口80万弱、三鷹市ほどか)、ちょっと話せば誰それはどこの家の出で、どのような人的ネットワークに所属しているかがすぐわかったはずです。
 山本管助の家はどういう家か、わからないはずはない。

 今でも初対面の人と、
「あなた、どこの地域の出?ああ、あの村かあ、そういえば○○って人知っている?知ってるんだ。いやあ、実は私の親戚のおじなんだよね(同級生なんだよね、仲人なんだよね、恩師なんだよね・・・以下無限に続く)」
 みたいな会話は日常茶飯事です。
 そしてそういう人と人のつながりが、仕事や政治に活かされていく。閉鎖的ともいうけどね。

 武田家という主家を失い、心ならずも徳川の中に入った遺臣たちは、軍事(井伊の赤備えは実は武田軍といえる)や行政・財政(大久保長安などの実務官僚)などの分野で活躍しながら相互の連絡・連携を取り合っていたかもしれません。
 これは「山梨県人」なら当然そうするでしょう。

 古文書ばかりの地味な展示ですが、学芸員さんの説明も丁寧でわかりやすく、戦国マニア、歴女にはたまらないですよ。

 7月5日までしかやっていないので、「勘助マニア」は是非お早めに。

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Comments

こちらの記事をかいてくださった筆者の方、
ありがとうございます。

とても懐かしいような嬉しいような気持ちの良い歴史のお話でした。

本当によくお調べくださったとおもいます。

ありがとうございました。

Posted by: 河原 知史 | March 02, 2013 12:30 PM

 河原様

 コメントありがとうございます。

 興味深いエピソードですよね。
 また新しい情報があれば、紹介していきたいと思います。

 よろしくお願いします。

Posted by: アド仙人 | March 04, 2013 05:47 PM

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