山本勘助の残像
前回の記事をアップした直後の6月30日の山梨日日新聞に、今回山本勘助の真相解明に重大な手がかりを与えた「真下文書」の調査に当たった平山優氏(山梨県立博物館)が、「再考 『管助』と『勘助』」という連載記事で、私の推測と同様の考察をしてくれていました。
この記事によると、
初代山本管助(甲陽軍鑑の勘助と思われる人物)が第4回川中島の戦いで討ち死にした後、二代目管助は長篠の戦いで討ち死に、孫の平一郎も早世してしまい、他の男子も次々に亡くなり、山本家の男子は三郎右衛門一人になってしまいました。
浪人の三郎右衛門は仕官の道を探します。
そんなとき三郎右衛門のもとに、水戸藩士・近藤七郎兵衛忠重から、
「主君徳川頼房が召し抱えたいと言っているがどうか?」という書状が来ました。この近藤は、実は武田遺臣でした。当時水戸藩士には、武田遺臣が多くいたそうです。
平山氏は、この近藤の動きから、
近藤は、主君頼房の意向を知るや、いち早く管助の孫三郎右衛門に情報を伝達している。このことは、武田遺臣の間では、山本管助は有名人で、その子孫の行方も把握していたことを示すものである。
と推測しています。
その後、2大将軍徳川秀忠の側近、永井尚政が三郎右衛門に関心を持ち、やはり武田遺臣の甲斐の国代官に紹介してもらって、甲府の側の石和(今は有名な温泉地になっています)にて二人は出会い、尚政は熱心に家臣に勧誘し、ついに主従の固めの杯を交わすことになります。
寛永9年8月のことだということも文書からわかっています。
そして三郎右衛門は、新主君永井尚政の勧めで、三代目の管助を名乗ることになりました。新たな山本管助の誕生です。
平山氏は、次のように考察しています。
このように、水戸藩や淀藩からの勧誘に際し、管助の孫山本三郎右衛門を引き立てようと奔走し、また彼が山本管助の孫であることを証明する口利きをしたのは、武田遺臣たちだった。主家滅亡からすでに半世紀がたっていたが、武田家に仕えた人々は繋がりを絶やさず、浪人の境遇にいたかつての仲間を助けようと努力していたのである。
そしてこのころが、武田遺臣同士の連携が維持される最後の時代となった。これ以降、武田遺臣同士の連携で相互扶助が達成される事例は途絶えるのである。
このように戦国が終わり、江戸時代に入って太平の世に落ち着くまで、全国に散った武田家の生き残りたちは、お互いに助け合い、何とか生き延びていたことが、しのばれるのです。
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