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October 02, 2010

「現代霊性論」

 今でもまだスピリチュアルブームだと思うのですが、私たちのいる世界は「霊」とのつき合いなしには成り立ちません。
 たとえ「おれは霊の存在を信じない」という人でも、では親が死んだら葬式をあげないのかと問われれば、大抵は迷わずするはずです。
「いや、それは社会のしきたりだから」という言い訳をしても、ではなぜ自分の最も大事な思想信念のその部分を簡単に妥協させてしまえるのか。親の死体はただの物体なんだからその辺に放っておけばよいとは、さすがにいかないでしょう(最近はそうでもない事例があるみたいですが)。

 きっとそこには霊性に対する私たちの意識を規定する強い信念があるはずです。

「言っていることよりやっていることを見よ」
 とはアドラーの言葉ですが、霊を信じていなくても霊と付き合わなければならないのは考えてみれば不思議な話です。まして靖国神社の問題で感情的になるなんて、ほんとはおかしいはずです。

 複雑で錯綜する現代におけるスピリチュアリティー(霊性)とは何かについて鋭く考察して、めちゃくちゃ面白いのが内田樹・釈徹宗「現代霊性論」(講談社)です。

 日々の生活の中で、私たちの思考や経験は「霊」という「わけのわからないもの」に現実には支配されています。それはアカデミックな科学の中では主観的には議論されることがほとんどありませんけど、現実の生活習慣や身体的実感には深く入り込んでいます。
 たとえば、私たちは死者を弔います。葬送儀礼を持たない社会集団は存在しません。それは「正しい服喪儀礼を行わないと、何か悪いことが起こる」ということについては社会的合意があるからです。それは実際に誤った喪の儀礼をすると、死者が蘇ってきて近親者に祟るとか呪うということが具体的にあるからではありません(映画では無数にありますけど)。
 死者は何もしません。
「弔い方が気に入らない」といって、化けて出てくるわけではない。少なくともエヴィデンス・ベーストで「お化け」の存在とふるまいを証明できた人はいません。でも、私たちはあたかも誤った弔い方をすると、死者が蘇ってきて災厄をなすことは自明であるかのようにふるまっています。

・・・中略・・・

 霊が現にそこに具体的・計量的な実体として存在していなくても、あたかもそのようなものが存在するかのように機能しているのだとしたら、私たちはそれについて学的に考察することができる。私はそう思います。霊そのものを「はい、これが霊です」と目に見えるかたち、手に触れるかたちで提示することができなくても、霊がどのように機能しているかについての「現象学的」アプローチは可能だろうと思います。

 本書では人気の現代思想研究家・内田樹先生と浄土真宗の僧侶で住職・兵庫大学教授の釈徹宗先生が、現代社会における霊性がどのように現れているか、課題は何かを縦横に論じ合っています。

 話題は、現代社会は本当は呪いの跋扈する世界であること、拝み屋さんや占い依存症、日米のスピリチュアルブームの違い、日本の近代の新宗教の流れと社会への影響、靖国問題、儀礼やタブーなど多岐に渡ります。

 私としては、明治維新以降に勃興し、今日まで至る新宗教、新新宗教諸団体の流れが一覧できるチャートが興味深かった。けして新聞やマスコミの表に出ない近代日本の裏面史についての基礎知識が得られます。

 宗教の知識なくして人や社会を理解することは不可能ですからね。

 そして表紙はなんと「バガボンド」の井上雅彦さんが描いています。人魂のようなお爺ちゃんの霊の絵がなんともおもしろい。

 ちょっとこれは、手に取る価値がありますよ。

 

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