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December 20, 2010

具体性を求めれば誤る

「FLOW 韓氏意拳の哲学」から印象的な文を私自身の覚えのために、引用します。

 意拳は伝統武道に特有の型を廃し、しかし近代武道に特有のルールの中でのスポーツ格闘技も否定し、ひたすら「身体の自然を開発すること」を追求します。
 つまり具体的にされた技や動きを反復的に学んだり、拳や足を鍛えて組み手をすることより、さらに抽象度の高い身体の原理を探そうとしているようです。

 おもしろい発想です。

 偏差値でも営業成績の向上でもいいが、目標をおいて、それを達成するための具体的な手段を考え出し実行すれば、失敗するにせよ成功するにせよ、結果は明瞭になる。手段を明確化、可視化させることの良さはそういうもので、無数にあるアプローチの中からひとつを選べば、努力の方向性ははっきりする。ただ、そこでは手段は限られ、単一化されているが、それなりの結果がもたらされると、その事実だけについ目を奪われてしまう。単純化された手段で得られた物事がすべてであるかのような錯覚に陥ってしまう。

 たとえば不眠不休で働いて、その苦労が実を結んだとしても、それを成功の法則として周囲に「だからおまえも同じ苦労をせよ」と強いることに妥当性はない。その苦労は何か目的を追う上での手段のひとつでしかなかったはずだが、手段自体が目的化されている倒錯に、独自の経験を重ねた文、その具体性に足を取られて気づかなかったりする。p19

 ある目的を果たす手段であったものが、いつの間にかそれが目的になってしまう。

 確かに武術に限らず、心理臨床や人生全般にそんな事例はたくさんあると思います。つまるところ人は自分の経験が頼りですから、やむを得ない面もありますが、それに頼り切って人間理解をしたり、人を指導するのは問題かもしれないとは私も思います。

 王は「一具体便是錯(少しでも具体的になれば誤りである)」と明確に言ってのけた。これが驚くべきなのは、手段はあくまで仮借であって、そこに「~のため」といった「寄りかかることのできる具体性を持たせてはいけない」とはっきり言っているからだ。

 定型化しては「能力を限定してしまう」からだが、これはどういうことかといえば、たとえば拳を打つことを「相手を倒すための技法」としてのみ捉え、「AからBまで拳を動かす具体的な形」として受け取ることと、拳の打ち方は「能力の現れの仮の手段」と把握するのでは、同じように見えてまったく異なる。p20

 武術とは戦いそのものではなく、究極的には「能力を求めるもの」であるというのは、現代から未来に向けて武術が持つ存在意義であることは私も間違いがないと思います。

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