身体で老子を理解する
廖赤陽著「気功で読み解く老子」(春秋社)には東洋思想を理解するには心身的実践を通すことが本当は必須であることを説いています。
私にはとても説得的であるので、引用します。
これまでの中国思想史や哲学史は、心身不在の思想史と哲学史であるといってもよい。つまり、アカデミズムの研究を行う学者たちにとって、思想や哲学はもっぱら人の脳の産物にすぎない。・・・(略)・・・
そして、観念を解釈するときの根拠は、もっぱら人間によって書かれたもの、つまり文献に求められるため、文献に書かれていないことは、いうまでもなく研究の根拠にはなりにくい。・・・・・しかし、老子はいかなる心身の実践を経験してきたのか、老子は心身の修行にどういった指針を与えてきたのか、これを日常生活にどう生かすか、学者たちはそれを一顧だにせず、いな、これまで、この点に気づいた学者はいないわけではないが、むしろこれに対し一種の危険な香りを感じ取って、本能的に敬遠しようとしてきた。このように、心身の実践はひとつのタブーであって、アカデミズムという閉ざされた世界のルールからいえば禁じ手であることは、暗黙の前提となっている。p3-4
実験科学における観察・測定、人文科学における文献主義は相応の歴史的合理性があるのはもちろんで、大きな成果を上げてきたのは事実です。
しかしそれらは対象の本質を理解するための全ての手段ではありません。
最も大事なのは、体験すること、味わうことによって本質を理解することではないかと著者は問うています。
特にこれは東洋思想の中心概念「気」を研究するには必須の態度です。
気の観念は、中国ないし東アジア地域の思想・文化・医学・宗教・武道・芸術などの根底に生きるものであり、これは周知のことである。しかし、気の観念の誕生は、脳の働きだけでもなければ、科学の実験でもなく、現在、気功と呼ばれる心身相関の修行実践から来ている。p6
実際老子と同時代の遺跡からは、現在の気功や中国医学の原形となる文物、絵画、文献がいくつも出土しています。
したがって老子の思想形成とそれらの心身実践学は深く影響し合っているに違いありません。
さらに学問的にどうあれ、これは、老子の時代の修行者から、現代社会に至るまでの数え切れない気功の練習者にとって、紛れもなくひとつの生命の真実である。たとえ「観念」だけであるとしても「観」は「内観、止観」など、自分の内面を見つめる修行の専門の方法であり、「念」は「念じる、念仏」など、イメージや発声法、呼吸法などの修行法とかかわっている。やはり、心身の実践を抜きにしては、観念としての思想・哲学は言葉としても成り立たないのだろう。p7
気功という心身実践、内面の体験を通してこそ見えてくる老子の姿を、本書はわかりやすく描写してくれています。
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