共同体感覚を求めて
「アドラーの生涯」(金子書房)によると、アルフレッド・アドラーは第一次世界大戦最中の1916年に軍医として徴兵され、従軍しました。
第一次世界大戦は、史上初めての多国間の総力戦で、無数の一般民間人を巻き込み、戦車や飛行機による空襲、毒ガスまでも使用され、現代の戦争の原型になったといわれています。
アドラーは前線から次々とくる傷病兵たちが、再び戦地に戻せるかどうかの「診断」をさせられていたそうです。かなりストレスフルな仕事だったでしょう。
そこで戦場の過酷さ、残酷さを知ったアドラーは、ウィーンに戻って個人心理学(アドラー心理学)の仲間の前に現れたときには、以前よりかなり雰囲気は変わって物静かで思索的な印象が強くなったそうです。
そして決然と「これからの世界に必要なのは共同体感覚だ」と宣言して、いかにそれを人間の心の中に見出し、育てていくかが人類には決定的に重要だとして、多くの人に積極的に訴え始めたのです。
共同体感覚とは、一般の心理学でいう社会性や共感性を含み込みながら、所属感や貢献感などの社会(共同体)へのポジティブな関わりの感覚の総称です。
アドラー心理学では、それはごく小さな対人関係だけに限定されるのではなく、豊かに広げることが人の健康度や幸福の重要な鍵だと考えています。
現実のあまりの悲惨さと苦しみに対して、共同体感覚を対置させ「処方」すること、ここにアドラー心理学のユニークさがあります。
確かにあまりに悲惨な現実を目の当たりにして、悲観主義やニヒリズムになることはよく理解できます。実際そのような立場を取る思想家や文化人はけして少なくなく、20世紀は一種のスタイルとして主流になったところもあります。
その中には、人間の心の奥には制御しにくい本能があり、それとの葛藤が自我だとする「性悪説」を本質に持つ精神分析学があります。これは確かに人々の心的実感に訴えるところがあったのは否めません。
しかし、それが真実である証明にはなりません。
現実追認を表明しただけで、実は何も発見していないのかもしれません。
アドラー心理学がそれらとは反対の道筋を探ったのは、アドラー自身の性格を背景とする洞察があったと思われます。
潜在的に持っている人の本質とは何か、どうすれば人はよりよく発達し、現実を変えられるか。それがわかれば心理学は人類に本当に貢献できる。そうアドラーは考えたのではないかな。
そして今、震災と原発で怯える日本には、共同体感覚が確かに求められています。
しかしそれはけして机上の空論や理想論ではなく、被災者やそれを支える人たちの姿、権力側の隠蔽に対して決然とネットやツイッターで議論し情報を拡散させている人たちには、確かに共同体感覚の光を感じます。
共同体感覚は、けして無理に明るく振る舞うことでもポジティブ志向になることでもなく、人の心の深いところのビルト・インされているもので、危機状況になると発動するのではないか。
それがフロイトのように(そして現代の我々も同じく)甘やかされた家庭に育ったり、競争や金が最優先される社会になると人々の認知は歪んで、共同体感覚的なものが前景に出にくくなるのかもしれません。
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