「心の支援」に参加して
一週間弱の宮城・気仙沼への派遣でしたが、どんな活動だったかを簡単に振り返ります。
私たち山梨チームは、精神科医、看護師、心理士(私)、事務方の4人でした。
リレー方式でつないできて、今回は第3班でした。これからもしばらく続くでしょう。
毎朝午前8時、気仙沼のある施設にこの地域の医療支援チーム全てが集まりミーティングをします。
DMATと呼ばれる医療支援チームなのですが、これほどこの地域にいるのかと驚くくらい、100人ぐらいはいたでしょうか。
北は北海道から、私がいた頃は南は岡山まで、たくさんの病院や大学から医師や看護師、薬剤師など医療関係者が集まっていました。
内科が中心でしょうけど、外科や小児科などいろいろな専門分野の方が来ていました。
そこで情報交換を手早くやり、各チームは市内の各避難所などへ散っていきました。
私たち「心の支援チーム」はさらに気仙沼保健所へ行って、精神科関係だけで8時30分からミーティング。
山梨の他、北海道や愛知などからも来ていました。
まさに全国から崩壊した東北の医療を支えようと駆けつけていたのでした。
他のチームは避難所や病院、地域を巡回していましたが、私たちは残って主に被災者兼支援者の方のメンタル・チェック、アセスメント、診断、治療を行いました。
対象者は県や市町村の職員、施設職員、消防士を中心に、避難所に行くほどではないけれど在宅で心のダメージを負った方々でした。
関係者が配慮して、こういった人たちの状態チェックに私たちチームを使ってくれたのです。
このような方々はご自身も被災した身でありながら、震災直後は不眠不休で対応してこられたため、相当な疲れやストレスがたまっておられます。
中でも庁舎にいて津波に襲われて逃げ切れずに、上層階や屋上に逃れて(住民も入れて200人ほどもいたそうです)、三日間も寒い中そこで励まし合いながら過ごして、自衛隊に救助された方がたくさんいらっしゃいました。
そんなエピソードを中心に様々な被災体験をお聞きしました。
家族を津波で失っていまだ行方不明、家族は無事だけど家がないという大変な内容から、そのときなんと海岸にいたにもかかわらず、昔から親に「津波警報が鳴ったらとにかく高いところへ行け」と言われていたのでそのとおり全力で走って難を逃れた人など、実に様々でした。
相当心理的ダメージを負っている人や、震災後の対応をずっと頑張り続けて過剰適応状態でかえって心配な雰囲気の管理職の方などもいらしゃってケアさせていただきましたが、多くの方は元々心理的に健康だったので、大変な体験を踏まえながらも、ちゃんと職務を全うしようとしていたのが印象的でした。
みなさん、「仕事をしている方が良い」「仕事ができてありがたい」とおっしゃっていましたね。
私たちが問診で使うチェック表では、ほとんどの人が「疲れているか」に「はい」と答えていて、それは当然ですが、その中に「役に立っていると感じられるか」という質問があり、それにも「はい」と応える人もいて、仕事や居場所がちゃんとあることが、被災体験の回復に大切なのだと改めて感じました。
そんなことをしてあっという間に終わってしまい、全体から見れば大したことのない私の仕事でしたが、大島からの帰りの船の中で、私の隣りに座ったお爺さん(82歳)とお話しした際、
「遠いところからご苦労様です。(気仙沼が)こんなになっちゃって・・・全国からこうやって人が来てくれてわたしは涙が出ます。ありがとう」
とおっしゃってくれたのが、とにかく微力でも何らかの貢献ができているような気持ちになれて、こちらもありがたかったです。
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