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October 08, 2011

四十にして枠を越えろ!

 孔子の論語の「四十にして惑わず」は最も有名な一節で、この前後の「十有五にして学を志す・・・」からのくだりですが、どうも論語は説教臭くていやだ、という印象のもとになっている箇所でもあります。

 かくいう私も、論語は「支配者の思想」「奴隷を作る思想」と思っていたので正直、好きになれませんでした。実際歴史的に論語はそういう読み方、使われ方をしてきたと思います。
 今でも孔子より老子の方が好きです。

 しかし実際の孔子の思いや言葉はどうも違うらしいのです。

 ボディーワークのひとつ、ロルフィングを施術するロルファーにして現役能楽師であり、昨今の身体論の世界で注目される安田登氏による「身体感覚で『論語』を読み直す」(春秋社)は、これまでになかった非常に興味深い論語の世界を呈示してくれています。

 同書は、「論語」にある、漢字学の発達とともにわかってきた孔子の時代には使われていなかった文字をできるだけ廃して孔子が使っていたと思われる字を推測しながら、論語を読み解いていくという意欲作です。

 それで、「四十にして惑わず」のところ、「四十而不惑」ですが、実は惑わずの「惑」は孔子の時代にはなんと、なかったらしいのです!

 そもそも孔子の時代には、「心」という字ができて500年ほど経った頃ということですが、あまり普及していなかったらしい。人の心の存在はまだ人々の意識には明確にはのぼってこなかった時代のようです。
 これまで、「四十にして惑わず」は、「四十歳代になったら迷うことがなくなる」つまり「心が安定し、自分の仕事なり立場をわきまえている(いなさい)」といった、なんか「もういい歳なんだから大人になれよ」みたいな、説教臭いニュアンスがありました。
 しかし実際は、四十歳になったって、惑わない奴がいるか、と反発する人も多かったでしょう。

 しかしあの時代に「惑」がなくて孔子が使っていなかったのなら、全く意味が違ってくるかもしれない。

 実際にあったのは下の心を除いた「或」だけらしいです。
 同書によると、「或」は、境界に関する文字らしい。白川静氏は、この文字の左側にある口の上下の一が境界を表すと言っているそうです。
 実際「或」を口で囲むと「國(くに)」に、土をつけると「域」になります。

「或」とはすなわち、境界によってある区間を区切ることを意味します。「或」は分けること、すなわち境界を引くこと、限定することです。藤堂明保氏は不惑の「惑」の漢字も、その原意は「心が狭いわくに囲まれること」であるといいます。(『学研漢和大字典」学習研究社)。

 四十、五十くらいになると、どうも人は「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。「自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか、狭い枠で囲って限定しがちになります。

「不惑」が「不或」、つまり「区切らず」だとすると、これは「そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない」という意味になります。そうなると「四十は惑わない年齢だ」というのとは全然違う意味になるのです。

 いやあ、おもしろいなあ。

 本当の孔子はけして分別臭くない、けっこうラジカルな人だったのかもしれません。

 この孔子の教えは肝に銘じよう。

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