甲斐と土佐の源氏ネットワーク
4月8日、恒例の信玄公祭りの企画による講演会に行ってきました。
テーマは「武田勝頼は生きていた?」
織田信長に攻め滅ぼされたとされる武田勝頼が実は生き延びていて、四国は土佐(高知)の奥まで逃げて、今の仁淀川町で暮らしていたという伝説が昔から伝えられていることが最近注目されてきていて、それがテーマでした。
現地では口承だけでなく、勝頼が植えたとされる桜や伝えたとされる踊り、勝頼の墓や神社なんかがあるそうです。
現在、仁淀川町は「勝頼伝説」を使って町興しをしていて、結構盛り上がっているそうです。最近仁淀川町と山梨の武田氏関係の市町村と交流も始めたそうです。地方紙の記事にも載っていました。
実は私はすでに3,4年前からこの運動をキャッチしていて、本ブログで紹介したこともありました。
武田勝頼は生きていた!
その後に、この話が各方面で知られてきたので、もしかして情報拡散に先駆け的に貢献できたのかもしれないと勝手に思っています。
仁淀川町は最近「日本一きれいな川」である仁淀川があるところとしても知られていて、先日のNHKでも特番が組まれてました。そんな素晴らしい土地で武田勝頼伝説が生きていることがまた素晴らしいと思います。
それで講演会ですが、県立博物館の三枝元副館長という先生が講師として、「武田勝頼について、四国・土佐における甲斐源氏について、土佐における勝頼伝説の状況」について解説がありました。会場はマニアックな内容にもかかわらず、歴史に関心のある人でいっぱいでした。
講演内容の要旨です。
(勝頼について)
・武田勝頼は、母方が諏訪氏のため、諏訪四朗勝頼と名乗っていて諏訪大社の大祝(神官)でもあり、元々諏訪氏を意識していた人だったが、武田信玄の長子・義信が廃嫡されて勝頼が後を継ぐことになった。
・恵林寺に有名な快川和尚を招いた天桂玄長という名僧に学問を学んだ知識人でもあった。
・領主になってからは、領国経営を重農主義から重商主義に転換しようと努めた。
・守勢であるより創造的であろうとした。知性と気配りの人だったと考えられる。
(四国・土佐における甲斐源氏(武田氏)について)
・源平合戦で本軍として大活躍した甲斐武田氏だが、源頼朝はその強さを警戒し、甲斐源氏潰しにかかった。武田信義の子・一条忠頼は頼朝に殺され、その子・秋通(あきみち)は1193年、土佐に渡った。それが土佐において香宗我部氏となり、土着の国人となった。香宗我部氏の家紋は武田菱である。(有名な長宗我部氏とは歴史上さまざまなつながり、戦いや関わりがあったようである)
・他に武田信義の弟・加賀美遠光の子・秋山光朝は讃岐(香川)に渡っているし、同じく遠光の子・光行は東北に行って南部氏を名乗り、後の南部藩となり、小笠原を名乗った遠光の子孫は、のちの小笠原流弓術、小笠原流礼法の祖となり、全国に伝えた。つまり、鎌倉時代に甲斐源氏は全国に散って行って、各地に根付いていったのである。
・そこから土佐においては甲斐源氏、武田氏の血を引くことは一種のステイタスになったらしい。実際にのちの明治維新の際、板垣退助は信玄の家老・板垣信方の子孫を名乗り、三菱の岩崎弥太郎は甲斐源氏の岩崎氏を名乗り、自由民権運動家の馬場某(名前を聞き取れなかった)は馬場美濃守信春の末裔を主張した。
また「坂の上の雲」の秋山好古・真之兄弟の家は元々瀬戸内水軍の河野氏の末裔で、武田水軍との関係(配下だったと言っていた)があったとされる。
(土佐における勝頼伝説の状況)
・天正10年に天目山近くの田野というところ(現甲斐大和町)で織田軍に追い詰められ自刃したとされる勝頼だが、西上野(群馬)を経て土佐の香宗我部氏を頼って落ちのびた。
・そこで大崎玄蕃と名を変えて生き、1609年に64歳で死んだ。そこの民からは慕われていたようで、鳴魂神社に祀られている。自らの立場を証明するものと勝頼が持参したのか、「武田剣花菱家紋鏡」というものが伝えられているという。
ここからは私の妄想です。
私も以前から武田勝頼が父・信玄と比較されたりしてとても可哀そうだと思っていたので、是非生き延びていてほしいので、この説を採用しましょう。
歴史的に土佐に甲斐源氏の末裔が生き、それなりの勢力もあったのは間違いがないので、この伝説が生まれる背景は十分にあったと考えられます。情報だけでなく、人の交流もあったでしょう。特に武田滅亡後は、徳川や北条に仕えるのを良しとしなかった遺臣の中には、同じルーツで同じ姓を持つ者が多い土佐まで行った者もいたかもしれません。
また、関ケ原後、山内一豊が土佐に入国してからは、大河の「龍馬伝」なんかでも描かれていたように、土着の侍たちは郷士として差別されていたので、「自分たちはあの強かった武田氏の末裔だ」と思うことで誇りを保っていたとも推測できます。
伝説のとおり、勝頼が西上野を経由したのなら、まさにその領主であり、勝頼を受け入れて織田信長と戦おうとした真田昌幸を頼って落ち延びたと考えられます。しかし織田の侵攻を防ぎきれないと判断した勝頼と昌幸は、勝頼は逃げて昌幸は織田に恭順を示すことにした。真田の乱破(忍者)が勝頼を守り、土佐まで手引きしたのかもしれません。
当時織田信長が武田を攻め滅ぼすと次は土佐に狙いを定めてくることは十分に予想されていたので(本能寺の変に長宗我部氏の関与説があるくらいですから)、事前に甲斐源氏ネットワークを使った情報交換、対策が練られていた可能性もあります。
信長は平氏を名乗っていたので、まさに源平合戦です。
土佐にしても本家本元の勝頼が入ることで、対信長の戦いの気勢は上がるかもしれません。
ところが武田が滅亡してたった2か月後に、本能寺の変で信長は殺されます。
いや、もし長宗我部氏が変に関与していたとしたら、源氏側が意趣返し、報復をしたことにもなりますね。勝頼も溜飲が下がったことでしょう。
そして急変する時代状況の中で、勝頼は身をひそめて穏やかに余生を過ごすことを選択したのかもしれません。豊臣も織田の流れだし、すでに多くの家臣が徳川に仕官していたので、もはや自分の出る幕はないと思ったのかもしれません。
地元の民はそんな勝頼の知性や人柄を愛し、大切に匿い、語り伝えたのです。
ああ、歴史の妄想は楽しいな。
誰か小説かドラマにしてくれないかな。
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