弱さからの出発
大体武道、武術、格闘技をやろうという人は、当然「強くなりたい」と思って始めるわけで、つまり「いまの自分は弱い」という認識があるはずです。
そこからその人が、どのように「強さ」を定義して、理想の目標をイメージするかで、武道家の人生は変わってくるはずです。
アドラー心理学的というか、もはや一般語となった「劣等感」が起点になっているといえます。その劣等感の「補償」として、「まずは」直接的に強くなることを目指しているのが、武道家、格闘家なのですが、その有様は百人百様で、まあいろいろあります。
今発売中の「秘伝 2014年1月号」(BABジャパン)は、「弱さからの出発」がテーマ、まさに劣等感とその対処について特集が組まれています。
そのトップに内田樹先生が、そのお姿が表紙にもなり、先生の道場の稽古写真も豊富に、登場しています。
他に空手の柳川昌広先生など、何人かの武道家の体験談・修業談が語られていて、私には大変興味深かったです。
ただテーマが劣等感についてなんだから、劣等感にもいろいろあるわけで、編集部は私にインタビューせいとは言わないけど、できれば内田先生と親しい名越康文先生などアドラー派出身の精神科医、心理学者にも取材してほしかったな。
武道が身体的劣等性、あるいは存在的劣等性をどのように克服しようとしているのか、内田先生流の言葉です。中国武術も同じだと思います。
日本の武道というのはもともとは「“人知を超えた巨大な力”を、整えられた身体を通じて発動する技術」であるわけです。
人間の骨格や筋肉とかいう解剖学的実体はいくら鍛えても物理的な限界がある。瞬発力とか反射の速さもどこかに人間的限界がある。病気もするし、怪我もするし、加齢すればどこかで身体的な能力は落ちてきます。でも、それでも力が落ちないような心と身体の使い方があるはずだ。そう考えるのがいわゆる“弱さからの発想”だと思います。強い負荷をかけたり、薬物を投与したりして解剖学的、生理学的な身体能力を限界まで高める方向に向かわないで、自分の身体を、人間のスケールを超えた巨大な自然力が「通過」する、伝導性の高い媒体に仕上げるという方向に向かう。自然の境域と人間世界との間を「架橋」できるような、そういう身体を作りこんでゆく。
そうやって作り上げられた身体のありようは「強い」という言葉では尽くされない。むしろ「整えられた」という言葉の方がふさわしい気がする。 p11
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