鉄砲三段撃ち「存在せず」
歴史学の定説もどんどん変わってきているのに、歴史小説やドラマは相変わらずワンパターンなのも困ったものです。今の大河でも織田信長はかっこよく描かれているのできっとそうでしょう(しかも江口洋介はファンだった森高を奪ったにっくき奴)。
長篠の戦もまさにそうで、実はけっこう謎が多いらしく、ネット上でもいろいろな説が戦わされているようです。中でも近年の歴史学では、信長の天才ぶりを証明するとされる「鉄砲三段撃ち」は実はなかったという説が有力のようです。
歴史学者として数々の業績を上げている平山優氏(中央高校教諭、武田氏研究会副会長)の新刊「長篠合戦と武田勝頼」(吉川弘文館)が2月1日の山梨日日新聞に紹介されていました。
同氏は、史料にある「段」の字の当時の使用法について精査したところ、「列」ではなく「部隊」の意味で用いられたことを突き止めたそうです。
「三段撃ちが存在したとの説は史料の誤読から広まった」と平山氏は言います。
(転載貼付始め)
長篠の合戦を描いた絵図には鉄砲部隊を2列に配して描かれている点も考慮。実際の織田軍の銃兵は3部隊に分かれ、部隊内で複数列に編成されていたが、その場を動かずに交代で射撃していたと結論づけた。
平山さんによると、重い装備を身につけて移動することが事実上、困難であることを指摘する論考もあり、現在は三段撃ちの存在を否定する説が有力。ただ、史料などで裏付けられていなかったという。
新刊では「銃の織田・徳川連合軍」と「騎馬隊の武田軍」という対立軸で語られてきた長篠の合戦をとらえ直し、武田滅亡時の当主・勝頼の実像に迫っている。
平山さんは「しっかりとした根拠を提示して、新たな歴史像を浮かび上がらせることができたと確信している」と話している。(転載貼付終わり)
記録では織田・徳川の兵力3,8000人に対して、武田は15,000人と圧倒的に多勢に無勢です。父・信玄だったらまず無理な戦いをしなかっただろう。勝頼もけして凡庸な武将ではなかったと近年再評価されてはいますが、織田方の無理押しせず小山にこもって迎え撃つ戦術が功を奏したのではと思います。
しかも、ドラマや小説では鉄砲であっという間に決着がついた一方的な殺戮であったかのように描かれますが、実際は明け方から昼過ぎまで長々と戦っていたそうだし、確かに武田方の被害は甚大でしたが、織田方の戦死者も6,000人というけっこうな数が記録されているそうです。少ないながらも善戦したといえるかもしれません。
余談ですが、近代人の信長に対して、武田勝頼は縄文文化の末裔である諏訪神社の神官でもありました(武田を継ぐ前は諏訪四朗勝頼という名だった)。近代と縄文・古代の激突という、こじつけ的ではありますが文化史的にも興味深い両者の出会いなわけです。縄文びいきの中沢新一さんはその辺を「残念でしたね」とある講演でおっしゃってました。私もそう思う。勝頼さん、戦わず逃げちゃえばよかったのに。
これを機に歴史を見る視点がさらに複層的になるといいと思います。
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