7日の「真田丸」はいきなり本能寺の変でした。吉田綱太郎演じる織田信長は前回存在感を一瞬示しただけで、最後のシーンさえありませんでした。あっさり消えた感じです。大物役者の入れ替わりが激しいです。
実際武田滅亡から本能寺の変までわずか3か月弱なので、信長の死がいかに唐突だったかがわかります。ドラマでもあったように、さすがの真田昌幸も仰天したことでしょう。武田びいきとしては、勝頼公、もう少し粘れたらよかったのに、という思いがします。
武田滅亡後の甲斐の領主になったのは織田家の重臣、河尻秀隆です。信長の草創期から活躍し、黒母衣衆筆頭、織田軍の副将格だったそうです。
河尻秀隆 Wikipedia
武田一族が滅んだとはいえ、甲斐にはまだたくさんの武田の武将や侍が潜んでいたので、鎮圧しきれてはいません。
信長の絶対の信頼がある武将が据えられたのは当然です。兵も相当数いたでしょう。秀隆は織田本軍を任されていたから、遠征軍の大将の羽柴秀吉などと同格かそれ以上だったかもしれません。信長の嫡男、信忠の教師的立場だったそうだから、もし本能寺の変がなくて、織田政権が続いたらナンバー2として君臨していたかもしれません。でも、今、普通の人は誰もその名を知らないですよね。それは本能寺の変の直後、歴史から姿を消してしまったからです。
伝えられるところによると秀隆は、武田を憎む信長の命で、武田遺臣を誘い出し、見つけ出しては殺しまくっていたそうです。そのためおそらくは、甲斐の山々などに潜伏していた武田侍たちに相当恨みを買われていたでしょう。
ちなみにこの時期の信長、信忠は宿敵・武田を葬ったことで、有頂天になって、元々あった攻撃性が噴出していたように私には感じられます。比叡山延暦寺と違って、政治的勢力ではない武田の菩提寺の恵林寺を、家臣をかくまったというだけで焼き討ちしたり、かなりやりたい放題でした。その時の国師・快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」は有名ですね。
ついでにいうと、この快川和尚は土岐氏の出身で、明智光秀と同じです。しかも光秀の師匠だったのではないかという本もありました。恵林寺の焼き討ちの時、光秀軍は何人かの僧をそっと逃がしたと恵林寺には伝わっているそうです。
光秀にとっては目の前で師匠が焼き殺されたのですから、相当な思いが生じたのかもしれません。本能寺の変の政治的黒幕や理由は様々な説がありますが、光秀個人の心に火をつけたのには、これもあったかもしれません。
本能寺の変が甲斐にも伝わった直後、燎原の火のごとく甲斐は一揆に包まれます。一揆といっても百姓の一揆などではないと思われます。信長の死で動揺しているとはいえ、逃げるために必死の織田軍と戦うのですから、組織化された武装集団であったはずです。
そして秀隆は今の甲府市岩窪町で、武田24将の一人で赤備えで有名な山県昌景の家臣に討ち取られてしまいます。山県は長篠の戦で討ち死にしていますから、主君の仇をとった形になります。
武田遺臣たちはよほど腹に据えかねていたのでしょう、秀隆の死体は逆さまにして埋められたといいます。今もその首塚は岩窪町の片隅にあります。私も見たことがあります。
河尻塚
本能寺の変が6月2日、秀隆が殺されたのが6月18日(15日という本も)だったので、わずかな期間に素早く正確な情報伝達と組織的な軍事行動があったからできたことに違いなく、武田遺臣たちの情報ネットワークが生きていたと推察されます。
そして、織田の武将が追い払われて空白地帯になった甲斐、信濃に徳川と北条、上杉が加わり、三谷さんが「三国志みたいだ」と喜んでいた「天正壬午の乱」が起こります。独立した真田昌幸らの活躍もここから始まります。どう描かれるか(これまでのドラマ通り描かれないのか)楽しみです。
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