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April 12, 2016

京都と靖国

 先日の記事で紹介した『京都ぎらい』(朝日新書)で井上章一先生は、私の歴史感覚ととても近いものがあると感じました。先生は洛中ならぬ「洛外人」という京都文化の辺境人からくる視点であり、歴史の深いところを透視しようとしています。それは明治維新や靖国神社への違和感です。
 明治維新を無血の革命だとみなしたがる人も一部にいるが、それは正しくない。前にもふれたが、あの政権は、越後長岡や会津の流血を経たうえで、なりたった。成立後も西南戦争などで多大が犠牲をだしている。
 
 だが、明治の新しい体制は、自分たちがほろぼした政敵の鎮魂につとめていない。会津戦争などの死者たちが怨霊になるかもしれないと、おびえはしなかった。そのあたりをおそれるそぶりも、会津への冷淡な戦後処理に明らかだが、見せてはいない。
 
 新政権が慰霊の対象としたのは、討幕派、いわゆる官軍側の戦死者だけである。自分たちの味方になって死んだ者の霊は、招魂社、のちの靖国神社をもうけ、合祀した。しかし、彼らが賊軍とみなした側の死者については、その霊的な処理を怠っている。 
 
 政権樹立後の内戦についても、事情は変わらない。招魂社、靖国神社は西南戦争の敗者、西郷隆盛らをまつろうとしなかった。佐賀の乱をおこした江藤新平らの霊も、そのままほったらかしている。日清戦争後の対外戦争でも、慰霊の対象となったのは、味方の戦死者のみである。
 中世までの怨霊思想にしたがえば、敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだったろう。   p205~206
 
 嵯峨でそだち、後醍醐天皇をまつった天龍寺になじんできたせいだろう。私は敵を供養する考え方に、さして違和感をいだかない。霊的な信仰をもたない現代人だが、それでもわかるところはあると思っている。
 むしろ、味方の慰霊ばかりを気遣う靖国のやり方に、ためらいをおぼえる。  p208
 
 だが、私は靖国のあり方に、むしろ新しい近代の影を読む。保守的という点では、怨霊思想の残渣をとどめる自分のほうが、よほど後ろ向きである。靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない。  p208
 
 私も井上先生も中世人のメンタリティーを保持している日本人に近く、本当はこっちが真の保守じゃないかという感覚です。実は、靖国が国の柱だとか後生大事に思う人々は伝統主義者でも保守派でもなく、普通の近代人なのだろう。
 私は国旗や国歌、日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことも、いぶかしく思っている。あんなものは、東京が首都になってからうかびあがった、新出来の象徴でしかありえない。嵯峨が副都心だった平安鎌倉時代には、まだできていなかった。そこに、たいしした伝統はないんじゃあないかと、彼らには問いただしたくなってくる。  p210
 私は日の丸は嫌いじゃないし、君が代は退屈なたらたらした音楽と思ってたけど、短歌を時間をかけて歌っているだけと思えば面白いと感じることもあります。ただそれを「近代主義者」に押し付けられるのは気持ちが悪い。そこになにがしかのウソや支配の意図を感じるからでしょう。
 
 また、もし靖国を作った側にも怨霊思想が残っていたとしたら、戦死した味方の兵士たちの霊が、自分たちが彼らに強いたうウソがばれて怨霊になって自分たちに祟るのを恐れたから英雄に仕立て上げようと考え出したという読みもあるかもしれません。その方が日本的です。
 
 

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