著者のジョッシュ・ウェイツキンはチェスの世界で心身を消耗しつくし、太極拳で内的調和の感覚を得ながら、さらに太極拳を使った戦い(推手の試合)やブラジリアン柔術の世界にのめりこんでいきます。その動機を次のように語っています。
戦いたくないのに格闘技のリングに立つなんて、矛盾していると思われるかもしれない。このことに関しては、僕は個人的に、心を開墾し続ける作業だととらえている。お花畑で非暴力について語るのは簡単だ。本当の意味で心のチャレンジとなるのは、敵意や攻撃や痛みと向き合ったときに、その根本的な視点を保ち続けられるかどうかだ。僕の成長過程の次のステップは、どんなに難しくなっていく状況の中でも、どれだけ自分に忠実であり続けられるかということだった。 p228
武術や武道、格闘技を現代で学ぶ意義を見出すなら、護身というシンプルな意味だけでなく(もちろん最も基本で重要なことですが)、ここでいう「心を開墾する作業」にあると思います。
心身の潜在的な能力に気づき、引き出し方を会得すること、緊張や不安のある状況下での心身のふるまい方を得られることが考えられます。
民間の武道家、格闘家には、不登校やひきこもり、非行のような子どもへの治療教育として武道をやらせる人もいて、それは確かにやりようによって大きな成果をあげられると思います。しかしそうなるには単に根性がついたというだけでなく、著者のいう意義を身につけられたからだと推察されます。
そして、臨床家や援助者にも武術といった戦い方を学ぶ意味が意味がそこにあると思って、少なくとも私は取り組んでいます。
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