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February 15, 2017

庵堂蘭子に共同体感覚はあるか

 前記事は、ちょっとカッコつけて論文調にしてみました。けっこういいこと言っていると思うんだけどな。
 
 私は別に日本アドラー心理学会にケンカを売っているわけではないですよ。抗議文も全然関心ないから読んでいないし。論争する気もない。
 ただ、自分が楽しんでいたところへ、とんでもない邪魔をされてムカついているだけです。しかも広い意味でのアドラー仲間にやられるとはね(確かに仲が良いとは言えないけど)。余計頭にくるし、残念です。
 
 それにしても、ドラマ『嫌われる勇気』に庵堂蘭子という架空の人物が登場したことによって、「あれはアドラー心理学か」「正しいアドラー心理学か」という議論が気軽にできるようになったのはよいことです。
 
 実在の人物に対してそれをしたら、単なる人格攻撃、誹謗中傷にしかならず、ひどい勇気くじきになってしまいますからね。そういうことをする人は「偽アドラー」と呼ばれるべきだよね。
 ここは「認知論」のトレーニングとしてこの教材を使おう
 
 ネットを見ると庵堂蘭子は、「アドラー心理学の思想とかけ離れている!」という声が散見されました。言っているのはどういう人かよくわからないけど、熱心に学んでいる人、「信者」っぽい感じではありました。
 
 そのアドラー心理学の思想って、「共同体感覚」のことみたいです。庵堂蘭子の行動をあれこれコメントしているようです。多分日本アドラー心理学会に限らず、私に近い人たちも同様の感想をいだいた人はいるんじゃないかな。
 
 でも私には、庵堂蘭子にそれがないとは全然思えないけど。
 
 果たして、庵堂蘭子は、共同体感覚が欠けていると判定していいのか。
 ナチュラル・ボーン・アドラーということですから、これは重大な問題ですね。
 でもこれに決着をつけるのはそう簡単な話じゃないと思います。
 
「共同体感覚とは何か」、そして、「人は他者の共同体感覚を判定できるのか?」という根源的問題になるからです。
 
 確かに、彼女が100%共同体感覚を体現しているか、と問われるとそうではないでしょう。でもそれは誰でもそうなはずです。
 
 そもそも共同体感覚がある状態って何だ?という疑問がわいてきて、あんな多義的な概念、誰も共通のイメージができていないじゃないのか。それをどうして「共同体感覚が欠けている」と言えるのだろうか。
 
 共同体感覚のよくある表現は「他者の関心に対する関心」であり「共同体への所属感、貢献感などなど(論者によっていくつかあります)の総称」といったところですが、あくまでその人の主観世界のことです。だから、原理的に客観的に判定できるわけがない。
 
 だからドラマのキャラクターを見て、判断できるわけはない。
 でも、みんな勝手にやっているわけだ。
 それで勝手に怒ってクレームつけている人がいるわけだ。
 
 でもそこを批判してもしょうがないし、面白そうだから、私もちょっと考えてみよう。
 
 共同体感覚は主観世界の現象である。つまりその人がどう思っているかが、最も重要なはずである。
 
 しかし主観世界は見えないので、外から観察するしかないけど、庵堂蘭子は無表情なのでわからん(笑)。
 
 そこで、客観的に判定できるものとして「共同体感覚尺度」というものがあります!
 和光大学の高坂先生や友人の橋口先生や早稲田大学の向後先生のお弟子さんが作ってくれた、統計学的に妥当性が確認された立派なものがあるのです。 もしこれを庵堂蘭子がやってくれたとしたら…
 
 例えば、いつも自信満々だから「自己受容」は高いだろう。職場である警察にちゃんと通っているし、反社会的な価値観も特にないみたいだから「所属感」もそこそこありそうだ。天才的な直観力とアドラー心理学で鍛えた思考力で見事に事件を解決し犯人を逮捕するから「貢献感」だって無表情だけど別に謙遜していないからあるだろう。合計すると…
 
「共同体感覚は高い」という結果になるのでないか。
 
 つまり、庵堂蘭子は共同体感覚が高い。
 
 本来、これで終わりでいいはずだ。ご本人の反応を尊重して。
 
 あと何か文句があるとしたら、細かいところの彼女の行動だろうか。
 
 よくわからないけど、そこに日本アドラー心理学会はいちゃもんをつけて、他のアドラー仲間たちも不満で、「欠けている」と言っているのかもしれない。職場での非協力的態度や愛想のないぶっきらぼうな姿勢を責めているのだろうか。
 しかし、それは共同体感覚なんて大げさな言葉でなくて、協調性(日本人的な)が少々足りない、ぐらいでいいのではないか。実際彼女は対人関係を避けているわけではない。捜査会議にも出ているし、必要なら鑑識に自ら頼みに行くし、こういうの対人関係に入る勇気があるって言うんじゃなかったっけ。
 
 最後に私は臨床家として、庵堂蘭子の内面にアプローチし、推測してみたい。
 
 さっきの共同体感覚尺度は科学主義、客観主義であるが、ここでは構成主義である。つまり相手と二人での対話で協同することにより、共同体感覚が現象するように関わるのだ。ただ、残念ながら庵堂蘭子と面談できないので、その前の段階として、こちらの姿勢を明確にしておくことで推測の土台を作る。
 
 その際必要なのは「共同体感覚があるかないか」「欠けているか」ではなくて、「この人は共同体感覚がどのくらいあるか」「どこでどのように発揮されているか」という問いであろう。
 
 これは仕事がら、非行少年や犯罪者、依存症者、精神障害者、発達障害者にたくさん接し、援助してきた経験から私が日ごろ思っていることだ。
 
「この人は共同体感覚がある!」とまず決め打ちするのだ。
 
 そしてどのようにそれが発揮されているか、強いところは、弱いところはどこかを観察し、推測し、クライエントへ向かい合うのである。
 
 庵堂蘭子は、先にも言ったように、警察組織に所属し、職務分掌の中で仲間と協力し合い、犯罪捜査の使命を立派に果たしている。係長と違って特に出世欲が感じられず、自分の関心で動くことは少なそうだ。
 
 確かにコンビの加藤シゲアキ演じる青山年雄君を無視する行動をよくとっているが、目先の人間関係より組織の目標、使命を果たすことにエネルギーを注いでいるように見える。彼女の関心はより広いところにあるといえる。一般に共同体感覚は広がっていく。彼女のそれは少なくとも日本社会レベルにはあると推測される。
 そして課題の分離や目的論に沿って犯人の心理をバサッと切っていて、伝え方は個性的だがその判断自体は的確で、相手の関心に関心がなければできることではない。
 
 したがって結論としては、「なかなかいいんじゃない。共同体感覚、あるよ君」というところだろう。
 
 そして庵堂蘭子への支援のポイントとしては、
「職場の仲間と、交友のタスクとして、もっとうまく関わろうか」という提案だろうか。
 
 まあ、彼女は、
「けっこうです」
 と言うだろうけど。
 
 という感じです。どうですか。
 こちらの視点や姿勢を変えるとまるで解釈が違ってきますね。
 
 結局ネットやみんなの反応を見る限り、「私の好みの共同体感覚」から批判しているだけの気がする。ここが「正しく実践」の人たちの陥穽ではないかと今回思いました。自分のやり方に関心があるので、ちゃんと見ていないし、考えていない。
 
 ここはアドラーの言う「相手の目で見、相手の耳で聴き・・・」の言葉を思い出そう。たとえテレビドラマでも油断しちゃダメだぞ。
 
 こう考えると、共同体感覚の有無を批判、抗議の根拠にするのは薄弱極まりないわけです。
 アドラー仲間の友人として言いたくなるのは、やっぱり日本アドラー心理学会は間違ったんじゃないかな。謝るなら今のうちだよ。
 
 ほら、勇気を出して。

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