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April 12, 2019

神道の流派

 人が集まり、動くところには必ず離合集散、権力闘争、縄張り争いがあるものですが、和の国・日本を象徴する神道でも例外ではありません。

『神道入門』(新谷尚紀著、ちくま新書)には、古代から続いてきた神道の流れがいかに分化、展開していったかのアウトラインがうかがえます。特に鎌倉から室町時代にかけて、様々な神道流派が勃興したようです。平安時代に神道は仏教、取り分け密教と混交して、神仏習合していきながら、学術的には、鎌倉時代に両部神道とか伊勢神道とか呼ばれているものがあったそうです。詳しいことはここでは省きます。

 私が縁あって学ばせていただいているのが、おそらく古代からの宮中祭祀を伝承していた白川神道というものですが、それは歴史上常に表舞台にあったわけではなく、むしろその性格上裏舞台というか、天皇家に直接仕えるものであったためにそれほど目立たない存在だったように思われます。しかし、まぎれもなく神道の正統派であることは間違いありません。

 しかし、室町時代に勢力を伸ばしたのが吉田神道といって、応仁の乱の混乱期に卜部兼倶(1435~1511)という人が特に発展させ、江戸時代になっても神道界で中心的な力を持っていたようです。時の権力者に認められたためですが、そもそもこの卜部家は元々白川家の家人として奉仕している立場でした。家来だったのが、勝手に独立したようなものでしょうか。

 本書によると卜部兼倶は、「積極的にみずから経典を偽作し」「新たな神道説を強引に主張し、それを広めていく」ことをしていたそうです。それが人々に受けて、権力者も気に入ったわけで、ずいぶんだと思いますが、中世の神道ではそのような経典の偽作、ねつ造はよくあったことらしいです。

 しかし、江戸時代に入って、さすがに学者たちは吉田神道の問題に気づいて、猛烈な批判が出てくるようになりました。

 そして、そこで改めて、神道界のサラブレッド・白川神道が注目されたそうです。

(引用開始)

 そうして、吉田神道への批判が高まるとともに、あらためて脚光を浴びたのが平安時代末期以来、神祇官の神祇伯の家柄であった白川家であった。神祇伯としての白川家は、宮中の内侍所や清涼殿における恒例及び臨時の天皇の神拝に際して、その作法の伝授や、天皇の名代として神事に奉仕することによって、宮廷祭祀に重要な役目を担ってきていた。また、二十二社のうちの松尾社・伏見稲荷・大野野社・広田社については、白川家が神社伝奏の立場を前代以来ずっと保持していた。 p152

(引用終わり)

 そして幕末まで、吉田神道と白川神道は各地で激しい門人争奪を繰り広げたそうです。

 私が聞いた話では、富士山信仰(江戸時代には富士講と呼ばれていた)をしていた人たちには白川神道を学んだ人が多かったそうです。

 明治になって国家神道ができあがってくると、白川神道はまた世に隠れた存在になったのですが、新書とはいえ研究者によるしっかりした解説書に、私の知る白川神道がきちんと記述されていることに、私としてはうれしさを覚えました。

 平成の時代の終盤になって、白川神道は一部の人たちに再び知られるようになりました。

 令和になるとどうでしょうか。個人的には、アドラー同様、ブレイクの予感がしています。

 

 

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