戦国呪詛合戦
前回の『諏訪の神』に触発されて諏訪大社の話の続きになります。佳境を迎えた大河「麒麟がくる」に乗っかってもいます。
今回同ドラマは、三方ヶ原の戦いも長篠の戦も「ナレ戦」というかセリフですっ飛ばしたので、その裏ストーリーになりますね。
戦国武将が敵を倒すために神社仏閣に祈祷をしたことはよく知られています。当時は誰でもやっていたことです。
神仏のご加護を得ると言えばきれいな言い方だけど、気に食わない奴を呪い殺そうとしていたと言えるわけです。
織田信長も例外ではなく、天正10年(1582年)、武田勝頼をついに攻め滅ぼすときにも盛大に「呪詛」をかけています。
平山優著『武田氏滅亡』(角川選書)によると、信長は正親町天皇や誠仁親王の協力も得て、奈良興福寺、石清水八幡宮、吉田神社、三千院、青蓮院、本願寺、そして伊勢神宮に先勝祈願の祈祷をさせています。
まさに当時の宗教界・スピ勢力のオールスターです。
これに対して、勝頼側の祈祷は同書には記されていませんが、当然諏訪大社をはじめとする甲信の武田領の寺社が行ったでしょう。
何より諏訪大社は、勝頼を守るために必死の祈祷をしたかもしれません。
なぜなら勝頼は、信玄の4男でありながら、諏訪家の血を継ぐ者でもあり、父の死で武田家を継ぐまでは「諏訪四郎勝頼」と名乗っていたからです。
つまり勝頼は武田家の重臣であったと共に、諏訪大社の神主というか「大祝(おおほうり)」であったからです。当然祭祀などについても詳しかったかもしれません。
まさに西の神々と東の神の対決ですが、しかしこの呪詛合戦はいかにも多勢に無勢な感じもします。
しかも、ちょうどこの時、浅間山が大噴火を起こしたのでした。
これは多大なショックを人々に与えたみたいです。
「浅間山噴火について、正親町天皇の祈祷により、信長に敵対する勝頼を守護する神々がすべて払われてしまった結果であり、この噴火は一天一円(世の中)が信長に従うようになる現象だと『多聞院日記』が記したのには、こうした背景があった。 p732」
という記録があり、まさに信長側の呪詛が「効いた」結果とみんな思ったことでしょう。
これを持って心理的には勝負がついたといえるかもしれません。武田側の人心も離れてしまったようです。
「朝敵」とされ、神仏にも見放されたイメージがついてしまった勝頼は、進退窮まります。
この後信濃、甲斐に織田・徳川・北条が侵攻し勝頼は自害、武田家は滅びますが、上諏訪に到着した織田軍は方々に火を放ち、諏訪大社を焼き討ちして壮麗な伽藍は灰燼に帰してしまいました。勝頼が天正6年から7年にかけて、精魂を込めて造営したものだったそうです。
ああ、もったいない。
ところが、3月11日に勝頼が自害したわずか3か月弱の6月2日、本能寺の変で信長があっけなく討たれてしまいました。
これを知って、諏訪大社関係者は大いに喜んだことでしょう。
「後に、神長官守矢信実は、本能寺の変で織田信長が横死したことについて、諏訪大明神の神罰であると断じている。 p641」
そう思ったのも当然でしょうね。
結局ほとんど同時期に二人は相次いで殺されたわけで、このサイキックな戦い、呪詛のかけ合いは引き分け、両者痛み分けに(というより両者痛い結果に)なったといってよいでしょう。
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