『諏訪の神』
全国にあまたある神社の中で諏訪大社は、とても特異な位置にあるようです。巨大な丸太を坂から落とす「御柱祭」がその代表的なイメージですが、その他にも奇妙なというか、よくわからない謎がいくつもあります。
どうもそれは、現在諏訪大社に祀られている建御名方神(タケミナカタノカミ)だけではなく、それ以前にこの地方にはミシャグジ神という確実に縄文につながる古い神々への信仰があり、極めて長い歴史が重層的に諏訪の神道を作り上げたからのようです。
戸矢学著『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』(河出書房新社)は、神道関連で何冊も出している著者による諏訪の神道の謎解き本で、とても面白かったです。
例えば著者によれば、諏訪の神はどうやら天津神系(天孫族、皇室に連なる流れ)、国津神系(出雲系、それ以前の土着の流れ)でもない異端の神ではないかということが指摘されています。
建御名方神は『古事記』には確かに登場しますが、日本の正史である『日本書紀』や出雲自らが選録した『出雲国風土記』には全く登場しないからです。
そして『古事記』に出てくる建御名方神の話は、いかにも不自然です。
歴史上、諏訪大社、そこに祀られる建御名方神は戦の神、軍神、武神として崇められてきました。坂上田村麻呂、源頼朝、武田信玄、徳川家康というまさに錚々たる面々、彼ら自身が戦神みたいな武士たちが篤く敬ってきたそうです。
それほどならば、その建御名方神はさぞかし強かっただろうというと、神話上は何とも情けない負けっぷりなのです。
『古事記』に詳しい人はご存知だと思いますが、こんなお話しです。
天照大御神が葦原の中つ国を「ちょうだい」とリクエストした「国譲り」の時、大国主命は息子の二人に「どうする?」と聞いたら一人は「しょうがないね」と受け入れたものの、建御名方神は「許さん!ありえへん!」と大反対、しかし強引に迫ってくる天照大御神が派遣した建御雷神(タケミカヅチノカミ)と勝負したら、軽々と吹っ飛ばされてしまいました。
フルボッコされて恐れおののいた建御名方神は信濃の国の諏訪(州羽海:すわのうみ)まで逃げて、「参った、参った、殺さないでくれ、私はもうこの地を出ることはない、葦原の中つ国は天照大御神に献上する」と命乞いをして、国譲りはなったのです。
建御名方神、全然強くない。メチャクチャ弱いじゃん。
なんでこれで諏訪大社は軍神と呼ばれるのか、実はこれは長年の私の疑問でもありました。
諏訪大社は隣県にあるので何度も参拝していますが、『古事記』の諏訪の由来は、「なんかやな話だな」とずっと思っていました。
武運長久、勝利を祈っても聞いてくれるのかしら、なんて考えちゃいそうです。
著者の読みは、これほど諏訪(建御名方神)を貶めるには何か目的があるはず、つまり、こんなに情けない建御名方神は『古事記』にしか出てこないのだから、『古事記』のその話は後から創作されて取ってつけたものではないか、ということです。
なるほど。
ではどんな目的でしょうか。
当時、諏訪を中心に信越辺りを支配していた強大な勢力でモリヤ氏というのがいたらしい。当時のことだからモリヤ氏は祭祀王でもあるので、諏訪は宗教的な一大中心地でもありました。諏訪大社の近くには守屋山があり、本来は諏訪大社のご神体だったようです。
大和朝廷はモリヤ氏が強大なので武力征服をせず、懐柔して諏訪の地の安泰を保証し、代わりにそこから出るなと誓約させた。古事記のストーリーはその「封印」をアピールするためだったのではないか、ということです。
『古事記』が一般の目に触れるようになったのは江戸時代以降で、それ以前はそんなひどいストーリーは誰も知らないわけで、人々には古代から続く諏訪の神の強さだけが伝えられていて、無意識的に諏訪大社と言えば軍神として認識されていたのかもしれません。
一方の建御名方神をやっつけた建御雷神は鹿島神宮に祀られているのは周知のとおりですが、建御雷神は当時政権を掌握していた藤原氏が氏神として祀っていたそうです。だから藤原不比等の意向がそこには働いたのかもしれないと著者は推理しています。
藤原氏に忖度したなんて、大いにあり得ます。
興味深いですね。
我らが日本国のスタートになる有名な出雲の国譲りに、諏訪の服属ストーリーも忍び込ませたということでしょうか。
諏訪の神の正体をもっと探りたい人は、本書で「妄想」を膨らませるのもいいと思います。
古代史の楽しみ方ですね。
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