武田滅亡時の侍たち
7月9日放送の「どうする家康」は、松潤家康の変貌ぶりが面白かったですね。
冒頭の武田氏が遂に滅亡を迎えるシーンも、武田ファンとしては感慨深いものがありました。
今回は眞榮田郷敦さん演じる武田勝頼が雄々しくかっこよく、近年の勝頼再評価の研究動向を表したものになりました。
実際にもドラマにあった通り、最後はわずか40人前後が付き従うという絶望的な状況で、兵たちは勝頼が自害する時間を稼ぐために襲い来る織田兵に向かって獅子奮迅の戦いぶりだったようです。その間勝頼は妻の北条夫人と嫡男・信勝と果てたのでした。
その戦いで、特に土屋昌恒という侍は「片手千人斬り」で知られ、狭い崖路で落ちないように片手で蔓をつかみながら、片手で刀を振るい、織田の兵を斬っては崖に蹴り落としを繰り返したと伝えられます。その下には日川という川があり(今もあります)、落とされた兵士たちの血で染まり、地元では「三日血川」と呼ばれたそうです。
最後の最後になって、ようやく武田らしさが発揮されたような気がします。
勝頼の自害後に昌恒もようやく自害しますが、これは単なる作り話ではなく、当時から彼の奮戦ぶりは知られていたようで、織田方、徳川方の記録にもあって称賛されていたようです。
家康も当然注目して、混乱を母親と脱出して潜んでいた嫡男・忠直を見つけ出して召し抱え、側室の阿茶局に育てさせ、上総久留里藩の大名にしました。すごい厚遇で、いかに家康が昌恒を評価したかが分かります。きっと忠義の武士の鑑として、家臣たちにモデルとして示したかったのでしょう。
他に、武田が滅亡してからも頑強に抵抗していたのが、駿河の田中城にこもっていた依田信蕃。これも歴史好きには隠れた名将として知られています。
徳川方はついに城を落とせず、信蕃は穴山信君や徳川の大久保忠世の説得でようやく開城しました。ちょうどドラマで家康が富士山麓で信長を接待する前頃でしょうか。
信長は「武田の武将は皆殺しにせよ」との厳命を下していましたが、家康は信蕃を匿い、遠江に潜伏させました。
そして2か月後の本能寺の変後に、家康は信蕃を召し抱えます。
つまり家康はこの時期既に信長の命令を無視していたわけで、今回松潤家康が「信長を殺す」と最後に言い放って視聴者を驚愕させましたが、案外本当に腹に一物、面従腹背でいたのだと思います。
こういう歴史の裏を想像するのは楽しいですね。
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