武田勝頼伝説を巡って
本ブログは歴オタの側面もあって、これまで武田勝頼関連の記事をいくつも上げてきました。
何年も前の記事ですが、再びここで日の目を見させていただきます。
その中で何よりユニークなのは、「実は武田勝頼は生きていた」という生存伝説があることです。
勝頼は、四国の香宗我部氏(あの長曾我部氏ともかかわりがあるらしい)を頼って落ち延びたという伝説が古くから土佐のある地域にあって、町興しに利用されているとか。
源義経、真田信繫(幸村)みたいなものですね。日本人のこういう判官びいきなところは私は好きです。
今もその地域にはその伝説を伝える武田勝頼土佐の会というのがあって、活動しているようです。
実際、土佐の源氏のルーツは甲斐源氏にあるらしいので、なまじ根拠のない話ではないようです。
とても良い場所みたいで、一度訪ねてみたいですね。
他に呪詛というオカルト的側面からこの武田滅亡時のことを扱いました。
「伊勢神宮をはじめ信長寺社勢力 対 勝頼諏訪大社」という呪詛合戦で、数においてここでも勝頼は圧倒的不利。
天津神(アマツカミ)・仏教連合対国津神(クニツカミ)という構図といえそう。
神道や神話に詳しい人はわかるよね。
折悪しくちょうどこのタイミングで浅間山の大噴火が起こり、人々は「正親町天皇の呪詛が効いた」と思ったことでしょう。
これによって、人心が勝頼から離れてしまいました。
しかし武田滅亡後のわずか2か月少しして今度は本能寺の変で、諏訪を蹂躙した信長と信忠が殺されます。
壮麗な神殿を織田軍に焼き討ちされた諏訪大社の神長官・守矢信実は、変を聞いて「諏訪大社の神罰である」と喜んだということなので、この戦いは呪術レベルでは引き分けというべきでしょう。
クニツカミ、善戦でした。
他に甲斐に侵入した織田軍は武田家の菩提寺である恵林寺を焼き討ちして、正親町天皇から国師の称号を得ていた名僧・快川和尚を殺します。
ここにも明智光秀と快川和尚の関係が以前からあって、この事件をきっかけに光秀に謀反の思いが強化されたとの伝説があります。
恵林寺は「どうする家康」の最後の紀行のところで紹介されていました。焼き討ちされた恵林寺は、家康が再建させて今に至っています。
「どうする家康」はいよいよ本能寺の変。日本史最大の事件の余波で、全国各地域でもさまざまドラマが展開されていたはずです。ここでも当時の甲斐の様子をレポートします。
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