天正壬午の乱
8月6日の「どうする家康」では、織田家臣による清須会議から柴田勝家・お市の方自害まで一気に進み、ムロ秀吉の奇怪さが際立ちました。
その背後で家康は、甲斐、信濃を手に入れようと動いていましたね。
本ブログでもこの辺のことは度々書いていますが、いわゆる「天正壬午の乱」と呼ばれる徳川・北条・上杉による甲斐・信濃・上野の争奪戦です。三谷幸喜さんはこれを「三国志」みたいとお気に入りのようで、「真田丸」ではこの辺りもしっかり描いていました。
今回はちょこっとでしたが、家康が韮崎市にある新府城に入場した場面や、現在の笛吹市御坂町で北条と徳川が激突した黒駒の合戦も描かれていました。
新府城は武田勝頼が最後に築いた城で、大変立派な普請だったようですが(一説には真田昌幸が関わったとか)、まだ建設途上で織田軍の侵攻に遭い、勝頼はあえなく捨ててしまったのでした。
家康はその新府城で北条軍と対陣していたみたいです。
北条との合戦は、甲府盆地から河口湖方面に抜ける御坂峠でありました。
私の家から車で15分くらいで、現在はかなり整備されて広い道ですが、当時は狭い峠道で大軍を奇襲するにはちょうどよかったでしょう。
ドラマでは家康は井伊直政に「召し抱えた武田の家臣をおまえにやる、将になれ」と言い、直政がうれしがるシーンがありました。
家康が武田遺臣を井伊直政隊として組み込み、それが信玄の重臣・山県昌景の赤備えにならって井伊の赤備えとなったのは有名な話。
「失業中兼お尋ね者」だった武田遺臣たちは再就職が果たせ、ようやく安心したことでしょう。
その数、500とも800ともいわれますから、家来や家族も入れればかなりのボリュームです。
私のご先祖もその中にいたかもしれません。
実質的に武田軍を吸収した徳川軍は飛躍的に強化され、この後の小牧・長久手の戦いにつながっていくのです。
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