November 09, 2009
Q.アドラー心理学は実践の学だが、厳密な学問としては、構成概念としての諸概念がきちんと定義されていない、十分に整理されていないように思われる。
A.劣等感や目的、勇気、共同体感覚などの諸概念は、もちろんいわゆる構成概念であり、何か手に触れられるような「実体」を指し示すものではない。説明のため、実践のために論理的に一貫して使えればよいと考えるものである。
一方で、私は単なる構成概念であることを常に意識しているつもりだが、実践していく上には諸概念があたかも実体であるかのような実感、臨場感を持つことは必要であろう。
そこでは「勇気がある/ない」「共同体感覚がある/ない」と言い合っても、あながち間違ってはいないと思う。
数学者にはそれよりはるかに抽象度の高い数学的概念を、臨場感を持ってありありと感じる人がいる、例えば「虚数は存在する」などととまで言う人もいるらしい。それくらいでないと本物ではないのかもしれない。それに比べれば臨床心理なんてかわいいものだ。
アドラー心理学の構成概念のほとんどは、操作的に定義されていないのも事実で、その点ではオーソドックスな研究者には問題に見えるかもしれない。
ただ、私から見ると他の心理臨床学の学派に比べて、ことさらアドラー心理学の概念が曖昧であるようには見えない。自我やリビドー、転移、無意識などの精神分析学の概念よりよほどクリアーだし、共感や愛着、トラウマより扱いやすくできていると思う。
さらに目的論や主体性、人間関係論、認知論といったアドラー心理学の諸前提が、一種の公理となって緊密に結び付き合っていて、ほとんど矛盾のない理論体系を作り上げている。
その完成度が高すぎて、アドラー心理学はかえって外からは進歩がないように見える、あるいはブラックボックスみたいで近寄りがたいという印象を与えているような気がしてならない。
逆に精神分析学は曖昧で矛盾が多すぎて、それを歴代の研究者が処理することが「学問的進歩」とされてきた歴史ではないか、とも感じる。
アドラー心理学の諸概念が操作的に定義できるかどうかは疑問だが、例えばアメリカには共同体感覚を測定する質問紙も開発されているようで、そういうところではそういう試みがなされているのかもしれない。調べてみたい。
私としては、いわゆるアカデミックな厳密な研究のパラダイムに乗らないところ、必ずしもエビデンス・ベースドにはできないところも、しっかりと思考と実践の対象にしようとしているのがアドラー心理学であると考えたい。
人は数値やエビデンスのみでは動かない。エピソードによって動くのだ。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 28, 2009
Q.アドラー心理学がおそらく効果的なのは、ブリーフセラピーや認知療法など類似のアプローチが効果的なのと同様に確かなのだろう。しかし、そのエビデンスは実際どうなのだろうか?
A.アドラー心理学は、数々の無視と迫害(被害妄想?)にもめげず、100年生き残ってきて、多くの領域の実践者から良い評価を常に得てきた。
その間、理論的、技法的に似ているアプローチがよりシンプルに、対象や目的を絞った形で、科学的に厳密な方法をひっさげて登場するに至り、21世紀の臨床心理学は、アドラー自身が予言したとおり、ほとんどが「アドラー心理学化」することは明らかになったと私は見ている。
その意味でアドラー心理学に関する歴史的、経験的なエビデンスは確固たるものがあるといえる。
20世紀の臨床心理学において、精神分析学と行動科学が表の番長なら、アドラー心理学は裏番長であったと半分冗談で私は思う。
しかし、逆に「アドラー心理学固有のエビデンスはあるのか」、と問われるとそれを明確に出すのはなかなか難しいのは認めざるを得ない。これまでのアドラー派の力不足か、今のエビデンスの評価基準に合うようにうまく取り出せないままになってしまっているようにも見える。
これは誠に重要な問題であり、今後の研究に委ねたい。
いや、私が知らないだけかもしれない。
これまで日本にはアドラー派の臨床向けの文献があまりにも少ないため、最近は北米アドラー心理学会の学会誌を取り寄せて見るようになったが、なかなか面白い研究や論文が多い。
日本にはまだ知られていないアドラー心理学の側面がたくさんあるようだ。
今後面白そうな情報は、本ブログでも紹介していきたい。
しかし、いわゆるエビデンス・ベースド・アプローチは精神医療のクリニックや外来といった狭い枠組みの中で適用しやすいパラダイムであり、勇気づけといった日常生活の何気ない細かいやり取りや、共同体感覚の育成といった人間的成長の長いタイムスパンの両方に焦点を当てているアドラー心理学には向いていないともいえる。
私のホームであった児童相談所臨床も、閉じられた空間が作れる精神科臨床と違って様々な職種が同時並行的に複雑に関わるため、単一の因果関係で語ることはあまり意味がないのと同様の状況である(両方を経験した私はそう思う)。
またアドラー心理学は全体論の立場を常に意識しているため、技法固有の効果というものは意味がないと考えているのかもしれない。
アメリカにおける効果的な心理療法の要因研究の結果では、技法が占めるのは15%に過ぎず、治療室外の出来事の影響を意味する治療外要因は40%、クライエントとのラポールや治療同盟という関係要因は30%、期待や希望・プラセボ要因が15%程度といわれる。
アドラー心理学が効果的なのは、技法は折衷的でかなり多く相手によって使いこなし(技法要因の向上)、「横の関係、相互尊敬・相互信頼、目標の一致」で治療同盟を徹底して作り(関係要因の向上)、勇気づけで「希望を処方」し(期待要因の向上)、日常生活の実践を重視する(治療外要因の利用)のだから、全ての効果的になる要因を踏まえているので「効く」のは当たり前といえる。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 19, 2009
Q.アドラー心理学は、論理情動行動療法、認知療法、ブリーフセラピーなど最近のほとんどの心理療法の学派に影響を与えている。アドラー心理学がそれらの元になっているのはよくわかるが、あえていえばたとえそれがルーツであっても、今はそのように各学派が発展しているのだから、わざわざアドラー心理学を使わずに心理現象を説明しても良いのではないか?
A.もちろん、他の理論でうまく説明でき、実践もうまくいくならアドラー心理学を使わなくてもかまわないと思う。
私もブリーフセラピーや家族療法、認知療法はよく使うし、参照することが多い。本ブログ以外の現場では、人前でアドラーを連呼したりはせず、論争もけして挑まず、相手に合った言葉を使っている。
ほんとはとても折衷的な人間なのだ。
しかし、逆にいえば、同じように心が説明できるなら、アドラー心理学を使ったってよいではないかとも思う。
そこは卑屈になる必要はこちらにはない。
私は学者でも研究者でもないが、確か学問では、自説に影響を与えた先人や引用元があるときはそれを明示することが最も大切だったはずであるが、アドラー心理学に関してはエレンベルガーが「無意識の発見」で述べたように、「誰もが無断で剽窃していく」が如きなので、少なくとも我々「後継者」を自認する者は、言うべきことは言った方がよいだろう。
最近は認知行動療法を臨床心理学のグローバル・スタンダードとする流れが世界中で優勢になっているが、それはそれでよいことだと思う。アドラー心理学と実践上の相性もよいので、私はその流れに乗るつもりだ。
ただたとえ、似たようなところがあっても、単一のアプローチ、発想ではカバーしきれないもの、表現しきれないものはあり、重点の置きどころの違いで、心理臨床家の側の物語は違ってくると思われる。
精神分析学は、人はいかに病気かを描写したいというニーズに応えるものだった。
ブリーフセラピーは、臨床家が面接がもっとうまくなりたい、治療の達人になりたいという切実なニーズに応えようとするものだった。
認知(行動)療法は、ある特定の精神疾患を確実に治したいというニーズに応えようとするものだった。
ではアドラー心理学はどうか?
それはなんと、つまるところ、「人類を幸福にしたい」「地球の平和を守りたい」というウルトラマンみたいな、誇大妄想というか気宇壮大なものなのである。
共同体感覚なんてまさにそう。
「そんなの心理学か!科学か!」とお怒りになる向きもあるかと思うが、でも結局全ての学問の目的はそこにあるはずなので、それを真正直に言っただけであり、反論はできないはずだ。
ただ、それを政治経済のレベルではなく、また妄想的に文学的に語るのでもなく、個々の日常生活のレベルで楽しく実践できるように考えようというのがアドラー心理学であると思う。
私から見れば、そういった思いの心理臨床領域での具体的発現がブリーフセラピーであったり、認知療法であるように見えるのである。
しかしだからといって、別に常に正しくあれとか、人々に尽くせとか、間違いを犯すなと道徳的に言っているわけではなく、聖人君子を目指しているわけでもないことは、あえて指摘しておきたい。
アドラー心理学の実践では、気楽で楽しく、ユーモアに満ちたものを目指したいのである。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
October 18, 2009
シリーズものが続いていますが、ちょっと告知を。
「子どもの発達と病理」セミナー
10月24日(土)13:30~18:30
(内容)
幼児期から思春期に至る子どもの心理を病理的な側面も加味してしっかり学びます。
「アドラー心理学を子ども臨床に生かす」セミナー
10月25日(日)10:30~16:30
(内容)
講師の児童相談所での体験を元に、アドラー心理学をベースに他の臨床の動向も知りながら、自信を持って活動に向かえるようになることを目的として開催します。
講師はな、な、なんと私が務めます。
場所、申し込みはヒューマン・ギルド。
一日目は発達障害や虐待、二日目は心理アセスメントについて、ごく基本的なことですが、子どもの問題を扱ったり支援するには知っておいた方がよいことを改めて取り上げて、参加者と確認し合い、お互いのスキルアップを目指したいと思っています。
関心のある方は是非、お申し込み下さい。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 14, 2009
引き続き、Q&Aです。思ってることを書き散らしていきますよ。
Q.アドラー心理学が共同体感覚を大事にしているのはわかるが、現代社会は共同体が壊れていくプロセスにあるともいえる。そういう中にいることを好む人も世には少なからずいるはずで、そういう人たちにどのように応えていくのか?
また資本主義社会は数値や売り上げが第一で、そのような世界でアドラー心理学は本当に通用するのだろうか?
A.確かに資本主義経済の社会は共同体を破壊する方向で進んできた。一家に一台車があるより、家族4人全員が持てば、4倍の売り上げになるのは当然の論理である。そのために共同体より個を重視するのは必然の流れであった。
私自身も田舎育ちだが、必ずしも農村共同体の規範や人付き合いが好きというわけではない。都会的な個の感覚を居心地良く感じる一人でもある。
しかし、このままで良いのかという危機感は持っている。
共同体より孤立した個を好む人がいても、「心の治療」とはつまるところ何らかの「つながりの回復」のことに他ならないので、その人がアドラー心理学がお好みでなくてもかまわない。
アドラーのアの字も使わなくても、効果的な心理治療はすべて、共同体感覚的なものを回復させているはずだからである。
その人のお好みのアプローチを採用すればよいだけであろう。
実際今の社会状況はアメリカ型資本主義が崩壊の道を辿っているといえるかもしれず、既に共同体の問い直し、回帰が起こる兆しが方々に出ている。
今後、アドラー心理学の共同体感覚という発想がさらに重要になってくる可能性は高いと思われる。
その際は、既存の共同体に適応することが共同体感覚の獲得とは限らないことに留意する必要がある。
未だ現れていない共同体を模索すること、なければ創造し、自分に合ったところを主体的に選択することが大切な発想となろう。
また、そのような未来のことではなく、現行の社会の中でも、実践者の数こそまだ少ないがアドラー心理学の「威力」は既に発揮されている。
私の師匠の岩井俊憲氏は企業研修・経営コンサルタントのプロであり、アドラー心理学を使って激しい競争の研修業界で何十年も生き抜いているし、実際多くの企業や団体が助けを求め、エネルギーをそこから得ている。
逆にいえば経営者や管理的立場にいる人は、売り上げや数値だけでは人も企業も育たないことを直感的に理解しているのかもしれず、アドラー心理学的なものを求めているのかもしれない。
実際大前研一氏のような「アドラー贔屓」をはっきり言明している人もいる。
企業だけでなく、さらに結果重視のはっきりしたトップスポーツの世界でも、アメリカのアドラー心理学大学院で学んだ平本相武氏が選手たちにコーチングをしてめざましい成果を上げている(柔道金メダルの石井慧選手や早大ラグビー部中竹監督など多数)。
適切な例えかわからないが、社会を戦場に見立てれば(やはりそういう面は否定できない)、教育は優秀は兵士を育てる場、臨床は負傷兵や帰還兵をケアする場であり、企業研修やコーチングは戦場に出向いて現役兵士に戦い方を教える場ともいえる。
それら人間社会の全ての領域にアドラー心理学をバックした実践が役に立つ可能性が高いことは、もっと注目されてもよいと考えている。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 10, 2009
秋の学会自主シンポジウムのレポートが終わったところで、その討論の時に出た質問に対する私なりの考えをしばらくここに述べたいと思います。
教育、心理臨床両学会共、とても活発に質問が出されて議論が行われ、改めてとてもありがたかったと感じています。
しかし、限られた時間の中で、私に向けられたものに十分に考えて答えることができなかったり、どうしても言葉足らずのところがあったので、改めて検討してみたい気持ちがあります。
ここにあげる質問内容は、指定討論者の先生やフロアの先生がお出しになったものを、私の記憶で再構成したもので、それに対する答えも他の先生がおっしゃったものもありますが、私が同意したものとして私の理解を通して載せますので、誰が言ったとかではなく、全て私の自問自答的なものとして書かせていただきます。
アドラー心理学の課題や将来について、議論のネタの一つになればいいと思っています。
Q.アドラー心理学では未来の目的論から考えるということだが、例えばADHDは器質的な問題といういわば「過去に生じた原因」が想定されている。アドラー心理学ではこのような問題にどのように考えているのか?
一般の心理学の原因論とアドラー心理学の目的論を表裏のようにして統合させて説明することはできないか?
A.アドラー心理学でも器質的な影響があることを受け入れている。むしろ、歴史的に全てを「内面の問題」「親子関係の問題」など心や対人関係に原因を帰そうとしていた臨床心理学とは最初から一線を画していた。
「全体論」「器官劣等性」という基本前提や概念が、そういう器質や身体性の次元の重要性を持つことにつながっているのだろう。
しかし、その器質的な特徴を持っているからといって成長して機械的にその子がADHDになるとは、アドラー心理学ではけして考えてはいない。
大事なのは、そういう器質に対して、その人がどのように態度決定をしたか、その主体的決断(意識的にせよ無意識的にせよ)があると措定して「信じて」いるのがアドラー心理学である。
これを「ソフト・ディターミニズム(柔らかい決定論)」と呼ぶ人もいる。
初期のアドラー心理学では「劣等感の補償」と呼ぶ現象である。
あるいは多動性や衝動性として現れる自分の体の特質という「ライフタスク」の問いかけにどう応えるかという問題といえるかもしれない。
その主体的態度決定の結果、ネガティブな行動がなされると、診断的カテゴリーではその子がADHDと診断されることになったりするのだろう。
アドラー心理学のライフスタイル類型でいうと、ADHD的な人全てが「エキサイトメント・シーカー(興奮を求める人)」になるわけではなく、「ドライバー(一位を目指す人)」や「ベイビー(依存的な人)」にもなり得るし、選択の可能性は限りなくあるといえる。
したがって、生物学的原因論とアドラー心理学的原因論は質問にあるように、「個人の主体性・創造性」を起点にすれば、表裏のように統合することは可能であると思われる。
この点で、最近の臨床心理学のアセスメント論では「生物心理社会モデル」を採用して人の心の問題や症状を説明しようという考え方が優勢であり、アドラー心理学とほとんど重なるものである。
ただ、そこに「未来志向性・目的・目標の最重要性」は取り入れられておらず、それぞれの領域の所見をただ図式的な構造としてつなげているだけであるように見える。
それは認知行動療法のような最新のモデルは、あくまで近代科学的因果論に基づいているが、アドラー心理学はあくまで現象学的、個人の主観的な視点を中心においているためと思われる。
しかし、ただいまブレイク中の脳機能学者・苫米地英人氏の主張では、最新の認知科学や哲学でも「目標の最重要性」「時間は未来から現在、過去へ流れている」という考えが説かれているそうで、確認はしていないがそうであるなら、もしかしたらここでもアドラー心理学の視点は今でも世界を先取りしているといえるのかもしれない。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 05, 2009
アドラー心理学に関する学会自主シンポのレポートについては以上ですが、今回この企画を打ったことで、思わぬ出会いがありました。
我々以外にアドラー心理学を研究している人たちがいて今回登場していたのです。
何たる偶然、いやシンクロニシティーか?
今回の心理臨床学会のポスターセッション(壁新聞のようにボードに研究結果をまとめた紙を貼って、来場者に見てもらい、ディスカッションしたり情報交換するもの)で、勇気づけについての研究を発表している方がいたのです。
浅井健史先生(立教大学)、箕口雅博先生(立教大学)のお二方。
自主シンポの会場に聞きに来てくれ、終了後に挨拶して下さいました。
何でも箕口先生はコミュニティ心理学の大家らしいですね。やはりシンポに来てくれた知人が先生の講座を受けたことがあるらしく、教えてくれました。
そんな方がアドラー心理学に興味を持っていたとは。
でも確かにアドラー心理学の視点は、明らかにコミュニティー心理学に通じるものがあります。しっかりと注目してくれていたのはさすがだと思いました。
先生たちが今回発表したのは
「「勇気づけ」が生じるプロセスの研究-生活場面における「勇気づけられた経験」の回想から」
勇気づけとは実際どのような体験のことをいうのか、どのようなコミュニケーションのことであるのか、質的研究法(ここではKJ法を使用していました)で明らかにしようとしていました。
研究の目的や意義として、いただいた資料には、
①アドラー心理学における勇気づけ概念の精緻化と実践の質的向上につながる。
②メンタルヘルス専門家が勇気づけという事象を深く理解することで、関わりのバリエーション拡大したり、有効性を高めるための基礎資料となる。
③教育・育児をはじめ、さまざまな場面におけるコミュニティ成員間の相互援助を促進したり、効果的な心理教育を行うための基礎資料となる。
とあり、その結果は「1勇気づけのもたらす関わりの態様。2勇気づけのプロセスに関するモデルの生成」にまとめられていまいた。
とても理解しやすく、これから私が勇気づけについて考えたり、説明するときに是非参考にしたいと思います。
今回の自主シンポジウムで学んだことは、やはり何か動いてみて、やってみれば、意外な広がりが生じるものだ、ということです。
細々やってきた私たち自身も勇気づけられました。
浅井、箕口両先生、ありがとうございました。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 03, 2009
3人目は私の番で、「児童福祉臨床におけるアドラー心理学の活用」で、内容は前日の教育心理学会とほぼ同じでしたが、アドラー心理学の概論の部分はなくて、もっぱら子どもの臨床に技法面から語ることにしました。
アドラー自身も子どもの教育、臨床に関心が深く、その後継者たちも同様の志向性を持っている人が多かったので、アドラー心理学100年の歴史の中で、子どもや家族へのアプローチには大変洗練されたものがあります。
その一部として、ライフスタイルアセスメントや「不適切な行動の4つの目的」などを簡単に紹介させていただきました。
会場には児童相談所にお勤めの児童心理司さんもいらして、終了後関心を持ってくれて挨拶を交わすこともできました。
そして、最後に八巻秀先生(駒澤大学/やまき心理臨床オフィス)。
テーマは「臨床思想としてのアドラー心理学」
この先生も私の兼ねてから尊敬する「臨床の達人」の一人でありました。システム論、家族療法、ブリーフセラピーがご専門で、実は私が初めて催眠を学んだのは、何年も前のこの先生の講習会ででした(催眠医学心理学会にて)。だから私にとっては「催眠の師」になります。
八巻先生のことを私は長年ブリーフや催眠の大家だとばかり思っていて、とてもお近づきになれる立場ではないと感じていました。しかし、実はアドラー心理学にお若い頃から深い関心をお持ちだったことをつい昨年知ったのです。
そして今回のご登場。
まさかアドラーでご一緒するとは、人間の縁というものは、わからないものです。
始まると、先生は持ち前の熱く面白いトークが炸裂で、聴衆をぐいぐいと引きつけ、爆笑の連続、そして深く納得させてくれるお話でした。まさに前日の赤坂真二先生なみの面白さです。
先生ご自身は「アドラー派」ではないけど
「自分はアドラー心理学ストーカーです」
と笑顔で話され、大学生の頃野田俊作氏が当時紹介していたアドラー心理学に触れて衝撃を受け、ヒューマン・ギルドの基礎講座も受講されたそうです。
その後自らの臨床の道に邁進されながらも、つい何かの時には気がつくとアドラー心理学に還ってくる思いがするとおっしゃっていました。
その内容は、ここで書くのはちょっともったいない、というか、がさつな私の要約では味わいがないし、うまく伝わらない。
是非、いつか先生にはこれを種に、一文をものにして世に問うてほしい、と思いました。
ごく簡単に私の理解でいうと、我々臨床家が最も大切にすべきなのはアドラー心理学の持っている臨床思想、つまり、カウンセリングやセラピーの究極目標は「共同体感覚の育成」であり、他者への関心と貢献への決心を育てることだという考えです。
ここ数十年の心理臨床学の技法面の進歩は確かにめざましいものがある、しかるに思想面はどうだろうか、そこに疑問を持たれた先生は、今こそ「臨床思想としてのアドラー心理学の再検討が必要では?」と主張されていました。
全く同感で、百家争鳴の心理臨床の世界で、アドラー心理学が全ての臨床家に貢献できるところは、まさにそこにあると思います。
八巻先生のその具体的な活用の仕方としては、
・「目的論」の採用
・「対人関係論」の重視
・「共同体感覚の意識化」
・「アドラーならどう考える?」という問いをすること
を挙げておられ、実践されてきたそうですが、これこそ私たちが日ごろ心がけなくてはならないことばかりです。
ストーカーどころか、アドレリアンそのものです。
私もそうだけど、臨床家はいくつかの顔を持ちます。
エリクソニアンでアドレリアン、ブリーフセラピストでアドレリアン、そんな人は意外に多いかもしれません。
実際これまでにも「○○やってて、実はアドラーも好き」という人には何人かお会いしてきました。
もしかして「フロイディアンでアドラー好き」もいるかもしれない。ただ仲の悪かったご先祖同士だったので、まさか今さらアドラーを名乗るわけにもいかず(特に恩師やスーパーヴァザーとかの手前)、理論や技法面でほぼ同型のブリーフ・セラピーやナラティブ・セラピーを取り入れた人もいるかもしれません。
それでいいと思います。
とにかく、また楽しい仲間で、強力な応援団を得た思いがいたしました。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
September 30, 2009
熱く燃えた静岡大学の後は山梨にとんぼ返りして、荷物を入れ替えて上京、翌日9月21日は東京は有楽町の東京国際フォーラムへ。
心理臨床学会の自主シンポジウムに出るためです。
日本最大の会員数を誇り、あの河合隼雄や成瀬悟策ら綺羅星のような著名臨床心理学者たちを擁し、80年代後半から臨床心理士を作り出して日本中に売り出した(ばらまいた?)巨大団体。
ある意味ここが私のホームのはずですが、なぜかいつもアウェイ感を感じる学会でありました。
だっていつも独りぼっちなんだもん。
しかし今は違います。
確かに少数なれど志を同じくする仲間がいることがわかり、寂しくなんかない!
そんな実感のできたアドラー自主シンポジウム、今年のテーマは「心理臨床に活かすアドラー心理学-アドラー自主シンポ②」
去年の筑波でのシンポでは時間と場所にも恵まれず、アドラーをやるのは初めてのこともあって参加者数には苦戦しました。なんと4人!
そのためにシンポの先生たちとは
「誰も来なかったら、丸くなって雑談でもしていようか」と軽く話していました。
私から前日の教育心理学会は大成功だったことを報告すると、
「やっぱりアドラーは教育系に強いなあ」
という感想というか嘆きも漏れてきます。
しかし、いざ時間になってくると、少しずつ人が入ってきて、始まる頃には狭い会場が満杯に近くなってしまいました。
結局20人余りが入ったと思われます。去年のことがあったので、小さめの会場を申請したのでしたが、杞憂でした。もっと広くてもよかったか!?
そして始まりました。
トップバッターは、北海道札幌からの参加、青沼眞弓先生(デイケアクリニックほっとステーション)による早期回想を使った心理療法の説明。
アドラー心理学のアセスメントにおける代表的な技法である早期回想の解釈の実際を示してくれました。
治療の期間、例えば最初と終結頃など、時をおいて再度同じ人から早期回想を取ると、その人の心理的変化に対応して回想の内容、ニュアンスががらっと変わっているのはやはりとても興味深かったです。
人間の記憶と認知の不思議に感じ入ります。
記憶、とりわけ早期回想と呼ばれる過去のエピソード記憶は、「過去の事実」ではなくて「今の解釈」の投影なのだということがわかります。
その持ち前の積極性とスライドの内容から、青沼先生は当日の打ち合わせでいきなりトップバッターに決まって、しかも「予想」と違って満員の中での発表で内心大変だったと思いますけど、お疲れさまでした。
おかげさまで良い流れが作れたと思います。
その後には、本シンポジウムの企画・司会という大役を務めて下さった鈴木義也先生(東洋学園大学)。
いつも柔らかく優しい雰囲気の先生は、実は私は、内なる志に熱いものを秘めている方のようにお見受けしておりました。何年か前のワークショップで一緒にランチをさせていただいたときに、アドラー心理学の現状と課題について話し合ったことがありました。その際、
「いつか心理臨床学会で、自主シンポをやってみよう」とおっしゃって、(その手があったか!)と驚いた私は即、協力と参加を申し出たのでした。
その鈴木先生も自らの臨床実践の報告で、「早期回想の使い心地のよさ」がテーマ。
精神科臨床の面接の中のあらゆる場面で、さりげなく早期回想をクライエントから聞き、そこから深く展開させていく手腕に唸りました。
ドロップアウトしそうなクライエントに対したときや、面接の中で行き詰まったときなどに、ちょっと軽く寄り道するかのようにこんな風に早期回想を使えるとは。
ブリーフセラピーのミラクル・クエスチョンなどが代表的だけど、それまでの面接の流れを断つような技法を使うタイミングってけっこう勘というか経験が要るような気がして、つい構えてしまう人が多いようだけど、先生はほんとうに自然な感じで使えているんだな、と感心しました。
それに比べるとまだまだ私は力業に頼るところがあるな。
鈴木先生らしい力の抜けた、程良い心地よさを思わず感じる報告でした。
具体的にどんな風にしたかは、いつかマスターしたらお伝えできるかもしれません。
しばし、お待ちあれ。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
September 28, 2009
その内実はともかく長いことアドラー派を気取ってきた私ですが、ただ一つよくわからないこと、実感できないことがありました。
それは、クラス会議です。
アドラー心理学に基づいたクラス会議の有効性は、多くの仲間や本から知っていましたが、個人や家族のある意味チマチマしたカウンセリングばかりしてきて、よくても数人のグループを扱ったくらいしかない自分には、3,40人も子どもたちがいる学級を仕切ることがどういうことなのか、まるで想像できませんでした。
いや、私だけでなく実際多くの親御さんや学校外部の人たちは、あれだけたくさんの子どもたちを扱うことがどれだけ大変なことか想像できていないで、勝手なことばかり言っていると思います。
内田樹さんじゃないけど、「先生はえらい」のです。
そんな無知な私に強烈な一発を放ってくれたのが、今回の自主シンポ、3人目に登場の赤坂真二先生(上越教育大学)でした。
テーマは「勇気づけの学級づくり」。
元々小学校の教員だったそうですが、アドラー心理学のクラス会議に関心を持って、(会沢先生が訳された本「クラス会議で子どもが変わる」がきっかけだったらしい)独自に研究し、実践を繰り返し、大成功、新潟の崩壊学級をいくつも再生させて、アドラーのクラス会議の実践者として名を馳せたようです。
山梨のアドラー仲間の小学校教諭でやはりクラス会議を実践しているS先生から、
「あの先生はすごい、感動ものだよ」と聞いていたのでお会いできる日を心待ちにしていました。
ほんとにすごかった。
始まるなり、満員の聴衆の気持ちを引きつけ、爆笑の連続。
大体学会の参加者は、半分は好奇心だけ、いや欠点探しのような意識で来る人が多いのに、そのような人たちをを引きつける力量はすごいと思います。
こんな先生なら、子どもたちは心の底から勇気づけられるでしょう。
今の子どもたちは、「集団成立の危機」の時代にいる、と先生は言います。個別の支援の必要な子供が増加し、未熟な社会性と精神的な弱さ、自己判断が苦手、圧倒的な自信のなさ、といった特徴があり、クラスは容易に崩壊してしまう。
そんな子どもたちに、いきなりみんなで話し合い、問題解決を目指すクラス会議は無理と赤坂先生は考え、さまざまなその下ごしらえ、基礎づくりを施していきます。その過程、「会話量を増やす」「尊敬の授業」、ふわふわ言葉やチクチク言葉といった「ことばの力」の授業など、魅力的で楽しい授業風景が浮かび上がるような説明と描写でした。
私も「なるほど、共同体感覚を育てるクラス会議とはこういうものか」とそれまで曖昧だったものがくっきりとイメージされるようになりました。
私がクラス会議について無知だったのは、子ども時代にそのようなクラス会議を体験してこなかったので、想像できなかったためなのだと思い至りました。
人は体験できないものは想像しにくい、その未だ現れていないクラス共同体をこの世に現出させた赤坂先生の努力に敬服しました。
赤坂先生は年は私と同じくらいですが、おっさん化した私と違って実に若々しく、エネルギッシュです。
新しい世代のアドレリアンの誕生を眼にしました。
ブログもしていますよ。元気と勇気は誰でも出せる-shinjの日記
その後シンポジウムは栗原慎二先生(広島大学)の指定討論の下、質疑に入りました。興味深いやり取りがそこでもあったのですが、この学会シリーズの最後にでもまとめて取り上げたいと思っています。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
September 27, 2009
私の後に登壇したのは、原田綾子先生(Hearty Smile)による「親支援とアドラー心理学の有効性」。
私の学ぶヒューマン・ギルドでの「ご学友」でもあり、最近売り出し中の親支援リーダー、講師でもあります。
元々小学校教師だったそうで、勇気をくじかれたお母さんたちへの支援の必要性を感じて退職、アドラー心理学に基づいたペアレント・トレーニングSMILEの講座を中心に活発な活動を展開しています。
ステキなブログもしていて、今回の報告もしてくれています(私の写真もあるよ)。
しかも今回は何と8ヶ月の身重の身、
「緊張しているので2人でここに来ました。もう一人はここにいます」
と大きなお腹を指してました。
心配してたけど、よく来てくれました。
「問題行動を起こす子どもとは、勇気をくじかれた子どもであり、その背後には勇気をくじかれた親がいる」
そのことに気づいた原田先生は親支援の重要性に目覚め、仕事を辞め、「母親こそ勇気づけ!」と「母親に子どもの『よさ』を伝える」「母親の話から『目的』を探る」「母親に寄り添う=味方になる(共同体感覚)」など、アドラー心理学に基づいた、具体的で明るく、勇気づけに満ちた関わりをしていきます。
具体的なエピソードと写真を交えて話してくれ、その場のイメージがわいてきました。
私は原田先生の明るさや「花」を知っているので、余計に楽しい雰囲気が伝わってきました。
アドラー心理学の特徴として、いわゆるアカデミズムになかなか知られない代わりに、お母さんを中心にした民間の自主・自助グループや教師たちの学習会などが熱心に活動して支えてきたというユニークな歴史があります。
心理学者や臨床心理士のような専門家だけでなく、一般の人たちに大きく開かれた「知の共同体」を形成してきたことが最大の強みだと思います。
今後はそういう地道な地域の活動と、会沢先生や後に述べる心理臨床学会の諸先生方のような専門家との活動をつなげていくことが課題になると思われます。
とても意義深い発表だったと思います。
そして、最後にすごい人が登場しました。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
September 26, 2009
9月21日午前9時30分より、静岡大学にて、教育心理学会総会2日目、待望の自主シンポジウム「アドラー心理学による子ども・家庭支援」が開かれました。
去年の心理臨床学会でやった自主シンポの流れを受けて、会沢信彦先生(文教大学)より、「今年は教育心理学会でもやろう」とご提案があり、実現となったものです。
どうせアドラー心理学なんて誰も知らないし、関心を持たないだろうからと
「目標は10人参加ね」
と会沢先生と言い合っていたのに、蓋を開けてみると、時間が迫るにつれぞろぞろと人が教室に入ってきて、どんどん席は埋まっていくではないですか。
用意していた資料はなくなりコピーに院生に行ってもらわねばならず、最終的には60人を越えたようです。
ビックリです。
一体どうしたことでしょう。
そんな戸惑いの中(?)、シンポジウムは始まりました。
まず会沢先生の趣旨説明の後、私がトップバッターでテーマは「児童福祉臨床とアドラー心理学」。
会場はおそらく初めてアドラー心理学を知る方も多いと思われたので、前半は参加者のためにアドラー心理学の概要の説明の役割を果たし、後半は長年経験した児童相談所での活用の実際を、心理診断とライフスタイル診断を絡めての報告をしました。
限られた時間の中で言いたいことはいっぱいあるので、思わずいつもながらの早口になってしまいました。
話の中でも触れましたが、アドラーは第1次世界大戦後のウィーンで、世界初の児童相談機関を立ち上げ、最盛期には30カ所にもなったといいます。
アドラーや彼の仲間が学校に出向き、子どもや親、教師にカウンセリングを行っていたのです。
ですからアドラーこそ、児童福祉臨床、教育相談の真の先駆者であったことを心理学史は明記すべきなのです(でも教科書には書いてない)。
さて、一気にしゃべりまくった私の後は・・・次回に。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 24, 2009
先週半ばから末にかけては、日本ブリーフサイコセラピー学会に参加していて、ほとんどパソコンに触らないでいたので更新ができませんでした。
さて、続きです。
統合失調症についても、アドラー心理学の理論は特に内容の変更は必要なく、基本的にそのまま当てはめて考えることができるとしています。
シャルマンの「精神分裂症者への接近」(1968)の冒頭には、
この本で主張したいことは、分裂症者は生まれつきのものではなくて、つくられるものであるということである。精神分裂症は子どもの頃にはぐくまれ、心理社会的psychosocial環境によって促進されるが、分裂症者側の自己訓練self-trainingなくしては起こり得ない。
・・・・(中略)・・・・
そうした人たちの研究(それまで多かった親子関係や家族関係のような外側の原因論的な研究のこと=引用者注)では、そのような幼児期の諸問題に対する幼児の側の主体的な対応の仕方について、ほとんど焦点が当てられていない。この時期の幼児についてのいろいろな研究は、行動や性格傾向の記述に終わり、幼児が自分自身をどうみているのかとか、幼児の世界といった背景はみていない。
と述べています。
つくられるとか自己訓練といっても、病気の全てがその人の責任で起こるといっているわけではありません(究極的にはその人が「責任」を持って受け入れなければならないと考えているとは思います)。
病気になりやすい身体的資質や問題のある環境の他に、自分自身で作り上げた「主観的な価値体系」personal values、確信convictionsという、その人なりの体験の意味づけ方が、発症や病気の展開のあり方に決定的な影響を与える、むしろ主役であるとシャルマンは考えています。
脳科学が発達した今では確かに統合失調症の脳内の原因がいくらかわかってきて、薬も進歩したので、一般には脳だけの病気と思う人もいるかもしれませんが、アドラー心理学のような全体論的立場では脳のあり方も含めて、その脳内の「異常状態」(覚や妄想など)に対する捉え方、見方が大きいのだと考えます。
昨今の心理臨床の言い方では、認知ということになります。
最近の精神医療では、ストレス脆弱性モデルに基づいた認知行動療法を統合失調症の患者さんに行うことが効果的とされていて、私も仕事でやっていますが、まさにアドラー心理学の見方はその先駆といっても良いと思います。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 17, 2009
「精神分裂病者への接近」B・H・シャルマン著,岩崎学術出版
精神分裂症schizophreniaは、今は統合失調症と名を改められていますが、本書は原書が1968年、この訳書が1978年に出ていますので、その改名がされるはるか前なので、病名が古いのですね。
だからその辺はご容赦を。
ISBNもなく、もう古書といえる本をなぜ今回紹介するのかというと、日本語で読めるアドラー心理学に基づいた統合失調症について書かれた数少ない、ほとんど唯一の書だからです。
本書には統合失調症の内面と対人関係の有様が実にわかりやすく描かれており、さらに個人精神療法での対応のコツ、治療技法もふんだんに説明されています。
アドラー心理学は子育てとか教育とか、いわゆる「病気でない」人を対象にする「健康人むけの心理学」と思われることが多いようですが、しかしアドラー自身も精神科医でしたし、著者のシャルマンも相当に力量のある精神科医であったことがアドレリアンの中では知られています。
アドラー心理学を使いこなして精神医療を行うことは十分に可能だったのです。
私は現在児童相談所から精神病院に勤めが変わって、これまでの子どもから、たくさんの大人の統合失調症の患者さんと付き合う生活になり、若き日に読んだ本書を今、改めて読み返してこの病気について勉強することにしました。
そして、発見と確認を繰り返しています。
これから自身のためにも本書から内容を引用、メモしていきたいと思っています。
それにしても、本書は「精神分析双書」のシリーズの一環として、出されたもので、他にはウィニコットやカーンバーグなど名だたる精神分析家が出ています。
面白いのは精神分析を専門にされていたと思われる訳者たちが、本書の内容のあちこちにつまづき、戸惑っている様子が読みとれ、「そんなはずはない。精神分析ではここはこういうべきだ」みたいな納得いかないといった反応を、訳注やあとがきなどで縷々述べているところです。
気づかぬうちにマギャクの精神分析学とアドラー心理学がぶつかっていて、苦笑いというか、アドラー心理学が日本に紹介される前の時代であり、仕方がなかったのでしょう。
認知行動療法やナラティブ・セラピーのような、ほとんどアドラー心理学と相似形のアプローチが台頭している現在、温故知新じゃないけど、アドラー・マニアとしてはこれから本書も折に触れ、取り上げていきます。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 10, 2009
秋の予定第2弾。
前記の教育心理学会の翌日、凝りもせず、恐れ多くも、今度は天下の日本心理臨床学会に出ます。
日本心理臨床学会自主シンポジウム
日時:9月22日(火・祝日) 15:00~17:00
場所:東京国際フォーラム
テーマ:心理臨床におけるアドラー心理学の活用-アドラー自主シンポジウム②-
企画・司会者 鈴木義也(東洋学園大学)
話題提供者 八巻秀(駒澤大学/やまき心理臨床オフィス
青沼眞弓((医)デイケアクリニックほっとステーション)
指定討論者 深沢孝之(山梨県立北病院)
昨年に続いての第2弾となります。
鈴木先生、八巻先生、青沼先生共、アドラー心理学が好きな本当に優秀な臨床家ばかりで、学問的な話は彼らに任せればよいので気持ちは楽ですが、何せ日本一でかい学会なので少々緊張します。
指定討論者なんてほんとは偉い人がなるもので、研究者でも学者でもない私では本当は不適任ですが、申込み上ということでそれにこだわらず、みんなで自由に臨床の世界にアドラー心理学の考え方、良さをお伝えできたらと思います。
こちらは会員でないと参加できませんが、会員の方でもし関心を持たれましたら、お越し下さい。
それにしてもアメリカの心理臨床界では、アドラー派は5%はいるらしいです。
その伝でいくと同学会は19,000人の会員がいるそうで、950人もいていいはずですが、私の知る限り、アドラー心理学を多少でも取り入れている人は10人もいません。
「絶滅危惧種」アドラー派の存在を知らしめたいと思います。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 06, 2009
秋の予定、自分が出るので柄にもなくちょっと恥ずかしいのですが、告知します。
日本教育心理学会 自主シンポジウム
「アドラー心理学による子ども・家庭支援」
日時 9月21日(月・祝) 9:30~12:00
場所 静岡大学
企画・司会者 文教大学 会沢信彦
話題提供者 山梨県都留児童相談所 深沢孝之
Hearty Smile 代表 原田綾子
上越大学 赤坂真二
指定討論者 広島大学 栗原慎二
アドラー心理学による学級運営・教育相談を研究、実践されている会沢・赤坂両先生と、アドラー心理学に基づく親子関係セミナーSMILEを通して親支援・子育て支援に邁進されている原田先生(ヒューマン・ギルドの「ご学友」)との初のコラボ。
教育心理学の総本山ともいえる同学会でアドラー心理学が語られるのは初めてのことかもしれません。
私はアドラー心理学の概要の紹介と児童福祉臨床での活用の様子をお伝えしたいと思っています。
でも夏休み中に準備しようと思ってたけど、まだ遊んでばかりで全然していない・・・。
今から頑張らなければ。
会員でなくても、当日参加できるようです。
よかったら来てね。
日本教育心理学会
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 16, 2009
前回の続きで武蔵のことを書く前に、告知があります。
山梨の仲間と隔月でやっているアドラー心理学学習会があります。
今回は「親子関係セミナー スマイル」について、スマイルリーダーや受講者の方々のお話をうかがいます。
関心のある方は是非ご参加下さい。
日時 6月19日(金)
19時20分~20時50分
場所 ぴゅあ総合
問い合わせ スマイルネット山梨事務局まで
| Permalink
|
| TrackBack (0)
April 21, 2009
山梨ではほぼ隔月のペースで、アドラー心理学の仲間と学習会をやっています。
これまで私や先にアドラー心理学を学んだ仲間が順番にMCというか、講師っぽい役を務めさせてきました。
学習会はいつも盛況。参加者は、主婦、教師、心理カウンセラー、自営業者、会社員、美容師、看護師など多士済々。
そして4月はついに真打ち登場。
テーマは「共同体感覚-愛と心の悩み」
講師は、坂本玲子先生(精神科医・山梨県立大学准教授)
日時 平成21年4月28日(火)
19時20分~20時50分まで
会場 ピュア総合(甲府市)
問い合わせ スマイルネット山梨事務局
坂本先生の話はいつもとってもおもしろい。
私は、先生はシャーマン体質ではないかとにらんでいるのですが、女子大生や高校生の心模様を迫真の演技で語る講演は必見、各地の学校でお話されているのですが、いつも大受けだそうです。
知らない人には是非聞いてもらいたい!
本ブログでも先生のご活躍は取り上げさせていただきました。
「精神病理を映画で学ぶ」
「認知療法を学ぶ」
アドラー心理学に関心のある方は、是非、ご参加下さい。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
March 10, 2009
「アドラーに学ぶ」から
勇気を持つために、私たちはどのようなときに自分に価値があると思えるのか。
著者の岸見氏は、まず、自分自身が他者からの評価(あなたは~だ)、期待(~になりなさい)に縛られること(これを属性化といいます)から自由になることが大事であるといいます。
自分のことを他者からどのように評価されるかにとらわれ、よくいわれれば、喜び、悪くいわれれば、悲しんだり憤慨する人は多い。それはおかしいのではないか。他者が自分のことを悪くいえば、自分の価値は、まさにその評価によって下がるのだろうか。そんなことはないだろう。よい、悪いは、他者の評価であって、あらゆる人が同じ評価をするはずはない。・・・・(中略)・・・・
反対のことを考えればわかる。他者が自分を高く評価すれば、私の価値は、そのように評価されたことによって高くなったのだろうか。そんなことはないだろう。他者からの評価によって自分の価値はいささかも下がりもしなければ、上がりもしない。p47
全くその通りです。
ただ、この「評価されたい病」はそれが染みついた人にとっては「分かっちゃいるけどやめられない」ものなんですね。
人の評価から自由になること、人に合わせないように自立するには、勇気が要ります。
自立とは行動面だけのことをいうのではなく、このように、人が自分について持っているイメージから自由になることも意味している。とはいえ、そうすることによって、他者は自分のことをよくは思わないかもしれない。人から嫌われるということもあるだろう。そして、そのことを望まない人はあるだろう。しかし、誰からも嫌われないという人がいるとすれば、そのような人は、嫌われないために、他者が自分について持つイメージに合わせているからである。今いった意味で自立し、自由であるためには、自分のことを嫌う人がいるということは、自分が自由に生きていることの証であり、支払わなければならない代償であるといえる。p49
どうりで私を嫌う人が多いわけだ(笑)。
嫌われ者は、自信を持ちましょう。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
March 06, 2009
ちょっと久しぶりにアドラー心理学関連。
ギリシア哲学と心理療法の実践者、岸見一郎氏の「アドラーに学ぶ」(アルテ)は、アドラー心理学の視点から生老病死を考察したとても奥深い本です。
私も一読して、次々にアンダーラインと付箋を付けていきました。
紹介と自分の覚えのために、そこからしばらく引きます。
よくアドラー心理学は「勇気づけの心理学」といわれますが、では、その勇気とはどのようなときに私たちは身につけることができるのでしょうか。
勇気を持つために
たしかに人生の課題は困難なものであるけれども、それでは、どうすれば解決しうるという自信をもてるようになるだろうか。
アドラーは次のように言っている。
「私は自分が価値があると思うときにだけ、勇気を持てる」(Adler Speaks,p.34)
直面する課題もその解決は困難であるが、それに直面するためには、自分に価値があると思えることが必要である。勇気を持たねばと思ってみたところで、あるいは、勇気を出しなさいといわれたところで、勇気が起こるわけではない。p46
まったくそうで、「自信をもっと持ちなさい」なんて簡単にアドバイスする人がよくいますが、自信や勇気をくじかれた人には、「それを持ちなさい」なんて言われたって、ほとんどなんの意味も効果もありません。
何か別の視点、発想が必要です。
著者は、
アドラーは、自分に価値があると思える時に勇気を持てるという。一体、どうすれば、あるいは、どんな時に、自分に価値があると思えるのだろう。
と問題提起をして、アドラー心理学に沿ったご自身の考えを述べていきます。
一つ一つとても含蓄があるので、勇気について学びたい方は、是非本書を当たっていただきたいと思います。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
December 09, 2008
もう一月前になりますが、ビジネス誌「週刊ダイヤモンド」で「使える心理学」特集というのをやっていました。
同誌は神田昌典さんとか人気のビジネス・自己啓発リーダーがいつも出ているらしいのですが、畑が少し違う私はこれまで読むことはありませんでした。
しかし今回は得意の心理学の特集、「心理テストはウソでした」の村上宣寛富山大学教授が「ビッグファイブ理論」を紹介したり、ハイダーのバランス理論、交流分析やグリーフケアなどの基礎的理論から、血液型性格診断のウソ、商品開発やセールス、宣伝での心理学の利用(悪用?)の例がたくさん出ていて、けっこう真面目に心理学していて、「なるほど、こうやって心理学は使われているのか」と知ることができてためになりますよ。
しかもその中で、アドラー心理学が取り上げられていたのです。
アドラー心理学を絶賛していたのはなんとあの大前研一氏。
実は大前氏は以前からアドラー心理学に密かに注目し、社員、部下に書籍を勧めていたという情報を得ていましたが、今回それを初めて明らかにしたようです。
大前氏はアドラー心理学を本当に気に入ってくれ、自らの生き方、考え方に取り入れていました。
経営者らしく好奇心旺盛で、頭の回転が速く、やたらパワフルな人だと思っていましたが、正直、これほどアドラー好きとは思いませんでした。
大前氏の「特別提言 ビジネスに心理学を活用せよ!」は6ページに及ぶのですが、その中でアドラー心理学に関する部分を全文引用します。
「心理学に2つの大きな流れ プラス思考のアドラー心理学」
心理学は根本的には二つしかないと私は思っている。フロイト心理学とアドラー心理学である。
フロイト心理学はたとえば幼児期の怖い体験が一生トラウマになるといった考え方で、リビドー(本来強い欲望を意味するラテン語。ジグムント・フロイトの解釈では性的なエネルギー)という概念に基づいて構成されている。
一方のアルフレッド・アドラーは、フロイトと同じ研究室にいたのだが、考え方はフロイトと正反対であり、心の持ち方によって人生はいくらでも変わるという心理学を唱えた。要するに「この世の中は楽しいものだ」とポジティブに考える。ポジティブに考え始めると、人生にはよい回転がおこるというのだ。
なにか課題に対して、常に「私にはできるに違いない」と向き合い、今できなければ「あと三年かけたら絶対にできるようになる」と考える。そのように考えて努力を続けるアドラー派と、「子どもの頃にああいう恐怖の体験をしたから、今の私はこうなっている」などと、運命論を語るフロイト派では、人生に大きな開きが出ることだろう。
いきなり大前さん、素人の強みで「心理学にはフロイトとアドラーしかない」などと極端なことを言いだしましたが、関係者の皆さん、怒ってはいけません。
でも、これ、特に臨床心理学に関しては、いいところを突いていると思います。
「哲学の歴史はプラトンとアリストテレスの焼き直しだ」みたいなことを哲学の世界ではよくいわれると、哲学科出身の認知科学者の友人に聞いたことがありますが、臨床心理学が誕生して100年余り、全ての学派はフロイトとアドラーの創ったパラダイムに乗っかっているかのように私には思えるからです。
私が出会った賢者はアドラー派がほとんどだ。松下幸之助さんは小学校中退だからもちろん英語を喋れないのに、フィリップスがすごいと思ったらオランダのフィリップスに勉強しに行ってしまう。そこで、経営を徹底的に学び、事業部制の骨格を作ったのだ。ヤマハの中興の祖である川上源一さんは、ピアノを作るためになんと会社の資本よりも大きいピアノを造ってしまった(1947年ピアノフレームの鋳造を開始。後にピアノ生産量世界一に)。
他にも私はさまざまな戦後の経営者と仕事をさせていただいたが、偉業を成し遂げた経営者は皆「できないかもしれない」とはほとんど考えない。超ポジティブ思考でずんずんと進み、次々と壁を突破していくのである。稀代の経営者である稲森和夫さんや本田宗一郎さんもまさにこのタイプだ。
じつは私も典型的なアドラー派である。どのくらいアドラー派かというと、人生で「私にはできない」と思ったことがない。阿呆なのである。戦後、日本を世界第二位の経済大国にした原動力は、後先考えない超ポジティブ思考。アドラー心理学であったと考えている。
「後先考えない超ポジティブ思考」がアドラー心理学かどうかは、しかも「阿呆」と一緒にされてしまって、真面目な正当派アドレリアンの「玄人」には疑義のあるところかもしれませんが、でもそういうところがあるのも事実でしょう。
むしろ精神分析学のように文学的でもなく、行動療法のような科学そのものでもない、しかし臨床という弱者の救済から、教育、自己啓発、そしてビジネスという強者同士の競争社会のトップクラスまで幅広く魅了し、使いこなせば大いに役に立つアドラー心理学の真骨頂だと思います。
まさに阿呆=愚者の知恵=真の賢者といえるでしょう。
ここまで褒めちぎってくれたのだから、大前研一氏を名誉アドレリアンに認定したいと思います!
同誌はもう書店にはありませんが、バックナンバーがあるようなので、よかったらこちらからお買い求め下さい。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001HZFQ92/yamanashirito-22
| Permalink
|
| TrackBack (0)
November 26, 2008
最近アクセス数が少し多いと思ったら、車椅子のサッカー監督・羽中田昌さんの特集を報道ステーションでやっていたからのようです。
監督1年目のカマタマーレ讃岐はいい成績を残せたようで、よかったです。
来期も応援しています。
さて、地域限定情報です。
山梨でアドラー心理学の学習会・研究会を立ち上げます。
もう目前ですが、今週末の11月28日(金)にやります。
午後7時30分より。
場所は、甲府市役所中央部市民センター中央公民館(甲府市丸の内3丁目26-16、TEL055-222-4242)
参加費は500円。
主宰は、スマイルリーダーの手島羽ツ枝さんが運営するスマイルネット山梨
仲間と講師というかファシリテーターはどうするか話し合ったとき、取りあえず古株の私がすることになりました。
内容はまだ未定ですが、一番慣れているアドラー心理学のカウンセリングについて気楽に語ろうと思います。
もしこのブログを読んで関心を持たれた方がいたら、是非ご参加下さい。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
November 15, 2008
ついに出ました。
金子書房刊「児童心理 12月号臨時増刊」として、
「子どもを勇気づける心理学-教師と親のためのアドラー心理学入門」
執筆陣は岩井俊憲師、本ブログでも訳書や著書を紹介させていただいた岸見一郎先生、「アドラー博士シリーズ」などで積極的に著作を出されていた星一郎先生など、既にアドレリアンとして名をなしている先生の他、直接、間接に知っているアドラー仲間が多数登場しています。
中でも、心理臨床学会自主シンポジウムを共に行った先生方、山梨のアドラー仲間が多数出ているのがうれしい。
みんな力作を書いていますよ。
そしてその中に、何と私も一文を寄せているのです!
名前がばれてしまうけど、もういいや。
「アドラー心理学と勇気づけ」というテーマで、「基礎理解編」のトップバッターとして出ています。
アドラー心理学の中で勇気づけが持つ意味、どうして勇気づけという言葉なのか、というのが与えられたテーマでした。
限られた貢数のなかで、できるだけ平易に、明快に書くように努めましたが、なかなか難しかったです。
アドラー心理学に関心を持たれた方の参考になれたらいいと思います。
今回は心理学関係の雑誌として、斯界初のアドラー心理学特集で、快挙といえるでしょう。
編集後記にあの諸富祥彦先生がすごくうれしいことを書いてくれています。
アドラー心理学は、学校現場でもっとも「使える心理学」である、と私は常々言っている。なぜか。いくつか理由はある。子どもへの信頼をベースにした心理学であること。実際に子どもが変わってきた多くの事例を持っていること。そして何よりも、子どもが「集団の中で起こす問題」について、もっとも鋭い理論と具体的な対応策を示すことができる数少ない理論であること・・・・
(中略)
もう一つ、アドラー心理学の最大の魅力の一つは、この心理学に惹かれて集まってくる人々の人柄のあたたかさにある。たとえば日本のロジャーズ派は共感とか受容とか言うけれど、実際に会ってみると、意外と冷たかったり、専門家ぶっていたりする。けれどもアドラー心理学は違う。じつに、あたたかい人がなぜかこの心理学の周りには集まる。そして実際、こちらが落ち込んでいるときなど、見事に勇気づけられてしまうのだ。
こんな魅力的な心理学なのに、なぜか、アカデミックな分野ではほとんど知られていない。本号が日本におけるアドラー心理学の健全な発展に多少でもお役に立てれば幸いである。
是非、手にとってお読み下さい。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 15, 2008
10月13日(月)、山梨県にアドラー心理学の伝道師、ジョゼフ・ペルグリーノ博士が来県し、石和温泉の地にて、「勇気づけワークショップ」を開催し、無事終了させることができました。
今回のWSについては、以前本ブログでも告知しました。http://taichi-psycho.cocolog-nifty.com/adler/2008/08/post_f82a.html#comments
参加者は23名、教員や会社員、カウンセラーなど例によって多彩な面々、去年山梨で開いた「アドラー心理学ベーシック・コース」でお会いした懐かしい方もいて、1年ぶりの嬉しい再会もありました。
WSの内容は、博士を招聘して主催してくれたヒューマン・ギルド代表、岩井俊憲先生のブログに写真と共にありますので、ご覧になって下さい。http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild
当日資料より。
勇気づけとは?
1.勇気づけは、人に対するポジティブで有益な何かを意味しています。
2.アドラー心理学では行っています。人は植物が水を必要としているように勇気づけを必要とします。勇気づけは、変化、実行、ポジティブな人間関係を促進する潤滑油のようなものです。勇気づけは、自身と他者の中の変化を刺激し、価値や自己受容の感情を増す大変効果的な方法です。勇気づけは、劣等の感情から能力、勇気、才能の感情に行くことを手助けします。
(中略)
勇気づけは信頼を示し、
信頼は勇気にエネルギーを与え、
勇気は希望を生み出し、
希望は信念を創り、
信念は行為を生み出す
私はペルグリーノ博士に会うたびに、博士の柔らかい存在感とエネルギーに深い感銘を覚えます。
心理臨床界だけでも、多くの達人、才人がいますが、氏の「気の質」にはちょっと違うレベルのものを感じています。
アルフレッド・アドラーのご子息クルト・アドラーが、
「あなたは父に似ている」
と仰ったそうですが、本当にそうだろうなと思います。
ただの学問的知識の集積とは違う、人には存在の次元といったものがあるんだということを認識します。
博士を知ってから、他の全国のアドレリアン同様に、この人と話をしたい、つながりたいという思いが私にもわき上がって、昨年からにわかに英語の勉強をしたりして、山梨招聘チームのメンバーとしても一生懸命博士と会話したけど、気持ちがうわずっていることもあって、かなり変な英語になってしまった。
ダメだな、もっと勉強しなきゃ。言いたいことが全然言えなかった・・・。
それでも博士は私の手を取って、やさしい目でじっくりと語りかけてくれました。それがまたうれしい。
はっきりいって、日本のアドラー心理学シーンはかなりやばい時期がありましたが、博士が10年ほど毎年のように来日してくれ、「本物」を伝えてくれ、ガラリと雰囲気が変わりました。
「アドラー心理学とはね、こういうものなんだよ」
と理論や技法はもちろん、ハートからハートに伝えて下さるのです。
特に今回の勇気づけは、単に言葉だけで字面で追っていっても伝わるものではありません。
勇気づけとはこういう体験なんだと、身をもって感じ取れないと意味はないと思うのですが、博士はそれが講義やWSの中で可能な人なのだと思います。
私にも臨床的足場の確立に迷っていた時がありましたが、ペルグリーノ博士を知ってから、「これでいこう」と「覚悟」を決めたといえます。
岩井先生や準備を共にしたスタッフのみなさん、ありがとうございました。
思い出深い1日となりました。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
October 05, 2008
ここのところ朝夕の気温差が大きくて、風邪を引いてしまったようです。なんか調子悪い。
応用行動分析学の祖、スキナーの思い出、いわば早期回想が「スキナーの心理学」に出ていたので紹介します。
10歳のスキナーは、パジャマを片づけないので母親から繰り返し叱られていたそうです。それに対する回想です。
ちょっとした仕掛けを作って私はその問題を解決した。パジャマをしまっておくクローゼットに紐とフックを取り付け、紐を中継点を介してドアに結び、「パジャマは片づけたか?」と書いた紙をぶら下げた。パジャマをフックにぶら下げると、紙は上へ上がる。夜、パジャマをフックからはずすと紙はドアの前にぶら下がる。朝、起きて、服を着て、そのまま出ようとすると、紙はドアの前ということになる。もどって、パジャマを片づけると、紙は上へ上がる。
すごいなあ。
後の環境主義者(人の心/行動は環境の強化によって左右される、だから「心」は存在しないとする立場)の片鱗というか本質が現れています。
私だったら、
「うるせえ、くそばばあ」と母親に悪態をつくか、時々パジャマを片づけるくらいでやり過ごそうとしたでしょうね。
「頑張る」「自覚する」「忘れないようにする」という目に見えない「心がけ」に頼らず、自分から環境を操作し、環境が自分の行動を導くようにする、結果はうまくいくからそれが強化子となって、さらに片づけ行動が維持されていく。
「私は課題を工夫して解決するし、できる。それには環境を自分から作り替えればよい」といった認知がうかがえます。
そういう決断をしたことも、スキナーなどの徹底的行動主義者なら「環境の強化によるものだ」というのでしょうけど。
アドラー心理学だったら、そういう環境の影響を重視しつつも、ソフト・ディターミニズム(柔らかい決定論)の立場から、そういう環境/課題を解決しようとした主体的決断を重視するかもしれません。
ちなみにスキナーは、子どもの頃から異様にメカ好きで、ローラースクーター、ハンドル付き台車、そり、メリーゴーランド、いかだ、連結式の台車、模型飛行機、手作り楽器などなど作って、本格的なグライダーを作って飛ぼうとさえしたそうです。
後年、鳩やネズミの条件づけ実験で知られたスキナー・ボックスを開発したのもうなづけます。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 25, 2008
アドラー心理学を暖かく、正しく伝える勇気づけの達人、ジョセフ・ペルグリーノ博士が来日して、各地でWS、研修会を開きます。
そして、山梨の石和においても「勇気づけワークショップ」を行います。
日程 平成20年10月13日(月、祝日) 10:00~17:00(受付9:30)より
場所 かんぽの宿石和
山梨県笛吹氏石和町松本348ー1
受講料 18,000円(資料つき、税込み)
定員 50名程度
申し込み ヒューマン・ギルド http://www.hgld.co.jp/
電話03-3235-6741 FAX03-3235-6625 E-mail: info@hgld.co.jp
なんとこのペルグリーノ博士WSの招聘委員の代表はこの私ということになっているんですね。
あんまり仕事してないけど。
ペルグリーノ博士はほんとに柔らかく、暖かい雰囲気の方で、
「アドラー心理学のカウンセリングはこういうものなんだ」
と身をもって示して下さる人です。
こんなやさしい人になりたいと、荒っぽくて粗忽な私は無理でもそう思う。
参加は別にアドラー心理学を知らない人でもOK。
日本の臨床家、教育者はほとんど知らないわけで、興味本位でもいいと思いますよ。
ついでに、石和温泉にも入っていってくださいね。
ジョセフ・ペルグリーノ博士略歴
1935年イタリアのローマ生まれ。14歳の時に家族と共にカナダに移住、現在のコンコルディア大学卒業、教師・教頭・校長として学校現場で活躍しながら、アドラー心理学を学び続け、シカゴ・アドラー心理学大学院で修士号(バーナード・シャルマン、ハロルド・モサック、ハインツ・アンスバッハーなどに師事)、さらにニューヨーク州立大学で2つ目の修士号(アルフレッド・アドラーの長男カート・アドラーなどに師事)、米国のコロンビア・パシフィック大学でアドラー派のカウンセリングと心理療法で博士号(クラシック・アドレリアンの祖、ソフィア・デ・ブリエスに師事)を取得されました。
つまりアメリカに伝わるアドラー心理学の「シカゴ学派」「ニューヨーク学派」「サン・フランシスコ学派」の全てを学んだ、世界で唯一の人がペルグリーノ博士です。
モントリオール・アドラー心理学大学院教授を務めた後、モントリオール個人心理学研究所理事長として、個人開業でカウンセリング、心理療法を行いながら講演・セミナーを行っています。
人格的にも円満で、「ウォーキング・エンカレッジャー(勇気づけをしながら生きる人)」と言ってよく、ユーモアのセンスに満ちた大の日本ファンです。固定ファンを持ち、今回が12度目の来日です。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 07, 2008
アドラー心理学は行動の「原因」を因果関係に帰さず(原因論:幼児期の子育てが問題行動の原因だ、みたいな)、対人関係の中でどのような目的をもってその行動を選択したかを分析する目的論を取ります。
目的論はアドラー心理学の大前提。
アドラー自身はどのようにそれを説いたかを、「教育困難な子どもたち」から引きます。
私たちは目標を置かずには、考えることも、感じることも、行為することもできません。この目標設定は、どんな運動においても避けることができないものです。一本の線を引く時、目標を目にしていなければ、最後まで線を引くことができません。欲求があるだけでは、どんな線も引くことができません。即ち、目標を設定する前は何をすることもできないのであり、先をあらかじめ見通して初めて、道を進んでいくことができるのです。このような目標設定は、人間が自ら動く生物であることと関連があります。もしも私たちが花や植物であれば、このような目標設定は何の意味もないでしょう。魂は運動であり、運動に関係し、自ら動く生物だけにあるものです。
目標がコンテキストを作り、行動や欲求、欲望を意味づける。
この視点からは、フロイトのエロスとタナトス、生の欲望とか死の欲望という概念は意味を持たないことになるのだと思います。
原因論フロイトと目的論者アドラーの人間観の違いが浮き彫りになるところです。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 02, 2008
「教育困難子どもたち」から、アルフレッド・アドラーの言葉を引きます。
私たちは次のような確信に到達します。あらゆる精神の発達についての問いにおいて、〔行為の〕原因と動機は、他の人とのつながりのうちに与えられているということです。これは子どもだけではなく、全人類についていえることです。子どもの発達のすべては、どんな欲求や本能があるとしても、この〔他の人とのつながりという〕枠組みのうちにはめ込まれています。社会的なつながりは、それとは知らずに、前提とされているのです。人間は、方向を定められた欲求を持って生まれてくるのではありません。p25
「人とのつながり」、今風にいうと対人関係論とかシステム論といったところでしょうが、欲求なら欲求だけを取り出して、意味づけすることはほとんど意味がないことに注目する必要があります。
いわゆる「科学としての心理学」なら、そこで当該システムの中でどのように個人やシステムの要素が振る舞うかを記述すれば良いのでしょう。
そこから治療法(変化の起こし方)も生まれてくる可能性があります。
価値観の心理学であるアドラー心理学は、そこからさらに人とのつながり=人類共同体にどのように貢献的になれるかを問いかけます。
その点では、アドラー心理学は学問から離れて、思想運動(私としては、各心理学の意味づけ、方向付けをするメタ理論と呼びたい)となります。
私たちが彼(事例の男の子:引用者注)に開くことができるのは、自分を有用なものにすることができ、〔かつ〕他の人の利益にもなるような道だけです。p26
私たちの課題は、子どもを社会的な進歩の道具に作り上げるということです。これが世界観としての個人心理学(アドラー心理学のこと)の核です。p27
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 15, 2008
アドラー心理学に基づくペアレント・トレーニング、対人関係セミナーSMILEが開催されます。
勇気づけに満ちたとても楽しく、身になるセミナーだと思います。
子育てや対人関係で悩んでいる方にはもちろん、教育や臨床に携わる方には、子どもへの接し方を家族と共に見直し、よりよい方法を伝える際にとても役立ちます。
私もこれで変わりました。
案内の一部を貼り付けます。
・・SMILEの主な内容・・
第1章・・・ 子どもの行動を理解しよう
第2章・・・ 聴き上手になろう
第3章・・・ 子どもを勇気づけよう
第4章・・・ 誰の課題でしょう
第5章・・・ 子どもを傷つけないで意見を伝えよう
第6章・・・ 体験を通じて学ぶ機会を与えよう
第7章・・・ 新しい家族のあり方とは
第8章・・・ 社会性のある子どもに育てよう
☆参加者の皆さんと話し合い・ゲーム・ロールプレイをしながら毎回楽しく進めていきます。難しい内容ではなく具体的なものなのですぐに役立ちます。
☆あらゆる人間関係の悩みに使えます。
(友人・親子・夫婦・嫁姑・職場の人間関係・・・など)
☆教育関係の方(保育士・教諭・塾の先生・・・・)も多く学ばれています。
SMILE受講者の声
「今まではすぐに感情的になってしまいましたがその前に一呼吸おいて考えられるようになりました。また、できるだけ勇気づけの言葉がけをしようと努力するようになり、むやみにほめたり、ほうびを与ることがなくなりました。」 M・Hさん
「現実的・具体的な内容の講座なのでわかりやすく、それを実践したことで子どもの様子に変化が現れ、楽しい子育てができるようになりました。」 I・Tさん
SMILE土曜・日曜4回コース日程
日時 平成20年5月25日(日)6月8日(日)6月22日(日)7月5日(土)
※ 最終日のみ土曜
※ 時間 13時から17時30分まで
場所 甲府市 リバース和戸第6会議室
6月22日のみ山梨県立青少年センター 第4会議室
リーダー 功刀京子(ヒューマンギルド認定SMILEリーダー)
参加費 24,000円 (※テキスト代消費税含む)
※定員12名になり次第締め切ります
| Permalink
|
| TrackBack (0)
December 14, 2007
先月末に講師をしたときに(講師になる)、資料作りにこの機会にと改めて手元にあるアドラー心理学の文献をひっくり返して読み直していました。
そして子どもの問題を話すのなら、アドラーがなんと言っているかを確認する必要があると買ったのが、
「子どもの教育」A・アドラー著,岸見一郎訳,一光社
教育のあるべき姿について、アドラーがどのように語ったのかがよくわかります。
講義録みたいなもので、体系的な著書でありませんが、教育に熱意を持つアドラーの雰囲気がじんわりと伝わってきます。
今は子育て本が無数に出ていますが、スポック博士の登場するはるか前の先駆的な仕事といえるでしょう。
内容も時代を感じさせるところもありますが、ほとんど今現在の問題を語っているように思われるところが多く、アドラーの先見性を確認できます。
子どもが学校で失敗を始めると、そのことは危険な徴候であることを私たちはいつも証明することができました。学習上の失敗より、むしろ心理的な失敗こそが重要です。子どもが自分自身への信頼を失い始めたことを意味するからです。勇気をなくし始めたのです。そうするとこどもは有用な道とあたりまえの仕事を避け始め、別のはけ口、自由と安易な成功への道を探求するようになります。
訳者あとがきでもふれているのですが、アドラーは世界で初めての児童相談所を第一次大戦後のウィーンに作りました。
1934年までに30カ所できたといいます。
日本の児童相談所とは大分中身が違っていたでしょうが、子ども専門の臨床機関を作ったことは心理学史に特筆すべきことだと思います(なぜか心理学史の教科書にはそのことが載っていないけど)。
実際には学校の先生が用意した資料をアドラーが読み上げながら少しずつ推量、解釈をしていきながら、教師にアドバイスをしたり、その後親子に面接をして、勇気づけに満ちた助言をしたそうです。
週に1,2度、学校の空いた教室でアドラー心理学に通じた精神科医と心理学者が率いる治療チームが子どもの面接をしたりしたこともあったそうです。
まるで今のスクールカウンセリングか、コンサルテーションのようです。
児童臨床の大先達のアドラーの息吹を感じることのできる本です。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 13, 2007
我が地、山梨で本格的なアドラー心理学の講座が初めて開かれます!
アドラー心理学ベーシック山梨コース
10/20,21 11/3,4(土日) 4日間コース
会場:山梨県立青少年センター リバース和戸 第3研修室
講師:岩井俊憲
受講料:48,000円 (再受講24,000円)
問い合わせ、申込先 ヒューマン・ギルド
今回のコースの企画は、スマイルネット山梨の手島さんの発案によるものです。主婦としてアドラー心理学に基づく親子関係セミナー、SMILEを何回も開催されているだけに、さすがの行動力です。
私も関係相談機関・団体に紹介したりと、微力ながら協力しています。
しかしまさかこの小さな田舎で、自分が学んだコースが開かれるとは思わなかった。生きててよかった、感慨無量です。
山梨のみならず、近隣の県の方々の参加も大歓迎です。会場すぐ隣の石和温泉でもご利用になりながら通ってはいかがです?
カウンセラーなどの専門職、教員だけでなく、アドラー心理学に関心のある方ならどなたでも参加できますよ。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
May 10, 2007
ここのところ、昼夜と毎日の寒暖の差が大きすぎて、気温の変動に弱い自分は体調を崩してしまいました。
咳と頭痛に見舞われております。
鼻水が出そうなのを抑えて面接するのもつらいものです。
そんなときは原点回帰。待望のアドラー心理学の子育て本に当たります。
「よい子のお母さんは聴き上手-子どもの愛と勇気を育てる本」岩井俊憲、志道不二子著、PHP文庫
親御さんとカウンセリングをしていて、
「何か良い本はないですか?」
と尋ねられることがあります。
自閉症などの発達障害には、最近当事者や家族が書いたものや、行動分析学などに基づいた良書が出るようになって、お勧めしたり、その本をネタにして面接をすることあります。
でも、子育てにかかわること(しつけから不登校、非行、虐待も含めて)については、やっぱりアドラー心理学がベストだと思うのですが、手軽な本は意外に少なかったのです。
本年2月に出た本書は、私の師匠の岩井さんとアドラー仲間の志道さんの共著です。
岩井さんは中小企業診断士で経営コンサルタント、志道さんは幼児教育や親教育に携わっており、NPO法人エンカレッジ広場を設立して積極的に活動されています。
同じアドレリアンでも 私も含めて、現場の領域はみんなそれぞれ違うところが、おもしろいですね。
本書の構成は、
プロローグ 聴き上手とは
第1章 子どもはいつも悪い行動をする?そのわけは?
第2章 聴き上手になろう
第3章 子どもや自分を勇気づけよう
第4章 失敗から学ぶこと
第5章 子育てを楽しもう
となっていて、とてもわかりやすく、読んでいて気持ちのやさしくなる文章で、例も豊富だし、アドラー心理学を知らない一般の方が読んでも十分に理解してもらえると思います。
値段も文庫だから476円とお手頃なので、お母さんたちに勧めやすいですね。
こんな本を待っていたのです。
最近一部で復活しつつある体罰容認論どころか積極的推奨論など論外。でも抽象論や道徳論で解決するわけはありません。
具体的な手だてと視点が必要なのです。
子育てに迷っていたり、悩んでいる方には先ず、お勧めしていきたいと思います。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
April 19, 2007
久しぶりにアドラー心理学関係です。
岸見一郎著「アドラーを読む-共同体感覚の諸相」アルテ
アルフレッド・アドラーの理論的、思想的側面を、著者ご専門のギリシア哲学などから裏付けていて、アドラー心理学を深い次元から理解することができます。
というのは、アドラー心理学は目的論や勇気づけ、楽観主義などを強調するので、「深刻なもの」「病理」「深層」好きで「ほとんどビョーキな」臨床心理士、心理学者、精神科医には、アドラー心理学が浅いものに見えることがあるようだからです。
しかし、本書を読むとアドラーの思想は本質的には、フロイトもしくはユングとはほとんど関係がなく、プラトン、特にソクラテスの思想の系譜にあることがわかります。
死刑の判決を受けたソクラテスは「大切にしなければならないことは、ただ生きることではなくて、善く生きることである」(プラトン「クリトン」)といった。「人生は限りのあるものであるが、生きるに値するものであるには十分長い」(「子どもの教育」)とアドラーはいった。人生を生きるに値するものに、われわれがするのである。長く生きても、それだけではこんなふうに思えるようにはならないだろう。ただ生きるのではなく、一日一日を、さらにはこの一瞬一瞬を大切に生きれば、ともすれば見逃してしまう何気ない瞬間が違ったふうに見えてくる。
「偉大なる正気」の系譜とでもいえるでしょうか。
何を経験してきても、どんなにいろんなことを勉強しても、幸せになるには結局、このラインなのだと思います(と悪行三昧で不幸な私は強く思う)。
本書ではソクラテス、プラトン、アリストテレスだけでなく、ヘーゲルやフランクルなど偉大な学者がアドラーに関連づけて縦横に引用されていて、とても勉強になりました。
といっても適度な厚さで、文章も明晰でわかりやすく、けして難解ではありません。むしろ、含蓄のある文です。これは著者にかなりの力量がないとできないことです。
本ブログでも、折に触れて参照させていただこうと思います。
ところで、私は明日から遠くへ旅立ちます(国内です。あの世じゃないよ。仕事)。少しの間、コメントやメールへのレスはできませんのでご容赦願います。
| Permalink
|
| TrackBack (3)
January 31, 2007
「現代に生きるアドラー心理学」(一光社)から
トラウマ、心的外傷をどう考えたらいいか、アドラー心理学ではトラウマなんて大層な言葉は実はありません。なくても平気だし、治療できるし、生きることができるからです。
フロイトはトラウマについて語りましたが、アドラーは「ショック」について語りました。フロイトにとってトラウマは、概して客観的で普遍的なものでした。エディプス期など、誰もが遭遇しなければいけないような問題があり、そしてそれらが首尾よく乗り越えられない場合、そのトラウマは神経症の苦しみに終わるだろうというものです。
アドラーはショックについて大部分は主観的なものとして-しかし排他的ではなく-かつライフスタイルの産物として見ていました。つまりその人のライフスタイルが何らかの偶発性に対して準備しなかった場合、それはショックとして経験されるということです。
トラウマという、心の奥底に何か不気味な実体があって心と体に悪さをするという考え方ではなく、外界の出来事とこちら側との関係性がポイントであるという考え方が、ショックなんて平々凡々な言葉にこめられているのだと思います。
であれば、ショックをどのような関係性の中で体験するかが大事ということになるのでしょう。ショック自体を扱わなくても、関係性全体、あるいはその網の目の中のどこかを使うだけでいいのかもしれませんし、選択肢が広がります。
精神病理性を発言させる人々の特徴はアドラーによると、「ショックによる効果への固執」です。・・・・ショックによる効果への固執によって、彼らは人生を先へ進んで行かないための言い訳を作ります。例えば、「それはとてもひどかった。私は再びそれが起こったら耐えられないのだ」ということです。共同体感覚と社会的関心を用いれば、これらの人々は出来事とショックから学び、問題解決に従事し、サポートネットワークを活用し、乗り越えていきます(もちろん時間はかかります)。
トラウマをショックと言い換えるだけで、見えてくる風景は変わってきます。そして当たり前のようにそれを捉え、それがあってもなくても支え合って、生きていけるようになるかもしれません。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
December 20, 2006
「現代に生きるアドラー心理学」H・モサック,M・マニアッチ著、坂本玲子監訳、一光社
今年出たアドラー心理学書(というものがそもそも少ないのだが)の最新刊といえるでしょう。
アメリカ・シカゴのアドラー心理学専門大学院The Adler School of Professional Psuchologyの教科書の一つなのだそうです。
訳者は以前認知療法を学ぶでご紹介した山梨県立大学助教授の坂本玲子先生。
副題に「分析的認知行動心理学を学ぶ」とありますが、現在自我心理学や認知行動療法など主流のさまざまな心理療法の豊かな源流であり、今も静かに発展を続けているアドラー心理学の直近の姿が理解できます。
アルフレッド・アドラーの生い立ちと生涯から始まって、アドラー心理学の理論の諸前提、ライフスタイル論、ライフタスク、劣等感など基本的なところが丁寧に説明されています。
そこから、アドラー心理学から見た精神病理、査定と診断、治療と臨床家にも役立つ内容となっています。
さらに本書のユニークなところは、「個人心理学への批評」という題で、アドラー心理学への批判的論点についても検討を加え、最近の思想的状況(認知構成主義のオートポイエーシス、暗黙知、愛着理論など)との関係にまで考察を加えています。
例えばアドラー心理学へのよくある批判として、
アドラー初期の講義の中で、次のような逸話があったと聞いています。聴衆の一人が立ち上がって「しかしアドラー先生、あなたの話すことは全て常識です!」と発言しました。アドラーは、「ですが、それで何が悪いのですか?私はもっと多くの精神科医がそうあって欲しいと思います」と答えたと言われています。アドラー派は伝統的に「常識」を話すという批判を受けてきました。
アドラー心理学はその批判を受け入れます。それは「正当な批判」で、アドラー派は実際に常識を話します。アドラーは専門用語が嫌いで、自分の体系を科学ではなく、哲学に基づかせたいと望み、必ずしも学問的訓練を受けていない人々にも呼びかけました。アドラーは故意に、自分の体系が「普通の人々」にとって接近可能なものにしようとしました。
これを読むと、米国でもアドラー心理学はけして過去のものではなく、現在も不断に動き続けていることがわかってきます。
それから本書の帯は、なんと「リング」で有名な作家の鈴木光司さんが書いています。「我々には『目的』を選ぶ自由があり、原因には縛られず軌道を再構成していく力がある。本書の中に、生きるための『知』と『勇気』を見た!」
何でも訳者の坂本先生と高校の同級生だとか。鈴木さんは本書の内容を聞いて、「自分の考え方と同じだ」と納得して推薦文を書いてくれたそうです(全然関係ないけど、映画「リング」の監督中田秀夫さんは私の大学時代の友人の兄です)。
私も退職したら、老後の楽しみに留学してみたいな。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 24, 2006
週末、ヒューマン・ギルド主催「ライフスタイル診断ワークショップ」に参加。講師はジョセフ・ペルグリーノ博士。
ライフスタイル診断とはアドラー心理学独自の観点から構成された「性格・認知構造・コミュニケーションのスタイル」のアセスメント法で、カウンセリングや心理療法の骨子となります。家族布置、早期回想、特殊診断質問、あるいは心理テストなどからなります。
WS巡りと人物観察が趣味の私は、とにかくペルグリーノ博士の大ファンであります。私がこれまでお会いしたり学ぶ機会を得た何人かのアドレリアン、また他の心理学の代表的セラピストの中でもピカイチだと感じています。
技術のある人、頭の切れる人、カリスマ性のある人、天才的な人はこの世界にけっこういるのですが、博士の何ともいえない柔らかーい存在感はちょっと見たことがない。ただ柔らかいだけでなく、アドレリアンとしての筋を見事に通しています。外柔内剛、柔派拳法をたしなむ自分にとって、心理療法の達人に邂逅したという感じです。御年70歳、アドレリアン歴50有余年の好々爺です。
取りあえずプロフィール(ヒューマン・ギルド会報より)。
講師ぺルグリーノ博士プロフィール
ジョセフ・ペルグリーノ博士は、1936年イタリアのローマに生まれ、14歳 の時 に家族とともにカナダに移住、現在のコンコルディア大学(モントリオール)卒 業、教師・教頭・校長として学校現場で活躍しながら、アドラー心理学を学び続 け、シカゴ・アドラー心理学大学院で修士号(バーナード・シャルマン、ハロル ド・モサック、ハインツ・アンスバッハーなどに師事)、さらにニューヨー ク 州立大学で2つ目の修士号(アルフレッド・アドラーの長男のカート・アドラー などに師事)、米国の コロンビア・パシフィック大学でアドラー派のカウンセ リングと心理療法で博士号(クラシック・アドレリアンの祖、ソフィア・デ・ブリエスに師事)を取得さ れました。つまりアメリカに伝わるアドラー心理学の 「シカゴ学派」「ニューヨーク学派」「サン・フランシスコ学派」の全てを学んだ、世界で唯一の人がぺルグリーノ博士です。モントリオール・アドラー心理学 大学院教授を務めた後、モントリオール個人心理学研究所理事長として個人開業 でカウンセリング、心理療法を行いながら講演・セミナーを行っています。人格 的にも円 満で、「ウォーキング・エンカレッジャー(勇気づけをしながら生きる人)」と言ってよく、ユーモアのセンスに満ちた大の日本ファンです。固定 ファンを持ち 今回が10度目の来日です。
雰囲気的には、心理療法界では成瀬悟策先生に近いかな、博士の方がもっと柔和だけど。77歳ぐらいの私の武術の老師にも似ている気がします(武術家だから出ている「気」は違うけど)。
WSは、博士作成の充実した内容のテキスト輪読と、デモンストレーションに応じてくれた参加者に対して博士自らが本格的にライフスタイル診断を実施するところを見て、そして質疑という構成でした。
実際に上級者がカウンセリングやアセスメントをする場に居合わせる、観察するということはとても貴重な経験になります。それをしないでただ本を読んだだけ、人生経験だけ、アカデミックな研究態度や知識だけで現場に望んでいると、どうしても足りないものが出てしまうように思います。
武術でいう見取り稽古ですね。
アドラー心理学にはオープン・カウンセリングという、聴衆の前でカウンセリングをする伝統があるから、その機会は割にあるかもしれません。
その様子が伝えにくくて残念ですが(写真も一緒に撮らせて頂きましたが、私の粗顔が写っているのでアップできません)、粘り強く、丁寧に、タフで、それでいて柔らかく、前向きにライフスタイルをクライエント共に探索していくペルグリーノ博士の姿を目に焼き付けて、これからもアセスメントやカウンセリングをしていこう。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 16, 2006
引き続き「アドラーの生涯」から。
人間性心理学と自己実現で有名なアブラハム・マズローにとってアドラー心理学が本当のベースになったみたいです。
1935年の秋、アドラーは背の高い、外向的な若い、後に教育に大きな影響を及ぼすことになる心理学者、アブラハム・マズローの師の役割を果たし始めた。・・・・・ウィスコンシン大学の大学院での研究を通じて個人心理学のことはよく知っていた27歳のマズローは、すぐにアドラーの非公式のクラスに定期的に通うようになった。そしてついに友人としても多くの時間を過ごすようになった。「エイブはいつもアドラーのことを話していました」とバーサは後に解雇している。「そしてアドラーの理論にひどく興奮していました」・・・・・アドラーはまたマズローの関心を人間の特徴である共同体感覚の考えに向けた。
自己実現から自己超越へという、マズローの発想の基底には、人間の精神的健康は、単なる個としての自我意識から周囲、社会、環境へと関心が広がっていくことによっているという共同体感覚の発想があることが推測できます。
ただ、個性的な二人は、やがてちょっとしたいさかいから、離れてしまいます。その後独自の道を歩んでいったマズローは、それでも「このことを数十年後も後悔することになる」のです。
マズローは1970年に亡くなる少し前に宣言している。「私にとってアルフレッド・アドラーは年を追うごとに正しいものになってきている。事実がわかってくるにつれて、アドラーの人間のイメージはますます確固たるものになってゆく・・・特に・・・全体としての人間を協調したことを」
アドラーからマズローと前述のロジャーズへと、肯定的、全体論的な人間観に基づく心理学は大きな流れとなっていったのです。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 12, 2006
大著「アドラーの生涯」をやっと読み終わりました。いろいろな本との併読で、少しずつ読んでいたのでなかなか進まなかった。
20世紀初頭から半ばまでのアドラーの活動と欧米の臨床心理学者との関わりがとても興味深く、歴史的価値のある本だと思いました。
その中で、面白いと思った箇所をいくつか引用、紹介していきたいと思います。
まずはカウンセリング心理学の巨人カール・ロジャーズ。
この冬(1927年)、ニューヨークや他の場所でのこのようなプレゼンテーションを通じて、アドラーはアメリカの精神衛生の分野で長期に渡る影響を与え始めた。アドラーのアプローチに啓発された人の中に、後にカウンセリングと人間性心理学における先駆者となる若きカール・ロジャーズがいた。「私は・・・1927年から28年の冬に・・・アドラー博士に会って、話を聞き、観察するという特権を持った。ニューヨークで当時、新しい児童相談研究所でインターンをしていた時である」とロジャーズは後に人生を回顧している。「研究所は大恐慌の時につぶれてしまった。研究所のかなり厳格なフロイト派のアプローチに慣れていたので-病歴は74ページに及び、子どもを『治療する』ことを考えるよりも先に一群の包括的なテストをしなければならなかった-私はアドラー博士の、子どもとじかに関わる、非常に直接的でだまされたと思うほどシンプルなやり方にショックを受けた。私がアドラー博士からどれほど多くのことを学んだかを認識するまでにはしばらく時間がかかった」(p.264)
ロジャーズに鮮烈な印象を与えた「シンプルなやり方」が後にあの非支持的療法へ発展していったのでしょうか。天才は天才を知る、人の良いところを素直に受け止めるロジャーズはやっぱりさすがです。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
March 05, 2006
以前紹介したアドラーについての初の本格的伝記「アドラーの生涯」をようやく今読み進めているところです。分厚いのですが、なかなかおもしろい。20世紀初頭の臨床心理学の黎明期、文化咲き誇るウィーンで展開された、精神分析運動内での人間ドラマは見ものだったでしょうね。私もいたかった。
本書の前半で、著者はアドラーとフロイトの性格的違いについてこう描いてます。
気質的にも二人の医師はまったく異なっていた。フロイトが医学の道に進んだ主な動機は研究のためであり、また彼は生涯を通じて非常に思索的で本を読むのを好んだ。患者を診ることは経済的には必要だが、あまり愉快なことではないと、家族にも友人にもはっきりと表明していた。フロイトは必要とあらば心のこもった態度を取ることができたが、非常に熱烈な崇拝者を別にすれば、フロイトのことを温かい、あるいは陽気な人物であるという人はほとんどいなかった。それとは対照的に、アドラーは医学を選んだのは診療のためであり、研究室での調査に魅力を感じたことは一度もなかった。アドラーは専門家以外の様々な聴衆の前で講演することと同様、患者を治療することも楽しんだ。陽気で外向的なパーソナリティーのアドラーは、夕方にぎやかなカフェで友人たちと過ごすことを好んだ。
この違いは理論から思想、技法まで、二人が作り上げた心理学の姿に影響を与えていきます。
ユングとフロイトはとても親密な関係の時期があったのに、アドラーとフロイトは相互に才能を認め合いながらも最初から、
二人が友人になることはなかった。社交場のつきあいすらなかった。旅先から互いに手紙を出し合っていたという記録も、家族間の交流もなかった。
だそうです。正反対なタイプだったのでしょう。別れは必然だったのね(涙?)。だからフロイトとアドラーが師弟関係になんかなりようがなかったのです。
フロイトから見ればアドラーは「素直じゃない若僧」、アドラーからは「威張りくさって変なこというおっさん」だったのでしょうか。ふたりのこの性格の違いは今に至るまで、両派のスタイル、雰囲気に表れているような気がします。
学者、研究者好みのフロイトと、プラグマティストのアドラー、この二人のスタイルを横軸に、科学主義の行動科学(家族療法も?)と神秘主義のユングを縦軸に取れば、その臨床家の立ち位置が定められたりして・・・。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
February 07, 2006
アドラー心理学の基本用語は大体取り上げたかなと思ってましたが、一つ忘れてました。ライフタスクという概念です。私たちが、実人生、生活の中で常に直面し、対処を求められ続けている課題のことです。
あるライフスタイルを持った人があるライフスタスクに出会うと、必ずある一定の行動をします。たとえば、「すべての女性が私のことを軽蔑している」というライフスタイルを持ったひとが、女性というライフタスクに出会うと、必ず避けて逃げ出してしまう、というように。
ライフスタイル×ライフタスク=行動
アドラー心理学では、私たちが人生で対処、解決するべき課題を3つに整理しています
仕事のタスク:職業、学業、家事や育児など生きていくのに必要な一切の生産的活動。子どもにとっては遊びも仕事のタスクに入ります。
交友のタスク:他者とどう付き合うかとか、対人関係一般に関する課題。職場、友人、隣近所との関係。他者と人間同士として出会い、相互に尊敬し合い、協力するという、仕事のタスクに比べるとやや困難な課題。
愛のタスク:主に異性関係と家族関係で、「運命共同体」的な関係に関すること。最も距離の近い関係で、クリアするのにかなり困難なタスク。
他にもレジャー・タスクやスピリチュアル・タスクといった自分自身や宗教性との付き合い方などいろいろ考えられているようですが、実際の生活や臨床上ではこの3つに集約されてしまうはずです。
これを学んだ若い頃の私は、人生をそんなに単純にまとめられるかと思いましたが、よくよく振り返って考えてみると、自分の生活は確かに3つのタスクに直面する連続なのだということに気づかざるを得ませんでした。
私たちの人生は、これらにどう応えるか、ということを巡って様々な色合いが現れてきます。
対人関係の距離でいえば、仕事のタスクが最も遠く、愛のタスクが最も近いので、愛の課題をうまくこなすことは、誰にとっても大変難しいものなのはわかるでしょう。もしかしたら100%成功している人なんていないかもしれません。
愛のタスクで失敗すると、何らかの臨床的問題になりやすいかもしれません。だからといってそれで「病理が深い」という言い方はできません。
仕事のタスクさえ何とかこなせていれば、愛や交友で失敗してても生きていけるからです。むしろ仕事のタスクがうまくいかないということは、その人はかなりしんどい状態で相当深い問題を抱えていたり、援助が難しいこともあるかもしれません。
臨床的には、その人がどのタスクでどのような問題を抱えていて、どのタスクがよりうまくいっているかをアセスメントことが大切になるでしょう。仕事のタスクについて援助するか、当面交友関係についてカウンセリングしていくか、親との関係について絞っていくか、などとクライエントと協同で検討していきます。
パーソナリティーとか無意識とか自我とか病理とかトラウマとか・・・は、いかにも心理学っぽい魅力に満ちていて専門家やマニアの関心を呼びそうですが、私たちがほんとうに最も大事にしなくてはならないものはそんな「心の中」ではなくて実はこれ、ライフタスクという世界からの問いかけなのだと私は思います。
その問いかけに建設的に、創造的に応えるように自分や他者を勇気づけていくこと、大げさにいうと、ここに生きることの極意が秘められているのだと思います。
ライフタスクに対して、われわれは態度決定を迫られます。ライフタスクへの応答の中で、われわれの共同体感覚が試されるのです。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
December 14, 2005
まだ十代後半の若き頃、私に鮮烈な印象を与えた映画に、P・K・ディック原作、リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」がありました。酸性雨に煙る未来のロサンジェルスで展開されるレプリカントと呼ばれるアンドロイドとハリソン・フォード演じる刑事(ブレードランナー)の執拗で哀しい追跡劇、東洋と西洋が混然となったSFXによる妖しい都市風景と幻想的なバンゲリスの音楽もマッチしてて実によかったな。
その映画の隠れたテーマに、記憶とアイデンティティーの問題がありました。逃走中のレプリカントは人間としての記憶を植え付けられていたために、自分たちはれっきとした人間だと思いこんでいたのですが、ある時疑念が芽生えて反乱し、脱走したのでした。レプリカントを作ったタイレル社の社長からこのことを聞かされたデッカード(ハリソン・フォード)が、「memory」と驚きながらつぶやくシーンを私はよく憶えています。遠い惑星を脱走して地球に戻ってきたレプリカントたちは、アイデンティティーの揺らぎと死の恐怖におののいていたのでした。
記憶とは不思議なものです。その存在を確信している時は揺るぎなく確かなものに思えるのですが、ひとたび何か起こると意外なほどもろく変わってしまうものです。
アドラー心理学のカウンセリングでは、記憶を早期回想という形で取り出して、その人のライフスタイル、認知の姿を理解しようと努めます。
早期回想とは、
①ある日ある所での特定の出来事の思い出であること。
②始めと終わりのあるストーリーであること。
③ありありと視覚的に思い出せること。
④感情を伴っていること。
⑤できれば10歳くらいまでの出来事の思い出であること。
といった条件を満たす思い出です。単に「昔元気に遊んでいた」といったような報告ではなく、「入学式に、母親に連れられて校門をくぐった時に・・・・」などと具体的な出来事として思い出されるものです。心理学でいうエピソード記憶に当たるものといわれます。
早期回想は、その人のライフスタイルをよく反映します。なぜなら、
・人は自分の過去の記憶の中から、現在のライフスタイルに一致したものだけを思い出す。
・記憶もまた、認知バイアスの作用によって、ふるいにかけられている。すなわち、われわれは思い出す必要があると信じていること、覚えておきたいと思うこと、自分の役に立つだろうと感じられることだけを選択的に思い出す。
・記憶は自分の信念を強化するために使われる。
・実のところ、人生とはこんなものなのだ。
・これが私です。
・私は~を忘れはしない。
・私は~をいつも肝に銘じておこう。
フロイトは忘れられたものに意味があるとしましたが、アドラーは覚えているものにこそ意味があると考えました。
記憶とは機械的な録画装置ではなく、既に編集された作品なのです。記憶は今現在不断に構成されているもので、過去の忠実な記録ではありません。早期回想を聞き取り、分析することで、その人の基本的な認知のスタイルをうかがうことができます。
すべての記憶には省略や歪曲が含まれている。人は、内的な必要にあわせて、自分の記憶に着色し、あるいは省略する。また強調したり省略したり、誇張したり、縮小したりする。 (H・H・モサック)
早期回想の解釈法は専門的な部分ですので、省略しますが、記憶の中味の象徴解釈よりも、語られ方、話のパターンや構造に注目します。その点で、フロイトやユングの夢解釈より、心理テストのTAT(絵画統覚検査)の解釈や文化人類学者レヴィ・ストロースなんかの神話の構造分析に似ているといった人もいました。
おもしろいのは、治療がうまくいってクライエントの認知やライフスタイルが変わったら、早期回想も変わるというのです。新しい早期回想が出てきたり、それまで後生大事に抱えていた思い出が変わって思い出されたり、思い出せなくなったりするのです。
普通の会話でもカウンセリングでも、思い出を語ることはよくあることだと思うのですが、アドラー心理学のやり方は、記憶を対象化してものの見方を分析するところは認知療法に、その語りの場を共有して物語の変更を目指すところはナラティブ・セラピーに似ているかな、と私は思っています。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
November 26, 2005
前述の事故は無事解決の方向に向かっており、すでに復活しております。心配して下さった方々、ありがとうございました。周りの方にもいろいろ励ましていただき、調子に乗って「もっとやさしくして」「おごって」などと言うものだから、完治したとアセスメントされてしまったようです。
さて、アドラー心理学において、家族価値と対になって説明されるのが家族の雰囲気です。
それぞれの家族には独特の家族成員の役割の定義や、家族成員間の約束事、あるいは家族内の問題解決のためのルールがあります。これらをひっくるめて家族の雰囲気といいます。家族の雰囲気ははっきりことばにして決められることもありますが、多くの場合はことばにされないままの暗黙の雰囲気です。 「実践カウンセリング」
他人との付き合い方、問題の解決方法、物事の決め方、感情の使い方、性役割の意識などなど、言葉になりにくいレベルのコミュニケーションのルールのことを総称します。ルールについてのルール、ルールの決め方についてのルール、メタルールとでもいえばいいでしょうか。
大抵は両親や年上のきょうだい、近親の大人の行動がモデルになって、子どもによって学習されます。特に男女の役割については、子どもは両親のやり方を見て学ぶことが多いでしょうね。
どのような行動が実際に効果があり、どのような行動がうまくいかないかについて、子どもはほんとによく観察していますよね。
*家族の雰囲気の例
全般的雰囲気
開放的に話し合う vs 閉鎖的で話し合わない
楽観的 vs 悲観的
課題解決の仕方
どれだけできたか(プロセス重視) vs できたか、できないか(結果重視)
意志決定の手続き
民主的に決める vs 独裁者が決める
理性的に話し合う vs 感情的に傷つけ合う
規範意識
創造的・現実的 vs 保守的・因習的
援助の仕方
勇気づけ的 vs 過保護・過干渉
などなどいろいろ整理することができます。問題は、家族の雰囲気は通常意識化されにくいということです。その家族の自明性の体系でもあり、表だって指摘したり批判することもできないことがあります。だから、知らず知らずのうちに、そこに育つ者は当たり前の振る舞いとして身につけていきます。このレベルの学習を変えるのは、ちょっと大変みたいです。ベイトソンの学習理論的にいうと、通常の学習の起こるレベルよりも、高いレベルのコミュニケーションだからでしょうか。
だから、家族の価値に対して子どもはノーを言いやすいのですが、雰囲気にはノーというのが難しい。星飛馬は父一徹の命令を拒否して、(当時だから)カミナリ族になることができましたが、それでも「カミナリ族の星」を目指したり、ファシスト的な厳しい総長(っていったっけ?)としてグループを仕切ったことでしょうね(民主的なカミナリ族なんてないだろうけど)。
また、家族の価値は「民主主義」をうたっていても、雰囲気は父親が全てを仕切る「支配的雰囲気」が濃い家庭もあるかもしれませんね。価値と雰囲気のズレや矛盾は、意外とよくあることです。「家族愛」を説きながら、雰囲気は「虐待」なんて今時はざらにありそう・・・(というか実際よく見ました)。
ちなみに私は、両親のヒャクショーの価値観にノーを言いながらも、雰囲気は割と楽天的というか適当にやればなんとかなる的なところがあったので、あまり世代間の葛藤は激しくなく(それなりにありましたけど)、その家庭で生きるのは楽でした。戦争世代でもあり、空襲に追われたり飢えるのは嫌だと思っていて、(最近は旗色の悪い)戦後民主主義的考え方を良い意味で取り入れてくれたからだと思っています。
面接場面では、アドラー心理学のライフスタイル診断をしたり、家族療法でいうジェノグラム(家系図)を作りったりながら家族の価値観、雰囲気を推量していくとけっこう面白いですね。ちょっとした振り返りにはなります。
でも「家族がこうだから俺はこうなった」なんて決定論的な考え方はやめてくださいね。どんな状況でも、人は自らのことを決定できる余地はあるというスタンスは持っていたいと思います。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
November 14, 2005
初めての方にアドラー心理学の諸概念を紹介するシリーズ。自分にとってはよい復習となっています。今回は家族価値という概念について。
一般にカウンセリング・心理療法では、面接、とりわけ心理アセスメントをする段階で、家族に関する情報を収集することはよくあることだと思います。アドラー心理学でも、性格(ライフスタイル)をアセスメントする時に、様々な角度からクライエントから見た家族の姿をうかがっていきます。ライフスタイル形成における家族の影響は当然大きいですからね。
集めた情報についてクライエントさんと語り合う時、家族価値と家族の雰囲気という枠組みで整理して見ていくと、スッキリといくことがよくあります。
家族価値とは、家族が共有している価値観の体系です。家族価値は家族の理想であって、いわば、家族の目標です。 「実践カウンセリング」(以下同)
その家族が、価値ありとしているもの、大事に思っているもの、こうあってほしい(あるべきだ)と願っているもの、これらが家族価値を構成します。星飛馬一家の家族価値は、「巨人の星にならなくてはならない」「死ぬ気でど根性を出せ」でありました。私の育った家では、「普通であれ」「人様の迷惑にならないように」「人並みに」といったところだったかな。両親は田舎百姓の出なもんで、周囲への気配りで生きているような人でした。
家族価値は、主に両親が決定します。両親が一致して重要と認めるものも家族価値ですが、両親の意見が一致していなくても、つねに両親の議論の主題になっているような価値観があれば、それも家族価値です。
父親と母親の価値観が違えば、子どもはそのどちらかを選ぶことができます。常に夫婦仲良く考えを一致させなければならないというわけではないのですね。
家族価値の具体的な例としては、
経済的価値:金銭・財産 社会的価値:地位・名声・学歴・世間体
身体的価値:健康・運動能力・美 行動上の価値:正直・礼儀・人付き合い
性格上の価値:従順・思いやり・やさしさ・勤勉・忍耐 性的価値:男(女)らしさ、貞節
などが考えられます。
難しい話じゃないでしょ。でもクライエントさんに通じやすい枠組みや言葉を使っているので、ご自身の家庭を振り返るときにはけっこう重宝しています。児童相談所では、「心理診断」というアセスメントのまとめを文書でこしらえる時に特に役立ちました。
ここでポイントは、そういう家族価値を前にした時、子どもは、それについて何らかの態度決定をしなくてはならないということです。それに対して、イエスかノーかをいわなくてはならないのです。
家族価値に従う子どもは、家族価値を受け入れて自分のものとします。この場合には、その価値観はその子にとっては、まったく議論の余地のない自明の価値として、ライフスタイルに取り入れられます。
反抗する子どもは家族価値を「蹴飛ばし」ます。これが両親の泣き所だとわかっているからです。(警察官の子どもが法律に触れる行為をしたり、教育者の子どもが学校を退学になったりする例は珍しくありません)
星飛馬は、素直に父親の価値観を受け入れました。もし別の考えを持つ母親でもいれば「あなた、そこまでしなくてもいいじゃないの」なんて諫めて、「人間、勝つことよりも優しさが大事なのよ」とかいう価値観を子どもに示すこともあったかもしれません。そうしたら飛馬は「こんなのくだらん!」と父・一徹を拒否して非行少年になるか、もう一つの価値観を受け入れて、カウンセラーの道にでも進んだかもしれませんね(^^)。
ここでポイントになるのは、家族価値は影響因としては、確かに大きいものではあるけれど、子どもにとって絶対的なものではないということです。子どもは、親の提示する価値観を、常に拒否する権利があります。親の側からすると、子どもが親の言うことを聞かないのは当たり前ということになります。だから、子どもは自分の問題の全てを親の責任にはできないし、親は子どもを言うとおりにさせられないということを受け入れなければなりません。また、セラピストは、クライエントの問題を親の子育てや愛情不足に帰してはいけないのです。不幸の理由は究極的には、相手にはないのです。
アドラー心理学が責任性の心理学と言われる所以です。
でも一方で、このような考え方は世間受け、マスコミ受けはあまりしません。少年問題とかで、何か社会の耳目を引く事件が起これば、こぞって親の子育てが悪かっただの、子どもの心をもっと把握しないとならないとか騒ぎ出す人が後を絶ちません。
でもね、無理なものは無理なのです。全ての悪を暴き出すこと、責任者を表に出させることはできないと思った方がよいと私は考えています。
ちなみに私は、上記の両親の価値にことごとく「ノー」を言った人生だったかも。生意気で反抗的で、人と違うことをいつもしたがる・・・・。でも親子関係は、よかったのです。次回にお話しするつもりの「家族の雰囲気」が星家と違って支配的なものではなかったからだと思っています。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
September 21, 2005
いよいよ、アドラー心理学の最重要概念、共同体感覚について考えます。目的論や勇気づけが表看板なら、共同体感覚は裏看板ってことになるのかなあ。意味はそれほど難解でもないけどなかなか正面から取り上げると難しい概念でもあります。これについて語る時、アドラー心理学は科学ではなく、ひとつの思想になります。共同体感覚は、臨床や教育の目標だけではなく、人類の幸福な生存のためには必須であり、究極の目標であるとさえいっているからです。こんなあやしいこという心理学なんてないかも(^_^)。
アドラーは、精神的健康-人生における個人の成功-が、その人の共同体感覚の機能であると強く感じていた。共同体感覚とは、「人類との同一化」「共同の感情」あるいは「人生への帰属」を意味する マナスター他著「現代アドラー心理学・上」
「人間共同体は私を援助してくれる。私は人間共同体に貢献できる。私には人間共同体の一員だ」という感覚を“共同体感覚”と呼びます。 「アドラー心理学基本用語集」
(共同体感覚は)共同体に対する所属感・信頼感・共感・貢献感であり、精神的な健康のバロメーターです。 岩井俊憲著「勇気づけの心理学」
アドラーは共同体感覚について三つのことを言っています。先ず第一には、「私は共同体の一員だ」という感覚。「所属感」といってもいいでしょうね。第二には、「共同体」は私にために役に立ってくれるんだ」という感覚。「安全感」とか「信頼感」と言えば近いかな。第三に、「私は共同体のために役立つことができる」という感覚。「貢献感」とでも言えばいいかな。 野田俊作著「アドラー心理学トーキングセミナー」
いくつか引っ張ってみましたが、アドレリアンによる共同体感覚の説明はいっぱいあります。読んだだけでイメージできますでしょうか?共同体感覚の「科学的定義」というものはありません。それはどんなものでどんな体験なのかは実際に味わうしかなく、言葉では描写したり、説明するしかできないと言います。そこで共同体感覚には、いろんな説明、切り口があるのですが、そのすべてが、アドラー心理学では、人間の根本的欲求は「所属すること」であると考えているところから出発していると言っていいと思います。けして快感充足とか無意識のあれこれが「根源」ではないのです(むろん、大きな影響因ではあります)。私たちは人生、人間関係、社会において「自分の場を得ること」を常に目指しています。思い通りにいけばよいのですが、なかなか人生そううまくはいきません。得られないとなれば「不適切」「破壊的」「ビョーキ」なやり方を駆使してでも得ようとさえします。中には逆説的にも「死ぬことで」居場所を得ようとすることもあり得ます。そのくらい居場所を得ることに「必死」なのです。
アドラー心理学では、どうせこの世に生きて所属するのなら、自分だけじゃなく、他人や世界にとっても「良いやり方」でやろうよ、そう言いたいのですね。世界に対して少しでも建設的に関わっていきたい、そういう関心というか感覚が、身体の内部から自然に湧いてくることを望みたい。そう本気で思っているのです。ところが共同体感覚は、誰にでも同じように同じだけあるわけではない。教育や治療によって「意識的に育てなくてはならない生得的な可能性」でもあるのです。
問題行動のある子ども、神経症者、犯罪者、性的倒錯者、売春婦、自殺する人の行動のような、人生の建設的でない面におけるあらゆる行動は、多かれ少なかれ、まさしく、共同体感覚の欠如とそれに伴う自信の喪失にその起源を求めることができます。 アドラー著「人はなぜ神経症になるのか」
僕の臨床的経験では、その考えはほんとに妥当します(アドラー派として見るから当たり前だけど)。共同体感覚という視点に立つことで、クライエントさんの他者や世界との付き合い方、広がり方を直感することができます。そこで、共同体感覚の育成こそが、アドラー心理学的な治療や教育の目標になるわけです。
我々はみな社会に所属し、そのなかでの自分の場を見出したいと思う。懸命な親は、このことを知っており、子どもたちが愛されているし、望まれているということを子供たちに知らせる。よい学校では生徒たちはお互いに支え合う。あらゆる集団において問題となるのは、一人ひとりが恨みや争いなしに、できるだけ充実した発達を遂げることである。-そうすることによって各自がそれぞれ、羨んだり妬んだりしないで、最大限に自分の可能性を伸ばすことを欲するようになることである。このことは、すべての人が、十分に所属していると感じた時に起こるのである。 「現代アドラー心理学・上」
現代が子ども達に共同体感覚を育てるには、はなはだ難しい環境であることは明らかでしょう。
共同体感覚は素敵な考え方だと個人的には思っていますが、語り方によっては、どうしても抽象的できれい事っぽくなってしまいがちだし、アドレリアン内部でも様々な意見があり、ここでも論じていくとどんどん長くなってしまうので、今回はほんの紹介にとどめます。これから時々自分の考えを思いつくままに話していきたいと思っています。わかりにくかったり、ご意見があったらお寄せ下さい。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
September 08, 2005
今日は台風一過で暑かったけど、秋の気配も濃くなってきましたね。例年の夏は不登校や発達障害の子どもたちとバーベキューしたり山に登ったりと、仕事でもけっこうアクティブなんだけど、今年はそういうこともなくて静かに過ごしていました。ブログのおかげで退屈はしなかったけどね。秋はお勉強すっかな。
アドラー心理学による人間の見方、表現の仕方は、ライフスタイル診断として比較的定式化されて示されることもありますが、その態度は常に個性記述的(idioglaphic)でなくてはならないとされています。人は一人一人ユニークな存在であり、その人を理解するとはそのユニークさをまるごと知ることであり、レッテルを貼ることではないと考えています。だから基本的に人格類型論をあまり役に立たないものと否定しています。
その反対に人をある概念的枠組みに当てはめて理解する態度を法則定立的nomothethicと呼びます。概念的枠組みとは、何とか症とか何々障害であるという診断名とか、性格が何々タイプとか、ある基準から判断してその人にレッテルを貼ることです。そのことをもってその人を理解したと考えます。当たっているかはともかく、血液型や星占いもその一つでしょうね。
私たちは、人間のタイプには関心はありません。なぜならあらゆる人間は、固有のライフスタイル持っているからです。1本の木に全く同じ葉を二枚見つけることはできないように、全く同じ人を二人見つけることはできません。自然は非常に豊かであり、刺激、本能、誤りの可能性は非常に数が多いので、二人の人が全く同じということはありえません。それゆえ、私たちがタイプについて語るとすれば、個人の類似性について、よりよく理解するための知的な手段としてだけです。 アドラー「個人心理学講義」
僕みたいな心理屋は、心理テストや精神医学の知識なしに仕事をすることは不可能だから、必然的に法則定立的な見方に偏りがちです。知能テストではこういう結果だから能力はこうだ、DSMやICDではこれに該当すると医師は言っている、だからこういう病気なんだ、小さい頃こんなひどいことがあった、だからこういう問題なんだ、といった具合に考えがちです。でも、それでは目の前の人を理解したことにはならない、とアドラー心理学では考えます。人は一人一人、よく見ればみんな違う、そんな決まり切った、出来合いの概念的枠組みに入らないところだって、実際にたくさんあるはずだ、それらをそのまま理解しようとする態度を維持しなくてはならないと教えているのだと思います。
もちろん、レッテルといって悪ければ、診断的理解のメリットもあります。問題について考えるとっかかりになるし、他の人と共通の理解が得られることができます。特に最近は、例えば発達障害(LDやADHDやアスペルガー症候群など)としての診断を受けることで、本人の状態が前向きに概念化されて、問題と自分が切り離されてホッとする(外在化というようです)、救われるということも少なからずあるようです。でもそれは、それ以前の「診断的理解」が「性格が悪い」とか「子育てが悪い」とか、何か本人などのネガティブな属性として周囲から「実体化」されていたから、専門的な診断がその毒消しになったということが大きいのかもしれません。
でも実際に仲良くなる、そして援助するには、結局「その人」と付き合うわけで、特に「うまく」やれている時は、諸々の法則定立的概念は吹っ飛んでたり小さくなっているはずです。きっとコミュニケーションや治療の上手な人は、法則定立的理解と個性記述的理解をうまく使い分けているのだと思います。ただ、これは言うは易く行うは難しで、僕も充分にうまくやれているとはまだいえませんね。特に性格類型論っておもしろくて誘惑的なんだよね。それから、ホントに気にくわない奴はやっぱダメね(^_^;)。まあ、だから無理はしないことです。
何年か前、以前からファンだったスコット・ミラーというブリーフセラピーの最前線にいる人の来日ワークショップに出た時、ミラー先生が「アメリカはいつも最悪のものを輸出する。ひとつは戦争で、ひとつはDSMだ」と宣ったのを聞いて、さすが、と心の中で拍手を送ったことがあります。心理学なんて、もっと最悪(なものも多いかも)。だから言葉を大事に扱いながらも、既成の言葉にとらわれないようになりたいと思うわけです。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 25, 2005
先日書店で、アルフレッド・アドラーの本格的伝記が翻訳、出版されているのを発見しました。「アドラーの生涯」エドワード・ホフマン著,岸見一郎訳,金子書房 けっこう分厚くて、その本一冊で立つことができるほどの「自立」した本です(意味不明)。
翻訳者の岸見一郎先生は、お目にかかったことはありませんが、全国のアドレリアンの中では人格、見識、学識抜群と評価の高い学者様(ご専門はギリシア哲学らしい)でいらっしゃいます。僕みたいな田舎(心理)芸者とは格が違います。翻訳の水準も高く、解説も充実していますので、7000円台とお高いですが、関心のある方は是非お買い求め下さい。
これまでフロイトやユングの伝記はけっこう出ていたけど、アドラーの本格的なものは本邦初だと思います。これをきっかけに野に埋もれやすかったアドラー心理学の認知がさらに高くなれば本当にうれしく思います。
僕はこの夏無駄遣いしすぎたので、これからお小遣いを貯めなきゃ。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
August 18, 2005
アドラー心理学については理論の話が続いたので、少し技法について話したいと思います。といっても治療技法自体は、他のカウンセリング、心理療法とそれほど変わらないところも多いと思いますが、同じようなことをしていても「勇気づけ」同様、アドラー心理学らしい言葉遣いというのも見られます。課題の分離はその一つかもしれません。
課題の分離とは、読んで字のごとく、カウンセリング、あるいは日常生活の中で、その人にできること、直面していること、責任においてなすべきことを、その人の課題として分ける、整理することをいいます。クライエントができること、できないこと、カウンセラーができること、できないことをできるだけ、きちんと整理してお互いに共有していく作業が、治療の初期に(あるいは一貫して)必要だと考えるのです。
というのはクライエントは特に最初の頃には、本来自分の課題でないものを肩代わりするかのように悩んでいたり、心理療法に過剰な期待をしていることが見られるからです。自分の不幸の原因は、周りの人にあり、その人たちを変えない限り幸せになれないと思っている人もいるかもしれません。そこでカウンセラーは、クライエントが自分自身の課題を見つけ出し、その解決を人に求めるのでなく、自分の力で解決に向かっていけるよう勇気づけていかなければなりません。
例えば、子どもが不登校になって悩んだお母さんが、子どもを学校に行かせたいと相談に来た時、こんな風に提案することができるかもしれません。
「あなたを通じて彼(子ども)の問題を解決することは私にはおそらくできません。私にできるのは、登校拒否児の母親として、なお、いかにあなたが幸せに生きるか、という問題です。彼が学校に行こうと行くまいと、それとは関係なく、あなたが幸せになるお手伝いはできると思います。そして、あなたが幸せになれば、彼もきっと幸せになると思います。だって、幸せな人と一緒に暮らしながら、なお不幸でいるということはとても難しいことだから」 「実践カウンセリング」
変えることができるのは、クライエント本人の考え方や行動だけです。周囲の人をどう変えるかではなく、自分がどう変わればよいかが問題であることを理解してもらう必要があります。
また、治療者の方も「私がやらなきゃ」と変な使命感や万能感を持っていたり、「なんてかわいそうなんでしょう」と共感過多というか同情モードでいると、クライエントの課題に踏み込んでしまうこともあり得ます。自分にできることとしたいことをきちんと分けていないと、症状に振り回されたり、問題解決とは逆の方向に行ってしまうかもしれません。治療者は自分とクライエント双方の責任を明確にして、クライエントが自分の課題に建設的に対処することを勇気づけて援助していきます。それが治療者の責任といえるでしょう。
おそらく真っ当な心理療法諸派はどこでも、「転移・逆転移」とか「治療契約」とか「枠組み」などと概念化して、この辺の問題にきちんと考えて対処しようとしていると思います。
課題の分離は、セラピストとクライントとの関係だけでなく、面接の中の話題にもよく出てきます。特に子育てや家族に関する相談(ごく身近なしつけから虐待など深刻なものまで)では、面接の基本的テーマは課題の分離に終始するということが多いような気がします。およそ日本の親子関係は、課題の交錯・混乱・融合とでも呼ぶべき事態が多いですからね。甘やかしにしても虐待にしても、親の課題を子どもに押しつける、子どもの課題に過剰に関わるという点は同根といえるでしょう。
では何が親の課題、子どもの課題かということになりますが、アドラー心理学の講座やカウンセリングを受けると、その辺を丁寧に取り上げて、ディスカッションしていきます。興味を持たれた方は、是非参加してみてください。SMILEなどアドラー心理学に基づく親子関係セミナーでは、特にそのために一章(ワンセッション分)設けてあるくらいです。僕は面接では、よくホワイトボードを使って、クライエントの状況に合わせながら、親の課題、子どもの課題、共同の課題(家族、あるいは二者間で対処するべきこと)と分けた表を作って、みんなでディスカッションしながら書き込んでいくことをします。それぞれが勝手なことを言ったりして思わず「それはちがうだろう!」「そうはいっても、ブツブツ・・・」とか言い合って親子のホンネが出たり、逆に冷静に話し合うきっかけになったりと、問題解決に向けて活発な時間にすることができます。
でも「これはあなたの課題、あなたが一人でやらなきゃダメよ」なんて、課題の分離を押し通してばかりいると、冷たい感じになったり、こちらのやることがなくなってしまうので、共感的に聴く雰囲気作りやクライエントのニーズを先ずは取り上げたりと、柔軟な姿勢も大事でしょうね。
以上のことからわかるように、責任性をアドラー心理学では重視します。どんな状況でも「人間は自分の運命の主人である(アドラー)」と信じるからこそ、我々は課題の分離を自信を持って遂行できるのだと思います。
でも僕は、娘にだけは課題の分離をしないんだ。思いっきり甘やかしてパパの側から離れられなくするんだもん(^_-)。
| Permalink
|
| TrackBack (1)
August 05, 2005
アドラー心理学を一つの思想体として見ると、いくつかの際だった特徴がありますが、その一つが全体論(Holism)というものです。いわゆる科学的思考とそれに基づく心理学はよく要素論とか還元論といわれますが、人間を心と体、理性と感情、意識と無意識などなどの部分に分けて、それぞれを研究しようとする態度です。我々が小学校の理科以来、科学的とされる考え方はまさにそれですね。だから大方の人には、何となくでも身についた態度になっていると思います。その点では精神分析学も行動主義心理学も、古典的なレベルでは同じ穴のムジナです。それに対して、
部分についての知識をいくら集めても、生きた人間全体はわかりません。人間は、心と体・理性と感情・意識と無意識などの部分の寄せ集めではありません。それ以上のものです。人間は全体としてひとつの統一体・生命体であり、それ以上は分割できないひとつの単位、まとまりなのです。 「アドラー心理学基本用語集」
というのがアドラー心理学の全体論です。以前に書いた目的論や意識と無意識の相補性などは、まさにこの上に乗っかった理論といえます。ちなみに全体主義とは全く違うから間違わないでね。
全体論を取ることで、人間の見方はとてもすっきりと見通しがよくなり、日常生活や臨床はより実践的になりえます。
ことばと行動が表面上では矛盾している場合でも、行動全体を見れば必ず一貫した流れが見いだせます。ことばよりも行動を信用すること。何を考えているかではなくて、何をしているかに注目しなければなりません。 「実践カウンセリング」
全体論はアドラー心理学だけの専売特許ではありません。ここ数十年の思想や文化の動きを見ると、分野やニュアンス、主張は違っても似たような思考は散見されます。いずれも還元論といった近代的思考に対決しての、アンチテーゼ、カウンター・カルチャーとして活躍しました。僕が多少なりとも触れた中では、以前少し書いたトランスパーソナル心理学やそれに関連のあるニューサイエンス、東洋医学や代替医療、ホリスティック医学、G・ベイトソンの関係主義的思想、エコロジー、経済人類学などが思い浮かびます。
僕自身は、アドラー心理学を学ぶ前から、なぜか自然に全体論者になっていました(別に名乗ってたとか、自覚していたわけではありませんが)。だから、しっくりとこういうものを受け入れることができたのですが、これが巷で喧伝されているような新しいオルタナティブな思想であるとか、21世紀を作る正しい方法だという確信があるわけではないですね。あくまで僕は、思想家ではなくてこういった文化的商品の消費者、利用者ですから。京大の浅田彰氏がずっと以前(80年代後半頃)、多分にムード的なニューサイエンス運動を批判して、「アナログではなくて、デジタルを徹底的に推し進めること」などと言っていたような方向性の魅力や有効性はわかるし、還元主義的科学の迫力もなかなかのものだと思います。でも、全体論は人間や「いのち」と向き合うのに、とても大事な視点であることは間違いないとも思っています。優れた臨床家や教育者は、発言は科学性やエビデンスを重視していても、その根底では全体論的な見方をしている、といったところがあるんじゃないかと推察しています。
まあ、そんな難しい哲学的なところはすっ飛ばして、とかく観念的で、曖昧、妖しくなりがちな全体論的思想を、アドラー心理学ではうまく日常生活や臨床、教育に生かしていけるように巧みに技法化されているところがいいなと思っています。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
July 25, 2005
「精神医学は対人関係論である」といったのは、確かサリヴァンでしたが、アドラー心理学もそれに先立ち、まさに対人関係論であるといえます。
「心理学が対人関係を扱うなんて、当たり前じゃないの」と思われる方がいるかもしれませんが、臨床心理学の考え方のパラダイムには、大きく分けて対人関係論と精神内界論という二つの思考法があって、アドラー心理学はもっぱら前者なのです。
精神内界論とは、心の中に何か問題を起こす実体のようなものがあって、それが原因となるという考え方です。何か人目を引く問題や事件が起こると、マスコミなんかで学者や評論家が登場して、「無意識」「葛藤」「トラウマ」「欲動」「攻撃性」「心の闇」などなどの概念がよく使われ、お馴染み(?)の「心理学的説明」がなされていますね。
対人関係論では、あらゆる行動は、対人関係上の問題の解決を目的としてデザインされ、実行されると考えます。行動の「意味」は、心の中にあるのではなくて、対人関係に及ぼす影響から判断されます。
人がある行動をするとき、それには相手役と呼ばれる人がいるはずです。その人に対してある目的(注目を引く、支配する、優位に立つなど)を持ってある行動(認知、感情、症状など)をします。それを受けて、相手役の人はその人なりの目的を設定してある行動を選択して反応していく。それを受けた人はさらに・・・とその繰り返し。そうしていくうちに、あるパターンが見えてきます。その人個人のパターンとして見えるものを「ライフスタイル」、その場の人間関係全体で繰り返されるパターンは、家族療法やシステムズ・アプローチでいう「関係性のパターン」といえるかもしれません。
子どもの問題行動(神経症的症状、不登校、非行など)に対して、親は何らかの対処をしなくてはなりません。それを解決行動と呼びます。叱るとか、なだめるとか、お小遣いをあげるとか、泣くとか。それで解決すれば御の字ですが、相談に来られるからにはうまくいかなかったから来るわけで、その意味で親の解決行動は実は偽解決行動であったと呼ぶこともできます。そこで、ブリーフ・セラピーでは問題行動/偽解決行動の悪循環を絶つべく、働きかけるわけですが、もちろんアドラー心理学でも同様です。
こんな風に、コミュニケーションの場で生起している行動や認知、思考、感情、症状、あるいは身体感覚などの連鎖を丁寧に追っかけていこうとする態度を、対人関係論と呼べるのかもしれません。
この考え方でいくと、こちらの観察力やコミュニケーション力に自覚的になるので、臨床的実力は自然に高まるような気がします。面接の場では、自分自身は傍観者的、中立的態度でいられることはあり得ないと悟るからです。
人間の行動の中には、一見他者との対人関係とはまったく無関係で、個人の内的世界とのみ関係しているように見えるものがあります。そのような行動も、よく考えれば対人関係の中でのみ意味があるのです。 「アドラー心理学基本用語集」
でも実は、僕がアドラー心理学をマスターする上で一番苦労したのが、この対人関係論でした。考えてみれば、当たり前の考え方なんだけど、なまじ心理学(精神分析やユング心理学などなど、勉強家だったもんで(苦笑))なんかかじっていたものだから、何かというとつい「心の中」に何かがあってそこから説明しようとしてしまう癖があったからでした。特に児童相談所にいた時期は、昨今のトラウマ・ブームはやっかいでした。今でも「100パーセント純粋正統派アドレリアン」ではないので、精神内界論的発想を完全に捨てたわけではないのですが、不可解な精神現象を何でもトラウマから見ようとすることは避けるように努めてきました。
また、奇妙な性的な問題、非行を起こした少年には、とかく周囲は大慌て、大騒ぎになりがちです。校長なんてもう「何かあったら困る(ホンネ:マスコミに出たら困る)、すぐ施設にやってくれ」という剣幕だし、ご家族もどうしても扱いきれない感じを持ちがちです。それでもこちらは、彼の頭の中に「異常性欲」があると思わず、彼の目的、対人関係のあり方を一緒に探っていくことはとても有益でした。その上で、女の子と仲良くなるにはどうすればよいか、あるいは一人の過ごし方、または単なる猥談をするなど、問題とは違ったいろいろなテーマが出てきて扱いやすくなります。
アドラー心理学だけでなく、対人関係論は問題にとらわれず、問題とうまく付き合っていくための基礎的発想法だと思います。これからもさらに精進して、しっかり身につけていきたいものです(前向きだなあ)。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 29, 2005
アドラー心理学の表看板の一つ、勇気づけです。出版されている関連本には、必ず出ていて、アドラー心理学といえば「勇気づけの心理学」とされています。僕が長年いろんな心理学を学びつつも、いまだにアドラーから足を洗えないでいるのも、この勇気づけがあればこそだと思います。
「植物に水が必要なように、、子どもは絶えず勇気づけを求めています。勇気づけがなくては、成長することも所属感を持つこともできません」 (R・ドライカース)
適切な勇気づけを受け、また自分自身や人を勇気づけることができれば、自信やエネルギーが身体の中に湧いてきて、問題解決に向かう意欲が高まります。勇気づけの上手な人の側にいると、何か安心感と同時に活力を感じ、話を聞いてもらいたい気持ちが出てきます。
では勇気づけとは何か?意外にスッキリと言えない感じが僕にはあります。「励ます、元気づける、誉める、おだてる、活を入れる、焼きを入れる(?)、正の強化・・・」どれも関係するようで、でも違うと思えます。カウンセリング技法か、といえば確かにそうだし、よくいわれるように親子関係をよくするコミュニケーション・スキルかといえば、まさにそうです。悩めるクライエントさんや子どもの問題行動に苦しむ家族が、アドラー心理学の勇気づけを学んだことで救われた事例は、山のようにあります。
アドラー心理学のテキストには、「誉めることと勇気づけの違い」「勇気づけと勇気くじきの違い」「勇気づけの言葉」などがきちんと説明され、日常生活での実践を勧めています。(右の欄にある、私の師匠であられる岩井俊憲氏の著「勇気づけの心理学」はまさに勇気づけの理解と実践のためにはおあつらえ向きの本です)。それに沿って、毎日の人間関係を勇気づけを元に工夫していったら、きっと何か良い変化があると思います。ここでは勇気づけのやり方を述べる余裕はありませんから、是非お読み下さい。
①勇気づけとは、リスクを引き受け他者とも協力できる能力を与えること。②勇気づけとは、困難を克服する努力を育てること 岩井俊憲「勇気づけの心理学」
でも、勇気づけは他の心理学でいう望ましい関わり方(誉めるとか受容や共感、正の強化など)に比べて、ことさらエビデンスがあるとか統計的に有意に高い効果があるということはないんじゃないかと僕は思ってます。いや、あるいは叱るとか体罰を加えるなんてのより、時間がかかって、難しくて、目に見えた効果はすぐには現れないかもしれませんよ。
でもアドラー心理学では、勇気づけは子育てに始まり社会のあらゆる人間関係にとって、または未来の人類にとって必須だと信じているのです。これは科学というより、価値観であり、一種の思想的選択といえるかもしれませんね。
実際に、勇気づけを意識することで、クライエント(僕の場合は来所した子どもや親御さんたち)と仲良くなれ、楽しくカウンセリングなどをすることができるようにます。かなり人格的にやばい、「病理」が深いなどとレッテルを貼られ、学校や周囲の人から「匙を投げられた」ような人にも臆せず、付き合っていくことができます。だから「ご利益」はけっこうあるのです。
でも、何が勇気づけになって、何がならないかはけっこう難しい問題です。「バカ!」は普通叱責や怒りの言葉ですが、時には、男女間で「甘え」を意味したり、スポーツのコーチの「励まし」としても使いますし、きっと勇気づけにもなりえます。その違いは何から来るかというと、そのコミュニケーションの文脈(コンテキスト)次第ということになると思います。相互の信頼感、共感といったポジティブな人間関係が成立している中で発せられたメッセージは、「勇気づけ」として相手に受け入れられる可能性が高い、と思います。それができる関係をアドラー心理学では、横の関係といいます。だから僕らアドレリアンは、相手とどう横の関係を作るかに腐心します(実際はなかなか難しいけれど)。
かのG・ベイトソン風に言うと、メッセージのレベル(「ありがとう」「バカ」「がんばれ」など実際の言葉のやり取りのレベル)より、メッセージについてのメッセージ(メタメッセージ、つまり文脈)のレベルに注目したプラスのコミュニケーションを「勇気づけ」と言うこともできるかもしれません。
勇気づけは、具体的なスキルから始まり、アドラー心理学的な肯定的な人間観、それによる複雑で多次元的なコミュニケーションの現象全体を表すのだと思います。だから、科学的、操作的に定義することはちょっと難しい。
このようなところから、アドラー心理学はフロイトやユングのような「深層心理学」ではなく、文脈心理学(Context Psychology)と呼ばれることがありますが、その点では、システム論的家族療法に通じるところもあるのです。
何だか小難しいことを言って、かえって勇気づけをわかりにくくしてしまった感がありますが、現実は単純明快、勇気づけ名人とお付き合いすれば、その「体験」によってきっと納得されることでしょう。また、自分の周囲に「名人」を発見したり、今までに誰かから勇気づけられた経験を思い出してもよいかもしれませんね。
ただ、僕は文脈を読むのが苦手でね、「読み」が悪くてはずしてばかりでいつも女の子に「変なおっさん」とあきれられてしまうのです(T_T)。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 20, 2005
一般教養的な心理学の入門書には、アドラー心理学の説明に「劣等感を唱えた」といったようなことが書いてあることが多いと思います。僕が学生の頃には、ただ、アドラーといえばその言葉があるだけでした。でも、劣等感自体はアドラー心理学初期の概念だそうで、実際は今、僕らアドレリアンはほとんど使うことはないのですが、やはり、有名だし便利な言葉ですから取り上げようと思います。
それにしても、20世紀に心理学が台頭して様々な概念や理論が登場しましたが、この劣等感ほど普及し、人口に膾炙し、使われているものはないのではないでしょうか。自我とか無意識とかアイデンティティーとか自己実現などは、心理学っぽさが濃厚ですが、劣等感はいまや日常語です。それほど、現代の私たちの感覚にフィットするのかもしれませんね。
「自分は誰々に比べて劣っている」「まだ~ができない」「~が足りない」と嘆き、悲しむ心情は、万人に共通してあるようです(ない人っていいるのかな)。僕なんかいっぱいありすぎてイヤになる。大体武道や格闘技をやりたがる連中は、劣等感が人一倍強くて単純な奴に決まっておる!
だから、劣等感という言葉のそういう使い方は、別に間違っているわけではありませんが、アドラー心理学的にはやや厳密さを欠くようです。誰々に比べて劣っているから劣等感を感じるのではなく、例えば「1番でなければ意味がない」とか「注目されていないとならない」とかいった目標設定があって、でもそれがかなえられない、実現しない現実や思いがある時に感じる感情を劣等感と呼ぶのです(感情の内容は問いません)。
「人間であるということは、劣等感を持っているということである」「人生の初めにあたり、心理的には、誰にも深い劣等感がある」(アドラー)
主観的に決めた目標と現実認識の差、理想と現実の差の認識が劣等感の源泉です。その差が大きければ、大きいほど「劣等感が大きい」といえます。
では、劣等感を感じたら私たちはどうするか?何とかしないといられなくなりますね。その時にすることを劣等感の補償といいます。補償のやり方としては、勉強で1番になれないから、その勉強をさらに一生懸命がんばるか、それとも他の分野(スポーツとかルックスとか人気とか)に活路を見出すなど、直接的、間接的な方法があります。いわゆる「劣等感をがんばって克服した」というやつです。よくいわれるように、自分が「障害」と認識しているものを乗り越えたり、社会やコミュニティーを改善させたりと、劣等感をバネにして自分を成長させることは洋の東西を問わず見られます。
反対にマイナスの補償の仕方も考えられます。偽りの補償といいますか、劣等感を言い訳にしてその人が直面している課題を回避する、逃げてしまうことがあります。おそらく多くの犯罪、非行、神経症的症状、薬物依存などは、まさに破壊的、否定的な方法で劣等感に対処した結果なのでしょう。それは、長年臨床をやってきた僕にとっては、まさに実感するところでもあります。そうやって、人生の課題、責任を劣等感を使って回避することを劣等コンプレックスというのです。
でも劣等コンプレックス自体が悪というわけでもありません。誰でも自分の弱さを使って、イヤなことから逃げたりさぼったりすることは、正当なことだと思います。出たくない会合や仕事に、「今日はちょっと頭が痛くて・・・」なんて大したことがないのに深刻そうな顔をして、お休みすることは僕だってあります(いつもじゃないよ)。まじめな人や学校の先生は、こういういい加減な態度は気に入らないのでしょうけどね。
ただ、中には劣等コンプレックスを人生の基本戦略に据えている人がいるので、困っちゃいます。だから、何とか人生の建設的な側面で、劣等感に対処していけるようにするのが、アドラー心理学の治療の基本的方向性になるわけです。
「問題なのは、劣等感を持っていることではなく、その程度と性格である」(アドラー)
生きている限り僕たちは劣等感から逃れることはできないので、うまく付き合えるようになれば、人生を乗り切るコツをつかんだようなものですね。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 15, 2005
使用の心理学(Psychology of Use)もアドラー心理学のキーワードの一つですが、ぱっと見わかりにくいんじゃないかな。ちょっとこなれていない用語だと思います。「心的諸機能、部分はすべて、人生の目標に向かう運動の線に沿って、目的のために使用される」と考えることをいいます。思考も感情も、神経症や精神病的な症状も、すべては目的に向かって使用されているのです。
その反対の考え方を所有の心理学(Psychology of Possession)といいます。人間が心的諸機能を持っているということですが、むしろ心的諸機能が人間を持っている、とらえているというニュアンスの考え方です。実は一部を除いて、これが心理学の主流的な発想でした。無意識の「葛藤」が人を動かす、「感情」が人を困らせる、「刺激」が「反応」を形成する、「トラウマ」が症状を起こすといった論法がそれに当たります。常識的な考え方でもありますね。心理的な諸機能を「実体」として見てしまうことにもなっています。
「この思い通りにならない何かが、人を動かす」と考えている限り、人の心は矛盾に満ちていて、思い通りにならないことばかりで、だから心理療法はやたらと時間と金のかかるものになっていかざるを得ないことになります。でも、本当はある目的に向かって、一見矛盾する感情や思考などを私たちは使い分けているのかもしれない、アドラー心理学はその可能性を信じているのです。
意識と無意識も別に対立しているのではなく、目的地に向かう車のアクセルとブレーキのように協調的な役割分担をしています。この発想を僕が精神分析的な無意識論を学んだ後に知った時は、ちょっと新鮮なショックでした。ミルトン・エリクソンに通じる肯定的な無意識観です。
具体的には、「優秀でいたい」という目標に向かって、数学的思考を伸ばす人もいれば、運動能力を使う人もいるし、ハッカーになったり、誘拐をして挑発的な脅迫状を警察に送りつける人もいるでしょう。「人に甘えたい」という目標には、ルックスのかわいらしさを追求する人もいますが、「嫉妬」という怒りの感情を使うこともあるし、突然歩けなくなったりと奇妙な(ヒステリー)症状が現れてくることもあります。また、目標が同じだからといって、いつも同じ手段とは限らないし、同じ手段を取っているからといって、いつも同じ目標とは限りません。
僕たちはいつも「創造的」に、自分の手持ちのレパートリーを選んだり作り出したりしています。ただ、建設的に使いこなす人と、破壊的に使いこなすのが上手な人との違いは大きいですね。アドラー心理学ではこのような考え方の前提を、個人の主体性とか創造性という言い方で表す人もいますが、プラグマティストの僕としては、哲学的な言葉より使用というのも悪くないなと思っています。
「重要なことは、人が何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである」(アドラー)
臨床的には、「外在化」や「リフレイミング」などに通じる便利な発想法だと思います。問題や症状を実体化させず、ひとつの機能、選択肢、記号として扱えるので、心理療法は短期で効率的に進む可能性がグンと高くなります。
使用の心理学と所有の心理学のどちらが正しいか、ということではなく、どちらがよりよく生きていくのにより使いやすいか、有効かという視点が大切だと思います。あ、これが使用の心理学的発想か(^_^)。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 08, 2005
アドラー心理学を他の立場の心理療法を分けるのは何かといえば、第1にあげられるのは目的論というものです。
問題や症状の生じた理由を過去の母子関係や家族状況にさかのぼって考える一般的な考え方(精神分析のみならず、普通の人は大体そう考えるものです)に対して、「その行動、感情、思考の目的は何か」という問いを先ず第一に立てるのです。
「すべての精神現象は、ある目標への準備と見なされてのみ、把握し理解されうるのである。」「健康なものであれ、病的なものであれ、人間の精神生活を研究する上で最も重要な問いは、『どこから?』ではなく『どこへ向かって?』である」(アドラー)
でも、これもある意味当たり前で、泣いている子に「買ってほしくてもダメ!」なんて怒ったり、「親の気持ちを引きたがっている」などと、その行動を意図や目的でもって説明することはよくあります。
この意図、動機、目標から一度徹底して考えるのがアドラー心理学の一大特徴なのです。肯定的なものであれ、否定的なものであれ、その人なりの目標の実現に向かって、感情や気分、行動、思考などあらゆる心的機能が組織化されいると考えているのです。ただ、この人間が本来的に持っている目標追求性は、半ば無意識化、オートマ化しています。
当然神経症的諸症状や精神的な問題も、対人関係上の目標を実現するための手段と見ます。
「二次的疾病利得」という概念がありますが、けして二次ではないのです。対人関係上の目標の設定と実現が「一次」と考えます。内面の葛藤があって、行動に現れるのではなく、常に内面と外面は共時的に動いているというか・・・この辺はうまく言えませんが。ただセラピストによって、「内面」を措定して入るか、認知から入るか、行動やコミュニケーションのパターンから入るかの「好み」の違いがあるだけです。
前回の認知というところからいうと、認知の中身は、人生目標とそれを実現するための手段の認識でできているといえるかもしれません。「私は常に一番でなければならない。そのためには~をしよう、~を避けよう」「他人はいつも自分をいじめる。だから~をしないようにしよう」などといった信念のセットを私たちは、みんな持っています。
基本的には、どんな人の人生目標も肯定的なものであるはずだと考えておくのは大切なことです。誰だって、初詣に神社に行って「今年は最悪の年でありますように、ひどいことが自分に降りかかりますように」なんてお祈りする人はいないでしょう(^^)。
必ず、その人なりの幸せのイメージがあるはずです。ただ、手段が間違っていたり、目標に「絶対に」「必ず」「~でなければならない」といった限定がついているだけです。僕にとって、この視点は非行少年とか大人が問題視するような子どもを相手にする時に、とてもいいものでした。また子どもを虐待してしまう家族と会う時にも、彼らを信頼できる根拠になりました。
短期的には、「親、世間への復讐」といった否定的な目標もあり得ますが、よく調べればやはり元々の肯定的な目標が挫かれ、隠されているということが考えられます。
臨床的には、カウンセリングでその人の目標や手段を自覚したことで良くなっていくこともありますが、必ずしも全てがそうではなく、手段の修正(症状を使わずに、より適応的な思考、行動を取れるようにする)、ケースワーキング(病院や施設の利用など環境を変えたり)、症状や問題への対処行動の学習などいろいろな取り組みをしていくことになります。
それでも、アドラー心理学からその人を理解し、治療をデザインするにはこの目的論的視点は不可欠なのです。
| Permalink
|
| TrackBack (0)
June 01, 2005
ここのところ自伝的記事が多いので一旦お休みして、原点に返りまして、少し専門に関わる話をします。
アドラー心理学の基本的概念について、自分なりに順次取り上げていこうと思っています。入門書や基礎的な講座に出てくるものですが、「異端派アドレリアン」らしく勝手な解釈をするので、誤解と誤読と誤用に満ちているかもしれませんよ。
まずは「認知論」。
アドラー心理学といえば、劣等感か原因論のフロイト心理学(精神分析)に対して目的論を掲げたことを最初に取り上げることが多いのですが、自分はここから入ろうと思います。
というのは、最近の心理学、精神医学には「認知」という言葉がとても多用されているからです。痴呆症を「認知症」と名称変更がなされ、発達障害や高次脳機能障害の状態像を表すのに「認知の障害」とか言ったり、基礎系の「認知心理学」もありますし、何よりもうつ病などの心理的不調、疾患に対して高い治療効果を示す認知療法・認知行動療法があります。
今、「心の科学」の世界でのキーワードの一つは「認知」なのです。
おそらくアドラーは、心理療法界において、「人は自分なりの見方でしか、世界を解釈できない」「その解釈に基づいて、人は行動する」ことを喝破して、なおかつそれを治療の基本に据えた最初の人だろうと思います。
その視点をアドラー心理学では「認知論」とか「現象学」と呼びます。ただ、哲学の現象学とは共通する視点はあってもかなり違うので、心理学用語の認知論の方が通りがよいように僕は思っています。
個人心理学(アドラー心理学の呼称)は、この「主観的現実」-つまり、我々のもろもろの印象、見解、知覚、統覚、結論-を取り扱うのであって、物理的な現実を取り扱うのではない。もしあなたが、自分は神であると信じるならば、それはあなたにとっての現実なのである。 「現代アドラー心理学 上」(春秋社)
人間である限り、意味づけから逃れることはできない。我々は我々の与えた意味づけを通してのみ現実を体験するのであって、現実そのものではなく、何らかの形で解釈された現実を体験するのである(アドラー)。 「アドラー心理学基本用語集」(ヒューマン・ギルド出版部)
私たちは、自分なりの「世界の見え方」「解釈のスタイル」を持っています。その色眼鏡を通して、自分とはどんな人間か、目の前の人の行動の意味は何か、そして自分はどう振る舞ったらよいかなどを決めていきます。その見え方はほとんどの場合、無意識的になっていて、オートマチックに働いています。
あたかも、それが当たり前、真実であるかのように動いています。それは生きていく上にとても便利ですけど、あまりにも偏っていたり、うまくいかない「見方」を持っていると、いろいろな不都合が生じてくることになります。そのとき、私のようなセラピストが必要になる時が出てきます。
でも、この「誰でも自分なりの見方を持っている」という考え方は、今では常識のようなところもあります。イラク戦争でいくらアメリカや小泉首相が大義を掲げていても、殺される側のイラク人の気持ちを理解し、戦争に疑問を持つくらいの想像力を私たちは持てるようになっています。
でも、心理学の世界では、特に昔はそうともいえませんでした。
目に見えるもの、測れるものだけを頼りにする「客観的態度」か、証明不能な抽象的理論や常識的な情緒に縛られるしかなかったといえます。
私たちが、自分には自分の見方しかないことを認めたのは、ごく最近のことかもしれません(内田樹さんによればレヴィ・ストロースの構造主義の成立によるところが大きいとのことです)。
でも本当に私たちがお互いの見方を認めることができているかといえば、大きくは日中問題などの国際関係から小さくは職場や家庭の人間関係まで見渡してみると、全くできていないのも明らかです。
そこから私たちは自分の世界観、認知のパターン、癖から逃れることはできるのだろうか?少しはできるかもしれないし、できないかもしれない。「悟っている」人は、できると主張するのかもしれません。
実践的には、「それはなかなか難しい、けどちょっとした修練をしてコツを身につけるとよいのよ」とするのがよいかもしれません。
アドラー心理学のカウンセリングを学び始めて面白かったのは、人の話を聴く時には思いっきり相手のことを推量して、想像をたくましくして聴きなさいと教えられたことでした。一般には「心を空にして」「無心に」「一切の偏見を持たずに」など、カウンセラーはクライエントの前では、心を白紙にしなさいといった風に教えられるのではないでしょうか?
でも、それは無理。心を空にすることは、凡夫にはできない相談と見極めることです。
自分の偏見を自覚し、相手の偏見と交わっていく、自分の勝手な推量を相手に伝えて当たっているかはずれているかを検証し合っていくこと。その中で、どこか不具合のあるところを発見、発明して修正、創造していきます。そういう姿勢が持てれば、後はテクニカルな問題です。
そして、クライエントの認知を修正したら、気がついていたら自分の認知も変わっていたなんてこともあり得るのです。
その意味では、私たちの認知システムはけして閉鎖系ではないのかもしれません。自分を含めて頑固者は多いけどね(^^;)。
| Permalink
|
| TrackBack (2)
Recent Comments