May 24, 2009

RDIの特徴・姿勢

 自閉症、発達障害への理解、支援方法は年々進歩して、特別支援教育を中心に広まっています。もう専門家では「母親の育て方が原因だ」などという人はいないだろうし、単純な受容や、好きなように子どもに遊ばせるだけのプレイセラピーでは絶対良くならないことも周知のこととなりつつあると思われます。

 これからは応用行動分析学(ABA)の詳細で丁寧なアプローチを取れることが、専門の教員、カウンセラーには求められるでしょう。
 逆にいえば、それを使いこなせなければ、「役立たず」と本人や家族に指弾されることになりかねません。

 アメリカではABAが一大産業というと大げさかもしれませんが、他のアプローチではなく、ABAには州がお金を出すなどの権限を獲得し、大きな勢力となっていると聞きます。

 しかし、そのABAにしても「自閉症を治す」ことはできない。

 せいぜい「少しでも暮らしやすくする」「障害と共に生きる」「アスペルガーとして生きる」といった考え方でいかざるを得ないでしょう。
「自閉症の文化に私たちが近づく」といった言い方をした高名な先生もいました。

 発達障害という特異な認知の世界に生きる人を理解するには、それも大切な姿勢でした。

 しかし、RDIは違うようです。
 生きにくい発達障害者が生きやすくなるのではなく、つまり「良い発達障害」をモデルにするのではなく、ごく普通の子ども、いわゆる定型発達をモデルにしているといいます。

 定型発達がモデル:「どうしたら、大きな困難と試練を抱えた(自閉症の)子どもたちを(定型児と同じように)育て、発達させられるか」がメインテーマ。

 障害の特性を理解し、それへの対処法や補償的援助を工夫するだけでなく、

 自閉症の中核症状領域における(段階的・個別的支援による)発達のやり直しによって、定型児と同じような「情緒的、社会的、認知的な能力」、その基盤となるダイナミックな「脳の情報処理・神経ネットワークの構築」めざすこと

 これはすごく大胆な発想であり、挑戦であると思います。

 よくいわれる「自閉症の強さ」にアプローチすること、つまり視覚的な情報処理の強さや記憶力の良さ、知識の蓄積能力を利用しようという姿勢は、本当の意味で彼らをよくすることにはつながらない。
 むしろ「弱さ」に焦点を積極的に当てるべきだ、という従来とは真逆の発想があり、それを知った私には改めて目からウロコ、でした。

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March 25, 2009

「シルクロードの経済人類学」

 目からウロコ、でした。
 さすが、栗本慎一郎、と改めて思いました。

 シルクロードのイメージが変わります。

 砂漠、隊商、楼欄、さまよえる湖、そして喜太郎のシンセサイザー音楽、もう大分昔のことですが、NHKのシルクロード番組のイメージが、我々に植え付けたイメージは強烈でした。
 西遊記の三蔵法師が旅した苦難の道、昔の人は必死の思いで東西の道を歩んでいたんだなあと、テレビを観て単純に思い込んでいました。

 しかし、シルクロードはもう一つあった、そしてそれが本当のシルクロードだったというのです。
 経済人類学者で元衆議院議員・栗本慎一郎氏「シルクロードの経済人類学」(東京農大出版会)には、シルクロードの隠れた本当の姿が明らかになっています。

Photo  それは世界史の教科書かなんかで出てくる、中国の長安(西安)から中国を横断するように西に進み、天山南路や北路を経てインドの北、中央アジアに抜ける道ではありません。

 もっとそれより北、中国東北部からモンゴルを突っ切り真っ直ぐ西へ、カスピ海へ伸びていく「北のシルクロード」あるいは「草原の道」です。

 そこは南のシルクロードの砂漠の道とは違い、はるかに平らで、なだらかで、美しい草原が広がっています。

 この草原の道は美しく、泉と川に満ち、岩の転がりもないではないが、たいしたことはなく、およそはなだらかで身障者(私:著者は脳梗塞から脱したが体が不自由なな身)でも歩けるような道だ。草原をあちらでもこちらでも歩けるのだ。他方、天山山脈の南の道は、厳しい岩の転がりと渓谷でまさに難路である。

 可能なら人は、動くに楽で水も食料も容易に手に入る道を通って旅をしたいに違いありません。
 そして、実際はまさにそうだったのです。
 本書の表紙写真を見ていただくと、その雰囲気がわかりそうです。とてものどかな光景。

 この草原の道が本当のシルクロードで、私たちが学んだシルクロードはそこが紛争などで通れないときやむを得ず行く迂回路みたいなものだったらしい。

 古代中国・ローマの時代から、その草原の道をたくさんの人、物が動いていました。
 世界史に登場する数多くの遊牧民、匈奴や鮮卑、そしてフン族、さらには元などが東西に疾駆し、中国やローマ、ヨーロッパを攻め、占領し、略奪し、国さえ作っていた。
 その一部がカスピ海近くにカザール帝国を作り、その民族が散って、今世界の政治・経済・学問の中心的に動かすアシュケナージ・ユダヤ人となったと栗本氏はふんでいるようです。

 まさに影の世界の歴史の主役たち、ただし多くが文字や記録に執着のない人々で自身の歴史記述がほとんどなく、反対側の勢力である漢民族やローマ人側からの記録しか残っていないから、その実態は長く分からなかったらしい。

 実際にコーカサスやアルメニアに調査・発掘までした栗本氏によると、その草原の道は実は、我ら古代日本にも実に大きな影響を与えたらしいのです。

 続きはまた。
 ただ、古代史はなかなか複雑なので、自分にはまだうまく読みこなせませんから、お読みいただくといいと思います。

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February 04, 2009

甲野古武術の科学性・3

 「構造構成主義とは何か」より、甲野善紀氏の古武術を科学論から評価してみるとどうなるか見てみましょう。

 そして、甲野はその技の改良・進展過程を数十にわたる著書や雑誌、ビデオの中で説明し、また、そして自身のwebサイト(http://www.shouseikan.com/) に克明に記録していることから、「構造化に至る軌跡」を残しているということができる。
 さらにいえば、甲野善紀は一度身につけた技は、場所や相手を選ばずに繰り返し再現できることから、再現可能性は担保されている。また、その技をかけられた人がどのようになるか宣告した上で、実際、技をかけることによりその通りにすることも可能なので、この意味で、予測可能性も制御可能性も担保されているといえよう。

 また、甲野は「稽古会は実験室」と述べているように、・・・・(中略)・・・・その技の有効性は常に現実で試されることから、反証可能性も確保されているといえる。

 以上のことから、甲野善紀の古武術は、再現可能性、予測可能性、制御可能性、反証可能性を満たしており、まぎれもなく人間科学の実践に位置づけることができるといえよう。

 このように一見科学とは見えない甲野氏の武術的実践は、立派に科学の要件を満たしていると考えられるのです。

 こう考えると、これまで人目をはばかるように(?)続けてきた武術の稽古が、「実は科学的営為だったんだ!」「僕も『科学者』だったんだ!」と思えてきてうれしくなりますね。

 そして、甲野氏の古武術が生み出した身体技法が、バスケットボール、野球、卓球、サッカー、ラグビーなどのスポーツから楽器演奏、工学、介護、精神科医のカウンセリング、JAXA(宇宙航空研究開発機構)まで幅広い分野で応用されてきていることから、

 このように領域やテーマを問わず援用(継承)可能なのは、それが「原理」と呼ぶにふさわしいほど抜本的に動き方の質を変更する「理路」を提供しているからに他ならない。

 と普遍性・応用可能性を指摘しています。

 多くの普通の人は、目に見えるものや数値化できるものを語ることが科学的だと思い込んでいるでしょうけど、科学とは「考え方」「現象との付き合い方」であり、武術は科学の原理を満たし得ると知ることは大事なことだと思います。

 甲野氏が研究し、武術の先人たちが作り上げてきた身体技法や思考法は、本質的に科学的精神の賜物なのです。

 長年「非科学的なことをやっている」と思われていた身(被害妄想?)としては、科学とは何かを考えるときに、また理論武装をするときに、構造構成主義科学論はとても参考になり、役に立つような気がしました。

 どういうものか知りたい方は同書をお読み下さい。

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January 30, 2009

甲野古武術の科学性・2

 甲野善紀氏の古武術を、構造構成主義科学論ではどのように捉えることができるのか、「構造構成主義とは何か」から引いてみます。

 それには甲野氏がどのような活動をしていて、発表、発言を繰り返してきたかを振り返る必要がありますが、ここではその余裕はありませんから、すでにみなさん知っているものとします。
 簡単にいうと、甲野氏自身が稽古の中で身体で感じ取り、有効だと見出した「術理」を講座や書籍等を通して積極的に発表し、世に問うて、それに賛同する人たちがそれを介護などの他分野にも応用をして「検証」していきました。
 また、そこから得た甲野氏の「認識論」に共感した識者たち(養老孟司氏、雀鬼・櫻井章一氏、精神科医・名越康文氏ら)が集い、まさにオルタナティブな「共同の文化」を形成しようとしています。

 古武術の身体技法は身体感覚によるものであるため、けして測定、数量化しきれるものではありません。甲野氏は、いいます。

 物量化できないものを、無理に物量化しようとするからおかしくなってしまう。多少なりとも科学的な要素を入れるのは良いでしょうが、とにかくそれですべてを説明しようとすれば、間違った答えが導き出されるのは当然です。

 西條氏は、古武術の身体技法を理解するためには、測定、数量化に依存しない研究法が求められ、「内的視点による構造化(言語化)を軸とする構造構成的質的研究法(SQRUM)が有効な枠組みとなるだろう」といいます。

 これ(SQRUMスクラム)は数量化に依存することなく、日常言語で対象を構造化しつつ、広義の科学性を担保する仕組みである。・・・・
 「現象の構造化」と「構造化に至る軌跡を残すこと」によって科学性は担保可能となる。たとえば、技がどのような構造(原理・しくみ)により成し遂げられているのかを身体言語化していくことが、ここでいう「現象の構造化」(構造構成)に他ならないといえよう。甲野は「武術では自分の中に微妙なシステムをそのつど、つくり上げるわけですが、それは見せようがないし、測りようがない。現実にどういう構造になっているのかは私自身もわかりません。ただ、こういう仮説を立てて研究することで、私の動きの質が変わってきていることは確か」と述べている。これは、内的な構造を明示化することの困難さを認めながらも、その構造(原理)を用いることにより、質の異なる行動ができるようになっている(アウトプットが変化している)という事実を強調しようとしているといえよう。

 構造構成主義において、構造は直接触れることのできる実体を意味するのではない。そして、より有効な構造(技)を構成(探求)していくことが、科学的営為の基本となるとする立場をとる。したがって、実際に見たり触ったりすることのできない仮説的な構造でも何ら矛盾(問題)はない。

 できるだけ生のリアリティーに近い形で構造を取り出す。
 武術のエッセンスを科学化するためのパラダイムが、新しい科学論、構造構成主義というわけです。

 

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