私は元々はリベラル的な考え方をしていたし、今でもそうだと思います。
大体心理臨床とか、アドラー心理学もそうだけれど、弱者や少数派の支援とか、平等で対等な人間関係を目指すという姿勢は、この縦社会、競争社会においてはリベラル的な立場にならざるをえません。
しかし、それも程度の問題ではあります。
コロナ禍やアメリカのバイデン政権下で起きたことを見れば、過激なリベラル的な運動がいかに危険かに気づかされます。
また私は、縦社会の伝統的な武道界に身を置いていたり、古神道のような日本思想にも関心を持って修行したりしていたせいか、リベラル的な運動に関わっている人たちには、なんか優等生的で、ヒステリックで、狭心で鼻につく感じはありました。
だから、真面目なリベラルではありません。
國部克彦『ワクチンの境界』(アメージング出版)の「第5章 独裁化するリベラル」に、その辺の理由が分かる説明がありましたのでメモします。
リベラルは17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパで、国王から市民が権利を獲得していく過程で生まれた政治思想です。
その最も重要な特徴は、「自分たちを抑圧しているものからの自由、すなわち『解放』」です。
最初は国王の権力からの解放、やがて自由を脅かす海外勢力や巨大化した勢力から自由を守るために、リベラルは活動してきました。やがてその対象は、少数民族や被差別階級、性的マイノリティー、環境問題に広がってきました。
それなら、なぜリベラル政権や知識人たちは、一見人の自由を抑えるようなコロナワクチン義務化を強力に推し進めたのでしょうか。
「リベラルが言う自由は、自分たちを苦しめているものからの解放であって、解放の方が自由より優先されるから」です。
リベラルにとって国王や宗教、伝統、性別などは自由を抑圧するものです。「多様性(ダイバーシティ)」がリベラルにとって、最も重要な価値観となります。
しかし、リベラルが考える自由とは、何でも個人の自由にしていいという放任ではありません。・・・リベラルは人間が本能のままに行動することを自由とは考えません。それは本能に支配された不自由な世界です。だから、本能に支配されないように、理性に基づく秩序だった社会を目指すのです。リベラルは、自由という状態を保証するために、社会的な規律を求めます。 p142
リベラルは多様性を求めますが、それは「認められた範囲での多様性」です。同性婚は認めても、一夫多妻制は絶対に認めず、同性婚同士の複数婚も認めません。
そしてリベラルは「平等」も求めます。国王も権力者もいない世界、宗教もない、いかなる差別もない世界がリベラルの理想で、特定の人間が強権を発動して統治することができない社会を求めます。
確かにそれは一見理想の社会に思えます。
ジョン・レノンの「イマジン」みたいな世界ですね。
しかし、そんな社会はどうやって維持すればいいのでしょうか。
「社会の構成員がルールを守ること」です。法律だけでなく、明示的、暗黙的な社会規範も強力でなければなりません。
そこに新型コロナウイルスのような未知のウイルスが入ってきたらどうなるでしょうか。この未知のウイルスに対して人々が自由に行動すれば、社会的規範が乱れて、感染症が蔓延し、自由が制限されると考えられます。したがって、リベラルの思考では、ウイルスを撲滅して自由な社会を一日も早く実現するために、一時的に自由の制限が強化されても仕方がないと考えます。
ワクチンに対しても同じことで、打ちたい人だけ打って、打ちたくない人が打たなければ感染は収まらないので、打たない人のせいで事態が収拾できないと考えます。社会規範を守らない個人によって、規律を守る人々の自由が制限されることはリベラルが最も嫌うことですので、必然的に未接種者は容認できないという思考になってしまうのです。 p144-145
日本でも、共産党や立憲民主党のようなリベラル政党や、内田樹氏はじめリベラル的知識人がコロナワクチンに何の違和感も反対意見も言わず、ただ安部憎しトランプ憎しに終始して、あまつさえ自分からワクチンを打った醜態を見ていると、彼らはリベラルの基本的思考パターンをそのままなぞっていたことがわかります。
私はコロナ禍とコロナワクチンで、リベラルの限界を学ぶことができました。
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