January 26, 2021

戦国呪詛合戦

 前回の『諏訪の神』に触発されて諏訪大社の話の続きになります。佳境を迎えた大河「麒麟がくる」に乗っかってもいます。

 今回同ドラマは、三方ヶ原の戦いも長篠の戦も「ナレ戦」というかセリフですっ飛ばしたので、その裏ストーリーになりますね。

 戦国武将が敵を倒すために神社仏閣に祈祷をしたことはよく知られています。当時は誰でもやっていたことです。

 神仏のご加護を得ると言えばきれいな言い方だけど、気に食わない奴を呪い殺そうとしていたと言えるわけです。

 織田信長も例外ではなく、天正10年(1582年)、武田勝頼をついに攻め滅ぼすときにも盛大に「呪詛」をかけています。

 平山優著『武田氏滅亡』(角川選書)によると、信長は正親町天皇や誠仁親王の協力も得て、奈良興福寺、石清水八幡宮、吉田神社、三千院、青蓮院、本願寺、そして伊勢神宮に先勝祈願の祈祷をさせています。

 まさに当時の宗教界・スピ勢力のオールスターです。

 これに対して、勝頼側の祈祷は同書には記されていませんが、当然諏訪大社をはじめとする甲信の武田領の寺社が行ったでしょう。

 何より諏訪大社は、勝頼を守るために必死の祈祷をしたかもしれません。

 なぜなら勝頼は、信玄の4男でありながら、諏訪家の血を継ぐ者でもあり、父の死で武田家を継ぐまでは「諏訪四郎勝頼」と名乗っていたからです。

 つまり勝頼は武田家の重臣であったと共に、諏訪大社の神主というか「大祝(おおほうり)」であったからです。当然祭祀などについても詳しかったかもしれません。

 まさに西の神々と東の神の対決ですが、しかしこの呪詛合戦はいかにも多勢に無勢な感じもします。

 しかも、ちょうどこの時、浅間山が大噴火を起こしたのでした。

 これは多大なショックを人々に与えたみたいです。

「浅間山噴火について、正親町天皇の祈祷により、信長に敵対する勝頼を守護する神々がすべて払われてしまった結果であり、この噴火は一天一円(世の中)が信長に従うようになる現象だと『多聞院日記』が記したのには、こうした背景があった。 p732」

 という記録があり、まさに信長側の呪詛が「効いた」結果とみんな思ったことでしょう。

 これを持って心理的には勝負がついたといえるかもしれません。武田側の人心も離れてしまったようです。

「朝敵」とされ、神仏にも見放されたイメージがついてしまった勝頼は、進退窮まります。

 この後信濃、甲斐に織田・徳川・北条が侵攻し勝頼は自害、武田家は滅びますが、上諏訪に到着した織田軍は方々に火を放ち、諏訪大社を焼き討ちして壮麗な伽藍は灰燼に帰してしまいました。勝頼が天正6年から7年にかけて、精魂を込めて造営したものだったそうです。

 ああ、もったいない。

 ところが、3月11日に勝頼が自害したわずか3か月弱の6月2日、本能寺の変で信長があっけなく討たれてしまいました。

 これを知って、諏訪大社関係者は大いに喜んだことでしょう。

「後に、神長官守矢信実は、本能寺の変で織田信長が横死したことについて、諏訪大明神の神罰であると断じている。 p641」

 そう思ったのも当然でしょうね。

 結局ほとんど同時期に二人は相次いで殺されたわけで、このサイキックな戦い、呪詛のかけ合いは引き分け、両者痛み分けに(というより両者痛い結果に)なったといってよいでしょう。

  

 

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January 22, 2021

『諏訪の神』

 全国にあまたある神社の中で諏訪大社は、とても特異な位置にあるようです。巨大な丸太を坂から落とす「御柱祭」がその代表的なイメージですが、その他にも奇妙なというか、よくわからない謎がいくつもあります。

 どうもそれは、現在諏訪大社に祀られている建御名方神(タケミナカタノカミ)だけではなく、それ以前にこの地方にはミシャグジ神という確実に縄文につながる古い神々への信仰があり、極めて長い歴史が重層的に諏訪の神道を作り上げたからのようです。

 戸矢学著『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』(河出書房新社)は、神道関連で何冊も出している著者による諏訪の神道の謎解き本で、とても面白かったです。

 例えば著者によれば、諏訪の神はどうやら天津神系(天孫族、皇室に連なる流れ)、国津神系(出雲系、それ以前の土着の流れ)でもない異端の神ではないかということが指摘されています。

 建御名方神は『古事記』には確かに登場しますが、日本の正史である『日本書紀』や出雲自らが選録した『出雲国風土記』には全く登場しないからです。

 そして『古事記』に出てくる建御名方神の話は、いかにも不自然です。

 歴史上、諏訪大社、そこに祀られる建御名方神は戦の神、軍神、武神として崇められてきました。坂上田村麻呂、源頼朝、武田信玄、徳川家康というまさに錚々たる面々、彼ら自身が戦神みたいな武士たちが篤く敬ってきたそうです。

 それほどならば、その建御名方神はさぞかし強かっただろうというと、神話上は何とも情けない負けっぷりなのです。

『古事記』に詳しい人はご存知だと思いますが、こんなお話しです。

 天照大御神が葦原の中つ国を「ちょうだい」とリクエストした「国譲り」の時、大国主命は息子の二人に「どうする?」と聞いたら一人は「しょうがないね」と受け入れたものの、建御名方神は「許さん!ありえへん!」と大反対、しかし強引に迫ってくる天照大御神が派遣した建御雷神(タケミカヅチノカミ)と勝負したら、軽々と吹っ飛ばされてしまいました。
 フルボッコされて恐れおののいた建御名方神は信濃の国の諏訪(州羽海:すわのうみ)まで逃げて、「参った、参った、殺さないでくれ、私はもうこの地を出ることはない、葦原の中つ国は天照大御神に献上する」と命乞いをして、国譲りはなったのです。

 建御名方神、全然強くない。メチャクチャ弱いじゃん。

 なんでこれで諏訪大社は軍神と呼ばれるのか、実はこれは長年の私の疑問でもありました。

 諏訪大社は隣県にあるので何度も参拝していますが、『古事記』の諏訪の由来は、「なんかやな話だな」とずっと思っていました。

 武運長久、勝利を祈っても聞いてくれるのかしら、なんて考えちゃいそうです。

 著者の読みは、これほど諏訪(建御名方神)を貶めるには何か目的があるはず、つまり、こんなに情けない建御名方神は『古事記』にしか出てこないのだから、『古事記』のその話は後から創作されて取ってつけたものではないか、ということです。

 なるほど。

 ではどんな目的でしょうか。

 当時、諏訪を中心に信越辺りを支配していた強大な勢力でモリヤ氏というのがいたらしい。当時のことだからモリヤ氏は祭祀王でもあるので、諏訪は宗教的な一大中心地でもありました。諏訪大社の近くには守屋山があり、本来は諏訪大社のご神体だったようです。

 大和朝廷はモリヤ氏が強大なので武力征服をせず、懐柔して諏訪の地の安泰を保証し、代わりにそこから出るなと誓約させた。古事記のストーリーはその「封印」をアピールするためだったのではないか、ということです。

『古事記』が一般の目に触れるようになったのは江戸時代以降で、それ以前はそんなひどいストーリーは誰も知らないわけで、人々には古代から続く諏訪の神の強さだけが伝えられていて、無意識的に諏訪大社と言えば軍神として認識されていたのかもしれません。

 一方の建御名方神をやっつけた建御雷神は鹿島神宮に祀られているのは周知のとおりですが、建御雷神は当時政権を掌握していた藤原氏が氏神として祀っていたそうです。だから藤原不比等の意向がそこには働いたのかもしれないと著者は推理しています。

 藤原氏に忖度したなんて、大いにあり得ます。

 興味深いですね。

 我らが日本国のスタートになる有名な出雲の国譲りに、諏訪の服属ストーリーも忍び込ませたということでしょうか。

 諏訪の神の正体をもっと探りたい人は、本書で「妄想」を膨らませるのもいいと思います。

 古代史の楽しみ方ですね。 

 

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January 17, 2021

仏教の未来

 仏教が好きな人はいまだに多いと思いますが、余程熱心な人でなければ教義を丸ごと信じている人は少ないんじゃないかと思います。

 西方浄土が本当にあるとか、何とか観音とか菩薩が存在するとか、〇〇を唱えれば救われると信じている人は少なくとも私の身近にはいないようです。因果応報といった社会道徳的な考え方や、座禅をして心が鎮まるみたいな心の持ち方みたいなところを仏教の教えととらえているのではないでしょうか。

 葬式仏教と揶揄される日本の仏教界も、「これではいかん」といろいろな試みがなされているようで、時折仏教者からの発信を耳にします。

『集中講義 大乗仏教』(NHKブックス)の著者・佐々木閑先生は最終章「大乗仏教はどこへ向かうのか」で、その辺を考察しています。

講師 これからの時代は、科学的に証明できるか否かがすべての物事の判断基準となるため、仏教はおそらくこの先、どんどん変容を迫られることになるでしょう。それで、どんな方向に向かうかと言えば、科学とうまく擦り合わせできないことを「心の問題」に置き換えて解釈するようになっていくはずです。それは仏教にかぎったことでなく、キリスト教やイスラーム教も同じです。そしてやがては、世界の宗教は「こころ教」とでも呼ぶべきものに一元化されていくと私は考えています。  

青年 「こころ教」とは、具体的にどんな教えを説いたものなのですか?

講師 科学と擦り合わせできない教義を掲げても誰も信じないので、絶対神の存在や、輪廻、業、浄土といった神秘的な概念は次第に薄まっていき、最終的には「今をどう生きるか」を示す単純なものになっていくと思われます。  p189

 確かに最近のリーダー的な、あるいは若手の仏教者や宗教者の発言は、ほとんどカウンセラーや心理学者と変わらないですね。ただそこに、歴史や伝統の重みというか権威性がまとわれているという感じです。受ける側は、大学の研究室で言われるのと、お寺で言われるのとどちらが好きかという違いだけのような気がします。

 ただ、そこには難しさもあって、

「こころ教」のキーワードは「心」と「命」、動詞でいうと「生きる」です。最近の仏教宗派が掲げるキャッチフレーズをみると、「生かされている私の命」「命が心を生きている」といった意味不明で、しかし口当たりのよい言葉ばかりです。・・・(略)・・・なんとなくよいことを言っているように聞こえるので、すっと心に入ってくるのです。しかし、すべての人の心に軽く入っていく教えとういのは、じつは何も言っていないのと同じです。その宗派の教義と関係のないありきたりの標語だからみんなが受け入れるのであって、受け入れたところで、一時の気休めになるだけで何の役にも立たない。それが「こころ教」の本質です。  p189-190

 と手厳しいことも言っています。

 なかなか難しいところですね。

 つまり仏教単独の、あるいは各宗派の教えの救済力がなくなってきたということです。一般の人々みんなもそれを承知して、仏教と付き合っているのが現在でしょう。

 そしていずれは、「こころ教主義者」と一部の「宗教原理主義者」の二極分化が起こるだろうとおっしゃっています。

 私も妥当な推測だと思います。

 あと、意外と葬式仏教の部分は形や様式、コストを変えても生き残っていくと思います。やはり人は死は免れないもので、その処理(遺体の扱いとかいわゆるグリーフケアとか)は大変です。そこに仏教者や宗教者のかかわりは求められるでしょう。

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January 13, 2021

大乗仏教とは

『集中講義 大乗仏教』(NHK出版)には、「大乗仏教は、本来の釈迦の教えとは異なる別個の宗教である」とあります。

 著者の佐々木閑先生は、それを別に否定しているわけではありません。

 本来一つであったお釈迦様の教えがいくつにも分かれていったことを「よくないこと」と感じる人もいるでしょう。しかし、様々な選択肢を含んだバラエティ豊かな宗教になったことで、仏教がより多くの人を救えるようになったと考えれば、逆にプラスととらえることもできるのです。 p27

 もし釈迦入滅後、徐々に分派していった部派仏教から、釈迦の言うことを無視したかのように仏教が展開しなければキリスト教やイスラム教に並ぶ大宗教になることはなかったということです。そして、古代インドの時代からどんどん経典が捏造ならぬ「創造」されていきます。

 長い歴史のどこかで「昔から伝わっているお経には書かれていないけれども、論理的に正しければ、それは釈迦の教えと考えてよいのではないか」と主張する一団が現れます。
 これはつまり、「今までにない新しいお経を作って、それを釈迦の教えとして広めてもよい」ということですから、この考えが一度認められてしまうと、もう流れを止めることはできません。それまではなかった新しい考えを、釈迦の教えとして主張する人が次々に出てきて、いつの間にか全く異なる仏教世界(大乗仏教)が誕生することになったのです。 p29

 論理的に正しければ仏教にしちゃおう、という鷹揚さが仏教の特徴かもしれません。それが日本では神道というさらにゆるい民俗宗教と融合して、世界にまれな独特な姿になったのでしょう。

 本書は代表的な経典と宗派の歴史と論理を明快に解説していて、面白いです。

 臨床で瞑想をクライアントに教えたり実践する人は最近増えていると思いますが、仏教の思想についても最低限の知識を持っていた方がいいと思います。いまやアメリカ人の方が仏教について詳しい状況ですよ。

 

 

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January 06, 2021

『集中講義 大乗仏教』

 今年最初のブックレビューは、仏教の本です。

 初詣の時期でちょうど良いでしょう。

 ただ、今年はやはりコロナで初詣もなかなか行きにくい状況ですね。

 そしたら昨年末になんと、「早めの初詣を」と年明け前の参拝を勧める神社仏閣のニュースを見ました。

 いくら何でも「初」じゃないだろうと思いますが、それでも神頼み、仏頼みしたい人は詣でたのでしょうか。

 私は、コロナ禍で参拝者激減による収入の激減を何とか押しとどめたいためではないかと踏んでますけどね。

 そういった日本独特の風景とも関連があるかもしれません、日本の仏教はなぜ日本の仏教なのか。

 変な疑問文ですが、日本の仏教が元々の仏教からかなり離れた独特の姿をしていることは、以前から言われていたことです。

 私のように多少読書する人間なら、日本史を通して仏教の受容の歴史、各宗派の勃興時期やその創始者たち(空海やら親鸞やら)を知っているでしょう。

 私も釈迦の人生や仏教の基本的な教えくらいは知っています。八正道とか。座禅だって経験があります。古寺巡りも大好きです。

 また、臨床心理界隈では、仏教由来のマインドフルネス瞑想が大流行りです。その関連で、さらに仏教と心について学びを深めたい人はタイやミャンマーの上座部仏教に関心を持ったり、中には中村元先生などの原始仏教の研究に当たる人もいるでしょう。

 そんな中では、「葬式仏教」と揶揄される日本の大乗仏教は分が悪い感じがします。特に心理学や哲学に関心を持つようなけっこう知的な人たちには。

 でも実際の日本人の大半は、今の日本的大乗仏教を好み続けているような気がします。別に問題を感じている人は少ないんじゃないかな。葬式の時に戒名料が高いなと不満を感じるくらいで。

 日本の仏教は、「京都や奈良っていいよね」「やはり日本文化は素晴らしい!」という思いを支えてくれるネタとなっています。

 それだけは満足できない、もう少し大乗仏教の歴史や考え方を知りたい人には、素晴らしい入門書があります。

 佐々木閑著『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版)

 著名な仏教学者による仏教の紹介ですが、対談形式で「今さら聞けない素朴な質問」に答えてくれています。

 釈迦の仏教から大乗仏教へ至る歴史、般若経、法華経、浄土教、華厳経、密教について、それぞれに内在する論理を解説してくれています。

 とても頭が整理されて勉強になりました。

 次回に中身を少しメモします。

 

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December 14, 2020

われわれとしての自己

 昨日12月13日(日)は、日本支援助言士協会主催の「全体論から考えるアドラー流ストレスマネジメント講座」の研修会で講師をしました。オンライン、Zoomによる開催でした。ずっとストレスマネジメント系の研修をやってきましたが、「アドラー流」をうたったのはは初めてでした。今後の持ちネタにできそうです。

 さて、前回紹介した『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』(BNN)の中で、私が最も目を引かれたのが、出口康夫氏の(京都大学、哲学がご専門)による「「われわれとしての自己」とウェルビーイング」の章でした。

「自己とは何か」という問いに対して、西洋近代哲学が称揚していた「強い自己」観ではなく、東アジアの「弱い自己」観を現代的に再編成し直そうという試み、老荘思想や禅の「全体論的自己」を「われわれとしての自己」と再定義しようとしています。

 それまでの自己観は、身体を動かしている主体こそが自己であるというのが基本でした。「自己とは、身体行為の行為者性(エージェンシー)を持つものなのである。」という考え方です。要するに、私が身体を動かしているという感覚が自己を作るということでしょう。

 しかし、それは実際とは違います。私たちは自覚できず、コントロールしきれない身体のプロセスに対して、任せる、まさに身をゆだねるしかないことが多いものです。出口氏はリハビリで身体が動くプロセスを例に挙げていますが、私は催眠や武術における無自覚的で有効な運動が思い浮かびました。

「我々は身体を動かす行為者性(正確に言うとその一部)を、身体やそのメカニズムに(うまくいく補償がないまま)「委譲(entrust)」せざるを得ないのである」

 と、これまでの行為をする主体が自己であるという、主体性を中心にした自己観をひっくり返します。

「自己にとって決定的に重要なのは「行為者性」というより「委譲者性」なのである」と述べています。

 そこから出口氏は、「マルチエージェントシステムとしての自己」の考察に進みます。

 私は、アドラー心理学の基礎理論、「全体論」と「個人の主体性(主体論)」の組み合わせが、必ずしも良くないのではないかと考えるところがあったので、とても刺激を受けました。

 

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December 08, 2020

『わたしたちのウェルビーイングを作るために』

ウェルビーイング」という言葉をよく聞きますが、確かにこれからの世界を考えるときのキーワードの一つになると思います。

 渡邊淳司、ドミニク・チェン監修、編著『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために ー その思想、実践、技術』(BNN)

 は、まさにこれからの若手研究者たちが中心になって集めた論考からできています。

 独立した個人の幸福感を主体とする西洋的ウェルビーイングではなく、「個でありながら共」であることが日本的ウェルビーイングではないか、という問題意識から作り上げた本のようです。

 情報技術とウェルビーイング、つながり(コミュニティ)とウェルビーイング、社会制度とウェルビーイング、お金とウェルビーイング、そして日本文化とウェルビーイングなど、テーマは多岐に渡っています。

 大学の研究者の外に、執筆者の一人能楽師で最近様々なメディアで発言している安田登氏もいます。安田氏は、「和と同は違う」と言い、現代日本の和は「付和雷同」になってしまっていると、強い人に忖度しおもねる人たちの「和の心」を批判しています。もっともだ。

 実は私、最近東大の大学院で技術哲学を研究している人と勉強会をしていたのですが、その方から本書を紹介されたのでした。

 といってもけして難しい本ではありません。

 ウェルビーイングはその語感から、つい心理学的な捉え方をしがちですが、様々な側面がそこにはあることを学ぶことができます。

 

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December 02, 2020

『マインドフルネスと催眠』

 先週末11月28~29日は日本催眠医学心理学会でした。このご時世に合わせてオンライン開催です。その間に地元でスクールカウンセリングの研究会があり、行ったり来たりで忙しかったです。

 前日は初級のワークショップがあったようでしたが、カウンセリングも催眠も実習が最も大事だと思うのですが、オンラインだとそれができないので、難しいところだと思います。関係者の先生方は大変だったでしょう。

 私は今年度から同学会の常任理事を拝命しているので、その仕事をさせていただきました。

 その催眠ですが、全ての心理療法のルーツにありながら、日本の心理臨床界では今一つ人気がないというか、注目されていない気がします。天才催眠療法家のミルトン・エリクソンばかりが取り上げられている感があります。

 しかし海外ではそうではないらしいです。

 マインドフルネス瞑想の流行との関連で、近年脳科学などで催眠も大いに研究されているようです。

 確かに催眠と瞑想って同じような、近いような、やっぱり違うような曖昧な感じがします。

 一応両方とも知っている身としては、同じところもあるし、違うとこともある、というより他はありませんね。思ったより、その境目は明確ではありません。なぜなら催眠誘導や瞑想に入るときの技法に共通のものが多いからです。

 では、同じ意識状態になるかというと、そうとも限らない。

 結局それらを実践する時の目的や場のセッティング、文脈によるのでしょう。

 催眠は治療の手段であり、悟りを目指すことはないということもあるのでしょう。「悟り」を徹底的に自覚(アウエアネス)を高めることシンプルに定義するとしたら、催眠は意図的に意識の解離を作り出し、その人とのリソースとつなげることとも言え、目指すところは違います。

 大変難しいテーマですが、瞑想と催眠それぞれの第一人者による本が、その理解の契機になるかもしれません。

 井上ウィマラ・大谷彰『マインドフルネスと催眠 瞑想と心理療法が補完し合う可能性』(サンガ)

 対談形式で読みやすいです。

 ミャンマーで仏教出家し瞑想修行に入った井上先生とアメリカで本格的なエリクソン催眠をマスターした大谷先生の対談ですから、非常にディープでプロフェッショナルな内容です。関心のある人はとても面白いと思います。

 ブッダの心とは何か、瞑想と催眠の類似性と相違、マインドフルネスの危険性、看取りと死への向き合い方など多岐にわたります。

 興味深いのは、井上先生が催眠体験をするところ。大谷先生が誘導してしてく過程が文字になっていて、催眠誘導法の勉強になります。

 瞑想を実践する人は最近多いと思いますが、さらに専門的に学びたい人には好著です。

 

 

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November 02, 2020

公を祈る

 前記事の続きですが、ひろさちや氏の対談相手の上田賢治氏によると、「現世利益」は元々仏教の言葉で、古代に悟りという個人救済が本来の目的である仏教が日本に入ってきて、個人祈願という考えが生まれたのではないかということです。

 確かに神社で私たちは、合格祈願とか個人の祈りはするけれども、それは仏教的な発想の影響で、元々は氏神とか鎮守として共同体を守護している神様に「村祭り」というかたちで感謝するという形が中心だったそうです。

上田 ・・・個人祈願というものは、もともと神道にはなかったのではないでしょうか。たとえば雨乞いの祭りにしても共同体の問題ですし、「日本書紀」の皇極天皇紀には、「村々の祝(はふり)に命じて祈雨させた」と書かれているわけです。ですから、個人のこと祈願するというのは、仏教が入ってきてからあとではないかと思います。

ひろ なるほど。たしかに、仏教というのは個人の救いを教える宗教ですね。そういう意味では先生のおっしゃることはわかります。それに対して神道というのは、日本人の共同体の宗教であるわけですから、共同体を中心に考えるわけですね。・・・ p9

 私が縁あって学ばせていただいている古神道は、「祈る」とは「公(おおやけ)」に関わることのみを求めます。公の定義はいろいろあり得て、天皇なら国だし、人によっては家族や職場の範囲にとどまるかもしれませんが、できれば地域や国家、世界に広がることがより望ましいというニュアンスがあるようです。

 ただここで大事なのは、公に滅私奉公するとか服従するということでは全くないということです。

 むしろ、自らの能力、資質を活かしきって幸福になることが即ち公への貢献につながると考えます。

 だから、「公は楽しい」という言葉もあります。

 これはほとんど「共同体感覚は精神的健康のバロメーター、幸福の鍵」と力説するアドラー心理学とそのまま重なるような気がします。

 共同体感覚の日本的展開は、神道的世界観と重なる可能性が出てきました。

 

 

 

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October 31, 2020

神道はご利益宗教ではない

 以前紹介した、『ひろさちやが聞く 神道の聖典』(ひろさちや、上田賢治著,すずき出版)によると、本来神社で拝むのは個人の利益、すなわちご利益を求めるのではないそうです。

ひろ ええ。そこで、まず神道についての日本人のイメージから入っていきたいと思います。神道は「現世の利益がかなう」宗教だ、つまり利益信仰だというのが、一般に考えられているところですね。先ほどの合格祈願についてもそうですし、神社にお参りすれば自分の願いごとがかなうと思っているわけです。

上田 なるほど。でも、神道というのはご利益宗教ではないんですよ。

ひろ ええ。ですからこれはあくまでも誤解だと思うんです。それが、神道のほんとうの姿ではないと思います。ご利益を願いというのは、神様に自分ことばかりを願って祈っているわけですよね。だが、本来の祈りは、そんなエゴイズムの願いではありません。  p4

 そうなの?私はエゴイズム丸出しで祈っていたぞ。女の子にたくさんもてますように、とか金持ちになって遊んで暮らせますように、とか。

 しかし神様はそんな私の穢れた願いは見透かして、かなえてくれなかったみたいだけど。

 では、神道の正しい祈りとは何でしょうか。

 次回に。

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