深層の山梨
先週、面白いシンポジウムに行ってきました。
「地域学と網野史学-新たなミュージアムの可能性」というテーマで、昨年開館した山梨県立博物館、かいじあむの設立に関わった歴史学者、網野善彦氏を偲んで、その影響を強く受けた学者たちが一堂に会したのでした。
シンポジストは人類学者の中沢新一さん(中央大学教授)、民俗学者の赤坂憲雄さん(東北芸術工科大学大学院教授)、日本古代史が専門で山梨県立博物館長の平川南さんのお三方です。
私は学生時代の頃からのファンとして、中沢さんを見に行ったようなものでした。久しぶりにお顔を見ましたが、相変わらずおしゃれでスマートな人ですね。あんな風になりたいものだといつも思います。
中沢さんは網野善彦さんの甥っ子に当たり、中沢さんが幼い頃から親しく付き合ったので、人格や思想形成において大きな影響を受けたとのことです。網野善彦が家庭教師なんてうらやましい限りです。二人の天才の交流は、「僕の叔父さん」(集英社新書)に詳しく描かれています。
ちなみに作家の林真理子さんは、中沢さんが少年時代によく通ったご近所の本屋の娘だったそうです。山梨はくせ者を輩出してますね。
網野史学からシンポジスト3人の受けた影響の話はそれぞれに興味深かったのですが、私的にはやはり中沢さんの話が面白かった。以下にその内容を思い出してみます。
・歴史学者、網野善彦の思想の本当の姿を多くの人が理解していない。彼は、人間の内面から吹き出してくる野生というものを捉えようとしていた。それは人間の深いところにある心性であり、表面的な理性の歴史の下にある、何千年規模といったゆったりとした変化、動きを持つ「心」である。
・それは折口信夫のいう「古代」、レヴィ・ストロースのいう「野生」、吉本隆明のいう「アフリカ的」に通じるものだ。新石器時代から縄文を経て我々の深層に流れている心であり、歴史の外にあるものである。時にそれは「中央に抗う力」となり、それを中沢や網野は学問で、深沢七郎は小説で表現した。
・甲州から信州にかけてはその心性が生々しく伝えられている。それが今も各地域で行われている道祖神祭りである。道祖神は丸石や石棒や石皿で表され、縄文的な表現様式そのものである。
・奈良時代、平安時代・・・~時代という区分は本来ナンセンス。時間の流れは地域によって違う、日本は均質ではない。
チベット仏教の読経で鍛えた中沢さんの声は柔らかく暖かく響き、明晰な知性から流れるように出てくる深層心理と歴史の物語はわかりやすくて、とても引きつけられました。
緻密に文書や証拠に当たって、稲作中心主義への批判など、丹念に民衆の視点から歴史を読み直した網野史学に、そのような近代の知性をはみ出たエッセンスがあることを知ることができました。改めて網野本を読んでみようかな。
甲州人である私が一見理知的だが(?)けして理性主義者ではない、実は野蛮人である理由がわかった気がする(笑)。
そんな網野史学の影響で出来上がったかいじあむには以前行きましたが、 県立博物館に行ってきた 教科書的な明確な時代区分のない、テーマ別の展示は他県の博物館にはない斬新なものだそうです。
山梨に来られた際は、是非お立ち寄り下さいませ。
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