March 28, 2017

木村政彦と合気道2

 前記事、前々記事から続いて『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也、新潮社)から、木村政彦の強さの背景を探ります。
 
 木村政彦は阿部謙四郎という合気道家でもある柔道家との敗戦をバネに飛躍しましたが、阿部が合気道を身につけていたとは知らなかったようです。
 
 しかし、木村の側に超有名な合気道家がいました。
 
 後の養神館館長、塩田剛三です。
 
 木村と塩田は拓殖大の同期生で、大親友でした。まさに実戦合気道の代表格、木村と仲良しなのもうなづけます。
 
 驚くべきは、身長170センチ、85キロ、驚異の腕力を持つ木村に、身長154センチ、47キロの塩田がなんと腕相撲で圧倒したことです。それは木村も認め、方々で話していました。
 
 常識的にはありえない現象ですが、私を含め武道マニアには有名な話です。
 
 著者の増田氏は自ら北海道大学で柔道(寝技重視の高専柔道の系列)を鍛錬し、職業柄たくさんの格闘技に精通しているので、このエピソードに戸惑いながらも、率直に著わしています。
(引用開始)
 柔道や空手、総合格闘技の書籍を書く場合、合気道に触れることはある意味タブーでもある。目の肥えた読者の失笑を買いかねない。
 だが、阿部謙四郎が植芝盛平に組み伏せられたことも、木村政彦がその阿部に試合で弄ばれたことも、そして木村が腕相撲で塩田剛三に敗れたこともすべて事実なのだ。
 もう一つ、合気道には離れた間合いで相手をコントロールする技術があるからこそ嘉納治五郎は「これぞ理想の武道」と非常に興味を持ち、富木謙治らに「技術を学んでこい」と言って植芝の内弟子として送り込んでいるのだ。簡単に切り捨てていいものではあるまい。実際に木村政彦と塩田剛三の同期の空手部員で当時「拓大三羽烏」といわれた空手家が「柔道や合気道など大したことない」と吹聴することに頭にきた塩田が体育館で喧嘩し、これを一蹴していることも木村×塩田の対談で明らかになっている。
(引用終わり)
 そして、「とにかく木村は阿部と塩田を通して植芝盛平という巨人の影と戦っていたのは間違いない」としています。
 
 実際に木村が塩田を通して合気道にどのような影響を受けたのかは不明ですが、二人は飲んだり遊んだりしながら、何らかの示唆を与えあったことがあったかもしれません。
 
 この二人の交友は終生続き、木村が力動山戦のまさかの敗北により地位も名声も失い、、失意のどん底に苦しみ続けた後々まで、塩田は友を心配し声をかけ続けたそうです。
(引用開始)
 拓大同期で親友だった塩田剛三(合気道養神館)も木村のことをずっと気にかけていた。
 戦前はもちろん木村政彦の方が圧倒的にネームバリューがあったが、戦後、合気道ブームがやってきて「不世出の達人」として武道界で地位を確立し、大山と同じく、忘れ去られていく木村の名声をいつしか逆転してしまっていた。
 だが、養神館の何らかの写真を見ると、そこに、よく老年になった木村が写っているのを見つけることができる。
 何か行事があれば必ず呼んで木村を弟子たちに紹介し、いかに強い柔道家だったかを弟子たちに繰り返し話した。
 塩田は木村をかばい続けた。
「木村政彦って男は本当にたいしたもんだよ。拓大もすごい男を出したもんだ。木村のような武の真髄を極めた男をだした大学は拓大以外にない。拓大はもっと誇りを感じるべきだな」
 若い頃から共に過ごしてきた男だからこそ、木村の気持ちがよく分かったのだ。
(引用終わり)
 武道家の鏡となるエピソードですね。
 
 ここを含め本書の最後の方は、私は涙なくしては読めませんでした。
 

| | TrackBack (0)

March 26, 2017

木村政彦と合気道

 前記事で木村政彦の強さに、なんともいえぬ柔軟な思考・行動傾向(遊び好き、いたずら好きといった感じで人々に記憶されている)があることを、 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也、新潮社)から引きました。
 
 もう一つ、木村の柔道を飛躍させたものがあったようなのです。
 
 それはなんと、合気道です。
 
 木村が合気道を学んだわけではありません。
 
 拓大予科2年の若い頃、既に中学時代に柔道日本一を経験していた木村は無敵の勢いを示し始めた頃でしたが、合気道を学んだことのある柔道家にもてあそばれるようにして負けたのです。昭和11年6月1日、宮内庁主催の選抜試合でした。
 
 木村を翻弄したその相手は、阿部謙四郎という武道家でした。
  しかしその名前は、合気道史によほど詳しい人でないと知らないと思います。当時から天才と称され、のちにイギリスに柔道と合気道を広めた人だそうです。私は、阿部が極めて実戦的で強い人だったという話を、以前ある合気道の本か雑誌で読んだ記憶があります。本書でその具体的なエピソードを知って、とても興味深く思いました。
 
 阿部は既に柔道で相当の力があった20歳前後、偶然汽車内で出会った合気道開祖・植芝盛平に簡単に組み伏せられ、その場で弟子入り、10年間合気道を修行したとのことです。
 
 木村の自伝の言葉です。
「彼と組み合ってまず驚かされたのは、ふんわりとしか感じられない組み手の力と柔軟さだった。試合ともなれば誰しもがある程度両手に力を込めて握ってくる。当然、肩や足腰にも、相手の動きに対する警戒感から多少の力が入るのだが、彼の場合はどこにも硬さというものが感じられなかった。文字どおり掴みどころのない感触で、どんな技でも簡単に吹っ飛びそうな気さえした。
 これはたやすい。私は思い切って得意の大内刈り、大外刈りを放った。ついで一本背負い。しかしどうだろう。まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。かける技、かける技すべて同じ調子で受けられてしまう。グンと弾ね返されるならまだしも、これではまるで一人相撲ではないか・・・・。私は焦った。その瞬間、ビュンと跳ね上げられた。ようやくのことで腹ばいになって逃れる。跳ね腰だ。次に大外刈り。これも私は、危うく半身になって難を逃れた。しかし阿部五段の攻撃は矢継ぎ早に続く。私はかろうじて腹ばい、半身になるのが精一杯であった。相手の技に対して戦々恐々、防戦一方で試合は終わった。結果はもちろん、私の判定負けである」
 
 木村は筋骨隆々、すさまじい腕力の持ち主で、その大外刈りはあまりに強烈で相手が後頭部を強打して失神してしまうことも少なくなかったそうです。だから稽古では相手が怖がって、木村が大外刈りを打とうとすると、「それだけはやめてくれ」とその場で座り込んでしまうほどだったそうです。
 
 それを柳に風のごとく、まさに「柔(やわら)」というにふさわしく、剛力の木村を難なく制してしまった阿部は相当な手練れだったと間違いなく言えるでしょう。
 
 ところが木村は、阿部が合気道をやっていたことを死ぬまで知らなかったようです。
 
 しかし、木村も天才、阿部に弄ばれたことにかなりショックを受けて一時は柔道をやめようかとさえ思ったものの、師匠の牛島辰熊にさとされ(というか怒られ)、自分に足りないものを分析し、柔の要素を入れた独自の稽古を工夫して猛特訓し、1年後、今度は阿部を何度も投げ飛ばすことができ、リベンジを果たしました。
 
 心は子どものように柔らか、体の動きも柔らかくなった木村は、以後無敵となっていったのです。
 
 武道家の上達プロセスとして、大変興味深いですね。
 
 そして実は、木村に影響を与えた合気道家がもう一人いました。(続く)
 

| | TrackBack (0)

March 23, 2017

木村政彦の強さの秘密

 最強にして悲劇の柔道家、木村政彦の生涯を追った『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也、新潮社)は、素晴らしいルポルタージュとして評価は定まっていますが、ストーリーの本筋とはやや関係のないところの、私なりに興味深いところをメモします。
 
 なぜ、木村政彦は現代でも最強と言われるに至ったのか、どうやって強くなったのかということです。
 
 もちろん、健康で頑丈な体に生まれ、貧しい家庭で育ったので幼いころから肉体労働をしていたとか、「努力3倍」と自称するくらい、凄まじい稽古を積み重ねたからであることは間違いがないのですが、本書で知った木村政彦にはそれだけでない側面があります。努力家でひたすら武士道を追及する、いかにも武道家、体育会系なところばかりではないのが、彼の魅力であることがわかりました。
 
 一つは、とても愛嬌のある、というにはおとなしすぎるくらいのど派手ないたずら好き、遊び好きであったようです。著者は「悪童」と本書の中で呼んでいます。
 
 戦前、戦中の昭和の時代の男ですから、その内容は先ず「飲む」、「打つ」はないようですがそして「買う」で、その様子は破格でした。女性読者のために、ここではそのエピソードは細かく書きませんが、興味のある人は本書を開いて下さい。面白過ぎるエピソードがいくつもあります。
 
 彼と接し、行動を共にした人はたくさんいましたが、その多くが著者の取材中に彼を慕った様子を語り、彼との思い出を懐かしがり、木村はもう亡くなっていたにもかかわらず、格闘技や武道を極めた大の男たちが時に「木村さんに会いてえなあ」と、感極まって泣いたそうです。
 
 それはライバルというか終生の敵となった力動山が、弟子のジャイアント馬場やアントニオ猪木からさえも、「力道山には人間的に良いところは一つもなかった」と言われたのと対照的です。
 
 面白かったのは戦争中、24歳の青年だった木村は当然兵役に就いたのですが全然まじめな兵士でなかったことです。彼は既に柔道日本一で全国的なスーパースターだったので、当然「お国のために命を捧げます」というくらいの愛国精神を発揮した、ということは全然なかったみたいです。強くなることには執念を燃やしても、戦争は嫌いだったのかもしれません。実際、柔道家としての全盛期となるはずの貴重な20代を戦争に奪われることになってしまいましたから。
 
 木村は福岡の防空隊に配属されましたが、初年兵に鞭をふるったり理不尽な暴行を加えていた曹長に頭に来た木村は、とんでもないいたずらをしました。木村の言葉です。
 
(引用開始)
 こんなことがあった後で、また私に不寝番が回ってきた。大沢(曹長=ブログ主注)は例によって口を大きく開け、往復いびきをかいている。よし、今夜こそ復讐してやろう・・・・
 復讐と言っても寝ている相手を殴る蹴るような卑怯な真似はしない。まず下半身にかかっている毛布を静かにはぎとり、大沢の○○を露にする。その小さくしぼんだ奴を中村(仲間=ブログ主注)と交代でしごく。だんだん勃起してくる。次にはそいつを、タンポのついた木銃の先で軽くついてやる。ポーン、ポーンと、突くたびに勃起した○○がはね返ってきて、ボクシングのパンチングボールのような具合だ。なんともユーモラスでぶざまなものだ。それでも大沢はいっこうに目をさます気配もなく、こちらは十分に楽しませてもらった。  
(引用終わり)
 
 面白いなあ。
 
 著者によると、木村の戦争時代の思い出話は前後や事実関係が不明瞭で、本によって矛盾がひどいそうで、いかに彼が戦時中ちゃらんぽらんな態度だったかが推測できると言います。そして、メチャクチャ体が丈夫なはずなのに、怪しい理由で病院にかかり、入院し、結局除隊してしまいました。
 
「木村にとって戦争はどうでもいい過去なのだ」
「木村は大日本帝国に命を捧げようなどとは微塵も考えていなかったのだ」
 と著者は考察しています。
 
 木村は戦前の天覧試合での優勝など、今なら国民栄誉賞をもらえるべき立場でありながら、デンデン安倍首相、自称愛国右翼の連中なら許せない態度ということでしょうけど、これも真正武道家のあるべき姿の一つかもしれません。
 
 自分にとって大事なこと以外のくだらないことには、関心を持たない。
 
 普通の武道家なら国家や権威を信じ、その命令に従い、ガチガチの人間になるところを、何とかかいくぐって遊びまわる木村の柔軟というか、いい加減さに好感を持ちました。物事のとらえ方の柔らかさ、屈託のなさに強さの秘密があるような気がしました。
 
 ゆる体操の高岡英夫先生の理論、あるいは太極拳のような内家拳の見方からすると、認識の世界がゆるんでいれば、身体運動は身体意識を介して必ずそのゆるみを反映するはずだからです。ただの剛ではない、剛柔相済となります。
 
 しかし同時に、それが後の力道山戦でだまし討ちにされた悲劇につながったと言えます。あまりに彼は素朴だったのかもしれません。
 
 

| | TrackBack (0)

February 09, 2017

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の概略をつかむ

 分厚い本や長編小説を読むと、終わりが近づいてくるとなんだか寂しい気持ちがするものです。早く読み終わりたいような、少しペースを落としてじっくりと味わいたいような気持で揺れることがあります。
 若い頃はエンターテイメントを含めてけっこう長編を読んだものですが、最近は短くてわかりやすいものやお手軽な本を手にすることが増えました。ご時勢も年齢も影響しているのでしょう。
 
 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)は、まさにそれ自体で「自立」するほど分厚い本でしたが、そういう読書体験でした。古今無双、明治、大正から現在まで含めても最強といわれる柔道家にして、力動山戦で謎の屈辱の敗北を味わった木村政彦の生涯を通して、昭和という時代を味わった感がありました。
 
 でも面白いからと知り合いに進めても、やはり厚い、長いで敬遠されることが多いことがわかりました。
 
 そこで書評サイトで本書をよくまとめたところがありましたので、リンクします。それでも少々分量あるけど。
 
 
 興味を持ったら、読んでみてください。
 

| | TrackBack (0)

January 19, 2017

『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

 2011年に出版され、武道、格闘技関係者のみならず戦前・戦後文化に関心のある人たちに衝撃と興奮を与えた増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)をようやく読みました(大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品)。
 
 700頁にも及ぶ大作なので、ここ数年の多忙の中であえて手を出さなかったのですが(読みふけってしまいそうだから)、この年末年始の休みにやっと読むことができました。
 
 やはり、素晴らしかった。
 
 もちろん、不世出、無敵の柔道家・木村政彦の個性的で、凄まじく起伏のある生涯を追いかけているのですが、木村以外の有名、無名、歴史に埋もれてしまった武道家たちにも光が当てられ、戦前と現代の武道界がいかに断絶、変質してしまったか歴史的経緯も丁寧に説かれています。私も漠然と知っていたことが明確になったり、初めて知るエピソードもたくさんありました。
 
 熊本の貧乏の家に生まれた木村政彦はどういう人物で、どう育ち、どうやって強くなったのか。彼を創り上げた戦前の柔道界、武道界はどういう人物がいて、どのような状況だったのか。
 そして昭和29年(1954年)12月22日の、あの「昭和の巌流島」といわれた力道山との一戦の真相は何だったのか…
 
 普通の人は柔道は今の講道館だけであり、しかも明治時代に古い柔術に嘉納治五郎率いる講道館が勝ったから取って代わったと思っているかもしれませんが、史実は全く違います。戦前は講道館以外にも有力、強力な団体はあり、むしろ講道館より実力、勢力があったのです。木村政彦はそのすべての柔道界の中で頂点でした。
 その彼がなぜあんな無様な負け方をしてしまったのか。
 
 いろいろ紹介したいエピソードはありますが、まとまりがなくなりそうなのでやめておきます。
 常識や物事への思い込みを相対化してくれる本はいい本です。
 
 しかも構想から完成まで18年を要し、学術論文並みに徹底的に調べ上げながらも、柔道家でもあった著者の木村政彦や無数の武道家、柔道界への熱い思いもしみ込んでいて、読者の気持ちも熱くなる名著です。
 
 遅れて読んだ私が言うのもなんですが、是非一人でも多くの人に読んでもらいたい。特に武道関係者には。
Amazonより)

内容紹介

昭和29年12月22日----。プロ柔道からプロレスに転じた木村政彦が、当時、人気絶頂の力道山と「実力日本一を争う」という名目で開催された「昭和の巌流島決戦」。試合は「引き分けにする」ことが事前に決められていたものの、木村が一方的に叩き潰され、KOされてしまう。まだ2局しかなかったとはいえ、共に生放送していたテレビの視聴率は100%。まさに、全国民注視の中で、無残な姿を晒してしまった木村、時に37歳。75歳まで生きた彼の、人生の折り返し点で起きた屈辱の出来事だった。柔道の現役時代、木村は柔道を殺し合いのための武道ととらえ、試合の前夜には必ず短刀の切っ先を腹部にあて、切腹の練習をして試合に臨んだ。負ければ腹を切る、その覚悟こそが木村を常勝たらしめたのである。約束を破った力道山を許すことができなかった木村は、かつて切腹の練習の際に使っていた短刀を手に、力道山を殺そうと付けねらう。しかし、現実にはそうはならなかった......その深層は? 戦後スポーツ史上、最大の謎とされる「巌流島決戦」を軸に、希代の最強柔道家・木村政彦の人生を詳細に描く、大河巨編!!    

出版社からのコメント

『ゴング格闘技』誌上において、2008年から2011年まで、約4年間にわたって大反響を呼んだ長期大型連載が、待望の単行本化です。戦前、史上最年少で「全日本選士権」を制し、1949年に優勝するまで一度も負けず、15年間、不敗のまま引退。木村政彦は間違いなく日本柔道史上、最強の柔道家です。また、力道山戦の3年前、ブラジルに遠征し、ホイス・グレイシーの父、エリオの腕を骨折させて圧勝、その技が「キムラロック」として、世界に定着しており、総合格闘技の父ともいえる存在です。「鬼の柔道」を継承した師匠・牛島辰熊、そして自身が育て上げた岩釣兼生、三代続く師弟関係を中心に、戦前から戦後の柔道正史、思想家でもあった牛島による東條英機暗殺未遂事件の真相、プロレスの旗揚げなど昭和裏面史の要素もふんだんに織り込んだ、長編ノンフィクションです。著者の増田氏は、この作品を書くために、18年もの歳月を費やし、資料収集と取材にあたってきました。ボリュームある装丁ですが、増田氏の丁寧で真摯な取材と文章が、最後まで読む人の心を掴んで離しません。ぜひ、多くの皆様に読んでもらいたいです。

 

| | TrackBack (0)

December 14, 2016

『なぜ空手は太極拳で強くなるのか』

 タイトルに惹かれて買いました。
 
 実際カミングアウトするかはともかく、空手の修行者、高段者で本格的な太極拳を学ぶ人は少なくありません。私の流派にも著名な先生が熱心に通われていたりします。
 これは太極拳が空手より優れていると安易にいいたいわけではありません。ただ、空手に不足しているもの、あるいは言語化、意識化が十分にできていないところが太極拳にあることを、真面目な学習者ほど感じ、知っているからだと思います。
 
 そうなら自らの武術の進化、深化のために剛の拳法に柔の極致である太極拳を取り入れるのは理にかなっています。
 
 池田秀幸著『なぜ空手は太極拳で強くなるのか』(フルコム編、東邦出版)は、そんな真摯な一武道家が体得したものを伝えようとした書と思いました。
 
 著者は数々の空手、特に沖縄空手を学びながら、陳式太極拳も学んで独自の鍛錬を重ねてきた人のようです。空手の先生が「空手には技を説明する言葉が少ないが、太極拳をはじめとする中国の武術には、技を説明する言葉と理論が豊富である」と言ったのが、本書の発想のもとになったそうです。
「太極拳の理を、なんとか三戦やナイハンチなどの拳理の説明に役立てられないか、という大胆な発想にたどりつきました」
 と語っています。
 ともすればそれぞれの体系の中に閉じこもりがちな各武術ですが、とても越境的な人です。市井の比較武術学者とでもいえそうです。
 
 著者は元々養護学校の先生をしていたのが、稽古のために辞めて多摩湖の側に移り住んだり、実戦の場を求めて米軍基地で太極拳教室を開いたり、渡米したりとなかなか行動的です。
 それらのエピソードも面白いのですが、やはり分解写真などによる身体操作の解説が参考になりました。
 ただ、著者の理論の根幹である「四呼間の動き」の説明が不足気味で、イメージしにくいと感じました。関節、筋肉を緩めたまま動かすためのコツのようなもので、パッパと2拍子ではなく、4ステップ位に分けて動かすということのようですが、直接学ばないとわからないのかもしれません。
 
 著者の動画もいくつか出ていますが、単なる筋トレではなく、呼吸法や気功法で鍛えぬいた体であることがわかります。御年65歳だそうですが普通じゃありませんね。
 
 
 
 著者のところとは違いますが、山梨で本格的に太極拳を学びたい空手マンは、是非私の稽古会にご参加ください(注:陳式太極拳ではありません)。
 
 
 

| | TrackBack (0)

September 11, 2016

『身体系個性化の深層心理学』

 スポーツと心理学は、メンタルトレーニングやコーチングなどによって最近かなり密接な関係になっていますが、ユング心理学と結びついた大変稀有な本です。
 
 
 ユング派最強の技法といわれるアクティブ・イマジネーションを通して、一人のアスリート(トライアスロン)が成長をする事例を物語っています。
 私は大変興味深く、面白く読みました。
 
 精神分析学はリビドーという概念で、アドラー心理学は全体論で、身体性とある程度接続しようという方向性はありますが、ユング派はどちらかというと観念論的な印象がありました。「元型」や「集合的無意識」も身体的といえばそうですが、どうも実感しがたいものです。
 
 しかし、著者によれば、それはこれまでのユング派の人たちの関心のあり方の問題で、ユング自身は本来非常に身体性の強い人で、ユング心理学は深く身体の世界を探ろうという動機が強かったはずだというのです。
 実際ユングは、非常に凝った装飾と革張りの分厚い本を手作りしたり、大工仕事が大好きだったそうです。
 身体作業、物理的作業といえば、ユングの別荘作りも半端なものではなかった。彼はやはり数十年の歳月をかけ、自力でコツコツと別荘を建て、改築を繰り返している。石を切り出して、刻み、積むために、ユングは石工のギルドに入りさえした。この石造りの別荘はボーリンゲンの塔と呼ばれている。そこには電気も水道もなく、原始的な生活を送ることが想定されていた。この究極的とも言えるDIYに注がれたエネルギーを取ってみても、ユングは職人的な身体系個性化の人である。  p133-134
 これは確かに半端ない。だからこそ、当時にして錬金術、煉丹術(気功)、クンダリニー・ヨーガなどの東西の身体技法に並々ならぬ関心を持ったのでしょう。ユングが今の時代にいたら、中国か台湾で武術や気功の修業をしに来たかもしれません。
 
 ユング自身はどちらかというと、書斎にいて執筆に精を出すフロイトと、毎晩ウィーンのカフェで集う社交的なアドラーとは違うタイプだったのは明らかのようです。
 
 実際編み出した概念も、お坊ちゃんでお母さん大好きなフロイトは「エディプス・コンプレックス」だし、友達が多いアドラーは「共同体感覚」で、内向的で霊感が強そうなユングは「集合的無意識」だったりします。
 技法も、患者を寝椅子に横にさせるフロイトと、対面して活発な会話をするアドラーと、一人(もしくはそれを見守るもう一人と)イメージの世界に沈潜させるユングと、個性が際立っています。
 
 私自身はタイプとしてはユングに近いと思います。でもユング派にならなかったのは(大学のユング研究会に一時いたこともあるのに)、どうも肌合いが合わないというか、実践的でないというか、観念的な印象があったからです。
 
 実際、日本のユング派の先達は、ユングのこの辺りのところはあまりにも妖しい領域なので避けてきたような印象が私にはありました。それよりも、ユングの哲学的、ファンタジーなところを強調したり、箱庭などとっつきやすい技法を紹介することで日本に根付かせようと努力されてきたようにはた目には見えました。それは成功したといえます。まず、知識人、読書人層に受け入れられ、女性臨床家に多く受け入れられました。
 日本人は(特に女性は)、ユング好きが多いです。
 
 著者の老松先生は、現代のユング心理学の欠けているところを補おうと立ち上がった(?)のかもしれません。実際著者は、合気道や杖道をやっていた武術家です。さもありなん。
 
 実は6年ほど前の日本心理臨床学会の「武術と心理臨床」の自主シンポジウムにシンポジストとして出られ、私もご一緒したことがあります。私は今年と同じく太極拳を紹介し、先生は本書のモチーフにつながることを語られていたように思います。
 
 
 今回このような実践と研究の集大成を出されて素晴らしいと思いました。
 
 

| | TrackBack (0)

July 20, 2016

武術を学ぶ動機

 再び、チェスと武術の学びのプロセスを語っている『習得への情熱』(みすず書房)からメモします。
 
 著者のジョッシュ・ウェイツキンはチェスの世界で心身を消耗しつくし、太極拳で内的調和の感覚を得ながら、さらに太極拳を使った戦い(推手の試合)やブラジリアン柔術の世界にのめりこんでいきます。その動機を次のように語っています。
 
 戦いたくないのに格闘技のリングに立つなんて、矛盾していると思われるかもしれない。このことに関しては、僕は個人的に、心を開墾し続ける作業だととらえている。お花畑で非暴力について語るのは簡単だ。本当の意味で心のチャレンジとなるのは、敵意や攻撃や痛みと向き合ったときに、その根本的な視点を保ち続けられるかどうかだ。僕の成長過程の次のステップは、どんなに難しくなっていく状況の中でも、どれだけ自分に忠実であり続けられるかということだった。  p228
 武術や武道、格闘技を現代で学ぶ意義を見出すなら、護身というシンプルな意味だけでなく(もちろん最も基本で重要なことですが)、ここでいう「心を開墾する作業」にあると思います。
 
 心身の潜在的な能力に気づき、引き出し方を会得すること、緊張や不安のある状況下での心身のふるまい方を得られることが考えられます。
 
 民間の武道家、格闘家には、不登校やひきこもり、非行のような子どもへの治療教育として武道をやらせる人もいて、それは確かにやりようによって大きな成果をあげられると思います。しかしそうなるには単に根性がついたというだけでなく、著者のいう意義を身につけられたからだと推察されます。
 
 そして、臨床家や援助者にも武術といった戦い方を学ぶ意味が意味がそこにあると思って、少なくとも私は取り組んでいます。
 
 

| | TrackBack (0)

July 13, 2016

自主シンポで武術を語ります

 秋の日本心理臨床学会第35回大会で、臨床と武術について語り合う自主シンポジウムがあります。
 
 企画者は合気道(富木流)を修める掛井一徳先生、昨年度まで山梨でスクールカウンセラーをしていた大変アクティブな先生です。
 
 私もその縁で出ることになりました。私は合気道は専門ではありませんが、実は高校時代やっていました(合気会)。私の家のすぐ側には塩田剛三先生の一番弟子が開いている養神館があり、今でももし時間があれば通ってみたいなあという気分があります。
 
 もちろん私は、中国武術代表のつもりで出ますよ。
 
 さらにエリクソン催眠の大家、津川先生を指定討論者に迎え、どんな内容になるのかワクワク、何か言わなきゃいけない私はドキドキです。
 
 ご参加予定の方々、よろしかったら見に来てください。
 
9月7日(水) 13:00~15:00
 
3-24 合気道と心理臨床学との接点           511+512 会議室
 
-合気道・太極拳・武術・実践から浮かぶ臨床の知-
 
掛井 一徳(掛井臨床心理相談室):企画者
 
深沢 孝之(心理臨床オフィス・ルーエ):話題提供者
 
なかお よしき(福井県スクールカウンセラー):話題提供者
 
津川 秀夫(吉備国際大学):指定討論者   

| | TrackBack (0)

July 11, 2016

実体理論者と習得理論者

 
 本書の前半にキャロル・ドゥエック博士という発達心理学者の知能についての説で、人々が知能をどういうものと解釈しているかが学習能力と相関しているという考えを紹介しています。
 
 その二つは、実体理論(entity theory)増大理論(incremental theory)といいます。
 
 親や教師の影響で「実体理論者」になった子どもたちは、「『自分はこれが得意だ』という言い回しをよく使い、成功や失敗の理由を、自分の中に深く根付いていて変えることのできない能力のレベルにあるとする傾向が強い」そうです。
 そういう人は、「ある特定の課題における知能や技術のレベルそのものを、進歩させることのできない固定された実体としてとらえている」そうです。
 つまり、自分の持っている能力は決まっているので変えられないと思ってしまっている状態です。
 
 増大理論者(本書は習得理論者と言い換えています)の子どもは、「頑張って取り組めば難しい課題でも克服することができる、すなわち、初心者でも一歩一歩進むことで漸次的に能力を増大させ、ついには達人になることだって可能だという感覚を持っている傾向がある」そうです。
 
 当然、実体理論者より習得理論者の方が、長い目で見たら学習の成果が良いことは想像がつきます。
 
 本書にはそれを証明する興味深い実験結果がいくつか紹介されています。
 この実験が面白いのは、正解を出すことと知能レベルには何の因果関係もないことが示されているところだ。難問を突き付けられると、実体理論者で頭脳明晰な子どものの方が、習得理論者でさほど賢くないとされている子どもよりも、はるかに脆く崩れてしまう傾向が強い。 p44
 私を含めて心理士は知能検査などで相手の能力をアセスメントしなくてはならないことが多くあります。それが必要なケースがかなりあるのは周知のとおりです。
 しかし、その結果を実体理論としてではなく、増大理論として解釈する方が大事ではないかと思われます。
 
 アドラー心理学的にはここのところを「やわらかい決定論」と呼ぶのだと思います。
 
 ではどうしたら、増大理論者、習得理論者になれるのかに興味がわきます。親や教師はどう接したらよいのか。
 実体理論者になる子どもの多くは、何かを上手にやりとげると、「よくできた」と言われ、失敗したときには「君には向いていない」と言われてきた傾向がある。たとえば少年ジョニーが数学のテストで一番をとって帰ってくると、「まあ、いい子ね!なんて頭がいいの!」と褒められる。その翌週に国語のテストで落第点をとって帰ってくると、「だめね。文章もまともに読めないの?」とか「ママも文章読解は得意じゃなかったのよ。きっと遺伝ね」などといったことを言われるわけだ。これでジョニーは、自分が数学が得意で国語が不得意だと思うようになるばかりか、成功や失敗の要因をその人物の奥深くに根付いた能力と関連づけて考えるようになる。  p45
 賞罰、褒めることの弊害ですね。
 一方で、習得理論者になる子どもの多くは、結果よりも過程を重視したフィードバックを受けてきた傾向が強い。たとえば少女ジュリーが作文でよい点を取ったとき、先生から、「ワオ、よくやったわね、ジュリー!本当に文章が上手になってきているわ!この調子で頑張るのよ!」というタイプの祝福を受ける。また、数学のテストで悪い点をとれば、先生から「次はもう少し頑張って勉強すれば、きっといい成績が取れるはずよ!質問があったら、授業の後でいつ聞きに来てもいいのよ。先生はそのためにいるんだから」と励まされる。これでジュリーは成功というものを努力と結びつけて考え、ハードワークをすれば、どんなことでも上達できると感じるようになる。それだけでなく、今の自分は学びの途上にあるのだということ、さらには、自分が成長することに先生も快く助力してくれていると感じることもできる。 p45
 何のことはない、アドラー心理学の勇気づけそのものではないですか。
 
 そしてアドラーが言ったという「誰でもなんでも成し遂げることができる」とは、幼児的な万能感ではなく、このあたりのことと考えることができますね。
 
 勇気づけと発達心理学、チェスと武術の学びの過程が結びついたところとして、うれしかったのでメモしました。
 

| | TrackBack (0)

より以前の記事一覧