June 30, 2009

武蔵の全盛期は?

 剣豪・宮本武蔵の生涯に思いを馳せるとき、武蔵はどのように強くなっていったのだろうかという疑問が当然のようにわいてきます。

 野生児のような粗っぽい10代から、沢庵和尚に「人の道」を仕込まれ、数多くの真剣勝負で剣の道を求め続け、女には目もくれず、ついに佐々木小次郎との試合の時は実力は頂点に達した・・・。

 吉川英治以降、ほとんど全ての物語が、まるでユングの元型論に沿うかの如くワンパターンを繰り返しています。
 それは教養小説として、人々が安心して読める予定調和の物語だからです。

「宮本武蔵は、なぜ強かったか?」で高岡英夫氏は、定説に挑戦するかのような武蔵論を出しています。

 実は天才・武蔵の全盛期は13才の頃、新当流の有馬喜兵衛と立ち合って倒した時が最高レベルで、後は「その時の感覚」の再現を求めるかのように、武蔵は幾多の戦いに望み続け、勝ち続ける中で、いくらかはその感覚を得ながらも徐々に失っていき、その代わりに騙したり意表を突くような「戦術」を使わざるを得なくなり、ついには巌流島の佐々木小次郎との決闘では、武蔵にとって最低、最悪レベルに落ちていた。だからあんな戦いをしなければならなくなった。
 そのことに気づいた武蔵は、在りし日の感覚を求めて剣以外の芸道などに打ち込み、「悟り」を求め、ついには「五輪書」を執筆するレベルに至った・・・。

 とまあ、ざっとこんなプロセスです。

 どうしてこういえるのか。
 高岡氏は、「五輪書」の丁寧な読解と自身の武術/身体の鍛錬経験を重ね合わせながら、その考えの根拠を開陳していきます。
 そのプロセスがとてもよくて、「なるほど、こうやって兵法書は読み解いていくのか」と、読書自体が頭の鍛錬になる思いがしました。

 天才・武蔵は生まれながら無常のゆるみきった身体を持ち、そこから繰り出される水のような無駄のない、まるで天理に沿った動きができたことを「をのずから」と「五輪書」で表しています。
 しかしそれなら武蔵はなぜ、半生飽くことなく戦い続け命のやり取りを続けたのか。

 連続殺人犯みたいに病的パーソナリティーだったためか。

 いや、全く違う道徳、生命観で生きていた人に、今の基準を当てはめても仕方がないでしょう。そんな病的な書なら「五輪書」が世界で人生の指針のように読まれているわけがない。

 高岡氏はいいます。

 もし仮に、その後も「自ずから天理を離れない」戦いができたのなら、おそらく真剣勝負を数回繰り返せば、もう「これが天理」だなという最終的な悟りに到達してたことでしょう。ところが現実の武蔵はそれから六十余度も真剣勝負を続けていったわけです。

 それは有馬との戦いののち、武蔵の心中に壮大な悩み、迷いが生まれたからだと私は考えます。

 武蔵の悩み、それは天理、しかも根本さらには究極の天理を見失ってしまったことに他なりません。武蔵の修行遍歴とみられているのは、実は失った天理を求めてさまよう、文字通り血みどろの苦しい道のりだったのではないかと、私は考えています。p226

 本書は具体的な二刀流の術理の解説もされていて、そこのところも興味深いのですが、人間・武蔵の新たなイメージを得ることができ、私には今年上半期の「武術部門」ベスト1の本となりました。

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June 21, 2009

水の身体

 宮本武蔵は『五輪書』の「水の巻」について、次のように「解説」しています。

 第二、水の巻、水を本として、心を水になる也、水は方円のうつわものに随ひ、一てきとなり、さうかいとなる、水に碧潭の色あり、きよき所をもちひて、一流のことを此巻に書顕はす也。

 この「水を本として、心を水になる也」とはどういう意味かを高岡英夫氏は『宮本武蔵はなぜ、強かったのか?』で、読み解いていきます。

 要するに「水を根本原理として、水というものが自分のあり方の根本的なベースになるようにしなさい」と説いているのです。
 これはまさに武蔵の身体論の土台ですので、これを読み違えてしまうと、『五輪書』全体を読み誤ってしまうわけですが、非常に残念なことに、これまでの『五輪書』の解釈はすべてここで決定的なミスを犯してしまっているわけです。p31

 決定的なミスとは、ほとんどのこれまでの読者がこれを、私たちが普通使うところの心、自我とかそのような心理的働きのことと思い込んで、「精神論的解釈」をしてきてしまったことだと高岡氏はいいます。たとえば「心を水のように清らかにしなさい」とかいった感じで説明するとか。 

 しかし武蔵は現代人ではないし、心理学者でもない、今でいう「アスリート」で、「殺し合いを含めた試合を行うアスリート」であるのだから、心の意味範囲が違うと考えるべきだという氏の意見に私は同意します。

 そんな身体運動のプロフェッショナルである武蔵が、「心」と書いた以上、それはあくまで身心相関、心身一如の「心」のことであり、身体から分離した単なる精神論であることはありえません。
 したがって、ここで彼が「心を水になる也」といっているのは、まず身体が水のような状態になっていることが大前提になっているのです。この大前提の役割を果たしている部分が「水を本として」です。p32

 では、身体が水のようになっている、とはどういうことなのでしょうか。
 端的にいって、身体が極限的にゆるんでいて、水のようなクオリティを持っているという状態だといいます。

 けして、筋肉を固め、力を込めたガチガチの状態ではない。

 私のやっている太極拳のような武術では、「身体とは固体ではなく、水の詰まった皮袋である」といった身体観が伝えられています。
 だからあのように脱力して柔らかく動く稽古をするのですが、それに非常に近い考えを武蔵が持っていたことに改めて驚かされましたし、私としては「武蔵と同じだ」と勇気づけられました。

 もちろん実力は雲泥の差ですが。

 この辺の本書での解読作業はなかなか読み応えがありますよ。

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June 15, 2009

「宮本武蔵は、なぜ強かったのか?」

 また面白い本が出ました。
「宮本武蔵はなぜ強かったのか?-『五輪書』に隠された究極の奥義」高岡英夫著,講談社

 剣聖・宮本武蔵が著したとされる「五輪書」。武道関係者のみならず、ビジネスマンなど世界中に愛読者がいるという日本を代表する「名著」です。

 しかし、私たちは本当に「五輪書」を、武蔵を理解してきたのだろうか?

 本書はゆる体操で知られる運動科学者・高岡英夫氏が、「五輪書」を通して真の武蔵像を明らかにしようという意欲作です。

 武蔵は実際どのような人物で、どのように身体を使って技を繰り出したのか、これまで私たちがテレビや映画、マンガなどを通して作り上げていた武蔵像がいかにステレオタイプで表面的だったかが本書を通してわかります。

 髪はぼさぼさ、ギョロ目で野性的な風貌、ぼろ布のような着物を纏い、二刀を振りかざしてカッとこちらを見据える気迫に満ちた表情。
 大河ドラマや人気コミック「バガボンド」だけでなくこれまで表現された全ての武蔵が同じ感じでした。
 その全てのルーツはいうまでもなく吉川英治の作品です。

「五輪書」は世界中で読まれているというし、武道研究者には必須の教養って感じなので、私も岩波文庫版を持っていますが、目を通しただけで全く読み込んでいません。
 正直よくわからない。日本の剣術やったことないし。

 高岡氏は、これまで多くの武蔵研究者や読者はもっぱら、具体的な戦術について説いた「火の巻」にばかり注目しがちで、他の最も重要な巻には目を向けてこなかったといいます。

 それは火の巻の前にある「水の巻」です。
「水の巻」にこそ、武蔵の心身の本質が著されている、しかし吉川英治始め多くの読者はここをうまく読み解くことができなかった。そのため、「強かったのだからこんなだったに違いない」「普通は一刀を使うのに、二刀を振り回していたのだから、腕っ節の強い怪力無双だったに違いない」と勝手な想像を巡らせてしまったのです。

 なぜなら、誰一人武蔵ほどの身体の動かし方のレベルに達していなかったからです。彼の意識状態になって、武蔵の目で、武蔵の耳で、武蔵の体で考えることができなかったからです。

 本書は名著「五輪書」を高岡氏と読書会をしながら読んでいるような気分を味わえ、新たな武蔵像と自らの身体への関わり方を振り返る機会となりうると思います。

 だからあまりネタバレ的なことはしたくないのですが、若干内容を次回以降取り上げます。

 

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April 30, 2009

合気道の強さ

 前記の「誰も知らない武道のヒケツ」には、太極拳、形意拳、八卦掌などの中国武術の戦闘技術のエッセンスである「交叉法」について解説してあり、興味のある方は是非当たってみるといいと思います。
 戦い方の目が変わるかもしれません。

 本書には、いたずらにパワー志向に陥ることなく「相手の攻撃力に逆らわず受け流して自滅させる」武術の究極の形態、「理想形」として、太極拳の他に合気道を挙げ、詳細にその理合について解説しています。

 よく「合気道は実際の戦闘では使えない」という批判をする人がいますが、著者はそれは全くの間違い、ただ「鍛えた筋肉を打ち合うこと」を実戦と思いこむパワー志向の浅はかさと考えています。
 実際に著者のところに学びに来る武道・格闘技専門家たちに合気道や太極拳の技を示して見せて、大いに納得させているようです。

 合気の基礎原理(脱力)を体現していれば、それを実際の武術の戦闘に活かすことは十二分に可能なのです。
 いやもっと希望のある話をすれば、「体格・体力に関係なく年とっても上達していける夢のような超武術を体現することができる」とまで言い切ってしまいましょうか。
 武道好きな人たちが「あんなの実際には使えないよ」と小馬鹿にしがちな合気道が、実は素晴らしく遣える武道だというのは景気のいい話でしょう。p84

 しかし実際の合気道学習者から、例えばローキックのような効果的な格闘技の技にどう対処してよいかわからない、やられてしまうという悩みを聞くことがあるのも事実です。
 そんなとき、著者はいたずらに空手やキックボクシングのように脚を上げるローキック対処法を学ぶのではなく、、己の学ぶ武術の基礎をもっと見直せと迫ります。

 それもこれも、相手の攻撃に付き合わずに、間合いと角度とタイミングを計って隙間に付け入るから圧倒的戦闘力を発揮できるのであって、合気道の戦闘理論を無視して実践的な技を加えれば勝てるのではないかと考えたりしていたら、墓穴を掘ってしまうのです。・・・(中略)・・・

 けれどもこういった悩みを持つ人に共通しているのは、最初から「フルコンタクト空手が実戦的で合気道は時代遅れなんじゃないか」という先入観があるのです。p85

 では具体的にどうするか。
 それは合気道の基礎の基礎である「入り身投げ」の原理の応用で十分だとして、その解説をしています。

 武術には筋力より理合い、間合いがとても重要であるということがわかって、面白いところですよ。

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April 27, 2009

「誰も知らない武術のヒケツ」

 酔って裸になったことはありませんが(ないと思う、あ、脱ごうとしたことはあったか)、酒の上の失敗もたくさんある私がお酒以上にこよなく愛するのが武術。

 そんな武術・武道・格闘技について具体的・業界裏話的情報を得たい人には、お勧め本があります。

「誰も知らない武術のシクミ」長野峻也著、アスペクト

 武術の本当の姿はどのようなものか、格闘技やスポーツとどう違うのか、合気など一見神秘的な技の仕組み、映画やテレビの時代劇での殺陣と武術、俳優と武術との深い関係など興味深い話題がたくさん出ています。

 「武道・武術業界」はそれほど大きいマーケットではないと思いますが、著者の本はそれなりに売れているらしく、「誰も知らない武術の~」シリーズとして「ヒミツ」「教え」などと何冊も出ています。

「業界人」というほどではありませんが学習者、消費者として長いキャリア(?)を誇る私も、とても楽しく読めました。
 それはまず、武術に対する考え方、嗜好、方向性が基本的に私と同じなので、共感できるところが多いからだと思います。

 さて、誤解を恐れずに述べれば、武術の心得は「戦わないこと」が目標です。
 どうしてかといえば、「武術の技を遣って戦う」ということは、「相手を殺す」ということを基本的な前提として技術と戦術が組み上げられて体系化しているからです。
「人を殺す」という、人として最も忌避すべき事柄を基本的な前提にしている以上、武術を理性的な倫理観の無い人が学べば、人格障害者になってしまう危険性があります。・・・(中略)・・・
 武術というのは、本質的に他人と強さを競うものではありません。
 稽古の一環としての試合はあっても、試合そのものを目標にする発想はありません。
 何故ならば、武術の勝負は厳正に決しようとすれば、凄惨な殺し合いになってしまう性質のものだからです。現代の武道や格闘技の試合と違って、真剣勝負とうのは死を前提にしたものなので、安易にできる道理がなかったのです。p13

 基本的に著者が好み、現状ではなく本質的に「強い」という意味で本当に評価すべきとしているのは、合気道、中国武術の太極拳、形意拳などの「柔らかい系」の武術で、その点では私と完全に一致します。

 しかし、大きな違いは、著者は古武術研究家・甲野善紀氏を、非科学的、非実践的とほとんど全否定的に敵視し、運動科学者・高岡英夫氏にも良い目を向けていないのに対して、私は全く反対の評価をしているところです。

 私から見ると、著者はいい意味でも悪い意味でも「常識人」で(ご本人はパニック障害といっていますが、それさえも普通の証かも)、それで飯を食っているわけだからプロといえるレベルでしょうが、武術・武道に対して誠実な「マニア」な人という感じを受けました。

 本ブログでは甲野氏の実践は、最新の科学論から見ると立派な科学的実践となることを紹介しました。そういう思想的視点というのは持ち合わせていないようです。
 甲野古武術の科学性
 甲野古武術の科学性・2
 甲野古武術の科学性・3

 しかし長年武術・武道業界のライター、評論家として生きてきた著者の見解には、見るべきものがあるのは間違いないので、さらに取り上げたいと思います。

 

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March 17, 2009

「合気修得への道」

 不世出の達人、おそらく戦後日本では最強・最高の武人といわれる大東流合気柔術の佐川幸義氏、その実際の姿はマスコミ等の表に出ることはなく、なかなかうかがいい知ることができませんでした。
 その佐川氏の愛弟子で高度な合気技の後継者とされる木村達雄氏の「合気修得への道-佐川幸義先生に就いた二十年」(合気ニュース)に、その様子が豊富な写真共に知ることができます。

 写真が凄い。
 大のおとなが、玩具扱い、ぼろ雑巾のように投げ捨てられている。
 関係者の証言では、それらは一般の合気道とは違い、全くの「お手盛り」抜きで、どのような空手や格闘技の猛者が飛びかかっても全く同じように、90歳の老人に手もなくひねられ、吹っ飛ばされてしまったといいます。

 著者の木村氏はそんな佐川氏にくらいつくようにして教えを受け、ついに合気を完成させました。その半生が本書には綴られています。

 木村氏は、東京大学理学部数学科及び同大学院博士課程修了。現筑波大学大学院数理物質科学研究科教授。
 数学の大家です。
 完璧文系人間の私には、合気がなくてもそれだけで畏敬の念を抱いてしまう。

 一般に数学者って「変人」ってイメージがありますし、確かにそういうところはなきにしもあらずで、我々心理系の業界人からア○ペと呼ばれるタイプがメチャ多いのですが、木村氏もなかなかすごい。

 本書の前半は佐川氏に出会う前の武道歴と共に数学者になるまでのプロセスがあって、ひたすら数学に没頭する時と武道の稽古に邁進する時の徹底ぶりはすさまじいの一言。

 京大の高名な数学者のところに転がり込んで、寝ても冷めても数学の日々。そんな中、

 そうしたらとても不思議な現象が起こり、自分のエネルギーレベルが上がったのです。火事場の馬鹿力状態になるというか、普通の状態じゃない。かあっと体のなかのエネルギーが上がってくる感じで、ぜんぜんわけがわからなかったノートが、なぜかじーっと見ているうちに、こういう意味じゃないかとか、いろんなインスピレーションが出てき始めたのです。

 佐川氏が「毎日四股を千回踏む」と聞けば、本当に毎日四股を千回も一万回も踏み続け、40度の熱が出ても、心臓が悪くなってニトログリセリンを持ちながらでも毎日稽古に出続ける。

 やっぱり突き抜ける人は違う。根性なしの私はそこまでできないな。美味しいものを食べたいし、女の子とも遊びたいし。

 本書には、佐川合気の本質を、普通の合気系武術のような関節技、逆手技やベクトル外しではなく、「人体の非物質的システム」のスイッチを切ってしまうことではないかと考えるに至ったそうです。

 その辺のところは、本ブログで以前、「合気の秘密」で紹介させていただきました。

 本書はなぜか経営コンサルタントの神様といわれる船井幸雄氏も、最近取り上げて推薦しているようです。

 合気に関心がある人のみならず、人間の可能性に関心がある方なら参考になるからだと思います。

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February 17, 2009

20世紀最強は誰か?

 最強は誰か?
 
これは武道・格闘技をする人なら誰でも抱く疑問であり、みんなその人なりの持論があり、これまでも長い間口角泡を飛ばす論争がありました。
 絶対結論が出ないけど、楽しいテーマでありますね。

 最近たまった本や雑誌を整理、処分しているのですが、「格闘Kマガジン」2001年2月号(ぴいぷる社)という今はない格闘技雑誌が出てきまして、「20世紀の武人・最強の10人」という興味深い特集をしていました。
 その中で、「識者に訊く!20世紀最強の格闘家は誰か?」として、この「業界」のかなりマニアックな「識者」たちにインタビューをしていました。

 答えていたのには、梶原一騎の弟・真樹日佐夫氏や無門会空手道の富樫宣資氏、シューティングの佐山聡氏がいましたが、私の好きな運動科学者・高岡英夫氏がとても興味深い答えをしていました。

 覚えと関心のある方のために転記します。

最強は中国の三大家

 李書文
 郭雲深
 王向斎

 中国武術の3人と・・・、あと日本では大東流の佐川幸義でしょうね。ただ、佐川先生はあまりにも実戦のエピソードに乏しいので、これを格闘家という概念でイメージするのは難しい気もします。

 今挙げた中国武術の三大家以外ですと、ルールに即した闘いになってきますから、これも難しい。最近はバーリ・トゥードなど、打撃系、組技系が同一の土俵でできるルールもできていますから、最近の格闘家同士なら比較ができるようになりましたが、20世紀全体を視野に入れるとなるとそうはいきません。

 組技系、打撃系、そして武器まで含めて、李書文などは現代人の想像をはるかに超えるほど強かったと思います。20世紀から外れれば、日本でも宮本武蔵や真理谷円四郎という1000回戦って無敗という剣豪もいますが、そうした達人たちと同じく、あまりにもDS(ディレクト・システム:身体意識の構造)が素晴らしく、もはや次元を越えた存在となっているのが、李書文、郭雲深、王向斎の3人です。

 彼らの戦いを、現代格闘技界の試合を例にかろうじて推測するとしたら、ヒクソン・グレイシーが高田延彦と闘った1回目の試合ですね。なぜ高田は卑屈な感じになっていたのか?いつもの高田らしい勇気あふれる構えはどこへ行ってしまったのか。あれはヒクソンのDSが素晴らしく、立ち会う前から圧倒されてしまい、自分の力が出せない状態だったと推測できます。

 中国の三大家には信じられないくらい素晴らしいDSが形成されています。実際に相対して、やる気がONになったとしたら、もう前に立っていることができない。戦う気力さえ失われてしまうでしょう。

 これは李書文のDS図です。今回はまだ発表できませんが、近いうちにお見せしたいと考えています。ほら、この熱性の気を発するディレクターが凄いでしょう。李書文の前に出たら、正視することすらできず、試合になりませんよ。技はまったく揺るぎない動きによって繰り出され、相手の反応など一切構わず、問答無用に貫徹してしまいます。
 背中、側軸系が半端でなく、身体意識の強度が凄まじく高い。側軸がない人に、人為的に李書文の側軸を作ってやったとしたら、猛烈に痛んで立っていられません。彼らは、長い鍛錬によって側軸を形成し、自分のものにしていったんですね。

 李書文はコミック「拳児」で有名になり、格闘ゲームでも人気のある八極拳の名人、そして、私がやる武術の直系のご先祖2人(郭雲深と王向斎)も挙げられているのがうれしいね。
 信じられないかもしれませんが、どうしてそうなのか。

 高岡氏は、

 中国武術の鍛錬はもちろん優れたものですが、それに加えて時代的なところも理解する必要があります。

 と述べ、20世紀初頭の動乱の中国で実際に殺し合いをしていた時代の「トップの中のトップ」であったためとしています。
 逆にいうと、ルールの中の試合のみで強弱を論じても野球とサッカーの強弱を論じると同じように意味がないということでしょう。

 しかし今は実際に殺し合わなくても、心身の能力開発に素晴らしい「中国の鍛錬法を科学的トレーニングとして仕立て直すこともできます」と自身の開発したメソッドを紹介していますが、同様に21世紀は様々な角度から、東洋の方法論が見直されてくると思われます。

 昨今の古武術ブームはその先駆けだったのかもしれません。

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February 04, 2009

甲野古武術の科学性・3

 「構造構成主義とは何か」より、甲野善紀氏の古武術を科学論から評価してみるとどうなるか見てみましょう。

 そして、甲野はその技の改良・進展過程を数十にわたる著書や雑誌、ビデオの中で説明し、また、そして自身のwebサイト(http://www.shouseikan.com/) に克明に記録していることから、「構造化に至る軌跡」を残しているということができる。
 さらにいえば、甲野善紀は一度身につけた技は、場所や相手を選ばずに繰り返し再現できることから、再現可能性は担保されている。また、その技をかけられた人がどのようになるか宣告した上で、実際、技をかけることによりその通りにすることも可能なので、この意味で、予測可能性も制御可能性も担保されているといえよう。

 また、甲野は「稽古会は実験室」と述べているように、・・・・(中略)・・・・その技の有効性は常に現実で試されることから、反証可能性も確保されているといえる。

 以上のことから、甲野善紀の古武術は、再現可能性、予測可能性、制御可能性、反証可能性を満たしており、まぎれもなく人間科学の実践に位置づけることができるといえよう。

 このように一見科学とは見えない甲野氏の武術的実践は、立派に科学の要件を満たしていると考えられるのです。

 こう考えると、これまで人目をはばかるように(?)続けてきた武術の稽古が、「実は科学的営為だったんだ!」「僕も『科学者』だったんだ!」と思えてきてうれしくなりますね。

 そして、甲野氏の古武術が生み出した身体技法が、バスケットボール、野球、卓球、サッカー、ラグビーなどのスポーツから楽器演奏、工学、介護、精神科医のカウンセリング、JAXA(宇宙航空研究開発機構)まで幅広い分野で応用されてきていることから、

 このように領域やテーマを問わず援用(継承)可能なのは、それが「原理」と呼ぶにふさわしいほど抜本的に動き方の質を変更する「理路」を提供しているからに他ならない。

 と普遍性・応用可能性を指摘しています。

 多くの普通の人は、目に見えるものや数値化できるものを語ることが科学的だと思い込んでいるでしょうけど、科学とは「考え方」「現象との付き合い方」であり、武術は科学の原理を満たし得ると知ることは大事なことだと思います。

 甲野氏が研究し、武術の先人たちが作り上げてきた身体技法や思考法は、本質的に科学的精神の賜物なのです。

 長年「非科学的なことをやっている」と思われていた身(被害妄想?)としては、科学とは何かを考えるときに、また理論武装をするときに、構造構成主義科学論はとても参考になり、役に立つような気がしました。

 どういうものか知りたい方は同書をお読み下さい。

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January 30, 2009

甲野古武術の科学性・2

 甲野善紀氏の古武術を、構造構成主義科学論ではどのように捉えることができるのか、「構造構成主義とは何か」から引いてみます。

 それには甲野氏がどのような活動をしていて、発表、発言を繰り返してきたかを振り返る必要がありますが、ここではその余裕はありませんから、すでにみなさん知っているものとします。
 簡単にいうと、甲野氏自身が稽古の中で身体で感じ取り、有効だと見出した「術理」を講座や書籍等を通して積極的に発表し、世に問うて、それに賛同する人たちがそれを介護などの他分野にも応用をして「検証」していきました。
 また、そこから得た甲野氏の「認識論」に共感した識者たち(養老孟司氏、雀鬼・櫻井章一氏、精神科医・名越康文氏ら)が集い、まさにオルタナティブな「共同の文化」を形成しようとしています。

 古武術の身体技法は身体感覚によるものであるため、けして測定、数量化しきれるものではありません。甲野氏は、いいます。

 物量化できないものを、無理に物量化しようとするからおかしくなってしまう。多少なりとも科学的な要素を入れるのは良いでしょうが、とにかくそれですべてを説明しようとすれば、間違った答えが導き出されるのは当然です。

 西條氏は、古武術の身体技法を理解するためには、測定、数量化に依存しない研究法が求められ、「内的視点による構造化(言語化)を軸とする構造構成的質的研究法(SQRUM)が有効な枠組みとなるだろう」といいます。

 これ(SQRUMスクラム)は数量化に依存することなく、日常言語で対象を構造化しつつ、広義の科学性を担保する仕組みである。・・・・
 「現象の構造化」と「構造化に至る軌跡を残すこと」によって科学性は担保可能となる。たとえば、技がどのような構造(原理・しくみ)により成し遂げられているのかを身体言語化していくことが、ここでいう「現象の構造化」(構造構成)に他ならないといえよう。甲野は「武術では自分の中に微妙なシステムをそのつど、つくり上げるわけですが、それは見せようがないし、測りようがない。現実にどういう構造になっているのかは私自身もわかりません。ただ、こういう仮説を立てて研究することで、私の動きの質が変わってきていることは確か」と述べている。これは、内的な構造を明示化することの困難さを認めながらも、その構造(原理)を用いることにより、質の異なる行動ができるようになっている(アウトプットが変化している)という事実を強調しようとしているといえよう。

 構造構成主義において、構造は直接触れることのできる実体を意味するのではない。そして、より有効な構造(技)を構成(探求)していくことが、科学的営為の基本となるとする立場をとる。したがって、実際に見たり触ったりすることのできない仮説的な構造でも何ら矛盾(問題)はない。

 できるだけ生のリアリティーに近い形で構造を取り出す。
 武術のエッセンスを科学化するためのパラダイムが、新しい科学論、構造構成主義というわけです。

 

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January 26, 2009

甲野古武術の科学性

 一時期のブームは収まった感もあるものの、甲野善紀氏が唱え実践する古武術は一般にも知られるようになって、さらに発展を続けているようです。最近は茂木健一郎氏との対談本も出ましたね。
 相変わらず精力的に活動されているようです。

 その甲野氏は著書や講演等で科学批判的な発言が多くされているせいか、多くの人から氏の古武術や豊かな語りの著作等を「非科学的だ」と批判されているようです。

 でも、ほんとうにそう断じてよいのだろうか?

 私は甲野氏の本は何冊も読んできました。お会いしたことはないので、氏の武術の実体を映像以外に見たことはないけれども、その術理は私たちの科学観にも大きな意味を与えてくれていると思っていました。

 最近、科学論、科学思想の分野で注目されているのに「構造構成主義科学論」というのがあります。
 早大出の気鋭の心理学者、西條剛央氏(日本学術振興会特別研究員)が中心になって唱えているものです。

 心理学は科学性とは何かが常に問われてきた歴史を持つのですが、そこから出てきた新しい科学論といえます。
 心理学の場合は特にそうですが、社会学や教育学、医学など多くの「人間科学」には様々な形の深刻な「信念対立」があります。
 「私の学派、理論こそが正しい(あの学派は間違っている)」「あの心理学は非科学的だ(これこそが科学だ)」等々。
 関係者はお互いに批判し合ったりして、みんな心当たりがあるはずです。

 そのような諸学問間の信念対立をどのように考え、解消したらよいかの理路を提供するものとして注目されているのが構造構成主義です。。

構造構成主義(こうぞうこうせいしゅぎ、英語表記:structural-constructivism)とは、人間科学における信念対立を超克し、建設的コラボレーションを促進するために西條剛央によって体系化された最先端の現代思想である。構造構成主義の思想的源流には、フッサール竹田青嗣現象学ソシュール言語学丸山圭三郎記号論池田清彦構造主義科学論ロムバッハ構造存在論がある。(Wikipedia

 何だかとても難しそうですが、西條剛央氏の「構造構成主義とは何か」(北大路書房)を読むと、科学を巡る現代思想や心理学など諸学問の歴史や課題、氏の提唱する構造構成主義についてとても明確に述べられています。

 その中で「構造構成主義による甲野善紀流古武術の基礎づけ」という一節があり、甲野古武術の「科学性」が論じられています。

 西條氏は、甲野氏の発言がなかなか科学的と思われない現状を批判して、

 こうしたことから、甲野善紀の古武術を学的に基礎づけるためには、新たな学問体系が求められるといえよう。
 私は構造構成主義こそ、甲野の指摘する新たな学問の体系の礎となりうると考える。甲野の根本的な態度や考え方は、構造構成主義と高い類似性がみられる・・・・。

 と述べています。
 甲野氏がいくら類い希な高度な技を衆目の前で披露しても、その価値を認めず、インチ扱いをする態度こそが、まったく非科学的であるといいたいようです。

 それではなぜそのような態度になるかといえば、そういう人は、目の前で立ち現れている現象ではなく、現代スポーツの常識(理論)を先験的に正しいものとして措定しているためであろう。甲野(2003)は、科学の実態を「事実よりも学説が、いわば教典として優先する」と指摘しているように、多くの人は自分の知っている「常識」を絶対視してしまうため、その常識にあてはまらない(計測・解釈・理解不可能な)コトには目をつむってしまうのである。

 ここでは構造構成主義とはどのようなものかは説明せずに、結論のみ抜粋して紹介します。
 関心を持たれた方は、お勉強をして下さい。

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August 05, 2008

合気の秘密

 前々記の津本陽著「孤塁の名人」の後半で、大東流合気柔術の達人、佐川幸義氏の後継者的人物木村達雄氏が合気を習得したことについて書いてあります。

 いくら稽古しても全く佐川氏に歯が立たず、いつも異次元の合気の技で吹っ飛ばされていて、全然佐川氏のレベルに近づけなかった木村氏ですが(といっても木村氏だけでなく他の誰も同じだったのですが)、佐川氏の晩年にようやく「合気の秘密」をつかんだというのです。

 その結果、佐川氏と同じような技が使えるようになったそうです。
 相手が体が触れた瞬間に吹っ飛ばしたり(体の合気)、極真空手家始め強力な突きも全く関係なく、相手をマネキン状態にしてひっくり返らせるくらいのことは簡単にできるようになったといいます。

 ちなみ木村氏は筑波大学教授で専門は数学です。極めて高度な論理能力と科学性をお持ちの方がこのような超能力的な技を使えるようになって、堂々と公言しているところがおもしろい。

 本書の中で、木村氏はご自身が考える合気の秘密を興味深い言葉で表しています。

「人体の非物質的システムの働きを消す」

 人体の非物質的システム?聞いたことのない言い方だけど、木村氏も正確に定義できていないけれど、肉体を鍛え抜く中で、それだけではダメだ、その奥にある「何か」をつかまないと合気は理解できないと結論づけたようです。

 Aという鍛えあげた大男を、弱々しく小柄なBという男が倒そうとして、Aが倒れないのを見た人々は、あたりまえだと思う。
 しかし考えなおせば、それは非常に不思議で神秘的なことだと気づく。押されたとき、Aが肉体という目に見える物質だけであれば、二つの足の裏で地面に立っていて、重心も上の方にある、不安定きわまりないものである。
 Aがおなじ重心配分をもつ人形であれば、小男Bに体当たりされただけで簡単に倒れてしまう。倒れないでいることは不可能だ。
 しかし、実際には、鍛えたAはBの力を軽くはねのける。それは押されたとき、体に何らかの非物質的なシステムがはたらくためであると、木村氏は推測する。

 人体は物質的システムである肉体と、目に見えない非物質的システムで構成されている。前者は後者によって動きの安定、強さを得られるというのである。
 非物質的システムは、赤ん坊が両足で立ったときから、意志とは無関係にはたらいている。そして体を鍛えれば、物資としての肉体だけではなく、非物質的システムも鍛えられることに、木村氏は気づいた。

 佐川先生が体を鍛えよといった意味が分かったのである。非物質的システムは、物質的システムが筋力として数値化できるのにくらべ、その存在さえたしかめがたい。
 木村氏は断定する。
「合気とは何か?私の今の感覚では、この非物質的防御システムのスイッチを切ってしまう技術だと言えます」

 スイッチを切ると物質的な肉体だけでは外力に抵抗できない。
 スイッチを切る技術にエネルギーは必要ない。相手が複数でも人形がいくつか集まっただけで、ゼロのエネルギーを幾つ足してもゼロということになる。

 どうですか?難しいかな。
 私には木村氏のいわんとするニュアンスはわかる気がします。

 高岡英夫氏の身体意識のシステムと通じる発想なような気がします。

「エネルギーとしての気」ではないと木村氏はいいますが、苫米地英人氏のいうような「情報としての気」なら、気という概念とも通じるかもしれません。気は情報

 しかし、ほんとにそんな人の非物質的システムのスイッチを入れたり切ったり自在にできるのだろうか?

 ちょっと探求してみたいテーマであります。

 

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June 14, 2008

気は情報2

「人間はどういったわけか、様々な光の波長に情報を書き込むことができる。具体的には、電磁波に情報を書き込むといった方が正しいかもしれない」と苫米地氏は、気の効果も基本的には、これまで人間が開発してきた電気技術に近いメカニズムが働いていると考えています。

 気功の世界ではよく、「気とは生命エネルギーである」というわかったようなわからないような説明が多いのですが、それだけではなぜ気功をすると様々な生理現象が起きるのか説明しきれないように思います。

 苫米地氏は、

 また、気は電磁波ではなく、宇宙のエネルギーや生命エネルギーなどともいわれている。比喩的な表現としては、その通りだろう。しかし、実際は、「情報」である。というより宇宙エネルギーや生命エネルギーもその正体は「情報」であるというべきかもしれない。インド哲学の「唯識」の根幹となっている「宇宙は情報から成り立っている」という考え方である。現代的にいうと、表現論的物質主義(Representatinal Materialism)の立場に近いだろう。人間の死は、脳を含む人体としての情報処理機関の機能が停止したときだが、これは生命エネルギーが枯渇したときと同義。つまりこの比喩では確かに「情報=エネルギー」の図式が成り立つ。

 自己催眠で「熱くなる」とか「腕が重くなる」と言葉で暗示をすると、そのように体が反応することは広く知られています。
 気功でも同じ現象が起こるのですが、それはただの暗示ではなくて、もっと深いメカニズムがあるということです。

 気の場合は器官に対して直接「治れ!」という情報伝達が働いている。言葉での伝達ではなく、気による伝達だ。気功師から送られてくる気によって、患者の脳には気功師と患者、双方にとって無意識レベルでの出来事として「暖かく感じなさい」とか「治れ!」という情報が伝達され、身体が反応するのである。内部表現の書き換えと、ホメオスタシス作用による生体の変化だ。ただ、その情報伝達が電磁波などにエンコードされた情報により、無意識レベルで伝わっているのだ。

 気の情報のメディアは必ずしも電磁波ではなく、未知の媒体の可能性があることを本書では示唆されていますが、いずれにしろ、気には気の次元があり、エネルギー的側面より情報として捉えるべきで、多くの人がエネルギーのような何かの流れとして気をイメージしているけれど、それは気の媒体に過ぎない、というのは卓見だと思います。

 そして気は誰にでも自覚し、トレーニングを積むことで利用することができる、というのが本書で苫米地氏はいいたいことのように思います。
 そこは多くの気功や武術の専門家と同じです。

 気は誰にでも発することができる。ただ、皆さんが気付いていないだけだ。そして気は誰にでも操作することができる。なぜなら、気は言葉と同じコミュニケーション手段だからだ。故に気功語と称しても差し支えない。人間は生得的な言語能力に訓練を加えることで言葉を駆使できるようになるが、気も存在を認知し、半年から1年ほど訓練をすれば簡単に操れるようになる。

 本書では気功の基本のテクニックの他、催眠や呼吸法や洗脳のテクニックがたくさん紹介されています。

 その全てを身につける必要はないでしょうが、これまで様々な意識のテクニックを知り、学んできた自分には、必携の書となりそうです。

洗脳護身術

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June 11, 2008

気は情報

 苫米地英人氏は「洗脳護身術」で、東洋理解における最重要概念「気」をこう説明します。

 気は存在するのか?

 答えはYesだ。ただ、気が実在するといっているわけではない。存在はするが、実在ではない。第1章で述べた「霊は実在しなくても、実在すると同じ効果がある」「霊は存在するが、その実態は空である。情報空間(仮想空間)にしか存在しないが、物理的な生体に影響を与える」と同様だ。

 ちょっと難しそうな言い方です。
「気を出す」とよく言われ、気功師が気を相手に放射すると「体が熱く感じる」ことがありますが、別に気功師の掌から赤外線みたいな熱いものが出ているようでなさそうです。

 ならば、気はまやかしであろうか。それも違う。何もないわけではない。気はわかりやすくいうと、言葉を使わない情報伝達手段である。例えば、言葉は口から発せられ、空気を振動させて音として相手に伝えられる。だからといって、空気の振動が言葉の正体かといわれれば、そうではない。空気の振動にエンコードされた情報内容そのものが言葉の正体である。
 気も同様だ。気功師の掌からは、赤外線やその他の波長の電磁波が計測されている。しかし、気の正体は電磁波ではない。赤外線などの周波数帯の電磁波にエンコードされた情報内容が、気の正体である。フロッピーディスクに磁場が計測されても、その磁気がワープロ文書の正体ではないのと同じだ。ワープロ文書の正体は、あくまでも記述された文章だ。気にとって赤外線などの電磁波は、情報を伝達するメディアにすぎず、その正体ではない。「気は存在するが実在しない」というのは、「言葉は存在するが、それに物理的実体があるわけではない」というのと同じことである。

 気功の効果の生理学的研究では、確かに気功師の体で何か変化が起こって、掌から電磁波などが出ているようだという報告がありますが、いつも話がそこでストップしていたと思います。

 それは気を物理的エネルギーか生理的変化に還元するか、心理的暗示に過ぎない(じゃあ暗示って何だ?)と収めようとしていたからだと思います。
 苫米地氏の発想に重要なヒントがあるように思えました。

 引用がさらに長くなるので、今日はここまでにして、さらに苫米地氏の説を読んでみます。

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November 21, 2007

武道の真髄

 おもしろいからさらに「合気道とラグビーを貫くもの」から引用します。
 実は図書館から借りたものなので、覚えに記しておくという目的もあります。

 武道の真髄とは何か、それは「強くなる」ことではなく、イヤなこと、「気持ちが悪いことに気づくこと」にあるといいます。
 相変わらず卓見だなあと思いました。

内田「武道の才能って、煎じ詰めれば、一つしかないんです。それは『気持ちが悪い』ということがわかる、ということなんです。
 人間も生物ですから、『気持ちが悪い』状態になると、何とかして『気持ちのいい状態』に戻りたい。この戻るときの動きって、ものすごく速いんです。自然な状態から不自然な状態に身体を持ってゆくときって、けっこう時間がかかりますでしょう。でも、その逆は一瞬なんですよ。
 気持ちが悪い状態を解消しようという動きは最短距離、最短時間、最小エネルギー消費の動きになるんです。最短距離、最短時間、最小エネルギーで動く動きというのは武道的にいうと「最強・最速の動き」であるわけですけれど、それは「気持ちがいい原状」へ戻ろうとする運動なんです。
 だから、武道的に大切なのは、「気持ちの悪さ」をとにかく早く感知することなんです。気持ちが悪いのに、それに気がつかないでぼおっとしている人間というのは武道的にはどうしようもないんです」

 今の「気持ち悪さ」に気づいて、何とか気持ちよくなろうとする。太極拳や形意拳の型を教わるときに老師から、「これ、気持ちいいですね」といわれたのを思い出します。

 中国の武術は、私がやっている道教系のものは特に基本的に現世利益的なので、生物的な気持ちよさをとことん追求しているところがあると思います。

 このことは武道ですから、当然実戦にも生きてきます。

内田「立ち合いの場合でも、2人のうち『あ、気持ち悪い。早く気持ちのいい原状に戻りたい』という感覚を先に感じた方が先手を取ることになる。『なんとなくこの辺に刀が斬り込んで来そうな気がして、気持ち悪い」みたいな感じですね。だから、相手の刀がまだ鞘のなかにあるときに、もう『気持ちが悪いひと』と、実際に刃が身体の側まで来てはじめて『気持ちが悪くなるひと』との差は決定的なものになります」

 そして、これまでスポーツ、武道界にしつこくはびこる根性主義に異議を唱えます。

内田「スポーツの根性主義はだから危険なんです。『気持ちが悪い』『厭だ』という生物の本性に根ざしている感覚を、身体的な苦痛に対して鈍感になることによって乗り切ろうとする。根性主義の練習法では、ほんのわずかな不快さの入力に対しても、『厭だな』という反応ができるような繊細な身体感受性は作りようがない」

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November 18, 2007

武道の目的

 引き続き「合気道とラグビーを貫くもの」より

 現代において、なんのために武道を学ぶのか、内田先生がおもしろいことを言っています。

内田「先日、ある大学の武道専門の学生たち相手に講演する機会があったんですけど、そのひとたちにこう言ったんです。
 君たちが武道をやっているのは試合に勝つためじゃない。武道というものは、人間の持っている根源的な生命力を引き出すために考え出されたきわめて優れた方法である。君たちがこれから生きていくなかで、天変地異に遭ったり、内乱や革命に巻き込まれたり、子どもが死んだり、伴侶に裏切られたり・・・・いろいろな破局的な事態に遭遇するはずだ。そういうときにも動ずることなく、自分自身のパフォーマンスを高く維持できるようにするために武道の稽古をしているのである。
 君たちがもし日常生活を犠牲にして、全日本チャンピオンになりたいとか世界選手権を制覇したいとかいうことを目的にして稽古しているとしたら、それはまったくの本末転倒である。勝敗とか記録といったものは、パフォーマンスを上げるための「方便」に過ぎない。方便のために本当の目的を失ってはいけないよ、と。
平尾「いや、本当に、まったく異論はありません(笑)」p.195~196

 ずっと以前書きましたが(脱力を極めたい)、私は太極拳などの柔拳から、力を抜いた方がどれだけすごい力が出るか、技が利くようになるかがわかり、それが対人関係のシビアな状況でも役に立つことを学びました。

 このような「武道の効用」は昔からこの世界で言われていたことではありますが、なにか道徳論や説教じみた感じで語られることが多かった感じがします。
 小うるさい剣道や空手のスポーツ少年団の先生が、子どもたちに「剣とは~」「武道とは~」「親孝行をしろー」などとキャンキャン騒ぎながら説教しているのを、体育館の反対側でよく聞いているためかもしれないな。
 同じ会場の一方で、ゆったりと体の内側の感覚を探るような稽古をしている私は、
「うるさいおっさんだな、そういうおまえの動きはなんだよ。子どもたちは神妙に聞き入っててかわいそうになあ」などと勝手に思っているのでした。

 スポ少は目的が違うだろうから、別にいいんだけどね。

 内田先生の面白いのは、自然にユーモアを交えた語り口で、そういう私のような「反抗的な子」にも入りやすいところだと思います。

 

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March 21, 2007

型の無限の解釈可能性

 さらに「身体を通して時代を読む」から。

 武道の「型」について。私がやる武術も基本は型稽古、組むこともありますが、基本的に型を通して動きと実戦を学ぶものです。

 内田樹さんの型理解は、まさに太極拳にも通じるものだと思います。

 前に甲野先生は「松聲館には基本がありません」ということを言われていましたけれど、僕は「基本の型」はあっていいと思うんです。これも結局「基本の型」という同じ言葉の先生と僕の定義の違いに由来することだと思うんですけれど、僕は「基本」というのは、「術技の向上に応じて、そのつど難度を変えるような身体運用」のことだと理解しているからです。
 最初のうちはできないけれど、稽古を重ねるとだんだんうまくできるようになる技とか、初心者にも簡単にできる代わりに、上級者には退屈、というようなものが「基本」であるのではない。そうではなくて、「基本の型」というのは、無限の解釈可能性に開かれているので初心者がその型から引き出す技法的課題と上級者が引き出す技法的課題とが違っている。だから、その「基本の型」を「あ、できた」と思ってクリアーする「仕方」そのものが、段階ごとに違う。

 私は一見地味な気功や武術の型の練習が大好きで、まさにいろいろな解釈というか感覚がその度ごとに違って味わえるのを愉しんでいます。

 型の用法も、老師から教わると「よくこんな技考えついたものだな」とひとつの動きから具体的にたくさんのバリエーションが広がっていくのに感心します。中国人の武術の天才たちの凄みを感じています。

 型とは汲めども汲めども尽きない豊かなテキストなのです。 

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March 16, 2007

武術家の心得

 内田樹さんと甲野善紀さんの対談本「身体を通して時代を読む-武術的立場」basilicoのまえがきに内田先生が、僕にとっては面白いことが書いてあったので紹介します。

 武術家とは何か、どうしてお二人は活発に世に発言するのかという論題です。
 内田さんによると武術は、他の分野と違い特定の「専門分野」ではないからといいます。

「武術というのは専門領域ではないからです。武術家は定義上どのような問題についても適切に対処できなければなりません。極端に言えば、武術家は自分がその答えを知らない問題についても即答しなければならない。これは個人の努力でどうなることではなく、経験や資質の問題でもなく、武術というものの本義に由来する範疇的な要請なのです。

 武術は実は単純な格闘術、護身術に留まるものではない。攻撃から身を防ぐために、体を鍛えて強くなるという発想では最終的に、他を圧倒する火器を持てばよいということで落ち着くだけです。

 武術とは、護身上不利な状況だけを選択的に想定するところから始まります。(略)

「どうすれば自分の心身のパフォーマンスを最高レベルに維持できるか」という問いにつねに最優先に取り組むことを課題とする以上、武術家は彼を含む社会全体のあり方についても配慮を怠ることができないということになります。
 ある種の政治体制の到来や、ある種のイデオロギーの瀰漫や、ある種の社会システムの導入が、武術家自身の心身のパフォーマンスの向上を妨げる可能性があるとき、武術家はそのような趨勢に対して誰よりもはやく危険を感知しなければなりません。ですから、国際政治にまったく無関心な武術家とか、社会システムの変動や社会的感受性の変化を感知できない武術家とか、目の前にいる人間の心理の襞が読めない武術家というのは定義上存在しないということになります。(略)

 別に武術家はあまねくそのような総合的な人間的能力が豊かに備わっているということを言っているのではありません(私がそうではないことはどなたもご存じの通りです)。そうではなくて、そのような能力の開発を武術家は「原理的に」要請せずにはいないということを甲野先生も私も暗黙の前提として話をしているということです。

 うーむ、厳しい言葉だ。
「心の読めない武術家」なんて一杯いそうだけど・・・。

 しかし、これまでの自分の、時に激しすぎる好奇心は、武術家魂故だったのかと勝手に納得しました。これでよかったのだ。

 心理臨床家が趣味で武術をしているのではなく、武術家が己の能力の開発と認識力を高めるためにたまたま臨床心理学や児童福祉、地方行政などに携わっているのだといいたいものです。

 いや、気持ちはとっくにそうなんだけどね。

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December 18, 2006

ゆっくり動く「用意不用力」

 太極拳といえばスローモーション。
 長江の如く雄大に、ゆったりと、途切れることなく動くものとされています。
 武術的にも健康法としても、ゆったりと動かなければなりません。

 意識、心が身体を先導するという考えが太極拳などの柔拳にはあります。それを「用意不用力」といいます。「意を用いて、力を用いず」、力んだり身体を闇雲に動かしたり、ゴリゴリに鍛えたりすることなく、意識を鋭敏にして身体の隅々に染み渡らせ、深いところから力(これをといいます)を出そうとします。

 前掲書「太極拳と呼吸の科学」では、他のスポーツや武道にあるのはもっぱら「ハードなおもむきの精神論」であり、それに対して太極拳にあるのは「ソフトなおもむきの感覚論」と呼びます。

 太極拳は、常に感覚を得られるように心と身体を解きほぐし、感覚から得た情報を瞬時に自分の動作にフィードバックしていく。そのため、無理がきたところは早い段階で解放することができる。身体が解放されればされるほど心はさらに解放されリラックスする。身体のセンサーが解放されて鋭敏になり、そしてそれを受け取る脳にも余裕が生まれることにより、より多くの情報を得ることができる。・・・・・

 太極拳は副交感神経支配の運動であり、闘争本能をかき立てない、ゆったりとした動作を特徴としている。つまりストレスの発散を狙うだけでなく、傷ついた心や身体の修復が期待できる、実に現代社会にマッチした健康法といえるものだ。

 太極拳は筋肉の武道ではなく、意識と感覚、認識の武道なのです。

 私の中に武術家と心理臨床家が同居していられるのも、まさにこのためといえるでしょう。

「用意不用力」の他にも「先在心後在身」(心が先にあって、身体は後にある)など、中国武術には、中国語だから当たり前だけど、漢字だけのなかなか含蓄のある四文字熟語があるので、時折紹介していきましょう。

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October 23, 2006

太極拳講習会

 地域密着情報です。
  本ブログに「山梨 太極拳教室」みたいな検索ワードで来られる方もいるので、こんな告知もいたしましょう。

 知人で精神医療に携わりながら、呉式太極拳というものを学んでいるYさんから情報提供をいただきました。山梨で月に一度、伝統的太極拳の講習会を開催するようです。

 10月28日(土) 午後2時~
 甲府市リサイクルプラザ・体育館

 詳細は山梨呉式太極拳研究会をご覧ください。

 以前推手を学ぶにも書きましたが、呉式太極拳は数ある太極拳の流派の中でも名門として知られています。歴史上名人、達人を輩出しています。
 近年まで日本ではあまり知られていませんでしたが、大陸では広東などの南部、香港やマカオ、シンガポール、台湾など華僑ネットワークの中でよく伝えられているそうです。そういうところは、中国政府などで普及用に簡便にまとめられた昨今のものと違い、武術の奥の院ともいうべき、昔日の太極拳の姿が誇りを持って保存、伝承されているかもしれません。
 彼らは、伝統主義と実利主義がモットーでしょうからね。

 スポーツ格闘技と違う、伝統武術の身体技法、能力開発法の奥深さを、体感して下さいませ。

 関心のある方は、ご参加ください。

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October 04, 2006

推手を学ぶ

 こちらの地域で精神医療に携わる知人で、流派は違いますが本格的に太極拳を学んでいる方が、甲府で「推手の講習会」を開いたので、友人と共に参加しました。

 推手とは、太極拳など柔的拳法で行う独特の組み手稽古です。手首や腕を触れ合わせた状態から、交互に押したり突いたりして、それを受ける側が流したりさばいたりして、攻撃に転じるものです。
 実際に見てみるとわかるのですが、遠間から飛び込んだりする空手や距離を置いて殴り合う他の格闘技とは大分雰囲気が違います。
 狭い間合いで腕でがくねくねと動き回って絡み合っているような姿は、不思議な印象を与えるようです。相撲と合気道が一緒になったようなものというか。

 流派は違うけどこんなの や こんなの

 その講習会は呉式太極拳をやっている人が先生でした。
 太極拳にはたくさんの流派がありますが、呉式も古くからある名門です。簡単にいうと、太極拳は流派の創始者の姓で区別されることが多いのです。チェンさんち(陳家)とかヤンさんち(楊家)とかウーさんち(呉家)の太極拳と呼ばれるのですね。

Wikipedia-太極拳

 呉式太極拳の推手を学びながら、胸、肩、肘の力の抜き方を丁寧に教えていただきました。けして逆らわない、無駄に身体をねじらず、フワッと相手の力をかわしてこちらの力に転換してしまう技では私が習っているのと共通の原理も多く、太極拳の奥深さを改めて感じましたよ。

 力を抜くことの重要性はいろいろなところで説かれていますし、私もずっと以前書きました。 太極拳体験2・脱力を極めたい

 脱力の具体的な習得法として確立されている推手は、対人関係の技術としてもとても有効だと思います(素人はいきなりは無理だけど)。

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May 18, 2006

強靱な肚

 多忙と疲れで、エネルギーが落ちております。更新もできず、無為でもないけど、時間の経つのは早いね。

 そんな中、稽古仲間から、王樹金老師の動画を見られるサイトを教えていただきました。

http://www.youtube.com/watch?v=TgSPsiQhAZk
(Wang & Liang)

 前半のアメリカ人武道家に腹を打たせている方が王樹金老師です。ヘビー級のパンチが老師の強靱な腹にはじかれています。その後の八卦掌の動きもすごいですね。
 後半の人はよくは知らない、廖五常という人のようです。

 マジックでもごまかしでもない、真の武術家のお姿を眼福としよう。

 

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April 22, 2006

ゆるんで育てる

 武道・武術の専門誌というかマニアックな雑誌に「月刊 秘伝」(BABジャパン)というのがあります。けっこういろいろな武道の情報があって、資料的価値もあり、昨今の身体論ブームの先駆けともなった雑誌なので、私は毎号買っています。

 その「秘伝」誌の今発売中の5月号になんと、子育ての特集が。でもそこはママさん雑誌や心理・教育系のものとは違って、テーマは「達人を創る」。執筆は、私が大変高く評価している破格の天才的運動科学者高岡英夫氏です。
 これは読まなきゃと早速購入。とてもおもしろく、納得できましたよ。
 「幼児期からの達人教育 高岡英夫のゆるで創る!」

 高岡氏によると、達人を創るには3つの条件が必要です。

1ゆるんで育つ 

 一つ目のテーマは「ゆるんで育つ」ということです。実は、いかに〝ゆるんでいるか〟ということが、本物の達人、天才の条件なのです。これに例外はありません。・・・子供を達人に育てるためには、いかにして子供を固めないで育てるか、ということに心を砕かなければなりません。

2中心装置を作る

 物事と自分をきちんと関連付けて、物事の中心と自分の中心をピタッと向かい合わせる装置、これを「センターtoセンター」といいます。・・・そのためには一見面白味のないように見えるものに取り組まないと意味がありません。つまり面白味自体を自分の働きかけ、あるいは自分の徹底的な探索によって見つけ出すという営為のできるものでなければなりません。

3外内転換

 達人になる人は、外側の情報として与えられ、外側の動きとしてなぞっているはずのものを、すべて内側の運動、それもできるだけ身体の内側の運動に転換していくのです。つまり「この外側の外化された情報は、内側で言ったら何だろう」ということを、顕在意識ではなく、潜在意識の中でいつも考えている人なのです。

 詳細は本誌を読んでいただきたいのですが、私は一つ一つが納得できました。昨今流行の才能教育、幼児教育とはひと味違います。
 そのための具体的な方法(マッサージなど)も出ていて、「よっしゃ」と早速小学生の息子に実験開始。こいつは昔からなかなか私以上にゆるんだ奴だったのですが、どうも小学校に入って学校教育の「成果」か固まり出したのが気になってました。
 記事通りに背中や足裏をマッサージすると、「くすぐってえ」と身をよじるのでちゃんとやらせてくれないけれど、まだ心身は固まりきってはいないと見えて、まあよかった。
「明日から父ちゃん達人マッサージをするぞ」と宣言すると、「えー」と迷惑そうな顔。親の心子知らずだな。

 しかし、この達人子育てには、リスクも伴います。心身がゆるみきって、自分のしたいことにいつまでも没頭し、教えられたことを自分なりに咀嚼するまでぼうっとして「心ここにあらず」といった表情でいる子は、周囲から「変な子供」といわれてしまうのです。

 しかしそういう子供が実際に身近にいたらどうでしょう。たとえば監督が「集合!」といって選手を集めます。しかしその子はいつもふらふらしたままです。「お前らよく聞け」と監督が話し始めても、他の子はすぐに集まってピタッと並んで話を聞いているのに、その子だけはふらふら、ゆらゆらしていつまでたってもポジジョンが定まりません。当然、監督はイライラ、カリカリしてきます。

 これはまるで、最近問題とされるADHD(注意欠陥多動症候群)みたいじゃないか。そう、以前から漠然と感じていたのですが、ADHD児の中には本当は「病気」として押さえ込まない方が良い子がいるのではないかな。
 社会の管理や要請が高くなって、こんな子は生きにくくなっているのではないか、と考えることにもなりました。

 とにかく、ちょっと変わった子育てをしたい親御さん、必読ですぞ(仕上がりは自己責任でね)。

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March 27, 2006

潜在能力と武道

 年度末と障害者自立支援法と異動が重なって超多忙を極める中、のんびりブログを見たり更新する余裕もなくなってます。

 それでも現実逃避で巡回してたら、内田樹先生のブログがおもしろかったのでご紹介。
 猫型合宿(くう・ねる・あそぶ・フロ・めし・さけ・ねる)

 合気道の目的は(というよりひろく武道の目的は)、人間の潜在能力の最大化である。
「潜在能力」という言い方をすると、まるでひとりひとりの人間の中に固有の「能力の芽」のようなものが潜在していて、それに水をやったり肥料をやったりすると、だんだん開花する・・・というイメージを抱くかもしれないから、ちょっとまずいのであるが、ほんとうを言うと「潜在能力」は私たちの中に「潜在」しているわけではない。
それは「外部につながる」能力のことである。
たしかに人間の内側には「宝庫」があるのだが、その「宝庫」の扉を開いても、そこにダイヤモンドがあるわけではない。
扉が開くと、その向こうには「見たことのない風景」が拡がっているだけである。
人間の「中にあるもの」というふうに観念されているものは、実は人間の「外にあるもの」なのである。
内側に向かうのは、外に出るためである。
内側に向かうのは、「内と外」というスキームそのものの無効を宣言するためである。

 そうなんだよな。自分が長年細々と武道をやってきたのは、ひとえに潜在的な何かを伸ばすためだったのは間違いがない。
 でも潜在能力というと、何か超能力的なものをイメージされたり、一昔前の自己実現やニューエイジやヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント的な感じがして、言葉に出すのをためらってしまうところがありました。
 潜在能力は潜在しない、外部につながる能力である、「内と外」というスキームそのものの無効を宣言するためである・・・。
 うーむ、いい言葉だ。さすが。
 太極拳などの内家拳の体験やアドラー心理学でいう共同体感覚(「生得的な可能性」として潜在するものといわれる)やライフタスクをどう表現していくか、いつも悩むのですが、そのヒントを得たような気がしました(でも思想家の言葉は言い回しが高度すぎて、自分には使いこなせそうもないな)。

 

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March 10, 2006

王樹金老師のお姿

 私の師匠の師匠、中国武術の大家王樹金老師の様子をかいま見られるところがありました。

 形意拳網-XingYituan

 台湾のサイトみたいで中国語ですが、老師が日本に来られた時のビデオの一部のようですね。白黒で時代を感じますが、巨体の老師がスイスイと柔らかく動くのが見られて、興味深いです。

 ただ第三者が見ていたり、映像を撮られているところでは、かなり動きをぼかしていたようです。
 よかったら、参考にして下さい。

 

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March 07, 2006

闘うか逃げるか

 先日何気なくK-1のテレビを観ていたら、ある選手がインタビューで「俺は殴り合いで逃げたことはない」といかにもやんちゃな格闘家という顔つきで自慢していました。
 それを聞いて私は、スポーツや格闘技という枠の中で自己表現する彼らなら、当然そうあるべきだろうなと納得しながらも、「武術的」にはどうなんだろう、という疑問も持ちました。護身術、身を守る技術たるべき武術には、当然逃げることも視野に入れなくてはならないからです。
 逃げられたら逃げる、隠れることができるなら隠れる、闘わずにすむなら闘わない、平和が一番なのです。武術家は平和主義者でなければならない、と私は思っています。そこが格闘技と武術の違いのひとつです。単純な「どっちが強い論争」に還元できないのです。

 でも一方、武術家は普通の人と違って、いつも逃げてばかりでもいけない。どうしても逃げられない時、また、たとえ逃げられても守るべきものを死守すると決意した時は、断固闘わなければならない、そういう決意をした人間であるべきです。

 闘うか、逃げるか。人生のおける様々な局面で、適切な見極めができる、決断をできるようになることを目指しているのが武術家、武士だと私は思っています。だから、具体的な武術、格闘術を知らなくても、そういう覚悟で生きている人には武術家的雰囲気があります。

 とまあ、偉そうなことをいっても私も、これまでの人生で、闘うべき時に逃げてしまったことが何度となくあって、後悔していることがたくさんあるから、改めてそう思ったわけで・・・。だから、そんな人間に私はなりたい・・・。

 ただ、数年前パリでの経験は自分にとって印象的な出来事でした。
 パリの地下鉄などは、スリや引ったくりが白昼堂々と「お仕事」をしていることで知られています。スリといっても日本みたいなエレガントな技術を持っているわけではありません。グループで取り囲んで、殴ったりして強引に鞄や財布を強奪するのですから、強盗といってもいいかもしれません。
 私は、ツアーで知り合った日本人の新婚カップルさんと一緒に行動していました。ある美術館に行くために、彼らと地下鉄の駅のエスカレーターを上っていました。上りきるとそこは誰もいない、広いけれど薄暗く静かな通路でした。早足の私は、多少気を遣ったこともあって後ろのカップルと10メートルほど離れて歩いていました。
 突然、後ろでバタバタっと音がしました。
 振り返ると、旦那さんがアラブ系と見られる背の高い男に後ろから羽交い締めにされ、前からはもう一人の男にグイグイ鞄を引っ張られているではないですか!奥さんは恐怖でか、その場で立ちすくみ、体が固まってしまったようでした。
「いかん!」と思った次の瞬間、私の体はポーンと飛んで彼らの前にいました。そして、護身術の基礎通りに、大声を出して(日本語だけど)、今にも飛びかからんばかりの体勢で構えました(形意拳の三体式というものです)。
 さあかかるぞっと動き出したとき、突然目の前に現れた私に強盗たちは虚を突かれたのか(私の顔が恐かったのか)、驚いた表情でパッと両手を旦那さんから離して挙げ、「取らない取らない」と手を振りながら、逃げていきました。ふうと一息をついて、事なきを得たことを旦那さんと確認し合い、お二人から感謝の言葉をいただきました。
 あのときの動きは我ながらすごいというか不思議な感覚でした。まるでテレポーテーションみたいだった。もちろん意識は冷静で、相手の動きもよく見えていました。今振り返ると、形意拳の転身の動きだったように思えます。全く無意識的に、反射的に体が動いていたのです。

 仲間が襲われているわけですから、この時は自分にとっては、当然逃げるべきではなく、闘うべき時でした。
 もし強盗たちがナイフなどの武器を使っていたら大変なことになったかもしれませんが、それはそれで状況判断を瞬時に下しながら、いかに闘うか、そして逃げるかを考えたことでしょう(うまくいったかどうかはわかりませんが)。
 必要な時に、ごく自然にあるべきように体が動いてくれて、私の拙い修練も無駄ではなかったな、先生に感謝しなくては、と心の底から思えた時でもありました。

 こんな風にいつもうまくいけばいいのですが、アマチュアながら、一応武術の看板を掲げている者としては、常住坐臥、いつでも適切に身を処せるように心がけていきたいものです。

 

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February 05, 2006

太極拳教室の様子

 最近体調が落ち気味なのか、今度は風邪を引いてしまって、三日間ダメでした。先週の旅の疲れもあるのかもしれないけれど、障害者自立支援法の施行も近づいて仕事も立て込んできたし、ちょっと焦り気味です。

 しかし、体を壊すと決まって「太極拳とか気功法とかやっているのに」とかいう奴がいて、正直困るのよ。そりゃ人間だもの、風邪にも癌にもなりうるに決まっとります。いや、私の場合、むしろ敏感になった部分もあって、倒れるときはさくっと倒れます。
 ただ、抵抗力、回復力はありそうで、幸いひどくなったことはないから、太極拳の修練の賜と勝手に思っていますけどね。

 ま、健全な身体には、「たかだか」健全な精神しか宿らない。心身共に適度に不健康なのがよいでしょう(^_^)。

 今まで、健康のために太極拳をやったことはなくて、ひたすら強くなる、武道の手段として取り組んできました。その辺が普通の人はわからないので、
「太極拳を教えていらっしゃるんですか。女性に囲まれていいですね」
なんておっしゃる方もいます。
 だがしかし、今の私の教室には、普通ならたくさんいるはずの女性はいない、ご老人もいない、男ばかりなのです。先生がこんなオリエンテーションだから、当然の結果とはいえ、さすがにちょっと寂しいと最近思うようになったな。

 中国武術愛好家だけでなく、フルコン空手指導員や自衛隊員、最近はボクシングとテコンドー使いまで来てくれるようになって、それはそれで稽古に身が入って私としては充分楽しいのですけどね。
 ただ、美容・健康志向で見学に来られた方をいつもそれで逃がしてしまうのが、いけないな。おーい、私は本当にフェミニンでやさしくて、相手に合わせてきちんと教えるから大丈夫だよ、安心してよー、一緒にやろうよー。
 やはり、太極拳の懐の広さをもっと知ってもらいたいし、人々の健康と福利のために役立ててもらいたいですからね。

 武道志向は変えるつもりはないけれど(大体本部の年輩者達の強さにいつも圧倒されているので、まだやめるわけにはいかないよ)、今年はもう少し幅の広い教授活動していきたいものです。

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December 26, 2005

稽古納め

 昨夜今年最後の中国武術の稽古会をしました。終了後、何人かの生徒さんたちとファミレスで打ち上げ。甲府市南部の小瀬という町で、国道20号沿いとはいえ車でしか来られない場所なためお酒を飲めないのが残念でしたが、普段なかなかできないいろいろな話ができて楽しかったです。

 生徒さんに当会にたどり着くまでのいきさつをうかがうと、長年いろいろな武道情報を検索、調査した末にいらっしゃった方、フルコンタクト空手をしながらさらなる実力の向上を求めて来た方、健康のために太極拳教室を探していた方などそれぞれで、みなさんのいろんな側面を知ることができました。
 来年もがんばって下さいね。

 私はというと、あまり稽古ができなくて目立った進歩はなかったな(>_<)、残念。貧乏暇なしで東京の本部道場の専門クラスにも参加できず、型があまり進まなかったのも残念。ちょっと停滞の一年でした。ブログばっかりやってたのがいけないんだな(もろ他責的)。
 でも週1、2回は甲府の稽古会で生徒さんと組んだり、型をやったりしていたので、力は落ちなかったと思うけど。
 先生はこんなだけど、生徒さんは確実に強くなっていて、特に本部に紹介した三人の生徒さんはかなりのレベルに達してるのが師としてはうれしかったです。

 私がやっている柔拳は40、50代以降も強さが維持でき、さらに向上できるものですが、やっぱ練習しなきゃね。
 来年は站椿(気功)や八卦掌の走圏(ひたすら円周上を歩く基礎訓練)をみっちりやり込んで、もっと強くなるぞ!(捕らぬ狸)

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December 09, 2005

ダイエットなんかしない

 健康診断の結果が戻ってきました。血圧、尿検査、血中脂質、腎機能その他、おおむね正常値で、健康体といってよいようです。来年も元気に仕事ができそうです。

 しかし、検査結果通知書の最後にある注意事項になんと、「肥満傾向です」とあるではないですか!おまけに「肥満を解消しましょう。やせちゃお教室(肥満教室)の受講をお勧めします」だって。
 BMIが24.8(基準値18.5~24.1)で、ちょっと飛び出たためのようですね。
 このまま太り続けて、中年太りに突入することをわざわざ警告してくれているのでしょうか。

 きっと私はこのまま太り続けるでしょう。しかし、私はこの所見に反対します。これはけして肥満ではなく(別に肥満でもいいけど)、古来東洋に伝わる臍下丹田が発達した成果であると宣言いたします!

 確かにここ近年、私の下腹はとみにプックラと膨らんできました。おへその下から、まあるく出ているのです。人から「おまえ最近、体型が変わってきたな」と言われることもあります。でも、私のお腹はプヨプヨ、ブヨブヨではなく、めちゃ弾力があるんですよ。けして何段も腹筋が割れているのではないけれど(そういう鍛え方はしていません)、きっとそれ以上に堅く弾力性があるんです。

 丹田とは、「下腹部の、臍の下にあたるところ。ここに力を入れると健康と勇気を得るといわれる」(広辞苑)とされており、という字も当てられます。東洋医学では気海というツボがあるところで、気が湧き出るところとされているようです。丹田は東洋的身体論では常識ですが、目に見える実体ではないため、こういったものは近代日本では忘れられがちでした。でも最近齊藤孝さんや高岡英夫さん、甲野義紀さんらの活動に注目が集まるにつれて見直されてきています(特に高岡氏の身体意識論からの丹田解釈についてはいずれここでもご紹介します)。

 自分の場合、八卦掌という拳法を学び始めてから、お腹が発達し始めたような気がします。中国武術の中でも最も高度なものとされていますが、体験的にもかなりの心身の鍛練になりました(やり方は書けませんが)。
 その八卦掌を伝えた私の師匠の師匠、王樹金老師は、まさに布袋様みたいな体型で、挑戦者にお腹を叩かせて逆に腕に怪我をさせたとか、数メートル吹っ飛ばしたという話が伝えられています。嘘でも誇張でもなくて、高名な空手家や武道家が実際に体験したことです。極めつけは、当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジョー・ルイスやジャック・デンプシーのパンチを平然と肚で受け止めたことでしょう。

 単に打撃に打たれ強くなるだけでなく、丹田ができてくると心理的にも影響が大きいといいます。物事に対して動じなくなるとか、泰然自若、清濁併せのむ度量が備わるといいます。中国でいう「大人(たいじん)」の風格が漂うそうです。
 じゃあ私がそうなのかと問われると・・・恥ずかしくて自分ではちょっと言えない(*^_^*)。
 ただ、自分の体が変わってきたなと自覚し始めた時期から、カウンセリング場面や、児相だとけっこう緊張する場面があったんだけど、そういう時でも割合平然と受け止めて、適切に返すことができるようになったかなと思っています(単に慣れただけかもしれませんが)。これでも昔は小心者だったの。

 とにかく、そういうわけで、自分は(ただの)肥満ではない、太ってきたのは認めるが、たかだか西洋医学の健康診断では検出できないほどの高度な心身の状態なのだと大見得を切って今回は終わりたいと思います。

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November 29, 2005

「気」との付き合い方

 最近忙しくて、眠くて、つい稽古不足です。
 私の武術は「筋肉を増やす系」じゃなくて、「どんどん力を抜いていく系」で、多少さぼっても実力が落ちることはないのですが、やっぱり稽古しないと技は鈍ります。せめてもと、自宅で読書の合間に気功を数分しています。立禅、站とうと呼ばれるじっと中腰で立ち続ける気功のポーズです。中国武術の基本稽古で、「気の鍛錬」をするということですが、これがなかなか奥深いのです。自分の微々たる修練によっても、長い期間やっていると体の中が何か変わっていくのを感じるのですね。
 この感覚をどう心理学をやっている人や部外者の方に説明したらよいか、今まで悩んできました。
 は東洋思想の中核概念のひとつであり、それを基に中国武術は成り立っています。あだやおろそかにできないはずですが、近代人たる私たちの多くは、それを直感的に理解するだけの感性を失ってしまいました。でも非科学的とバカにされるのも悔しいし、何とかわかっていただけるように翻訳をしたいものです。

 気功法がブームになった頃から、何人かの研究者が「気の測定」の生理学的な研究したようです。唯物論を信奉していた中国では「気の物質的基礎」を見出そうとしたそうです。でも今のところ、そういう視点での気の理解は、依然として曖昧なまま、気功とかすると、何か気に対応する生理学的な現象は起こるらしいというくらいのようですね。

 私は、気を物質の側面から見ようとしても今のところはダメで、意識の在り方、認識の次元でアプローチした方がよいのだと思います。
 でも寡聞にして、気をストレートに取り上げた心理学はあまり見かけません。むしろそういう言葉や世界を語らないことをもってよしとしていたパラダイムがありました。不用意に「気」なんて言葉を出してしまうと、「神秘主義」とかエセ科学扱い扱いで、「負け」でした。当分はこんな感じでしょうね。

 その点で、私の尊敬する運動科学者高岡英夫氏は気との付き合い方がうまいと思います。

 気というものが存在するのではないかという立場に立つ、科学的にいうと気は存在するという仮定から出発すると、人間や社会におけるいろいろな重要なことが、よりよく解釈できる、説明できる。また、その仮定を前提にすると、気を導入・運用する気功法が成り立ち、その方法によって人生や人間関係や社会をよりよい方向に変えていくことができる。ということであるならば、この仮定を前提に出発することは決して間違ったことではないのではないか。気が存在すると仮定することで、人間、人生、社会がよりよい方向に向かうのであれば、それは採用してよい道ではないか、というのが私の考え方です。なんなのかわからないのに、気は絶対存在すると100%思いこむのは信心みたいなものです。私は気に対して信心したくない。あくまでも科学的な態度で、気というものは自然科学的には立証、解明されていないことを常に忘れずに行動することが大切である、と考えます。        「からだには希望がある」(総合法令)

 その上で高岡氏は独自にとても効果的な気功法を開発し、一流アスリートや武道家に指導しているのだから大したものです。 

 考えてみれば、臨床心理学の諸概念だって最近は威勢が良いけど、両方の世界にいる者から見れば、気とどっこいどっこいの感じがします。でも同じように少なからず役に立つ(はず)ですから、やはり気の世界と同様な態度でお付き合いしていくと良いのかもしれません。   

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November 04, 2005

スポーツチャンバラをやってみた

 先頃の週末に、息子を連れて、スポーツチャンバラ親子無料体験教室に行ってきました。スポーツチャンバラ(略してスポチャン)は、空気の入ったゴムのチューブを刀にしてチャンバラをする武道というか、レクリエーション的なスポーツなんですけど、なかなか自由な発想で活動していて、以前から体験してみたいと思っていました。刀も短刀から長刀だけでなく、槍もあったり、剣道と違って自由に相手の体を打てるし、宮本武蔵ばりに二刀流で戦うことも可能なのです。

 そこは基本的に子どもの放課後用スポーツ・クラブとして活動し始めたところらしく、当日大人で参加していたのは私と誰かのお母さんだけだったので、思い切り打ち合うことはできませんでしたが、しばし息子とチャンバラができて楽しかったですよ。息子も他の子と試合をしたら、初めてなのに勝てたりして、「また来たい」なんていってました(いつも三国志の関羽や呂布の真似してる変なガキなのです)。

 市販のプラスチックのおもちゃの刀は、子どもが振り回しても指や手に当たるとけっこう痛いのですが、エアー刀はその心配がありません。試合では頭に防具を着けますし、好きなだけ打ち込めても、安全なのがいいですね。その分、精妙な剣技、術理を会得するというわけにはいかないでしょうけど、反射神経や動体視力の訓練にはなりそうです。

 実はスポチャンには以前から注目をしていて、何年か前児童相談所にいたとき、庶務に頼んで、エアー刀を何本もスポチャン協会から買ってもらったことがありました。児相には不登校や発達障害、被虐待児などが参加する軽スポーツのグループ活動があるのですが、そこでボールやバトミントンなどと一緒にこのエアー刀を置いておくと、必ず男の子たちを中心にチャンバラが始まるのです。私も相手をして斬られまくりますが、心理や福祉を学んでいる学生さんがボランティアで参加してくれる時に、彼らを餌食にして戦いを挑ませたりすると大いに盛り上がります。エネルギーや攻撃性の適度な発散になるので、レク的な活動だけでなく、遊戯療法のツールとしてもとてもお勧めですよ。

 古来より、武道好きの人間は自分のやっていることに誇りを持ちながらも、何となく他の武道も気になっていたりするものです。私ももちろんそうなのですが、下手に道場破りみたいな態度でいると、不要な諍いを呼んでしまうことにもなりかねません。特に内心批判的に思っているところに行く時は、僕もいっぱしの武道理論家気取りですから論争になってしまうかもしれません。こんなことで師や仲間に迷惑をかけるわけにはいきません。

 そこで親子体験教室みたいなのを利用して、楽しく見学、体験をさせていただいております。子どもをダシにするのね。今のところ武道好きに洗脳できてますもので(^_^;)。これまで日本少林寺拳法と養神館合気道に行ったことがあります。予想していた通り、少林寺拳法は自分がやっている中国柔拳とは突きや運動原理についての考え方が大分違うなあと思いました。まあ、世間一般は誤解しているけど、あちらは中国武術じゃないらしいからね。私もちょっとやっただけでよくは知らないけど。

 そんなで、今後もいろんな武道場を見に行くかもしれませんが、山梨の各道場主の皆様、怪しい親子連れと思わず暖かく受け入れてくださいね。

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September 01, 2005

日本における太極拳略史

 このブログでは、自分が太極拳をはじめとする中国武術を学んでいることは何度も書きましたが、太極拳が実際どんなものかを普通の方はあまり知らないのではないかと思います。そこで、自分の理解の範囲内で、日本で太極拳がどのように存在してきたのかをまとめてみようと思います。小さなスペースですので、あくまで大ざっぱな流れを素描します。

 太極拳は、清朝末期の動乱時、中国のすぐれた武術家たちの研鑽、研究によって完成され、宮廷や皇族に受け入れられることで大いに名が高まり、さまざまな分派を生みながら大陸全土に発展、普及していきました。日本に最初に太極拳が紹介されたのは昭和34年頃、台湾から来日した中国武術の大家、王樹金老師によってでした。中国武術を日本に初めて伝える文化使節として、蒋介石の推薦により来日されたそうです。なんで台湾なのか、若い人にはピンと来ないかもしれませんが、当時日本にとっての「中国」は台湾の国民党政府「中華民国」だったのです。

 蒋介石率いる国民党が内戦で中国共産党に破れて台湾に渡った時、多くの優れた伝統的武術家も共に渡りました。王樹金老師もその一人でした。その後の大陸では文化大革命によって、たくさんの武術家が「封建的」「反革命的」などのレッテルを貼られて悲惨な目に遭ったそうです。歴史上中国では、武術家が革命や反乱に参加していたので、共産党政府は危険視して弾圧したのでしょう。王老師以外にも本格的な武術の伝統を継ぐ人の多くが命からがら台湾に渡りました。ちょうど台北の故宮博物館に中国の貴重な宝物が納められたのと同様に、それによって台湾で武術の伝統が保たれることになったのです。

 とにかく王樹金老師によって日本に初めて伝えられた太極拳などの中国武術は、まさに本物、強力なものでした。日本の数多くの武道家が実際に立ち会い、あっけなく退けられたのです。その頃の凄まじいエピソードを当時の日本の指導的武道家たちで実際によく見聞きした人は多く、今でも静かに伝えられています。当時空手留学中で後に作家になったC・W・ニコル氏は著書の中でその様子を表したこともありました。ただ、メディアが発達していなかったために、また、今のように気功法という言葉もない時代で、充分に王老師の太極拳が理解され普及していくことはかなり難しかったようです。今だったら、ヒクソン・グレイシーみたいに派手に取り上げられたかもしれませんね。

 1972年にいきなり日中国交回復がなされ、日本は台湾政府と断交し、共産党政府と国交を結ぶことになりました。それによって太極拳シーンの主役は台湾から大陸の流れになり、太極拳の雰囲気は大分変わりました。というのも共産党政府の指導を背景に新たに作られた太極拳は、武術性(つまり生の戦闘を想定したもの)をできるだけ排し、簡単に、短くやりやすいように「編集」されたものだったからです。その新作太極拳が、共産党政府の後押しで、日本側は日中の友好団体や文部省、体育協会などが受け入れ口となったことで、日本中に急速に普及していきました。

 一般のほとんどの方がイメージする太極拳とはおそらくその簡易版太極拳であろうと思います。日本中隅々といってもよいほど普及したことで、太極拳の名が多くの人々に知られ、女性や高齢の方でも気軽に取り組めるようになったことはすばらしいことだったと思います。

 反面、太極拳は中国版ラジオ体操みたいなもので、ただの踊りか老人向け健康法であるという浅い理解が浸透してしまったのは残念なことでした。太極拳は本質的に高度な護身術であることが伝わらなくなってしまったからです。太極拳でいう護身とは、外敵からの暴力や脅威から身を守る武術であり、また体の内部からの病魔を癒す養生法や治療法でもあり、不安やストレスなどで緊張した心をほぐしていく心理療法でもあり、心身を積極的に鍛える鍛練法までも意味するといえます。人生の様々な局面で役に立つよう練りに練られた心身のトレーニング法なのです。それはまるで、それ一つで何でも一通り料理できてしまう中華鍋みたいなものです。中国人の発想には、一つの原理・器をできるだけ広く敷衍、応用していこうとする傾向があるのかもしれませんね。

 80年代に気功法が世間に認知されてくると、気功として太極拳に取り組む人も出てきました。元々気功法と太極拳は本質的に同じといえるので、それはそれでよいのですが、そのエスカレートしたような形として、超能力、超自然的なものを求める極端な動きも強くなりました。その極端な現象としてオウム事件のようなカルト事件がありました。あの時期、庭や公園で稽古をしていると、警察に通報されかねない雰囲気がありましたね。オウム事件の余波で変な目で見られて、迷惑を被った道場や教室が大分あったようです。僕も公安に疑われていたかも・・・。

 90年代後半から現在までは、美容、健康法ブームでヨガやウォーキングが流行したことと、齋藤孝さんなどからの身体論ブームから、古武術の身体操法や呼吸法が見直されるという流れが重なって、再び太極拳にも注目が集まり、より本格的なものを求める人が増えてきています。

 僕自身はかなり本格(マニアック)志向で、伝統武術として太極拳を学んでいますが、今日本の太極拳文化はかなり多様化しています。おそらく新旧ほとんどの流派や団体が入ってきて活動しているのではないかと思います。

 以上のように、太極拳も戦後の日本社会の流れと複雑な中台関係、日中関係の狭間で揺れながら存在してきました。政治上の日中関係はぎくしゃくとしているし、ビジネス上のお金のやり取りだけは盛んになっているけれど、身体のレベルで地道な文化交流がなされていることは大事なことだと思います。21世紀にも武術、医術、芸術を包含するこのユニークな身体文化が守られ、発展していくことを願わずにはいられないし、僕なりに少しでも貢献していきたいと考えています。

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August 16, 2005

うれしい報告

 先日、太極拳の生徒さんの一人からメールをいただきました。稽古日を確認するのが目的だったみたいですが、それに続いて最近のご自身の武術の進歩について教えてくれました。

 彼は某フルコンタクト空手に長年打ち込んでいて、そこの道場の教授代理を任されるほどで、他にも総合格闘技の練習にも参加したりと、武道、格闘技に熱心に取り組んでいる好青年です。私が甲府でやっている太極拳教室に来てくれたのは、極真空手の数見肇さんなど、飛び抜けて強い選手たちが中国武術の気功法(正確には太気拳の立禅など)を稽古に取り入れているのを知ったからのようです。この世界には珍しく、とても柔軟な姿勢でいいですね。

 最近の彼は怪我などをして空手の方はあまり稽古していなかったようですが(そのリハビリも兼ねて学びに来てくれてました)、先日久しぶりに組み手を師範としたら、「稽古に来ていないのに強くなっているし、動きも変わった。何か特別なトレーニングでもしているのか?」と驚かれたとのことでした。総合格闘技でも、相手にひっくり返されにくくなったそうです。おそらく、脱力が少しずつできるようになって、重心の感覚と操作がうまくなり、相手はとても重く感じるようになったためと推測できます。精神状態も、以前よりも安心感が増してきたと感じているようです。「目に見えて効果が現れてうれしい」と彼は語ってくれました。

 彼は太極拳の長い型が終了していないので、太極拳独自の戦闘法をまだ十分に身につけているとはいえない段階と思われます。でも日々の自宅の稽古では、型と気功法を欠かさずしっかりと練習してくれているそうです。その段階でも、彼の格闘センスの良さもあるでしょうが、自他共に認める効果が現れたのは教える者としても、とてもうれしいことです。

 おそらく、これは個々の具体的な戦術ではなく、心身の深いところ、能力の本質的なレベルに太極拳の基本稽古が作用しているといってもいいでしょう。このように効果の検証が現実にできるので、黒田鉄山氏など何人かの武術家や研究家がおっしゃるように、武道の型は理論であり科学であると思います。多少読みがたいテキストではありますがね。最近はスポーツや教育界でこういったものを注目する動きがあるようですが、とりわけ歴史という時間的検証にも耐えている中国武術や日本の古武術には、汲んでも尽きない宝の山かもしれない、と改めて思わせてくれたエピソードでした(^_^)v。

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July 31, 2005

稽古で癒された

 先日久しぶりに東京に出て、本部道場で稽古をさせていただきました。3,4か月ぶりかな。午後の時間をめいっぱい使って体を動かし、気持ちのよい汗をかきました。

 普段は地方で生徒さんに細々と教える以外は、一人稽古が中心なので、熱心にやっているつもりでもついさぼりがちになったり、気がつかないうちに型が崩れてしまったりすることがままあります。本部に来るといつも老師に「違いますよ」とやさしくも厳しく間違いを指摘されて、冷や汗をかくことが多いのですが、それでもここで自分が学ぶ居場所を得ている、わずかでも進歩しているという感じが得られるので楽しいものです。生来の多動傾向のためか何にでも手を出してしまう自分ですが、おそらくここだけは一生抜けられないなあ、と思えて何だか不思議な安心感を感じました。

 今年度の自分の仕事は身体障害者関係で慣れないことばかりだし、心理の世界は資格騒動もあって落ち着かないけれど、こうやって自分の身体と向き合う時間があるとホッとします。外側の世界はどうあれ、自分のベースはここにしかないんだな、と。

 山紫水明、自然の豊かな土地に生活しているけど、だからといってストレスが軽いわけではないですね。都会の人が「いいところですね」と言ってくれるとうれしいし、僕も山に入って自然の「気」を浴びるのは好きだけど、自然だけでは癒されない。都会の街をフラフラ彷徨ったり、武道の稽古で打ち合うのも気分が良くなる。仙人だけど、俗っ気も抜けないのです(*^_^*)。

 最近はデスクワークが主体の仕事で運動不足になりがちなので、できるだけ稽古に励むことにしよう。

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July 16, 2005

太極拳体験2・脱力を極めたい

 どんな運動、スポーツ、武道でも「力を抜いて」「リラックスして」とはよくいわれることで、パフォーマンスを上げるためには、リラックスすることが不可欠なのは知られています。

 しかし、太極拳などの柔拳、日本では合気道などの柔術系は、とにかく力を抜くこと、余計な力を一切入れないことを求めてきます。僕の知る限り、達人的な人ほどその要求は徹底しています。「お箸を持てる力があれば充分」とか「力の絶対否定」(振武館黒田鉄山師)とか、とにかく極端なことを言うのですよ。

 推手という組み手稽古をしている時、「もっと力を抜いて」と先生や先輩から指導されます。「はい」と答えながら、肩や腕など筋肉をできるだけ抜こうと努めます。うまく抜けていると相手の攻撃をスルリとかわせることもあるのですが、上級者とやれば大抵そのままドカンと腕が胸に入ってきます。

推手ではいつも、「だめ、力入ってる、もっと抜いて」「はい、わかりました(抜いてるんだけどなあ、これ以上どこを抜けっていうんだ、ブツブツ)」バシッ、ゲホゲホ(胸を打たれて咳き込む音)と、この繰り返し。

 少しでも力みや緊張があると、そこを支点にするかのように巧妙に吹っ飛ばされ、芯のないフニャッとした抜き方だとそのまま防御を突破され、掌で体を打たれる。太極拳との戦いは実にやっかいなのです。

 大抵は、攻撃される、相手が来ると認知した瞬間、こちらの体は反射的にビクッとなったり一瞬固まります。野生動物は次の瞬間にパッと逃げたり、攻撃に転じることができますが、僕ら凡人は、そこで心身が固まったままで敵に捉えられてします。これを武道的には「居着く」というんじゃないかな。

 相手が来た!と認知した刹那、体をゆるめる、攻撃されればされるほどゆるめていく、心の集中は静かに維持し続ける・・・そうすると体の反応性は高くなり、相手もよく見えるようになります。少なくとも僕は、そう思いながら稽古することは、上達に有効でありました。

 次第に、自分よりレベルが下の人と手合わせすると、相手の緊張具合、体の癖がすぐにわかるようになりました。逆に上級者が相手だと僕よりさらにゆるみきっているので、動きの起こりがわかりにくく、大きな力が発せられて打たれてしまいます。

 太極拳の稽古とは、力の抜き比べなのです。こんなことを日々やっていると、僕の日常生活、特に臨床の場面に大きな影響があることに気がついてきました。というのは、面接では時に緊迫感で張りつめた雰囲気になることがあるからです。

 子どもへの虐待行為を「しつけだ、何が悪い」と居直ったり、こちら(児童相談所)が施設へ保護した子どもを「返せ!」と殴りかかってきそうな勢いの父親や家族と対する時、普通はこちらも対決姿勢が喚起されて、場は一気に険悪な雰囲気になります。その時、お互いの身体はガチガチなのでしょうね。喧嘩慣れしている強面の人なら、さらにアグレッシブな「気」を出してくるはずです。そんな「男性的な」援助者もいますね(それはそれで役に立つこともありますが)。逆に、あまりに受容的、母性的な聴き手だと、相手の攻撃性はどんどん高まって、話は止めどもなく続き、結局何も決まらない、なんてことになるかもしれません。

 僕の場合、そこで息を柔らかく吐き、太極拳の戦いの感覚を思い出します。相手の動きに合わせながら、力のベクトルを逸らしたり返していく、隙があれば入っていく、そんなイメージで、相手を見ながら、お得意の質問技法を繰り出していく・・・そうすると、少しずつ場の空気は変化していきます(うまくいけば)。頑固親父との対話の可能性が開けるかもしれません。

 腕に多少の覚えがあるから「まあ殴られても何とかなるさ」と思えるので、できるのかもしれませんが、緊迫したり対決色の強い時にこそ、自覚的に力を抜くことがいかに大事かを太極拳や武道から学んだような気がします。

 ゆるむ、脱力することは、僕にとってとても大切なテーマなので、また折に触れて語っていきたいと思います。

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July 07, 2005

太極拳体験・型で練る

 考えてみたら、このブログの看板の一つ、武術ですが自分は全然達人じゃないし、流派を代表する立場でもないし、最近ブレイクした古武術研究家の甲野善紀さんみたいに独創的に語れるタイプでもないし、大したことを書けないなあと思っております。だから、、これを読んで強くなるとか、何か特別な情報があるということは多分絶対にないと思います。自分の武術やスポーツの体験談に、多少臨床心理学的なテイストが入ったエッセイみたいな感じになると思いますので、マニアックなそのスジの方、お許し下さいね。

 僕が学んでいる太極拳それから形意拳、八卦掌(まとめて柔拳と呼んでいます)は、型が厳密です。手足の位置、動かすルート、姿勢に厳しい注文があります。型には流れがあり、攻防を表す技の順番が決まっています。おそらく、空手などの型よりずっと長く、複雑な構成になっています。それを何度も、丁寧に繰り返すことが稽古の基本です。

 そんなことをして、退屈だろうと思われる方もいるかもしれませんが、さにあらず!型稽古の繰り返しから、体の内部へと無限の気づきの世界が広がるのです。

 先ず習い始めて気づいたのは、いかにそれまでの自分が自分の身体に無意識、無自覚であったかでした。ゆっくり型を繰り返していくうちに関節や筋肉の様子を感じ取れ、動きの癖や緊張の所在などが、次第にわかるようになってきました。体重の移動や手足、体幹の動きにより意識的になると、自分の動きの修正や微調整がスムーズにできるようになり、緊張の部位に気づくことができます。そうするとそこをゆるめる、脱力することが容易になります。その結果、太極拳を学んでから、スキーやテニスなど他のスポーツ、楽器の習得など以前よりずっと効率的にできるようになりました。学問の習得もスムーズになったかも(これは自信ない)。

 そういう身体への気づきというのは、終わりがなくて、そのときのコンディションや修練の進み具合でどんどん変わっていきます。今でも稽古をしていると、新たな、さらに微細な感覚を得ることがあります。

 それに長い時間、体の内部に注意を持続しているので、ほとんど催眠トランス状態といっていいでしょう。トランスに入りやすくなれば、そこで学んだことは無意識の奥に染みこみやすくなるかもしれません。しかし体を動かしながら、外界にも注意を配分しているので、心の中に没入するほどの深いトランスではなく、常に意識は保たれています。終わった後は、いつも意識は清明になります。今はさすがに慣れてますが、習った当初は新鮮な感覚でした。中国武術家は太極拳などの柔拳を、動く禅、動禅と呼ぶことがありますが、まさに意識のトレーニングといえます。

 そうやって型の練習をじっくりすることを、中国武術では「練功」と言います。時間をかけて、とろとろ煮込んでいくかのようなイメージです。先生は、「小さな玉に薄紙を一枚一枚貼り合わせていって、大きな玉にする」とおっしゃっていました。

 ゆっくり体を動かして、緊張感を取るといえば、臨床心理学の世界では臨床動作法があげられます。職場の上司で動作法をよくする人がいたのですが、彼に太極拳を教えたらとても受けて、今でも時々練習しているとのことです。共通性を感じ取ってくれたみたいです。心身の不当な緊張を取り去るのが動作法ですが、武術の世界ではそれをさらに徹底化させているのです。

 どちらかというと知的なものが勝り、頭でっかちになりがちな自分でしたが、中国柔拳を学んでから、より心身のバランスが取れた人間になれたかもしれません!(^^)!。もちろん、終わりはありませんが。太極拳は僕にとって、武術や護身術の技をマスターするだけでなく、心身統合の体験を味合わせてくれる、実存レベルのセラピーになったといえそうです。

 最近は斎藤孝さんをはじめ、心身の発達における型の重要性が見直されていますが、僕なりにずいぶん前から型の意義に気づいたことで、先人の知恵というか、伝統武術の奥深さを知ることができました。このことは後に臨床心理学を学んでいく時にも役に立ったように思います。

 

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June 24, 2005

僕の武道修行4・太極拳を習う

 20歳の秋、念願の太極拳を習い始めました。先ずは型から入るのですが、合気道をやっていたせいか、飲み込みは早いと先生から言われました。初めての稽古が終わった時、「君はきっといいところまでいくよ」とおっしゃって下さって、とてもうれしくて自信になりました。これで頭に乗って、続けることができたのかもしれません。僕って誉められて伸びるタイプだから(^_^)。

 ただ、ゆっくり動くし、別にアクロバット的な動きもないので、太極拳らしい動きは直にできるようになりましたが、それは中味のないただの器にすぎないことはすぐに思い知らされました。推手という、二人で手首を接触しながら押したり引いたりする、一種の組み手をすると、実力の差に愕然としました。こちらが押すとフワッといなされて自分は前方につんのめり、相手の突きは自分の胸にどかんと入ってきて後ろに吹っ飛ばされる。暖簾に腕押し、手も足も出ないとはまさにこのこと。合気道の転換技に似ていて、巧妙な技術なのはわかりましたが、あまりにも相手の感触がなくて、雲の中でもがいているみたい。一方的に先生や先輩にやられるので、不思議でなりませんでした。ガチンコというような戦いのイメージじゃないのですね。思わず「これが本当の太極拳か!」と感激しました。

 太極拳の型も、若い身体には物足りないかなと思ってましたが、低い姿勢で長時間(一通り終わるのに25分ぐらいもかかる長い型です)じっくりと動くと、最初太ももは痛くなるし、体はほてってきて汗が噴き出し、かなりの運動量なのが実感できました。それでもゆっくり動くので息は切れず、スッキリとした爽快感があるのです。今までにやったスポーツや運動とは、感覚が大分違っていて「おもしろいな」と思いました。

 やっていると一種の瞑想状態というか、軽いトランス状態というか、意識状態が変化することにも気づきました(普通の人は気づいていないと思いますが)。おまけに、これを習ってから頭がよくなったというか、集中力が確かに増したような感じもしていました(元々大したことないけど)。確かあの頃の売れっ子学者・栗本慎一郎氏の本で、「人類は直立二足歩行になって、大腿部への刺激が脳への良い刺激になって進化を促進した」ようなホントかウソかわからないことが書いてあったのを読んで、そのせいかもと一人合点をしていましたが。

 そんなで、強くなれて、気持ちよくて、心身の調子がよくなったりして、いいことづくめのような気がして、貧乏学生なので月謝のやりくりが大変でしたが、まじめに稽古を続ける日が続きました。その中で、自分の中の核になるようなところまで少しずつ、変わっていったような気がします。始めは身体が、そして認識のレベルまで・・・。

 それからは、太極拳修行を起点として関心がさらに広がっていって、トランスパーソナル心理学から気功法、東洋神秘思想、瞑想、哲学の身体論などにかぶれたりして、今の妖しい臨床心理士が誕生していったのです(その一方で現実的なアドラー心理学や行動科学なども大好きでやっているんだから、好奇心が旺盛というか、物好きというか、自分でもあきれてしまいます(*_*))。                           (続きます)

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June 13, 2005

僕の武道修行3・青年編

 ずっと心理学ものが続いたので、ここらで気楽に武道ものを入れさせて下さい。

 大学生になって何か武道をやってみたいと思いながら、どれにするかなかなか決められない時期が続いていました。大きい大学でしたから、大抵の武道はそろっている感じでした。でも体育会系はちょっとな・・・、他にもやりたいことはあるし、意味もなく厳しくて気楽に休めそうもないというイメージがあって入る気はありませんでした。
 やるなら今度は合気道より拳法がいいな、とは漠然と思っていました。そんな中、ふと太極拳という言葉が頭に浮かんでいました。別に詳しく知っていたわけではありません。太極拳といえば、ゆっくり動く健康法という一般の方が持つイメージと同じものしか当時の僕は持っていませんでした。
 まだK-1も総合格闘技もない時代、単純に強くなりたければ、フルコンタクト空手という選択肢ぐらいしかなかったのですが、合気道で技の奥深さを知ったことで、技術的に高度なもの、伝統的で本格的なものがいいなと思っていました。今と違って、古伝、沖縄空手など空手の精妙な技術が喧伝される時代ではなく、知らなかったことも大きかったと思います。

 何より、前にも書いたトランスパーソナル心理学の影響もありました。そこでは、心身を統合する実存レベルのセラピーとして、ロルフィングやバイオ・エナジェティックスなどボディーワークやゲシュタルトセラピーのような身体性を重視したセラピーが紹介されていました。中でも東洋的な行法としてインドのハタ・ヨガや中国の太極拳もよく挙げられていました。何でもアメリカのエサレン研究所などでよくこういったものが行われているとか・・・。

「ああいうのもセラピーとして考えるんだ、ふーん」という感じで、何か辛気くさい座禅とか瞑想よりも僕の性にあっていそうだな、と思っていました。

 サークルの先輩に話すと、「吉福さんのところに松田隆智という中国武術研究家が出入りしているから聞いてみたら」と言われたこともありましたが、よく知らなかった僕は、あえてそこまでしませんでした。後年になって、有名な中国武術研究の第1人者だったことだったことを知ってびっくりしました。お会いしてたら道が変わっていたかな。

 それでいくつか都内の教室を探して見学してみたのですが、やはり武道というより体操教室という感じで(今思えば簡化太極拳か楊名時太極拳だったみたい)、あまりそそられませんでした。
 ある日、高田馬場駅から早稲田通りを西に向かってブラブラ歩いていると、ふとビルの入り口に太極拳と白い紙に黒く毛筆で書いただけの張り紙を見つけました。
 そこは、ボウリング場とカルチャーセンターの建物でした。それにしては、シンプルで飾り気のない張り紙が、かえって目立っていました。
 もしかしたら、と興味がわいたものの、何日か迷った後、意を決して見学に行ってみました。

 そっと教室のドアを開けると、そこに黒いカンフー服を着た50代らしき年輩の男性が立っていました。他に生徒さんはわずかに二人、見学をお願いすると、その男性(先生でした)が快く椅子を勧めてくれました。
 そこの太極拳も、やはり実にゆっくり、ゆったりと動くものでしたが、何かがそれまでに見たものとは違っていました。凛とした鋭さが動きの中に感じられ、ただ動作を緩慢にしているのとは雰囲気が明らかに違っていました。武道としての緊張感が漂ってくるのです。

 型の後は、二人で腕を押したり引いたりし合っているような組み手が始まりました。一方が押すと相手はそれを手首付近でフワッと受け、そのまま後ろに流していく、それを交互に繰り返していました。推手という太極拳などの中国武術に特有の組み手稽古法でした。

 先生も日本人でしたが、静かな佇まいの方で、華奢な体型ながら、柔らかな感じの後ろ姿が印象的でした。僕が見てても、特に教室の宣伝をするわけでもなく淡々とされてましたが、最後に「これは本物ですよ」と一言仰ったのが決め手になりました。

「いいかもしれない。ここに通おう!」ここから、僕のつかず離れずの、長ーい太極拳とのお付き合いが始まったのです。阪神が21年ぶりの優勝をした年でした。(続くかも)

 
 

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April 26, 2005

僕の武道修行・思春期編2

 極真空手の大山倍達、この名を聞いただけで武道関係者は好き嫌いはともかく何らかの反射的思考、連想、感想を抱くでしょう。実にユニークかつ巨大な存在です。
 僕が中高生の時はまさに実力随一の武道家、格闘家というイメージで、友人にも「信者」がいました。でも彼は臆してか実際にやってはいなかったけど・・・。
 
 コミック「空手バカ一代」を立ち読みで全巻読破した僕にも、当然大山倍達先生は気になる存在でした。写真での姿を見た時の、「この人はきっとすごい人だ!」という直感は今でも覚えています。
 でも同時にストーリーの内容について「これは嘘だ」という直感もわいていました。当時の武道少年にはあのストーリーをまともに信じた人が多かったらしいので、子どもにしてはけっこう洞察力あったのかな?
 梶原一輝の、マンガだから当然としても、作為というかあざとさというかマッチョな世界観というか、その辺に「自分の進む方向ではない」という拒否感があったのかもしれないと今は思っています。「巨人の星」も既にパロディー化されてきた時代でしたからね。

 そんなで、結局その後も僕と空手との縁はできずじまいでした。食わず嫌いのところもあったかもしれないですけどね。その後中国武術を学ぶ中で極真の友人ができたりして、若干縁ができたのですが。

 植芝盛平、この人の写真を道場や本で見た時もなにか異様な感覚を抱きました。白い髭をたたえ、人の心の奥を見通すかのような仙人のような風貌に、この人も普通の人ではないと確信しました。
 それで、早速合気道関連の本をいろいろ読んでみたのですが、神道や大本教から影響を受けた植芝先生の武術思想は、難解すぎて歯が立たちませんでした。超能力者みたいなすごい人らしいけど、それと今やっている合気道とどう絡んでいくのかが見えにくい感じがしていました。とても僕はこの人みたいにはなれない、体質的に違うような気がしていました。
 基本的に僕は合理主義というか、実利好みのところがあったので、合気道家の中では、塩田剛三先生に近い感覚を持っていました。
 それでも合気道の技は好きでした。小手返しなど、関節技を学ぶことで、ちょっとしたことで人体が崩れ、投げられる、極められることがわかることはとても面白かった。昔の人の身体への知恵をかいま見た気がして、武道の奥深さを合気道から学びました。

 高校を卒業し、東京の大学に進んで一人暮らしに慣れ始めた頃、やめていた武道を何かやりたくなりました。
 さて何を学ぼう、と探し始めたのですが、そこでその選択に影響を与えたのが、このブログのもう一方の柱である心理学なのでした。
(続く)

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April 15, 2005

僕の武道修行・思春期編

 太極拳を学んでもう20年になります。素人武術家ながらよく続いたと思います。
 年を取ったせいか最近、これまでの武術歴を振り返ってみたくなりました。別にたいした武勇伝もあるわけでもなく、完全に個人の趣味なので、思い出すままに書き連ねていきます。
 誰もが各武道の創始者みたいな波乱の人生を歩んでいるわけでもないので、きっとこんな奴はいっぱいいるんだろうな。

 僕は、幼い頃からなぜか武道や忍者ものが大好きで、コミックでは「サスケ」や「忍者武芸帳」、「子連れオオカミ」「空手バカ一代」なんかを読みふけっている子どもでした。特に拝一刀には心酔してました。当然時代的にウルトラセブンや仮面ライダーも好きだし、タイガーマスクにも熱中したので、戦うことに興味があったのでしょう。
 おまけに武田信玄が地元の英雄で、周囲に史跡も多く、戦国時代の歴史にも自然に関心が向きました。
 成長するにつれ、いつしか武道を習ってみたいと思うようになっていました。でもなぜか友人たちがやっていた剣道や柔道にはいかなかったのです。スポーツ的な方向性は無意識のうちに避けていたのかもしれません。

 中学生の時には近くに空手道場がないものだから、裏山に行って木に座布団を巻いて突きをしたり、空手の真似事をしていました。テキストは金澤弘和先生の本を買いました。「何週間で強くなる」みたいなタイトルだったかな。本を読みながら、こうかな、ああかな、と試行錯誤の自己流の山籠もり稽古でした。
 そこは甲府盆地が見渡せる景色の良い場所で、冬枯れの木々の中で突き蹴りの稽古する姿はさながら大山倍達先生の気分!時にはいちゃいちゃしようとやってきた不埒なカップルがギョッとして逃げてしまうことも。

 そんな中、ある日書店で合気道養神館塩田剛三先生の本を見つけました。その本には塩田先生の武勇伝が書いてあって、身長が150センチそこそこの小柄な人が屈強な男を軽くやっつけている話を知ってびっくり。僕も背は低い方で劣等感もあったので、体格の小さな人でも強くなれることを知って、俄然合気道に関心を持ちました。
 でも当時山梨に合気道の道場はありませんでした。やはり、家の畳の上で受け身や四方投げの練習をするのですが、合気道は二人稽古が中心なので、一人ではどうやって技をかけるのかわからず、途方に暮れていました。
 高校に入ると、部活は弓道部に入り、おまけにできて間もない合気道の教室を見つけて入門することができました。
 生まれて初めて本格的武道を習える!と胸の高鳴る毎日でした。

 そこは合気会の道場で、師範は磯山博という方、以前「秘伝」誌にも取り上げられた先生です。自衛隊などに非常に実戦的な合気道を教えられている方と聞いていました。先生は暖かくもメリハリのある指導をして下さり、初めての武道の師匠として申し分のない方でした。
 先生の豪快な小手返しや腰投げは今でも目に焼き付いています。手首もすごく太かった。
 ただ部活と学業と不純異性交遊(?)も一応こなしていた高校生としては、十分に合気道に打ち込めなかったのが今となっては残念です。

 弓道は武道としてよりも、友達と弓道場で語らいながら楽しく過ごす場という感じでした。それでも矢が的に当たる感覚はとても気持ちが良かった。袴姿もかっこよく見えたし、「アイコ16歳」という小説がはやって、弓道部は女の子が多かったのもよかった(^_^)。

 武道をかじる男の子なら誰でもそうだと思うのですが、稽古を続けながら、一体どの武道が、誰が一番強いかということに興味が大きくなってきました。あっちこっちの本屋に行って情報を探し回りました。当時はインターネットなんて影も形もなく、本ぐらいしか手段はありませんでした。
 怪しく不確かな情報源も多かったのですが、武道や格闘技に対する自分なりの価値観や見方をその中で形成していったと思います。
 その中でやはり大山倍達と植芝盛平はやはり気になる存在になっていました。
(続く)
 
 
  

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February 14, 2005

全日本柔拳連盟甲府支部

 美容、健康法、そして護身術としても役立つ本格的な太極拳のサークルをしています。
 私たちは、中国武術、武道界でその名を知られた達人・王樹金老師が伝えた正宗太極拳、終南門派形意拳、大成気功を稽古しています。昭和30年代に日本に初めて伝えられた太極拳でもあります。
 太極拳はゆっくり、ゆったり動くその姿から、武道としてはとかく誤解されがちですが、護身術、格闘術としても大変素晴らしいものです。太極拳を学ぶと身体の深いところから変化が起こってより丈夫になり、力を抜ききったところから繰り出される合理的な動きを身につけると、体格の劣る人や性別、年齢に関わりなく身を守ることができるようになります。
 身体の内外の敵から身を守る、本当の意味で護身術といえると思います。

 私は全日本柔拳連盟の本部道場に通いながら、数年前から山梨県甲府市を中心に活動しています。甲府周辺だけでなく、富士北麓地方や長野県からも参加してくださる方もいて、少人数のグループですが、和やかに稽古をしています。関心を持たれた方は是非お問い合わせください。

 全日本柔拳連盟甲府支部
 

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