November 09, 2009
Q.アドラー心理学は実践の学だが、厳密な学問としては、構成概念としての諸概念がきちんと定義されていない、十分に整理されていないように思われる。
A.劣等感や目的、勇気、共同体感覚などの諸概念は、もちろんいわゆる構成概念であり、何か手に触れられるような「実体」を指し示すものではない。説明のため、実践のために論理的に一貫して使えればよいと考えるものである。
一方で、私は単なる構成概念であることを常に意識しているつもりだが、実践していく上には諸概念があたかも実体であるかのような実感、臨場感を持つことは必要であろう。
そこでは「勇気がある/ない」「共同体感覚がある/ない」と言い合っても、あながち間違ってはいないと思う。
数学者にはそれよりはるかに抽象度の高い数学的概念を、臨場感を持ってありありと感じる人がいる、例えば「虚数は存在する」などととまで言う人もいるらしい。それくらいでないと本物ではないのかもしれない。それに比べれば臨床心理なんてかわいいものだ。
アドラー心理学の構成概念のほとんどは、操作的に定義されていないのも事実で、その点ではオーソドックスな研究者には問題に見えるかもしれない。
ただ、私から見ると他の心理臨床学の学派に比べて、ことさらアドラー心理学の概念が曖昧であるようには見えない。自我やリビドー、転移、無意識などの精神分析学の概念よりよほどクリアーだし、共感や愛着、トラウマより扱いやすくできていると思う。
さらに目的論や主体性、人間関係論、認知論といったアドラー心理学の諸前提が、一種の公理となって緊密に結び付き合っていて、ほとんど矛盾のない理論体系を作り上げている。
その完成度が高すぎて、アドラー心理学はかえって外からは進歩がないように見える、あるいはブラックボックスみたいで近寄りがたいという印象を与えているような気がしてならない。
逆に精神分析学は曖昧で矛盾が多すぎて、それを歴代の研究者が処理することが「学問的進歩」とされてきた歴史ではないか、とも感じる。
アドラー心理学の諸概念が操作的に定義できるかどうかは疑問だが、例えばアメリカには共同体感覚を測定する質問紙も開発されているようで、そういうところではそういう試みがなされているのかもしれない。調べてみたい。
私としては、いわゆるアカデミックな厳密な研究のパラダイムに乗らないところ、必ずしもエビデンス・ベースドにはできないところも、しっかりと思考と実践の対象にしようとしているのがアドラー心理学であると考えたい。
人は数値やエビデンスのみでは動かない。エピソードによって動くのだ。
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October 28, 2009
Q.アドラー心理学がおそらく効果的なのは、ブリーフセラピーや認知療法など類似のアプローチが効果的なのと同様に確かなのだろう。しかし、そのエビデンスは実際どうなのだろうか?
A.アドラー心理学は、数々の無視と迫害(被害妄想?)にもめげず、100年生き残ってきて、多くの領域の実践者から良い評価を常に得てきた。
その間、理論的、技法的に似ているアプローチがよりシンプルに、対象や目的を絞った形で、科学的に厳密な方法をひっさげて登場するに至り、21世紀の臨床心理学は、アドラー自身が予言したとおり、ほとんどが「アドラー心理学化」することは明らかになったと私は見ている。
その意味でアドラー心理学に関する歴史的、経験的なエビデンスは確固たるものがあるといえる。
20世紀の臨床心理学において、精神分析学と行動科学が表の番長なら、アドラー心理学は裏番長であったと半分冗談で私は思う。
しかし、逆に「アドラー心理学固有のエビデンスはあるのか」、と問われるとそれを明確に出すのはなかなか難しいのは認めざるを得ない。これまでのアドラー派の力不足か、今のエビデンスの評価基準に合うようにうまく取り出せないままになってしまっているようにも見える。
これは誠に重要な問題であり、今後の研究に委ねたい。
いや、私が知らないだけかもしれない。
これまで日本にはアドラー派の臨床向けの文献があまりにも少ないため、最近は北米アドラー心理学会の学会誌を取り寄せて見るようになったが、なかなか面白い研究や論文が多い。
日本にはまだ知られていないアドラー心理学の側面がたくさんあるようだ。
今後面白そうな情報は、本ブログでも紹介していきたい。
しかし、いわゆるエビデンス・ベースド・アプローチは精神医療のクリニックや外来といった狭い枠組みの中で適用しやすいパラダイムであり、勇気づけといった日常生活の何気ない細かいやり取りや、共同体感覚の育成といった人間的成長の長いタイムスパンの両方に焦点を当てているアドラー心理学には向いていないともいえる。
私のホームであった児童相談所臨床も、閉じられた空間が作れる精神科臨床と違って様々な職種が同時並行的に複雑に関わるため、単一の因果関係で語ることはあまり意味がないのと同様の状況である(両方を経験した私はそう思う)。
またアドラー心理学は全体論の立場を常に意識しているため、技法固有の効果というものは意味がないと考えているのかもしれない。
アメリカにおける効果的な心理療法の要因研究の結果では、技法が占めるのは15%に過ぎず、治療室外の出来事の影響を意味する治療外要因は40%、クライエントとのラポールや治療同盟という関係要因は30%、期待や希望・プラセボ要因が15%程度といわれる。
アドラー心理学が効果的なのは、技法は折衷的でかなり多く相手によって使いこなし(技法要因の向上)、「横の関係、相互尊敬・相互信頼、目標の一致」で治療同盟を徹底して作り(関係要因の向上)、勇気づけで「希望を処方」し(期待要因の向上)、日常生活の実践を重視する(治療外要因の利用)のだから、全ての効果的になる要因を踏まえているので「効く」のは当たり前といえる。
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October 19, 2009
Q.アドラー心理学は、論理情動行動療法、認知療法、ブリーフセラピーなど最近のほとんどの心理療法の学派に影響を与えている。アドラー心理学がそれらの元になっているのはよくわかるが、あえていえばたとえそれがルーツであっても、今はそのように各学派が発展しているのだから、わざわざアドラー心理学を使わずに心理現象を説明しても良いのではないか?
A.もちろん、他の理論でうまく説明でき、実践もうまくいくならアドラー心理学を使わなくてもかまわないと思う。
私もブリーフセラピーや家族療法、認知療法はよく使うし、参照することが多い。本ブログ以外の現場では、人前でアドラーを連呼したりはせず、論争もけして挑まず、相手に合った言葉を使っている。
ほんとはとても折衷的な人間なのだ。
しかし、逆にいえば、同じように心が説明できるなら、アドラー心理学を使ったってよいではないかとも思う。
そこは卑屈になる必要はこちらにはない。
私は学者でも研究者でもないが、確か学問では、自説に影響を与えた先人や引用元があるときはそれを明示することが最も大切だったはずであるが、アドラー心理学に関してはエレンベルガーが「無意識の発見」で述べたように、「誰もが無断で剽窃していく」が如きなので、少なくとも我々「後継者」を自認する者は、言うべきことは言った方がよいだろう。
最近は認知行動療法を臨床心理学のグローバル・スタンダードとする流れが世界中で優勢になっているが、それはそれでよいことだと思う。アドラー心理学と実践上の相性もよいので、私はその流れに乗るつもりだ。
ただたとえ、似たようなところがあっても、単一のアプローチ、発想ではカバーしきれないもの、表現しきれないものはあり、重点の置きどころの違いで、心理臨床家の側の物語は違ってくると思われる。
精神分析学は、人はいかに病気かを描写したいというニーズに応えるものだった。
ブリーフセラピーは、臨床家が面接がもっとうまくなりたい、治療の達人になりたいという切実なニーズに応えようとするものだった。
認知(行動)療法は、ある特定の精神疾患を確実に治したいというニーズに応えようとするものだった。
ではアドラー心理学はどうか?
それはなんと、つまるところ、「人類を幸福にしたい」「地球の平和を守りたい」というウルトラマンみたいな、誇大妄想というか気宇壮大なものなのである。
共同体感覚なんてまさにそう。
「そんなの心理学か!科学か!」とお怒りになる向きもあるかと思うが、でも結局全ての学問の目的はそこにあるはずなので、それを真正直に言っただけであり、反論はできないはずだ。
ただ、それを政治経済のレベルではなく、また妄想的に文学的に語るのでもなく、個々の日常生活のレベルで楽しく実践できるように考えようというのがアドラー心理学であると思う。
私から見れば、そういった思いの心理臨床領域での具体的発現がブリーフセラピーであったり、認知療法であるように見えるのである。
しかしだからといって、別に常に正しくあれとか、人々に尽くせとか、間違いを犯すなと道徳的に言っているわけではなく、聖人君子を目指しているわけでもないことは、あえて指摘しておきたい。
アドラー心理学の実践では、気楽で楽しく、ユーモアに満ちたものを目指したいのである。
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October 14, 2009
引き続き、Q&Aです。思ってることを書き散らしていきますよ。
Q.アドラー心理学が共同体感覚を大事にしているのはわかるが、現代社会は共同体が壊れていくプロセスにあるともいえる。そういう中にいることを好む人も世には少なからずいるはずで、そういう人たちにどのように応えていくのか?
また資本主義社会は数値や売り上げが第一で、そのような世界でアドラー心理学は本当に通用するのだろうか?
A.確かに資本主義経済の社会は共同体を破壊する方向で進んできた。一家に一台車があるより、家族4人全員が持てば、4倍の売り上げになるのは当然の論理である。そのために共同体より個を重視するのは必然の流れであった。
私自身も田舎育ちだが、必ずしも農村共同体の規範や人付き合いが好きというわけではない。都会的な個の感覚を居心地良く感じる一人でもある。
しかし、このままで良いのかという危機感は持っている。
共同体より孤立した個を好む人がいても、「心の治療」とはつまるところ何らかの「つながりの回復」のことに他ならないので、その人がアドラー心理学がお好みでなくてもかまわない。
アドラーのアの字も使わなくても、効果的な心理治療はすべて、共同体感覚的なものを回復させているはずだからである。
その人のお好みのアプローチを採用すればよいだけであろう。
実際今の社会状況はアメリカ型資本主義が崩壊の道を辿っているといえるかもしれず、既に共同体の問い直し、回帰が起こる兆しが方々に出ている。
今後、アドラー心理学の共同体感覚という発想がさらに重要になってくる可能性は高いと思われる。
その際は、既存の共同体に適応することが共同体感覚の獲得とは限らないことに留意する必要がある。
未だ現れていない共同体を模索すること、なければ創造し、自分に合ったところを主体的に選択することが大切な発想となろう。
また、そのような未来のことではなく、現行の社会の中でも、実践者の数こそまだ少ないがアドラー心理学の「威力」は既に発揮されている。
私の師匠の岩井俊憲氏は企業研修・経営コンサルタントのプロであり、アドラー心理学を使って激しい競争の研修業界で何十年も生き抜いているし、実際多くの企業や団体が助けを求め、エネルギーをそこから得ている。
逆にいえば経営者や管理的立場にいる人は、売り上げや数値だけでは人も企業も育たないことを直感的に理解しているのかもしれず、アドラー心理学的なものを求めているのかもしれない。
実際大前研一氏のような「アドラー贔屓」をはっきり言明している人もいる。
企業だけでなく、さらに結果重視のはっきりしたトップスポーツの世界でも、アメリカのアドラー心理学大学院で学んだ平本相武氏が選手たちにコーチングをしてめざましい成果を上げている(柔道金メダルの石井慧選手や早大ラグビー部中竹監督など多数)。
適切な例えかわからないが、社会を戦場に見立てれば(やはりそういう面は否定できない)、教育は優秀は兵士を育てる場、臨床は負傷兵や帰還兵をケアする場であり、企業研修やコーチングは戦場に出向いて現役兵士に戦い方を教える場ともいえる。
それら人間社会の全ての領域にアドラー心理学をバックした実践が役に立つ可能性が高いことは、もっと注目されてもよいと考えている。
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October 10, 2009
秋の学会自主シンポジウムのレポートが終わったところで、その討論の時に出た質問に対する私なりの考えをしばらくここに述べたいと思います。
教育、心理臨床両学会共、とても活発に質問が出されて議論が行われ、改めてとてもありがたかったと感じています。
しかし、限られた時間の中で、私に向けられたものに十分に考えて答えることができなかったり、どうしても言葉足らずのところがあったので、改めて検討してみたい気持ちがあります。
ここにあげる質問内容は、指定討論者の先生やフロアの先生がお出しになったものを、私の記憶で再構成したもので、それに対する答えも他の先生がおっしゃったものもありますが、私が同意したものとして私の理解を通して載せますので、誰が言ったとかではなく、全て私の自問自答的なものとして書かせていただきます。
アドラー心理学の課題や将来について、議論のネタの一つになればいいと思っています。
Q.アドラー心理学では未来の目的論から考えるということだが、例えばADHDは器質的な問題といういわば「過去に生じた原因」が想定されている。アドラー心理学ではこのような問題にどのように考えているのか?
一般の心理学の原因論とアドラー心理学の目的論を表裏のようにして統合させて説明することはできないか?
A.アドラー心理学でも器質的な影響があることを受け入れている。むしろ、歴史的に全てを「内面の問題」「親子関係の問題」など心や対人関係に原因を帰そうとしていた臨床心理学とは最初から一線を画していた。
「全体論」「器官劣等性」という基本前提や概念が、そういう器質や身体性の次元の重要性を持つことにつながっているのだろう。
しかし、その器質的な特徴を持っているからといって成長して機械的にその子がADHDになるとは、アドラー心理学ではけして考えてはいない。
大事なのは、そういう器質に対して、その人がどのように態度決定をしたか、その主体的決断(意識的にせよ無意識的にせよ)があると措定して「信じて」いるのがアドラー心理学である。
これを「ソフト・ディターミニズム(柔らかい決定論)」と呼ぶ人もいる。
初期のアドラー心理学では「劣等感の補償」と呼ぶ現象である。
あるいは多動性や衝動性として現れる自分の体の特質という「ライフタスク」の問いかけにどう応えるかという問題といえるかもしれない。
その主体的態度決定の結果、ネガティブな行動がなされると、診断的カテゴリーではその子がADHDと診断されることになったりするのだろう。
アドラー心理学のライフスタイル類型でいうと、ADHD的な人全てが「エキサイトメント・シーカー(興奮を求める人)」になるわけではなく、「ドライバー(一位を目指す人)」や「ベイビー(依存的な人)」にもなり得るし、選択の可能性は限りなくあるといえる。
したがって、生物学的原因論とアドラー心理学的原因論は質問にあるように、「個人の主体性・創造性」を起点にすれば、表裏のように統合することは可能であると思われる。
この点で、最近の臨床心理学のアセスメント論では「生物心理社会モデル」を採用して人の心の問題や症状を説明しようという考え方が優勢であり、アドラー心理学とほとんど重なるものである。
ただ、そこに「未来志向性・目的・目標の最重要性」は取り入れられておらず、それぞれの領域の所見をただ図式的な構造としてつなげているだけであるように見える。
それは認知行動療法のような最新のモデルは、あくまで近代科学的因果論に基づいているが、アドラー心理学はあくまで現象学的、個人の主観的な視点を中心においているためと思われる。
しかし、ただいまブレイク中の脳機能学者・苫米地英人氏の主張では、最新の認知科学や哲学でも「目標の最重要性」「時間は未来から現在、過去へ流れている」という考えが説かれているそうで、確認はしていないがそうであるなら、もしかしたらここでもアドラー心理学の視点は今でも世界を先取りしているといえるのかもしれない。
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October 05, 2009
アドラー心理学に関する学会自主シンポのレポートについては以上ですが、今回この企画を打ったことで、思わぬ出会いがありました。
我々以外にアドラー心理学を研究している人たちがいて今回登場していたのです。
何たる偶然、いやシンクロニシティーか?
今回の心理臨床学会のポスターセッション(壁新聞のようにボードに研究結果をまとめた紙を貼って、来場者に見てもらい、ディスカッションしたり情報交換するもの)で、勇気づけについての研究を発表している方がいたのです。
浅井健史先生(立教大学)、箕口雅博先生(立教大学)のお二方。
自主シンポの会場に聞きに来てくれ、終了後に挨拶して下さいました。
何でも箕口先生はコミュニティ心理学の大家らしいですね。やはりシンポに来てくれた知人が先生の講座を受けたことがあるらしく、教えてくれました。
そんな方がアドラー心理学に興味を持っていたとは。
でも確かにアドラー心理学の視点は、明らかにコミュニティー心理学に通じるものがあります。しっかりと注目してくれていたのはさすがだと思いました。
先生たちが今回発表したのは
「「勇気づけ」が生じるプロセスの研究-生活場面における「勇気づけられた経験」の回想から」
勇気づけとは実際どのような体験のことをいうのか、どのようなコミュニケーションのことであるのか、質的研究法(ここではKJ法を使用していました)で明らかにしようとしていました。
研究の目的や意義として、いただいた資料には、
①アドラー心理学における勇気づけ概念の精緻化と実践の質的向上につながる。
②メンタルヘルス専門家が勇気づけという事象を深く理解することで、関わりのバリエーション拡大したり、有効性を高めるための基礎資料となる。
③教育・育児をはじめ、さまざまな場面におけるコミュニティ成員間の相互援助を促進したり、効果的な心理教育を行うための基礎資料となる。
とあり、その結果は「1勇気づけのもたらす関わりの態様。2勇気づけのプロセスに関するモデルの生成」にまとめられていまいた。
とても理解しやすく、これから私が勇気づけについて考えたり、説明するときに是非参考にしたいと思います。
今回の自主シンポジウムで学んだことは、やはり何か動いてみて、やってみれば、意外な広がりが生じるものだ、ということです。
細々やってきた私たち自身も勇気づけられました。
浅井、箕口両先生、ありがとうございました。
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October 03, 2009
3人目は私の番で、「児童福祉臨床におけるアドラー心理学の活用」で、内容は前日の教育心理学会とほぼ同じでしたが、アドラー心理学の概論の部分はなくて、もっぱら子どもの臨床に技法面から語ることにしました。
アドラー自身も子どもの教育、臨床に関心が深く、その後継者たちも同様の志向性を持っている人が多かったので、アドラー心理学100年の歴史の中で、子どもや家族へのアプローチには大変洗練されたものがあります。
その一部として、ライフスタイルアセスメントや「不適切な行動の4つの目的」などを簡単に紹介させていただきました。
会場には児童相談所にお勤めの児童心理司さんもいらして、終了後関心を持ってくれて挨拶を交わすこともできました。
そして、最後に八巻秀先生(駒澤大学/やまき心理臨床オフィス)。
テーマは「臨床思想としてのアドラー心理学」
この先生も私の兼ねてから尊敬する「臨床の達人」の一人でありました。システム論、家族療法、ブリーフセラピーがご専門で、実は私が初めて催眠を学んだのは、何年も前のこの先生の講習会ででした(催眠医学心理学会にて)。だから私にとっては「催眠の師」になります。
八巻先生のことを私は長年ブリーフや催眠の大家だとばかり思っていて、とてもお近づきになれる立場ではないと感じていました。しかし、実はアドラー心理学にお若い頃から深い関心をお持ちだったことをつい昨年知ったのです。
そして今回のご登場。
まさかアドラーでご一緒するとは、人間の縁というものは、わからないものです。
始まると、先生は持ち前の熱く面白いトークが炸裂で、聴衆をぐいぐいと引きつけ、爆笑の連続、そして深く納得させてくれるお話でした。まさに前日の赤坂真二先生なみの面白さです。
先生ご自身は「アドラー派」ではないけど
「自分はアドラー心理学ストーカーです」
と笑顔で話され、大学生の頃野田俊作氏が当時紹介していたアドラー心理学に触れて衝撃を受け、ヒューマン・ギルドの基礎講座も受講されたそうです。
その後自らの臨床の道に邁進されながらも、つい何かの時には気がつくとアドラー心理学に還ってくる思いがするとおっしゃっていました。
その内容は、ここで書くのはちょっともったいない、というか、がさつな私の要約では味わいがないし、うまく伝わらない。
是非、いつか先生にはこれを種に、一文をものにして世に問うてほしい、と思いました。
ごく簡単に私の理解でいうと、我々臨床家が最も大切にすべきなのはアドラー心理学の持っている臨床思想、つまり、カウンセリングやセラピーの究極目標は「共同体感覚の育成」であり、他者への関心と貢献への決心を育てることだという考えです。
ここ数十年の心理臨床学の技法面の進歩は確かにめざましいものがある、しかるに思想面はどうだろうか、そこに疑問を持たれた先生は、今こそ「臨床思想としてのアドラー心理学の再検討が必要では?」と主張されていました。
全く同感で、百家争鳴の心理臨床の世界で、アドラー心理学が全ての臨床家に貢献できるところは、まさにそこにあると思います。
八巻先生のその具体的な活用の仕方としては、
・「目的論」の採用
・「対人関係論」の重視
・「共同体感覚の意識化」
・「アドラーならどう考える?」という問いをすること
を挙げておられ、実践されてきたそうですが、これこそ私たちが日ごろ心がけなくてはならないことばかりです。
ストーカーどころか、アドレリアンそのものです。
私もそうだけど、臨床家はいくつかの顔を持ちます。
エリクソニアンでアドレリアン、ブリーフセラピストでアドレリアン、そんな人は意外に多いかもしれません。
実際これまでにも「○○やってて、実はアドラーも好き」という人には何人かお会いしてきました。
もしかして「フロイディアンでアドラー好き」もいるかもしれない。ただ仲の悪かったご先祖同士だったので、まさか今さらアドラーを名乗るわけにもいかず(特に恩師やスーパーヴァザーとかの手前)、理論や技法面でほぼ同型のブリーフ・セラピーやナラティブ・セラピーを取り入れた人もいるかもしれません。
それでいいと思います。
とにかく、また楽しい仲間で、強力な応援団を得た思いがいたしました。
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September 30, 2009
熱く燃えた静岡大学の後は山梨にとんぼ返りして、荷物を入れ替えて上京、翌日9月21日は東京は有楽町の東京国際フォーラムへ。
心理臨床学会の自主シンポジウムに出るためです。
日本最大の会員数を誇り、あの河合隼雄や成瀬悟策ら綺羅星のような著名臨床心理学者たちを擁し、80年代後半から臨床心理士を作り出して日本中に売り出した(ばらまいた?)巨大団体。
ある意味ここが私のホームのはずですが、なぜかいつもアウェイ感を感じる学会でありました。
だっていつも独りぼっちなんだもん。
しかし今は違います。
確かに少数なれど志を同じくする仲間がいることがわかり、寂しくなんかない!
そんな実感のできたアドラー自主シンポジウム、今年のテーマは「心理臨床に活かすアドラー心理学-アドラー自主シンポ②」
去年の筑波でのシンポでは時間と場所にも恵まれず、アドラーをやるのは初めてのこともあって参加者数には苦戦しました。なんと4人!
そのためにシンポの先生たちとは
「誰も来なかったら、丸くなって雑談でもしていようか」と軽く話していました。
私から前日の教育心理学会は大成功だったことを報告すると、
「やっぱりアドラーは教育系に強いなあ」
という感想というか嘆きも漏れてきます。
しかし、いざ時間になってくると、少しずつ人が入ってきて、始まる頃には狭い会場が満杯に近くなってしまいました。
結局20人余りが入ったと思われます。去年のことがあったので、小さめの会場を申請したのでしたが、杞憂でした。もっと広くてもよかったか!?
そして始まりました。
トップバッターは、北海道札幌からの参加、青沼眞弓先生(デイケアクリニックほっとステーション)による早期回想を使った心理療法の説明。
アドラー心理学のアセスメントにおける代表的な技法である早期回想の解釈の実際を示してくれました。
治療の期間、例えば最初と終結頃など、時をおいて再度同じ人から早期回想を取ると、その人の心理的変化に対応して回想の内容、ニュアンスががらっと変わっているのはやはりとても興味深かったです。
人間の記憶と認知の不思議に感じ入ります。
記憶、とりわけ早期回想と呼ばれる過去のエピソード記憶は、「過去の事実」ではなくて「今の解釈」の投影なのだということがわかります。
その持ち前の積極性とスライドの内容から、青沼先生は当日の打ち合わせでいきなりトップバッターに決まって、しかも「予想」と違って満員の中での発表で内心大変だったと思いますけど、お疲れさまでした。
おかげさまで良い流れが作れたと思います。
その後には、本シンポジウムの企画・司会という大役を務めて下さった鈴木義也先生(東洋学園大学)。
いつも柔らかく優しい雰囲気の先生は、実は私は、内なる志に熱いものを秘めている方のようにお見受けしておりました。何年か前のワークショップで一緒にランチをさせていただいたときに、アドラー心理学の現状と課題について話し合ったことがありました。その際、
「いつか心理臨床学会で、自主シンポをやってみよう」とおっしゃって、(その手があったか!)と驚いた私は即、協力と参加を申し出たのでした。
その鈴木先生も自らの臨床実践の報告で、「早期回想の使い心地のよさ」がテーマ。
精神科臨床の面接の中のあらゆる場面で、さりげなく早期回想をクライエントから聞き、そこから深く展開させていく手腕に唸りました。
ドロップアウトしそうなクライエントに対したときや、面接の中で行き詰まったときなどに、ちょっと軽く寄り道するかのようにこんな風に早期回想を使えるとは。
ブリーフセラピーのミラクル・クエスチョンなどが代表的だけど、それまでの面接の流れを断つような技法を使うタイミングってけっこう勘というか経験が要るような気がして、つい構えてしまう人が多いようだけど、先生はほんとうに自然な感じで使えているんだな、と感心しました。
それに比べるとまだまだ私は力業に頼るところがあるな。
鈴木先生らしい力の抜けた、程良い心地よさを思わず感じる報告でした。
具体的にどんな風にしたかは、いつかマスターしたらお伝えできるかもしれません。
しばし、お待ちあれ。
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September 28, 2009
その内実はともかく長いことアドラー派を気取ってきた私ですが、ただ一つよくわからないこと、実感できないことがありました。
それは、クラス会議です。
アドラー心理学に基づいたクラス会議の有効性は、多くの仲間や本から知っていましたが、個人や家族のある意味チマチマしたカウンセリングばかりしてきて、よくても数人のグループを扱ったくらいしかない自分には、3,40人も子どもたちがいる学級を仕切ることがどういうことなのか、まるで想像できませんでした。
いや、私だけでなく実際多くの親御さんや学校外部の人たちは、あれだけたくさんの子どもたちを扱うことがどれだけ大変なことか想像できていないで、勝手なことばかり言っていると思います。
内田樹さんじゃないけど、「先生はえらい」のです。
そんな無知な私に強烈な一発を放ってくれたのが、今回の自主シンポ、3人目に登場の赤坂真二先生(上越教育大学)でした。
テーマは「勇気づけの学級づくり」。
元々小学校の教員だったそうですが、アドラー心理学のクラス会議に関心を持って、(会沢先生が訳された本「クラス会議で子どもが変わる」がきっかけだったらしい)独自に研究し、実践を繰り返し、大成功、新潟の崩壊学級をいくつも再生させて、アドラーのクラス会議の実践者として名を馳せたようです。
山梨のアドラー仲間の小学校教諭でやはりクラス会議を実践しているS先生から、
「あの先生はすごい、感動ものだよ」と聞いていたのでお会いできる日を心待ちにしていました。
ほんとにすごかった。
始まるなり、満員の聴衆の気持ちを引きつけ、爆笑の連続。
大体学会の参加者は、半分は好奇心だけ、いや欠点探しのような意識で来る人が多いのに、そのような人たちをを引きつける力量はすごいと思います。
こんな先生なら、子どもたちは心の底から勇気づけられるでしょう。
今の子どもたちは、「集団成立の危機」の時代にいる、と先生は言います。個別の支援の必要な子供が増加し、未熟な社会性と精神的な弱さ、自己判断が苦手、圧倒的な自信のなさ、といった特徴があり、クラスは容易に崩壊してしまう。
そんな子どもたちに、いきなりみんなで話し合い、問題解決を目指すクラス会議は無理と赤坂先生は考え、さまざまなその下ごしらえ、基礎づくりを施していきます。その過程、「会話量を増やす」「尊敬の授業」、ふわふわ言葉やチクチク言葉といった「ことばの力」の授業など、魅力的で楽しい授業風景が浮かび上がるような説明と描写でした。
私も「なるほど、共同体感覚を育てるクラス会議とはこういうものか」とそれまで曖昧だったものがくっきりとイメージされるようになりました。
私がクラス会議について無知だったのは、子ども時代にそのようなクラス会議を体験してこなかったので、想像できなかったためなのだと思い至りました。
人は体験できないものは想像しにくい、その未だ現れていないクラス共同体をこの世に現出させた赤坂先生の努力に敬服しました。
赤坂先生は年は私と同じくらいですが、おっさん化した私と違って実に若々しく、エネルギッシュです。
新しい世代のアドレリアンの誕生を眼にしました。
ブログもしていますよ。元気と勇気は誰でも出せる-shinjの日記
その後シンポジウムは栗原慎二先生(広島大学)の指定討論の下、質疑に入りました。興味深いやり取りがそこでもあったのですが、この学会シリーズの最後にでもまとめて取り上げたいと思っています。
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September 27, 2009
私の後に登壇したのは、原田綾子先生(Hearty Smile)による「親支援とアドラー心理学の有効性」。
私の学ぶヒューマン・ギルドでの「ご学友」でもあり、最近売り出し中の親支援リーダー、講師でもあります。
元々小学校教師だったそうで、勇気をくじかれたお母さんたちへの支援の必要性を感じて退職、アドラー心理学に基づいたペアレント・トレーニングSMILEの講座を中心に活発な活動を展開しています。
ステキなブログもしていて、今回の報告もしてくれています(私の写真もあるよ)。
しかも今回は何と8ヶ月の身重の身、
「緊張しているので2人でここに来ました。もう一人はここにいます」
と大きなお腹を指してました。
心配してたけど、よく来てくれました。
「問題行動を起こす子どもとは、勇気をくじかれた子どもであり、その背後には勇気をくじかれた親がいる」
そのことに気づいた原田先生は親支援の重要性に目覚め、仕事を辞め、「母親こそ勇気づけ!」と「母親に子どもの『よさ』を伝える」「母親の話から『目的』を探る」「母親に寄り添う=味方になる(共同体感覚)」など、アドラー心理学に基づいた、具体的で明るく、勇気づけに満ちた関わりをしていきます。
具体的なエピソードと写真を交えて話してくれ、その場のイメージがわいてきました。
私は原田先生の明るさや「花」を知っているので、余計に楽しい雰囲気が伝わってきました。
アドラー心理学の特徴として、いわゆるアカデミズムになかなか知られない代わりに、お母さんを中心にした民間の自主・自助グループや教師たちの学習会などが熱心に活動して支えてきたというユニークな歴史があります。
心理学者や臨床心理士のような専門家だけでなく、一般の人たちに大きく開かれた「知の共同体」を形成してきたことが最大の強みだと思います。
今後はそういう地道な地域の活動と、会沢先生や後に述べる心理臨床学会の諸先生方のような専門家との活動をつなげていくことが課題になると思われます。
とても意義深い発表だったと思います。
そして、最後にすごい人が登場しました。
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September 26, 2009
9月21日午前9時30分より、静岡大学にて、教育心理学会総会2日目、待望の自主シンポジウム「アドラー心理学による子ども・家庭支援」が開かれました。
去年の心理臨床学会でやった自主シンポの流れを受けて、会沢信彦先生(文教大学)より、「今年は教育心理学会でもやろう」とご提案があり、実現となったものです。
どうせアドラー心理学なんて誰も知らないし、関心を持たないだろうからと
「目標は10人参加ね」
と会沢先生と言い合っていたのに、蓋を開けてみると、時間が迫るにつれぞろぞろと人が教室に入ってきて、どんどん席は埋まっていくではないですか。
用意していた資料はなくなりコピーに院生に行ってもらわねばならず、最終的には60人を越えたようです。
ビックリです。
一体どうしたことでしょう。
そんな戸惑いの中(?)、シンポジウムは始まりました。
まず会沢先生の趣旨説明の後、私がトップバッターでテーマは「児童福祉臨床とアドラー心理学」。
会場はおそらく初めてアドラー心理学を知る方も多いと思われたので、前半は参加者のためにアドラー心理学の概要の説明の役割を果たし、後半は長年経験した児童相談所での活用の実際を、心理診断とライフスタイル診断を絡めての報告をしました。
限られた時間の中で言いたいことはいっぱいあるので、思わずいつもながらの早口になってしまいました。
話の中でも触れましたが、アドラーは第1次世界大戦後のウィーンで、世界初の児童相談機関を立ち上げ、最盛期には30カ所にもなったといいます。
アドラーや彼の仲間が学校に出向き、子どもや親、教師にカウンセリングを行っていたのです。
ですからアドラーこそ、児童福祉臨床、教育相談の真の先駆者であったことを心理学史は明記すべきなのです(でも教科書には書いてない)。
さて、一気にしゃべりまくった私の後は・・・次回に。
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September 16, 2009
臨床心理士の職能団体、日本臨床心理士会はこの春に社団法人となったとかで、関係者は念願の国家資格化へ一歩前進と喜んでいるようです。
そうかもしれないけど、でも、よくわからないけどそうなのかなあ。
故・河合隼雄氏らの尽力もあって、一般の人は臨床心理士が国家資格だと思っている人も多く、昨今は臨床心理士が増え続け、職域を増やしている中で、法人化でさらにそんなイメージが強化され、既得権益が確立したともいえるわけで、巨大な民間資格団体が公的顔(公的資格という人もいますが)を持っただけに終わる可能性もあります。
いや、むしろ「偉い人」にとっては、下手に国家資格になったら「損」になってしまうかもしれない。
加えて、数年前に日本臨床心理士資格認定協会に抜擢されたのが、あのヤクザのような森喜朗元首相(結局森さんはこの問題について何か仕事をしたのか?)。
小泉内閣の時に文化庁長官になって(させられて)激務に憤死したかのようなのが河合隼雄氏で、けっこう自民党政権と臨床心理士は関係は深かったようです。
ついでに思い出した。
2年前の東京での心理臨床学会であの茂木健一郎氏が講演に来て、早速生で見れると聞きに行ったのですが、河合氏と親しかった茂木氏が、冒頭、
「河合さんは心理の国家資格を作ってやると言われて騙されたんでしょ?」
と無邪気に言って、会場の空気を一瞬凍らせたのでした。
さてさて民主党政権になって、さらに国家資格が遠のいたのでしょうか。
この問題に関する民主党の姿勢がまだよくわかりません。
厚生労働省大臣は長妻昭氏だそうで、年金だけでなく、これにも関心を寄せてくれるのか。
精神病院に勤務するようになって、ほんと、この医療の世界では心理職だけが資格のない状態というのは不健全だと実感しております。
児童相談所にいたときは別にいらなかったし、以前国家資格論議に参加したときと同じく、今でも「心の専門家」に必ずしも国の免許はいらないと思っているけど、「病院での心の治療家」だけは早く資格化してほしいと願っています。
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July 19, 2009
博覧強記で知られる評論家・立花隆氏の趣味は「勉強」らしいですが、私も勉強が大好きです。立花氏には遠く及びませんが、できるだけ広範な分野に関心を持ち、たくさんの知識や技術を身につけたいと思っています。
でも世の中には、勉強の嫌いな人も多いらしいです。というか、臨床的に出会う人たち、子どもやクライエントさんたちの多くが、勉強というものに滅茶苦茶ディスカレッジ(勇気くじき)されていて、「本を見るのもイヤ」と感じていたり、「なんの役に立つんだ!」と開き直って主張します。
「勉強しないなんて、なんともったいない」と思いつつ、彼らの境遇や生い立ちを聞くと仕方ない部分もあると納得はできます。
しかし、やはり勉強はしなくてはならないし、本来とても楽しいものです。
実際勉強が嫌いという子どもたちだって、ゲーム・コントローラーの複雑な操作やロールプレイゲームの世界観、車やバイクの構造の理解などの「学習」はお手のものです。
誰だって「学ぶ意欲」はあるはずです。
それを心理学的には動機づけといいますが、自分を、人を動機づけるにはどうすればいいか、そもそも動機づけとはどのようなことかを専門的に、わかりやすく解説してくれている本があります。
「学ぶ意欲の心理学」市川伸一著,PHP新書
教育心理学、学習心理学では学ぶ意欲をどのように捉えているのか、どのような考え方、態度でそれを育てていけばよいのかを丁寧に教えてくれる良書です。
前々記の「パーソナリティー障害」と同じく、ヒューマン・ギルドで薦めていたので買ったのでした。
本書にはどちらかというと、「学ぶこと自体が楽しい」といったある行動を自己目的に求める内発的動機づけ重視の著者と、外から与えられる報酬のための手段として学ぶ外発的動機づけを重視する教育評論家で精神分析学者の和田秀樹氏や、教育社会学者の苅谷剛彦氏との対論が収められていて、教育心理学とはやや異なる立場との対話を通して立体的に動機づけについてわかるるようになっています。
内容をかいつまんで紹介したいけれど、今自分に時間的にその余裕がないので、是非直接読んで下さいね。
ちなみに著者は、何が何でも内発的動機づけでいくべきだなんていっているわけではなく、報酬志向や実用志向といった外発的動機づけも大事だし、そこから内発的動機づけへと向かうことを目指す、バランスの取れた見方を重視しています。
「動機づけの二要因モデル」と著者は名づけていますが、なかなか役に立ちそうです。
教師はもちろん、スポーツや武道の指導者とか研修講師、組織の管理職とか、何らかの学習活動に携わっている人には大いに参考になると思います。
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July 05, 2009
こんな歪んだ社会に生きていれば、誰でも多かれ少なかれ人格、性格、パーソナリティーと呼ばれるものが歪んでも仕方ないような気もします。
私もあなたもね。
だけど広い社会には、普通の人以上にその「歪み度」が極端になってしまった方がいます。
物事を狭く、あるいは極度に大きすぎる幅で見てしまい、決めつけ、人を巻き込み、自分も混乱してしまう人たちです。
臨床的にはパーソナリティー障害といいます。
精神医学者や心理臨床家の中には、このパーソナリティ障害の「病理」に取り憑かれて、詳細精緻な理論を打ち立てて(得々として)いる人も多いですねえ。
あるいは反対に、「あの人(クライエント)はパーソナリティー障害だ」と思うと変に緊張して、反射的に遠ざけようとする人もいます。
きっと過去に振り回されたり、いやな思いをしたのかもしれません。
「パーソナリティー障害」岡田尊司著,PHP新書 は、専門家も学生も一般の人もこのような人たちを理解するのに格好の一書となってくれそうです。
アドラー心理学の学舎、ヒューマン・ギルドの書籍売場にあったのを見つけて、ここで薦めているのだから面白いかもと思って買ったら、当たりでした。
境界性、自己愛性、演技性、反社会性、妄想性、失調型、シゾイド、回避性、依存性、強迫性といった各パーソナリティー障害について「特徴と背景」でその具体的な行動、思考パターンや困ったところを説明し、「接し方のコツ」でどのように彼らと接すると良いか、「克服のポイント」で当事者の彼ら自身がどのように自分の問題と付き合うと良いかをポイントを絞って説明してくれています。
けっこう親切な本で、私は知らなかったけど著者は作家でもあるらしく、描写力があって、とてもわかりやすい。
例として、ウィノナ・ライダー、サルバドール・ダリ、ココ・シャネル、ロダンとカミーユ・クローデル、マーロン・ブランド、チャップリン、ユング、キルケゴールなど著名人が何人も挙げられていて、「なるほど」と納得します。
逆にいうとこれは障害や病気というより、才能、リソースでもあり得ることがわかります。
ちなみに本書によると、著者は医学に進む前、最初に哲学を学び、大学時代二年ほど引きこもっていたそうです。そういう経歴の異色さによる面白さは随所にうかがえます。
パーソナリティーはアドラー心理学では「ライフスタイル」という独特な言葉や意味を込めて言い換えて使っていますが、結局彼らはいわゆる「病気」というより、「自己と世界の認知構造」「人生の運動の線」がブレ具合、外れ具合の振幅、固さの問題なのだと改めて思いました。
本書では巻末に「パーソナリティー自己診断シート」がついて、自分で「パーソナリティー障害度」をチェックできます。
ちなみに私は、「自分大好き人間」自己愛性パーソナリティー障害でした。わかっていたさ、フン。
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June 02, 2009
5月30,31日、ヒューマン・ギルドでの「ナラティブ・セラピー入門」に参加。
最近の心理臨床界のキーワードはエビデンス(科学的根拠)とナラティブ(物語性)、両者を知らないと時代に乗り遅れてしまう、という雰囲気があります。特に、エビデンス・ベースドはモダン科学主義なのに対して、ナラティブ・セラピーは、ポストモダン思想、とりわけ社会構成主義に基づいているだけに、私には興味がありました。
しかし、いわゆるブリーフ・セラピー、ソリューション・フォーカスト・アプローチは技法重視で学びやすいのに対して、ナラティブ・セラピーは物語とか協同性とか魅力的な概念、考え方が目立つものの、本を読んで分かった気になっても、さて、実際どうすればいいのかとイメージしにくいところがありました。
だから今回はナラティブ・セラピーを実践している方から学ぶチャンスとなりました。
講師は、生田倫子先生(慶應義塾大学)。
若手ではありますが、既に家族療法、ブリーフセラピーで数多くの論文、著書を出しており家族療法の総合サイト、家族心理COMも主宰されている心理臨床界では有名人であります。
しかも美人。
これは行かねば。
ナラティブ・セラピー、社会構成主義のあれやこれやをここで短く論じることはできませんが、本ブログでも関心を持った本などを紹介してきました。「妖怪セラピー」、冬休みの課題
ナラティブ・セラピーの成り立ち
・ナラティブ・セラピー(Narrative Therapy)の「ナラティブ」とは物語という意味。
・よって物語療法とも呼ばれる。
・家族療法を起源とし、オーストラリアのホワイトとエプストンによって提唱された。
ナラティブ・セラピーの狙い
・ナラティブ・セラピーでは、「問題」をシステムの構成員によって社会的に構成された現実、つまり「物語」であると捉える。
・それを新しく生産的な「物語」に転嫁すること、これがナラティブ・セラピーの狙いである。(当日資料)
生田先生はとても切れ者で、博学、哲学の認識論から家族療法・ナラティブ・セラピーの理論へと進み、さらに綺羅星の如く輝く家族療法家たちの歴史へと説明を組み立てていく姿は、まさに一流の研究者の風情で圧巻でした。
頭がいい人っていいな。
ベイトソンの認識論など、私が若き日にはまった思想家の話など実に面白くてもっと聞きたかった(知らない参加者にはきっと訳の分からない話だったでしょうけど)。
しかし臨床家としても一流なのは、事例や技法を紹介、実習するときの動き方でうかがえました。
特に先生が臨床現場としてきたのは養護施設や荒れた学校のスクールカウンセラーだったそうで、私のフィールドとほとんど重なるので、話が通じやすかったです。
今回技法として学んだのは、ナラティブ・セラピーの表看板、外在化。
問題をトラウマとか性格とか衝動性とか攻撃性とかといった「心の中のあるもの」として扱うのではなく、それにユニークな名前をつけ、キャラクター化して「外側にあるものとして」取り出し、それとどう付き合うかを考えてみるものです。
読んだだけではわかりにくいでしょうが、実習してみると実に簡単で効果的で面白い!
私は自分のある問題をイメージしたら、ずんぐりむっくりした大きな狸が丸くなって寝ている姿が出てきて、それに「ズンくん」と名付けて、ズンくんとどう付き合うかをカウンセラー役の方と話し合いました。
それがすごく楽しくて、良かった。
コツはつかんだから、今度やってみよう。
以前から感じていましたが、ナラティブ・セラピーはアドラー心理学の考え方とほとんどピッタリ重なるもので、両立可能なだけでなく、さらにお互いをパワーアップさせる可能性があると今回確信しました。
今後も学んでいきたいと思います。
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May 30, 2009
発達障害の援助で効果的なRDIの考え方で、私がなるほどな、と思ったのは、人間の知能・知性のモードは2つあるとしたことです。
スタティック・インテリジェンスとダイナミック・インテリジェンスです。
スタティック・インテリジェンスとは、固定的な知識や行動パターンの蓄積や、それらをコピーのように再現・反復する能力のことで、より具体的には、知識や概念操作、ルール、特定の課題に対する特定のスキル、マニュアル的行動などを意味します。
教科学習や知能テストのような課題には有効で、変化のない状況での問題解決には役立ちます。
ダイナミック・インテリジェンスとは、、絶えず変化する複数の情報、同時に生起する情報を処理する能力で、複雑な現実の生活や対人関係の中で問題解決し、学習するのに必要な能力のことです。
ものごとを多面的、多方向から見る能力であり、獲得したスキルや知識を実際の状況に柔軟に応用することには不可欠な力といえます。
また経験の共有や共同作業につながる能力でもあります。
どちらも人間には大切ですが、とりわけ、今の複雑・高度化した社会ではダイナミックに複雑な刺激、情報を処理することが求められているので、ダイナミック・インテリジェンスの不調、欠陥は大きなハンデとなります。
特に自閉症、アスペルガー障害の人は、このダイナミック・インテリジェンスの発達が何らかの生来的な脆弱さのために阻害され、やむを得ず、生きるための適応戦略としてスタティック・インテリジェンスの使用に頼ってしまう、偏ってしまう状態と容易に想像がつきます。
彼ら特有の極端な収集癖やこだわり、関心のあるものの名前を覚え続けたり、決まり切ったパターン的な順序や生活にこだわる、驚異的な記憶力は、その現れでしょう。
しかし、SST(社会生活技能訓練)などで、トレーニング場面でのパターン的な挨拶や断り方などやり方を覚えても、いざとなった日常生活では、全然うまく使えない、応用が利かない、つまり般化しないという話はよく聞きます。
スタティック・インテリジェンスしか使えていないからです。
スタティック・インテリジェンスをいくら伸ばしても、ダイナミック・インテリジェンスを伸ばすことはできないとRDIは考えているようです。
よく発達障害教育・臨床でいわれる「本人の得意なところ、良いところを伸ばしましょう」は、短期的な目標達成には良いけれども、本質的な解決にはなり得ないのです。
むしろ、自閉児の強さ(知識・パターン・スキルの蓄積)を強調し、それを伸ばそうとすることは、彼らの発達・能力の偏りを強化、増やしてしまうと考えられます。
難しいところですが、たくさんの発達障害児に会ってきた身にとっては、とても納得のいく話でした。
そして、アドラー心理学でいう共同体感覚は、このダイナミック・インテリジェンスの働きが関わっているのではないかと思いました。
高度な協力の姿勢、状況判断が求められるからです。
発達障害児とは、共同体感覚の発達において、ハンデを背負っている人たちといえるかもしれません。
では、ダイナミック・インテリジェンスを伸ばすにはどうしたらよいか、これがRDIの眼目ですが、私にもまだ十分に学べていません。ヒントは得ましたが、これから、さらに学びを進めていきたいと思っています。
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May 24, 2009
自閉症、発達障害への理解、支援方法は年々進歩して、特別支援教育を中心に広まっています。もう専門家では「母親の育て方が原因だ」などという人はいないだろうし、単純な受容や、好きなように子どもに遊ばせるだけのプレイセラピーでは絶対良くならないことも周知のこととなりつつあると思われます。
これからは応用行動分析学(ABA)の詳細で丁寧なアプローチを取れることが、専門の教員、カウンセラーには求められるでしょう。
逆にいえば、それを使いこなせなければ、「役立たず」と本人や家族に指弾されることになりかねません。
アメリカではABAが一大産業というと大げさかもしれませんが、他のアプローチではなく、ABAには州がお金を出すなどの権限を獲得し、大きな勢力となっていると聞きます。
しかし、そのABAにしても「自閉症を治す」ことはできない。
せいぜい「少しでも暮らしやすくする」「障害と共に生きる」「アスペルガーとして生きる」といった考え方でいかざるを得ないでしょう。
「自閉症の文化に私たちが近づく」といった言い方をした高名な先生もいました。
発達障害という特異な認知の世界に生きる人を理解するには、それも大切な姿勢でした。
しかし、RDIは違うようです。
生きにくい発達障害者が生きやすくなるのではなく、つまり「良い発達障害」をモデルにするのではなく、ごく普通の子ども、いわゆる定型発達をモデルにしているといいます。
定型発達がモデル:「どうしたら、大きな困難と試練を抱えた(自閉症の)子どもたちを(定型児と同じように)育て、発達させられるか」がメインテーマ。
障害の特性を理解し、それへの対処法や補償的援助を工夫するだけでなく、
自閉症の中核症状領域における(段階的・個別的支援による)発達のやり直しによって、定型児と同じような「情緒的、社会的、認知的な能力」、その基盤となるダイナミックな「脳の情報処理・神経ネットワークの構築」めざすこと
これはすごく大胆な発想であり、挑戦であると思います。
よくいわれる「自閉症の強さ」にアプローチすること、つまり視覚的な情報処理の強さや記憶力の良さ、知識の蓄積能力を利用しようという姿勢は、本当の意味で彼らをよくすることにはつながらない。
むしろ「弱さ」に焦点を積極的に当てるべきだ、という従来とは真逆の発想があり、それを知った私には改めて目からウロコ、でした。
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May 20, 2009
ここのところ4月以来の疲労がたまっているようで、日常生活でちょっと気力が湧かない。
でも、学びたいことがあるとどこへでも行きます。
5月17日(日)には名古屋へ。
自閉症、アスペルガー障害などの発達障害への新しいアプローチとして、一部の人の注目を集めているRDI(対人関係指導法)の概要を学びに行きました。
いち早くアメリカでRDIを学び、日本最初のRDI認定コンサルタントになった白木孝二先生のオフィスNagoya Connect & Share に行ったのです。
白木先生は先年まで児童相談所や障害児の療育センターに勤めていた方で、ブリーフ・セラピーの代表的学派、ソリューション・フォーカスト・アプローチ(SFA)を日本に紹介した一人でもあります。
RDIについては私も興味関心を抱き、杉山登志郎先生翻訳の本邦初の翻訳書や学会の短時間のワークショップ体験を本ブログでも紹介しましたが(RDI対人関係指導法、学会WS・RDIを学ぶ)、なかなか実際の姿は分かりませんでした。
それはアメリカ・ヒューストンのRDIの総本部が、かなり資格制度と著作権に厳しい姿勢をとっているのと、日本にはまだ資格保持者が3人しかいないためのようです。
しかし、学んでみると本当に良い内容ばかりで、今後是非日本に広まってほしい療育、相談援助技法だと思いました。
現在特別支援教育や発達障害援助の主流であるTEEACHや応用行動分析学にできないところを補う力があると思います。
ただ具体的内容の多くはここでは語ることはできないので、公開されていて差し障りのないと思われる範囲で、基本的なところを紹介したいと思います。
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April 12, 2009
前記の研修会での「実践的老荘思想の立場として」の廖赤陽氏の発言のメモを覚えに記します。
廖氏は、中国から1988年東京大学に入り文学博士を取得、アジア文化研究所などで「華人の研究」などをされただけでなく、気功法の実践・普及を行い、無為気功養生会を主宰されています。
廖氏は、「気功の経験がないと老荘は理解できない」と言い切ります。
長い間老荘思想は、研究者が字面を追って、「テキスト読解」を繰り返した歴史ばかりだけど、その「研究成果」を読んでも何が書いているのかさっぱりわからない。
気功を行い、身体で老荘思想を実感しなければならないということのようです。その例を実際の老子のテキストを気功的に解説してくれたのですが、一見難解な老子がとてもわかりやすく感じられました。
その内容を、最近「気功で読み解く老子」(春秋社)という本で著したそうなので、いつか読んでここでレビューしたいと思います。
気功・中医から見た「引きこもり」-「情志養生」と「臓腑弁証」
気功・中医学は、人間の精神・情緒を「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」という七種類に分けて七情と呼び、七情は五臓より化生したものと見られ、その対応関係は心(喜)・肝(怒)・脾(憂・思)・腎(恐・驚)である。このような精神と身体の相互作用は、主に五行というシステムの相生(促進)、相克(抑制)のメカニズムによって調節されている。このような視点から引きこもりのケースに即して分析することが、本報告の試みである。(当日資料)
心の問題であっても、心理過程のみを取り出すのでなく、あくまで身体の臓器との関連から見ていこうというのが中医学の視点ということです。
例えば、五行の「水木火土金」の相生の理論からすると引きこもりの状態は、水である腎の気が少なく、そのため木である肝の気が不足しイライラし、火である心の気が不足し喜びの感情が少なくなる、といったことが考えられるそうです。
この辺はいわゆる臨床心理学とは大分違いますね。
多少中医学をかじっていた私には予想通りの話だったけど。
しかし廖氏は、「ひきこもりの事態に陥ったら、相当手遅れである」と断言したことが、会場の参加者をビックリさせたようで、
「ショックだった」と質疑で述べる人も出ました。他のシンポジストも「私は気功や老荘思想には素人だから」とうまくコメントできないでいました。
それに対して廖氏は、
基本的に中医学は「未病の治療」をするもの、飲食と漢方で臓器を調整し、「念」で意識を調整し、「観」で意識のあり方を調整するものと紹介されていました。
さらに、「人は変わる」ものなので、診断は常に同じではないとのことでした。
ただ、実際に会うのが難しい引きこもりの人に、気功でアプローチするには、超能力的になるが、念による遠隔治療しかないという考えを示しました。
ここに老荘思想や気功に対して、会場の人たちの中で求めるものの違いがあるように私には思えました。
そこに多くいたと思われる精神分析学や一般のカウンセリング理論を柱にしている臨床家たちは、老荘思想による引きこもり者への「新たなナラティブの可能性」を求めていたのに対して、廖氏は実践的気功師としてあくまで心身技法の面から「どう使うか」という視点でいたように思われました。
その辺がクリアーになると、さらに実りある対談ができたかもしれないと思いました。
とにかく、東洋思想と臨床心理学を何とかして出会わそうとした、主催研究会の決断と努力にエールを送りたいと思います。
ちなみに、休み時間に私は廖氏に挨拶し、児童相談所のこと、長年形意拳などの中国武術をしていることを話したところ、
「そういう体型をしていますね。私は劈掛拳(ひかけん)を学びました」
とおっしゃっていました。
またいつか学ばせていただきたい先生だと思いました。
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April 07, 2009
もう3月末の話ですが、職場に送られてきた開催案内のタイトルに惹かれて、思わず参加してみました。
「老荘思想とひきこもり」
主催は「東洋思想と心理療法」研究会、場所は駒澤大学の大学会館。
テーマもすごいが、こんな名前の研究会があったことも知らなかった。
HPもあって、役員の名前を観ると,、普通の人は知らないだろうけど、けっこう心理臨床界では有名どころが多いみたいです。精神分析学の西園昌久先生、自立訓練法を世に知らしめた佐々木雄二先生、家族療法やロールシャッハ・テストの中村伸一先生、催眠療法の森山敏文先生などなど。
直接は知らないけど、どこかで聞いたような名前ばかりです。
確かにひきこもりは世捨て人的なイメージでとらえれば、神仙思想の仙人や仙道につながるのかもしれないけど実際どんな内容なんだろう?と思いつつ、私も仙人のつくハンドルネームを持つし、気功も心理療法もやるのだから、これは行かなきゃ、といった変な使命感が湧き、参加いたしました。
この研究会はそれなりに歴史があるらしく年に1回開催し、もう11回開催のようです。
プログラムは、
教育講演 「老荘とその周辺」 吉本昭治(吉本医院)
特別講演 「中島敦の文学に見る老荘思想」 ポール・マッカーシ(駿河台大学)
シンポジウム「老荘思想とひきこもり」
演題1 「Egoなしの心理療法は可能なのか?」ジェリー・クスマノ(上智大学)
演題2 「老荘思想と心身実践」廖赤陽(武蔵野美術大学)
演題3 「心が閉じる局面と治療関係-引きこもりケースの精神療法より」近藤直司(山梨県立精神保健福祉センター)
指定討論 西園昌久(心理社会的精神医学研究所)
なかなか固そうな内容です。
ちなみにシンポジストの近藤先生は、顔なじみというより仕事仲間で、山梨県の児童相談所や子どもメンタルクリニックで一緒にケースに当たっていた関係です。
お互い「おお!」と顔を見合わせ、「どうしたんですか?」と聞いたら、ご本人は老荘思想に詳しいわけではなく、引きこもりケースを出すことを会から依頼されての登壇のようで、ケース報告自体は面白かったです。
全体の感想ですが、正直なかなか難しいなあ、老荘思想とひきこもりというテーマがうまくかみ合っていなかったという印象です。
老荘思想の研究者、文学研究者、気功師、医師がそれぞれの立場での報告はあっても、必ずしも両方に通暁しているというわけではなかったので、二つをうまくつなげられなかった、あるいは問題・課題を提示できなかったのではないかと思われました。
むしろ一線の研究者じゃなくて、市井で妖しく老荘思想的文化と心理臨床を実践している人間に勝手に語らせた方が面白かったのではないかな。
誰だそれ?
そう、私です(笑)。
いや、私以外にも何人かそういう心理士、カウンセラーはいるようなので、いつか結集するのも面白いかもね。
それでも中島敦なんて、高校の国語の教科書以来に触れたので、講義のレジメで作品を読んでみて、改めて興味深く、読んでみたいと思いました。
その中で、私が関心を持ったことを次回以降に少し述べたいと思います。
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March 10, 2009
「アドラーに学ぶ」から
勇気を持つために、私たちはどのようなときに自分に価値があると思えるのか。
著者の岸見氏は、まず、自分自身が他者からの評価(あなたは~だ)、期待(~になりなさい)に縛られること(これを属性化といいます)から自由になることが大事であるといいます。
自分のことを他者からどのように評価されるかにとらわれ、よくいわれれば、喜び、悪くいわれれば、悲しんだり憤慨する人は多い。それはおかしいのではないか。他者が自分のことを悪くいえば、自分の価値は、まさにその評価によって下がるのだろうか。そんなことはないだろう。よい、悪いは、他者の評価であって、あらゆる人が同じ評価をするはずはない。・・・・(中略)・・・・
反対のことを考えればわかる。他者が自分を高く評価すれば、私の価値は、そのように評価されたことによって高くなったのだろうか。そんなことはないだろう。他者からの評価によって自分の価値はいささかも下がりもしなければ、上がりもしない。p47
全くその通りです。
ただ、この「評価されたい病」はそれが染みついた人にとっては「分かっちゃいるけどやめられない」ものなんですね。
人の評価から自由になること、人に合わせないように自立するには、勇気が要ります。
自立とは行動面だけのことをいうのではなく、このように、人が自分について持っているイメージから自由になることも意味している。とはいえ、そうすることによって、他者は自分のことをよくは思わないかもしれない。人から嫌われるということもあるだろう。そして、そのことを望まない人はあるだろう。しかし、誰からも嫌われないという人がいるとすれば、そのような人は、嫌われないために、他者が自分について持つイメージに合わせているからである。今いった意味で自立し、自由であるためには、自分のことを嫌う人がいるということは、自分が自由に生きていることの証であり、支払わなければならない代償であるといえる。p49
どうりで私を嫌う人が多いわけだ(笑)。
嫌われ者は、自信を持ちましょう。
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March 06, 2009
ちょっと久しぶりにアドラー心理学関連。
ギリシア哲学と心理療法の実践者、岸見一郎氏の「アドラーに学ぶ」(アルテ)は、アドラー心理学の視点から生老病死を考察したとても奥深い本です。
私も一読して、次々にアンダーラインと付箋を付けていきました。
紹介と自分の覚えのために、そこからしばらく引きます。
よくアドラー心理学は「勇気づけの心理学」といわれますが、では、その勇気とはどのようなときに私たちは身につけることができるのでしょうか。
勇気を持つために
たしかに人生の課題は困難なものであるけれども、それでは、どうすれば解決しうるという自信をもてるようになるだろうか。
アドラーは次のように言っている。
「私は自分が価値があると思うときにだけ、勇気を持てる」(Adler Speaks,p.34)
直面する課題もその解決は困難であるが、それに直面するためには、自分に価値があると思えることが必要である。勇気を持たねばと思ってみたところで、あるいは、勇気を出しなさいといわれたところで、勇気が起こるわけではない。p46
まったくそうで、「自信をもっと持ちなさい」なんて簡単にアドバイスする人がよくいますが、自信や勇気をくじかれた人には、「それを持ちなさい」なんて言われたって、ほとんどなんの意味も効果もありません。
何か別の視点、発想が必要です。
著者は、
アドラーは、自分に価値があると思える時に勇気を持てるという。一体、どうすれば、あるいは、どんな時に、自分に価値があると思えるのだろう。
と問題提起をして、アドラー心理学に沿ったご自身の考えを述べていきます。
一つ一つとても含蓄があるので、勇気について学びたい方は、是非本書を当たっていただきたいと思います。
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January 26, 2009
一時期のブームは収まった感もあるものの、甲野善紀氏が唱え実践する古武術は一般にも知られるようになって、さらに発展を続けているようです。最近は茂木健一郎氏との対談本も出ましたね。
相変わらず精力的に活動されているようです。
その甲野氏は著書や講演等で科学批判的な発言が多くされているせいか、多くの人から氏の古武術や豊かな語りの著作等を「非科学的だ」と批判されているようです。
でも、ほんとうにそう断じてよいのだろうか?
私は甲野氏の本は何冊も読んできました。お会いしたことはないので、氏の武術の実体を映像以外に見たことはないけれども、その術理は私たちの科学観にも大きな意味を与えてくれていると思っていました。
最近、科学論、科学思想の分野で注目されているのに「構造構成主義科学論」というのがあります。
早大出の気鋭の心理学者、西條剛央氏(日本学術振興会特別研究員)が中心になって唱えているものです。
心理学は科学性とは何かが常に問われてきた歴史を持つのですが、そこから出てきた新しい科学論といえます。
心理学の場合は特にそうですが、社会学や教育学、医学など多くの「人間科学」には様々な形の深刻な「信念対立」があります。
「私の学派、理論こそが正しい(あの学派は間違っている)」「あの心理学は非科学的だ(これこそが科学だ)」等々。
関係者はお互いに批判し合ったりして、みんな心当たりがあるはずです。
そのような諸学問間の信念対立をどのように考え、解消したらよいかの理路を提供するものとして注目されているのが構造構成主義です。。
構造構成主義(こうぞうこうせいしゅぎ、英語表記:structural-constructivism)とは、人間科学における信念対立を超克し、建設的コラボレーションを促進するために西條剛央によって体系化された最先端の現代思想である。構造構成主義の思想的源流には、フッサール−竹田青嗣の現象学、ソシュールの言語学、丸山圭三郎の記号論、池田清彦の構造主義科学論、ロムバッハの構造存在論がある。(Wikipedia)
何だかとても難しそうですが、西條剛央氏の「構造構成主義とは何か」(北大路書房)を読むと、科学を巡る現代思想や心理学など諸学問の歴史や課題、氏の提唱する構造構成主義についてとても明確に述べられています。
その中で「構造構成主義による甲野善紀流古武術の基礎づけ」という一節があり、甲野古武術の「科学性」が論じられています。
西條氏は、甲野氏の発言がなかなか科学的と思われない現状を批判して、
こうしたことから、甲野善紀の古武術を学的に基礎づけるためには、新たな学問体系が求められるといえよう。
私は構造構成主義こそ、甲野の指摘する新たな学問の体系の礎となりうると考える。甲野の根本的な態度や考え方は、構造構成主義と高い類似性がみられる・・・・。
と述べています。
甲野氏がいくら類い希な高度な技を衆目の前で披露しても、その価値を認めず、インチ扱いをする態度こそが、まったく非科学的であるといいたいようです。
それではなぜそのような態度になるかといえば、そういう人は、目の前で立ち現れている現象ではなく、現代スポーツの常識(理論)を先験的に正しいものとして措定しているためであろう。甲野(2003)は、科学の実態を「事実よりも学説が、いわば教典として優先する」と指摘しているように、多くの人は自分の知っている「常識」を絶対視してしまうため、その常識にあてはまらない(計測・解釈・理解不可能な)コトには目をつむってしまうのである。
ここでは構造構成主義とはどのようなものかは説明せずに、結論のみ抜粋して紹介します。
関心を持たれた方は、お勉強をして下さい。
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December 29, 2008
今年もたくさんの人に出会い、本を読み、学んできました。
アドラー心理学の先生や仲間、中国武術・柔拳の老師、稽古仲間には今年もたくさんの学びをありがとうございました。
また家族療法や他の心理学の先生方にもいろいろ教えを受けて、大変よい経験をさせていただきました。
ありがとうございました。
今年本を通して最も影響を受けたのは、最近驚くべきスピードで能力開発・自己啓発系の本を出し続けている脳機能学者、苫米地英人氏でした。
本ブログを読んで下さっている方から紹介してもらって関心を持ったのですが、「洗脳」「認知科学」をテーマにした著書は滅法おもしろくて、完全にはまりました。
ここでも、その内容を何度か紹介いたしました。
気は情報
気は情報2
洗脳支配
苫米地氏が最近流行のセミナー講師群の中でも破格の高学歴と天才的頭脳の持ち主なのは、一読すればよくわかりました。
でも、ただの勉強秀才ではなく、とても柔らかく優しい人のようです。
誰もが嫌がるオウム真理教の信者のカウンセリングや脱洗脳を請け負うのだから、並の意識ではないのは明かです。
しかし、薄給の身では氏の高額のセミナーにはとても出られないので、仕方なしに、それでも私には大枚をはたいて講義のDVDを購入してしまいましたよ。
でもすごく面白かった。
その苫米地氏の繰り出す言葉の中で最も好きなのは、「時間は未来から現在、過去へ流れていくものである」という考え方。
一般に時間というものは、過去から現在、未来に流れているとイメージされていると思いますが、そうではないのです。
過去が現在を決めることはけしてないということです。
それはそういう哲学、世界観を信じているからそうなってしまうだけ。
そう考えると、時間が過去から流れるというのは、精神分析学や行動科学などのモダンな心理学の基本にあるものだとわかります。
しかし苫米地氏によると、最先端の分析哲学、または仏教のアビダルマでは、「時間は未来から現在、過去へと流れている」というのが本当だという考え方を持っているそうです。
人は時間の河の流れを前にして、上流から赤いボールが来てそれを拾う、それからしばらくして青いボールが来てそれを拾う、そうすると「赤いボールが来たから、青いボールが来たんだ」と思い込んでしまいます。
「過去にあんなことがあったから、今はこんなに悲惨なんだ。だから、過去のあれ(あいつ)が悪い」と思ってしまう。
でも、それは大いなる勘違い。
ボールを拾っているのはその人の決断なのです。
ただ人は「知っているものしか見えない」、人には必ず「心理的盲点(スコトーマ)」があって、赤いボールしか知らないと、赤いボールだけが見えるのでそればかり拾い上げてしまう。
そうして同じパターンの人生を繰り返してしまう。
したがって、心の傷を癒すには、あるいは夢を実現するには、スコトーマを外して肯定的な未来を描くことが大切になるわけです。
簡単な要約ですが、ご理解いただけだでしょうか?
私にはとても魅力的な考え方だと思います。
そしてアドラー心理学や解決志向アプローチに通じる発想だと思います。
来年はそんな気持ちでいきたいですね。
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October 09, 2008
本ブログでは、前記事をはじめ、けっこう行動分析学、行動療法関係を取り上げているので、割りと好きな方だと思っていただいてけっこうですが、それが本質的に価値観を持たない、中立的な科学技術であることを標榜している以上、それ自体は人類にとって必ずしも良いものではないと思うことがあります。
9月の「NHKスペシャル 戦場 心の傷(1)兵士はどう戦わされてきたか」は、条件づけがいかに人を効率よく殺す教育道具になるかを生々しく描いていました。
戦場の兵士を襲う「殺される恐怖」と「人を殺す恐怖」。極限状況における人間心理を、国家はあらゆる角度から研究し、人間を戦闘マシンに近づける方法を模索してきた。初めて大量の市民が戦場に動員された第一次世界大戦では、精神に障害を負う兵士が続出。医師たちは電気ショックを与えるなどして戦場に送り返す「実験」を行った。また、第二次大戦で「敵に発砲できない兵士」が広範に存在することをつきとめた米軍は戦後、訓練法の改善を重ねることで、条件反射的に発砲できる兵士たちを作り出す。しかし、彼らが従軍したベトナム戦争では、日常生活に復帰できないPTSD患者が大量発生した。
兵士を戦場で戦わせるために、人類は何をしてきたのか。番組では、20世紀の戦争史をひもときながら、「兵士の心が壊れる」というもうひとつの悲劇を描く。
第二次大戦後、米軍は兵士が弾を打っても実際に人にヒットする確率は意外に低いこと(確か30%くらいか)を憂い、いかに高率にするかを研究し、実践したそうです。
兵士といえども人の子、目に見える人間を撃って死ぬ様を見るのは抵抗感があって、ただ空中に撃つだけということが多かったようです。なんかホッとしますが。
そこで米軍は、行動科学、条件反射学のあらゆるテクニックを使って、兵士が「安心」して人に向けて撃てるように「学習」させたようです。
その結果非常に高率になった(80%くらいだったかな)そうです。いいエビデンスだ。
番組では、それまでの丸い的ではなく、人を見たら反射的に引き金を引けるように、人の形の的を撃つ訓練など映していましたが、きっとそんな素朴な「脱感作」「シェイピング」だけでなく、いろいろな洗練されたやり方が開発されたのでしょう。
米軍関係者がインタビューで、これは「条件づけです」とはっきり答えていました。
ベトナム戦争以降、「殺人機械化」した兵士の多くは、心に傷を負い、PTSDとなりました。
心理学が殺人者を作り出し、心理学が癒す、まるでマッチポンプです。そのもっと大きな枠組みは政治・経済的状況なのでしょうが、何か不愉快で複雑な気分が残りました。
関連して少し話は変わりますが、以前、日本や世界の支配層の真実を暴くという真偽不明の暴露系ブログ、オルタナティブ通信に超有名心理学者の大衆洗脳への「貢献」が出て気になっていました。
CIAのスパイ養成所として名高い米国のコロンビア大学、ジョンズ・ホプキンス大学では、人間のマインド・コントロール技術が「軍事用」に研究されている。
人間に無意識的に「一定の行動」を強制するために、ある行動には罰則を与え、ある行動には報酬を与える等し、選挙投票の際に「誰に投票すべきか」を国家がコントロールし、「選挙投票の自由という民主主義の根幹を破壊する事」が、この研究の目的となっている。
テーマは人間の心をどのように支配するかであり、初期には一定の「望ましい行動には食事、麻薬等を与え」、「拒否すべき行動を取った場合には電気ショック」を与える等の処罰行為による人体実験が繰り返されて来た。
もちろん実験台にされた人間は、その人体実験に同意など一切していない。軍による強制的人体実験である。
初期にはコロンビア大学のエドワード・ソーンダイク、ジョンズ・ホプキンス大学のジョン・B・ワトソン教授が、こうした人体実験に従事したが、現在では、個々人の趣味、好きな食物、匂い、色等を「密かに調査」し、望ましい行動を取った場合には、その人物の好みの物体を身辺に出現させ、反対の行動には反対の物体を出現させるといったマインド・コントロール技術を発達させ、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるリサーチ・メディア社によって「商品として、そのノウハウ」が販売されている。
商品化されていると言う事は、マインド・コントロールが事実として可能であり「効果があるからこそ、資金を出して購入する者が居る」と言う事である。
ソーンダイクとワトソンなんて、心理学の教科書に必ず出てくる行動科学者たちじゃないか。
私には本当のことはわかりませんが、原爆実験に協力したアインシュタインなどの物理学者と同様のことが、当然体制側に認められた心理学者にもあったかもしれません。
最近苫米地英人氏が、洗脳の実体と応用を公開していますが、犯罪者の「深層心理」を精神分析学的に解説する心理学者、精神科医だけでなく、権力や軍事、広告など、なかなか目に見えないけれど「現実」の出来事を心理学的に解説、批判する行動科学者・評論家が出てほしいと思います。
私が知らないだけかもしれないので、もし既に、そういう方がいたり、適当な書籍等があったら、教えて下さい。
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October 05, 2008
ここのところ朝夕の気温差が大きくて、風邪を引いてしまったようです。なんか調子悪い。
応用行動分析学の祖、スキナーの思い出、いわば早期回想が「スキナーの心理学」に出ていたので紹介します。
10歳のスキナーは、パジャマを片づけないので母親から繰り返し叱られていたそうです。それに対する回想です。
ちょっとした仕掛けを作って私はその問題を解決した。パジャマをしまっておくクローゼットに紐とフックを取り付け、紐を中継点を介してドアに結び、「パジャマは片づけたか?」と書いた紙をぶら下げた。パジャマをフックにぶら下げると、紙は上へ上がる。夜、パジャマをフックからはずすと紙はドアの前にぶら下がる。朝、起きて、服を着て、そのまま出ようとすると、紙はドアの前ということになる。もどって、パジャマを片づけると、紙は上へ上がる。
すごいなあ。
後の環境主義者(人の心/行動は環境の強化によって左右される、だから「心」は存在しないとする立場)の片鱗というか本質が現れています。
私だったら、
「うるせえ、くそばばあ」と母親に悪態をつくか、時々パジャマを片づけるくらいでやり過ごそうとしたでしょうね。
「頑張る」「自覚する」「忘れないようにする」という目に見えない「心がけ」に頼らず、自分から環境を操作し、環境が自分の行動を導くようにする、結果はうまくいくからそれが強化子となって、さらに片づけ行動が維持されていく。
「私は課題を工夫して解決するし、できる。それには環境を自分から作り替えればよい」といった認知がうかがえます。
そういう決断をしたことも、スキナーなどの徹底的行動主義者なら「環境の強化によるものだ」というのでしょうけど。
アドラー心理学だったら、そういう環境の影響を重視しつつも、ソフト・ディターミニズム(柔らかい決定論)の立場から、そういう環境/課題を解決しようとした主体的決断を重視するかもしれません。
ちなみにスキナーは、子どもの頃から異様にメカ好きで、ローラースクーター、ハンドル付き台車、そり、メリーゴーランド、いかだ、連結式の台車、模型飛行機、手作り楽器などなど作って、本格的なグライダーを作って飛ぼうとさえしたそうです。
後年、鳩やネズミの条件づけ実験で知られたスキナー・ボックスを開発したのもうなづけます。
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September 14, 2008
心理職国家資格に関わるシンポジウム「国家資格の動向」を見てきました。
シンポジストは、大塚義孝臨床心理士資格認定協会専務理事、村瀬嘉代子日本心理臨床学会長、鶴光代同学会理事長といった内輪の有名人の他、医療心理師国家資格推進協議会から会長の織田正美早稲田大学教授、野島一彦心理学諸学会連合副理事長も出席されました。
内容自体には取り立てて新しいことはないのですが、注目すべきは、野島氏から過去のいきさつは捨てて心理学界が「協調と共栄」の時代に入るべきことを主張され、医療心理師サイドからも出席があったことでしょう。
その織田先生からは、日本の心理職資格問題の歴史の説明が改めてなされ、とても明快でわかりやすい内容でした。
いい感じの先生ですね。
ちなみに私、早大時代にこの織田先生の授業を選択した気がするのですが、受けた記憶がございません。
いかにいい加減が学生生活だったかを、こんな時に再確認してしまった。
織田先生は、国会で店晒しになったままの医療心理師と臨床心理士の二本立ての「二資格一法案」を、「考えられる限り、良くできた法案だと思う」とおっしゃってました。先生は、心理学の前に法学部も出られていて、法律には造詣があるようです。
私も、前回の記事のようなイギリス式にまで徹底することはできなくても、中途半端だけどこれが日本らしくて、いいのかもと思ったりしました。
あんまりきっちりした資格は窮屈だ。
私は、こんな仕事をしていて言うのはなんだけど、国が認めた「心の専門家」なんてほんとは気色悪い存在だと思っているからですね。
さて、これからどうなるのか。
森喜朗を臨床心理士資格認定協会会長に押し立てて、いまだ具体化せず。
政局は明らかに政権交代の流れとなっているのを、自民総裁選を必要以上に過剰にマスコミは報道して、衆議院選の前に自民に国民の意識を釘付けにして、必死に流れを変えようとしているかのようです。
極悪人・小泉も動いています。こいつだけは許せない。
民主党政権になると資格ができるのかはわかりませんが(議員立法化に頑張ったという河村健夫議員がいるけどこの人、テレビには出てるけど力あるのか)、この間の郵政選挙のとばっちりをうけた資格法案が、また政局に翻弄されるのかもしれません。
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September 13, 2008
心理臨床学会のワークショップは、東京大学の丹野義彦先生の「エビデンスにもとづく心理臨床」を受講。
「おまえはエビデンスに最も遠い人間じゃないか」と突っ込みが入りそうですが、「何を言うか、私こそ真の科学好きなのだ」と内心勝手に反論しつつ、昨今話題の中心エビデンスによる心理療法の考え方を学んできました。
特に印象深くてここで述べたい内容は、講義の前半、エビデンスを重視するイギリスの臨床心理学界の事情と完璧といえる国家資格制度の報告でした。
イギリスは、臨床心理士が国家資格化しています。博士課程まで収める高度専門職として人々の尊敬や信頼を集め、高給をもらえ、本人たちもプライドを持っているそうです。
しかし、その業務は日本の臨床心理士と大分違うようでした。
一言でいうと、英国の臨床心理士は、心の問題全てを扱う「横断的資格」ではなく、精神医療領域のみを扱うのです。丹野先生も、数年前に振って湧いたように出てきて大騒動になったあの「医療心理師」と全く重なるとおっしゃってました。
しかも国が税金を出すのだから、自由に好きな心理学をやっていいわけではなく、きっちり認知行動療法の専門家にならないといけません。
その代わりということか、臨床心理学の大学院時代に国からお給料が年300万円ももらえるとか。これなら貧乏家の私でも行けたかも。
つまり臨床心理士は、公務員待遇であるので、国のメンタルヘルス政策の実現者ということになります。
そこは、公的機関に努める私と同じ立場ですね。
英国では、臨床心理士=医療心理師で、他の分野はどうかというとカウンセリング心理士、教育心理士、健康心理士、司法心理士が個別専門国家資格となっているそうです。
それらを得るための基礎資格は大学の心理学部卒業資格で、その上に上記の各個別資格があり、さらにその上に公認心理士というのが統一資格として自動的に取れるようになっているらしい。
それら全ての総元締めとして、英国心理学会が管理、統括するという完璧なシステム。
行動科学者アイゼンクの系譜によるシステムのようです。さすが経験主義と身分制的官僚主義の国。
では有名な精神分析学の牙城、タビストック・クリニックを初めとする心理療法の専門家たちはどうかというと、単に民間団体・研究所の人たちということになります。
つまり国家資格とは基本的に何の関係もない人たち。
これはちょっと意外だった。
英国では臨床心理士の身分は公的だから安定していて、学生の人気があり、民間の心理療法家やカウンセラーは日本と同様、不安定な雇用環境にいるようです。
もし日本に英国のシステムが導入されたとしたら、極端な話、カワイさんもオオツカさんもムラセさんも臨床心理士になれないということになります。
ユングやゾンディやロジャーズを捨てるか隠せば別だけど。
アイゼンクに跪けるか?
これは大変なことだ。
臨床心理士会が、ひたすら全ての領域にまたがる横断資格にこだわるのは、もしかしたら、個別専門化して、そうなったら困るということがあるのかも、と思ってしてしまいました。
もし日本も英国流を取り入れていたら、とっくの昔に心理の国家資格は実現していたのかも。
そんなことを考えていたら、国家資格に関わるシンポジウムが開かれていていました。
もしかしたら、また新たな動きがあるのかな、と期待しながらのぞきに行きました。
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June 24, 2008
前回の記事にあったベイトソンと娘の会話(メタローグ)について、「やさしいベイトソン」から少し解説します。
ベイトソンの本は、小難しい論文だけでなく、娘さん(実の娘メアリーがモデルらしい)との会話が随所にあって、ベイトソンの問題意識と思考方法が浮き彫りになっていて、とてもおもしろいですよ。
是非読んで下さい。
本書では、ドン・キホーテが著者の代わりに語ります。
「この物語(本書のこと:私注)を始めるにあたって、わしはなんとなく右の会話(前回のメタローグ)が気になってな。本能とか重力とか、これらたいそうな『真実』も実は、説明原理、つまりストーリーだと気づかせてくれるからじゃ。わかっていてもこの一大事、人は拙者も含めて、いきおい忘れがちじゃ。『文化』もそうなら『精神分裂症』も説明原理であることをな」
「ていうことは、実際にはそんなものは存在しないっていうことですかい?」
「あると言えばある、しかし、ないと言えばない。サンチョどん、この話はすこし待って欲しい。いずれ・・・」
「旦那様、わしはそういう言い方は嫌いでがす。話についていけるようしてもらわんと」
「では、手短に述べておくことにするが、馬上からわしの槍が地面に落ちたとしよう。『重力によって落下した』という説明を聞いて、お前はなんと思う?『なるほど科学的だ』とか『そりゃうまい説明だ』と思うか、『それは神のご意志だ』と思うか?どちらも説明原理じゃ。『幸運の女神』もそうなら『先祖の霊』も同じじゃ。しかし、一方を真実だと思う人が、もう一方こそ真実だと思う人を糾弾することがどうしてできよう」
「信じることが真実になるということでがすか」
「日常生活においてはそのとおり。わしらの修行生活もまたしかりじゃ」
ベイトソンの言いたいことがわかってくると、私は臨床心理学の世界がいかに「説明原理」だらけかがわかってきて、じゃあ、それなら自分によりフィットする説明原理を選ぼうと思うようになったのでした。
「リビドー」「抵抗」はつまらなそうだし、「集合的無意識」「元型」は魅力的だけどよくわからないし、「行動」は最も強力だけど視野が狭そうな気がしてね。
アカデミックな厳密さはないけど、「勇気」や「目的」「共同体感覚」が現場しか知らない自分にはフィットしたから選んだということではないかと、最近思います。
ついでにベイトソンの遺産は、家族療法やブリーフセラピーに受け継がれたけど、全てではない気がします。
それは実利的な半分。
もう半分は、科学批判というか心理学ではトランスパーソナルの方向性、世界をエコロジカルに見る関係性の思想ではないかと思っています。
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June 17, 2008
6月初旬に東京代々木で開かれた日本家族研究・家族療法学会のワークショップに上京。
私は「ベイトソン・セミナー」に参加しました。
20世紀最高の思想家・グレゴリー・ベイトソンを改めて見直してみるという試みです。
講座ではベイトソンが定式化し、家族療法の理論的、認識論的基盤となったダブル・バインド理論を打ち出したことで超有名な(はずの)「精神分裂症の理論家に向けて」(精神の生態学)を事前に読んできた参加者がいろいろな感想や思いを出し合って議論し合うという、ある意味シンプルなものでした。
講師は文化人類学者・野村直樹氏、家族療法家・吉川悟氏。
お二人とも若い頃からベイトソンに深い影響を受け、人生や学問の指針にしてきたようです。
しかも野村氏は、カリフォルニアのエサレン研究所でベイトソン本人に会ったことがあるとか。
うらやましい。
私自身は、何を隠そう、大のベイトソンかぶれだったのです。「精神の生態学」、「精神と自然」など、ベイトソン自身の著作はもちろん、関連書で邦訳されたものはほとんど読んでいると思います。「精神の生態学」は、ウンウン言いながら原書でも読んだな。
その事情は以前に書いたことがあります。http://taichi-psycho.cocolog-nifty.com/adler/2005/08/post_318d.html
だから普通学会のワークショップというと、何か新しい技法を学び取りに行くことが多いのですが、今回はベイトソンを取り上げると聞き、学会員でもないのに思わず飛び込んでいったのですね。
私の思想スタイルというものがもしあるとするなら、それはまさしくベイトソンの影響があるのは間違いがありません。
アドラー、ベイトソン、ウィルバーが私の若き頃の座右の書でした。
いずれも異端の巨人といえますな。
参加者は、若き家族療法家や心理学者で「ベイトソンは今回初めて読んだ」、「大学院で読まされたけど何だか全然わからなかったから改めて勉強しようと思った」という方から、私と同様若い頃ベイトソンの思想に大きなインパクトを受けた臨床家や医師まで、ベイトソンにはまり度は様々でした。
でも、みんなベイトソンの面白さや革命的な認識論的展開に気づいて、参加したみたいです。
私も、公の場で大勢の人とベイトソンを語り合うことができて大満足でした。
しかし、読んで下さった方は、ベイトソンなんて知らない人がほとんどでしょうね。
多分家族療法をやっている人だって、ダブル・バインドは知っていてもベイトソンの論文を読んだ人は少ないようです。
「だって、ベイトソンって難しいんだもの」
という感想をよく聞きます。
確かにそうかもしれない。
でも、まだ心理学や哲学を学び始める前にベイトソンを知った私は、「そんなものかな」と正直あまり難しいと思ったことはありませんでした。
むしろ、その後、大学でおこなう「まっとうな」心理学に適応するのが大変でしたね。
そんな思想や抽象的なことが苦手な人でも、ベイトソンの思想に触れることのできる格好のやさしい本が出ました。
それは次回に。
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May 12, 2008
「発達障害の子どもたち」から
境界知能というのは、知能指数(IQ)70~84の範囲にあることをいいます。
普通知的障害(精神発達遅滞)はIQ70以下の人が該当するのですが、そこまで低くはなく、一応「正常」とされています。
正常だから普通に勉強したり扱えば問題はないだろう、と思われるかもしれません。
しかし、実際は学校や社会に適応するのがけっこう大変なのは、教育や臨床に携わっている人には実感されているのではないでしょうか。
著者もいいます。
さてこのグループ(境界知能:筆者注)については、これまであまり注目されなかった。しかし子どもの育ちに関わる臨床をしている者にとって、近年、境界知能は大きな問題となってきた。知的障害を持たない発達障害-軽度発達障害-が注目を集めているが、この中で境界知能が占める割合は非常に高い。特に学習障害を伴うグループについては、境界知能の児童が正常知能の児童よりも圧倒的に多いことが知られている。
さらに、そだちの問題である子ども虐待の児童において、正常知能を示すものはまれで、知能検査をしてみると、その大半が境界知能を呈する。さらにこの二つ、軽度発達障害および子ども虐待と密接に関係する青少年の大問題である少年非行の事例において、これまた正常知能を示す者はまれで、ことごとく境界知能を示す。非行の事例においては、学習の遅れを伴う者が多く、特に国語力の不足が内省力の不足に直結し、悩みを保持することができず非行に走りやすい傾向を生むという状況をしばしば認める。
これは私の経験でも全くその通りです。
知能検査をしてみて、IQ70からちょっと上、いや80台でも、予後とか考えるときに「これは難しいな」と思わずつぶやいてしまうことが何度となくあります(何が難しいかはケースによりますが)。
正常知能とはいっても学業は普通にやってても遅れがち、ちょっと家庭が不安定だったり他の発達障害的なリスクがあると途端に具合が悪くなります。
本人も言語的に思考したり、メタレベルの認知がうまくないので、一旦「問題児」になると修正がききにくくなってしまいます。
しかも問題はこの境界レベルの子どもはけしてごく少数派でなく、計算上は14%にもなる一大勢力なのです(統計の初歩を勉強した人はわかると思います)。
しかし、制度上「障害者」ではないので福祉的サービスは全くなく、下手をすると格差社会の下の階層に落ち込んだままという事態が無数にあると思います。
「知能で人を差別するとは何事だ」と怒る人もいるかもしれませんが、はっきりいってその人は今の社会がわかっていない。
おそらく昔だったら問題にされない知的レベルの人たちが、今の高度な情報処理が必要とされる社会の中で不適応に陥るリスクが高まっていると思います。
杉山先生も事例を取り上げて昔だったら「中卒後に良き職人、良き労働者として十分に適応していたはずである」といっています。
ここからは私見ですが、この境界知能の人たちは、社会の良い意味での底辺、土台を支えてくれていた層だと思うのです。
その多くが職人や建設、土木、港湾、運輸、農林水産関係などの世界に労働者として入っていて、文字通り社会を実質レベルで作ってくれていたと思います。
それに比べて情報や金融、さらに心理なんてやっている我々は実態のない虚業みたいなものですよ。
その大事な層がどんどん切り崩されている。
そして、情報リテラシーにどうしても弱い、ナイーブな人たちが多いのでプロパガンダに乗りやすい。
先の郵政選挙の時、「知能の低い人たちにターゲットを絞った」という電通ら広告代理店の「B層戦略」とはまさにこの層を中心に展開されたのかもしれません。代理店には心理学科出身者が多いですしね(知り合いも何人かいますよ)。
それにまんまとダマされ、小泉の「改革か抵抗勢力か!」という単純なフレーズに乗せられ、自らの首を絞めてしまったといえるでしょう。
本当は無駄な公共事業なんかないのではないか。
金をどんどん刷って回して、この人たちを食わせることが国の仕事ではないのか、私は最近そう思う。
橋でも道でも造ればいい。自然や景観に悪ければまた壊す工事をしてお金をあげればいい。
何もアメリカさんに渡す必要もない。
このおじさんたちに仕事を与え、ちゃんとお給料を持って家に帰ることができれば、「お父ちゃんありがとう」と父親の居場所もでき、家族は安心して暮らせ、生活保護も虐待もかなり減るでしょう。
また、IQというのはけして固定的なものではなく、実はこの境界知能の人たちは最も教育効果が上がりやすいのではないかと思います。杉山先生も
境界知能の子どもとは、いわば教師の力量がもっともよく表れる児童でもある。
とおっしゃってます。
社会や教育がもっと目を向けていく必要があります。
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April 19, 2008
我が師、岩井先生のブログに、アドラー心理学のカウンセリングのあり方がわかりやすくありましたので、紹介します。
アドラーの高弟、ウルフによるものです。
ウルフはアメリカでのアドラーの活動を支え、名著「どうすれば幸福になれるか」(一光社)が戦前、世界中でベストセラーになったことで知られている精神科医です。
その才能はアドラーの後継者として将来を嘱望されていたにもかかわらず、残念ながら事故で36歳で亡くなってしまいました。
内容はとてもわかりやすい例え話ですよ。
ウルフは、平均的な神経症者を1人の外国人(旅人)にたとえ、その人がニューヨークからサンフランシスコまで車で行こうと決心して道に迷っているとして、その人をどうガイド(道案内)するかを次のように表現しています。
1.われわれの善意を示して、その外国人との間に信頼関係を作る。
2.彼の現在の位置をはっきりと教える(地図上で彼がいる位置を示してあげる)。
3.彼のやり方の間違った点を分析する(ニューヨークからの彼のコースをたどって、旅の最初の頃の間違いを説明する)。
4.旅を続けられるという自信を取り戻させる(彼の間違いは致命的なものだはないということと、ほんの少し時間と努力を無駄にしただけだということを示す)。
5.旅人と、彼が迷い込んだ見知らぬ土地の住民とを和解させ、旅の途中でまた見知らぬ人たちに出会ったら、上手に適応するよう勇気づける(相手が敵意があるように見えたのは、その国の習慣を彼自身が知らなかったためだと説明する)。
6.目的地までの新しい道順の計画を立てる(目的地が彼の力、あるいは車の能力以上であるなら、目的地を変更することも必要である)。
7.もっと独立心を持ち、間違いを繰り返さないために、地図の読み方を教える。
8.それまでの失敗に気落ちせずに、旅を続けるように勇気づける。
9.同じような目的地に向かう他の旅行者と一緒に旅をするように勇気づける。
10.脇道に入れば、どのような美しいものをを見ることができるかを教え、彼がそこにあるとは気づかなかった美しい場所を訪れるように勇気づける(芸術的、創造的能力を伸ばし、視野を広める)。
現代アドラー心理学(一部臨床心理学)の言葉を使うと、1~10は、次のような用語に置き換えが可能です。
1・・・・(相互尊敬・相互信頼の)関係の樹立
2・・・・ライフ・タスクの分析
3・・・・ライフ・スタイルの分析
5・・・・環境調整
6・・・・目標の一致
7・・・・再教育
9・・・・協力
4、8、10・・・・勇気づけ
どうです?
なかなかいいと思いません?
認知行動療法や解決志向アプローチにも通じると思います。
それだけでなく、特に10の「脇道に入れば・・・」がいいですね。問題解決だけでなく、人生の達人になる秘訣がそこにあるような気がします。
私もこのようなカウンセリングをできるようになりたいものです。
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March 23, 2008
今はあまりいわなくなりましたけど、一昔、二昔前、いやもっと昔の臨床心理学は夢分析、夢解釈が花形だった時代がありました(あったと思う)。
「夢は無意識への王道である」とかいってね。
もちろん、フロイトやユングが流行ったというか、主流だったためですね。
最近はもっぱら効率的に現実的な問題解決が求められる中で、悠長に夢の話をしているなんてセラピストは少なくなったのでしょう。
確かに問題解決はなにより大事ですが、たまには夢をカウンセリングで取り上げるのは面白いものです。
私の師匠、岩井俊憲氏が自身のブログで、アドラー派の夢解釈について開陳しています。
アドラー心理学の夢解釈講座(1)
早期回想に比べると、夢解釈は当然曖昧度というかシンボル性が高くて、スパッといかないのであまり得意ではないのですが、やっぱり知っておくとカウンセリングの場で幅が広がっていいですね。
それにアドラー心理学では、夢をいたずらに辞書的に象徴解釈をしません。
個性記述的に、その人がおかれた対人関係、社会的コンテキストを参照しながら、その人なりのシンボルを見つけていきます。
夢は未来に向けてのリハーサルと考えるので、問題解決志向なのですね。だから夢をファンタジーとしてだけではなく、現実的に考えることができます。
興味のある方は是非、学んでみてください。
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March 13, 2008
私、15の時に初めて禅寺で参禅して以来、20数年、瞑想もしくは瞑想らしきことをやり続けてきたことになります。
座禅、ヨガ(ハタヨガだけじゃないよ)、チベット仏教、ヴィパッサナ、立禅(気功)などなど。それに催眠やイメージ療法やトランスパーソナルのセラピーなどを入れれば、もう忘れてしまったものも数多く、もの好きというか、まさに自分は瞑想ジャンキー、変性意識ジャンキーといえましょう。
しかしそれにも関わらず、前世の因縁か業が深いのか、無明の闇は深く、悟りが開ける兆しはございません・・・・。
まあ、別にいいんだけどね。悟る気もないし。
お悟りは開けなかったけど瞑想をすることで、心に浮かぶよしなしごと、思考や感情、感覚、外界からの情報、刺激を受け入れながらもあまり左右されないで、流れるに任せておく、見つめ続けることがけっこうできるようになったと思います。
このような瞑想状態を最近の臨床心理学ではマインドフルネスと呼ぶようです。先頃ここで紹介した「マインドフルネス認知療法」から、それはどういうものか引いてみます。
「マインドフルネスとは、意図的に、今この瞬間に、価値判断をすることなく注意を向けること」
「いっさいの解釈や判断をせずに、ただひたすら見続けること」
そのためには、静かに座って、自分の呼吸を感じ続け、見つめ続けます。
何か思考や感情が湧いてきたら、その存在を見つめ、許し、呼吸に戻ります。
そのようなことを繰り返すことによって、ネガティブな思考と距離を置けたり、感情に巻き込まれにくくなったり、逆に感情や感覚に適度に敏感になりながら、受け入れることができるようになるといいます。
ネガティブな思考に巻き込まれがちなうつ病の方にとって有効なだけでなく、様々な心の状態に対処し、自らもいろいろな思いを体験するカウンセラー、心理臨床家が是非身につけておきたい心の態度ですね。
本書の著者たちも、患者たちに実施する前に、自分たちがマインドフルネス瞑想を身につけることにかなりの努力を要したとあります。
アメリカでマインドフルネス認知療法の先鞭を付けたジョン・カバットジン(インド人?)という人は言います。
「患者にマインドフルネスを指導したいならば、まずは自らそれを実践してください」
本で読んだだけのマニュアル的知識では実践できないのが、瞑想です。少なくともその状態を味わってみなきゃ。
実践重視のアドラー心理学と通じますね。
瞑想も臨床心理もいくらでも科学で腑分けできるだろうけど、やるのはあなたです。
また、日本や中国の武術家が昔から瞑想を基礎教養としてきたのは、「精神をタフに鍛える」のではなく「柔らかくしなやかな心を作る」ためだったのだと思います。
ちなみに私の流派の気功は、ただひたすら立ち続けて、細く長い呼吸を続けるものです。
ある種の気功にあるような、どこそこの経絡を流れる気をイメージするとか、何かシンボルや景色を想像するようなことは一切しません。
まさにマインドフルネス型の気功法なのです。
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March 09, 2008
ラグビー大学選手権優勝の早稲田大学中竹監督が、アドレリアンのコーチングを受けていたことは前に紹介をしましたが(早大ラグビー優勝の陰に)、その様子がWebで読めるようになりました。
毎週連載しているようです。
日経ビジネスONLINE「常勝軍団、早大ラグビーの作り方 中竹監督に学ぶメンタルマネジメント術」
その第1回はそのまま読めますが、それ以降は会員登録をしなくてはなりません。でも無料なので、私はしちゃいました。
是非、読んで下さい。これが面白いの。
内容は登録制だからUPしませんが、中竹監督と平本さんのやり取りの中から、名門・早稲田ラグビー部を指揮する監督の悩みや問題意識、それにコーチングで応じる平本さんの問題の捉え方、そして実際のコーチングの様子が浮かび上がってきます。
型にはめることなく、徹底的に肯定的に、相手の中から解決を探っていく、心身が「流れるようにすべてがうまくいく意識状態」であるゾーンのその人なりのあり方を見つけて、再現していく様子は、創造性の極み、「まさにアートだ」と感じ入りました。
心理療法、カウンセリングにも職人技、アートの部分はありますが、今はどちらかというとエビデンス、プログラム、マニュアルといった客観性、科学性に重きを置く傾向があります。
はっきりいうと、障害や病理、逸脱からの回復、社会適応というのは、たとえその人の個性に応じてといっても、パターン的なところが作りやすくて(なぜなら、人間の不幸は結局同じようなものだから)、健常人以上のスーパー・パフォーマンスを作り上げるには創造性やアート的なところが濃くなるのかなあと思いました。
以前、平本さんから、
「カウンセリング、心理療法は人が牢屋から出るお手伝い、コーチングは人が山の頂上に登るお手伝い」
と聞いたのを思い出しました。
言い得て妙です。
しかし、カウンセリングにもコーチングと共通する要因は多いはずで、臨床家、教育関係者にも大いに参考になると思います。
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January 31, 2008
前回に続き、黒木賢一氏の、「気の心理臨床入門」の第5章「気の心理臨床の視座」から、氏がどのように「気」を心理臨床で使うか試行錯誤しているところを挙げてみます。
そのためには面接室やセラピストとクライエントが作る「気場」が重要だと氏は言います。
気場とは、「人とモノ、人と人、人と集団、人と社会、人と自然など、関係性によって起こる気の働き」のことであり、面接とは二者が対峙するとき、「お互いが発する気が交流することで、その空間にある雰囲気を醸し」出すものだといいます。
では、気場がより治療的になるにはどうすればいいか。著者は面接室の「気場」を3次元に分けていて、一つは「面接室のある環境(風水)について」、二つ目は「面接室の気場」、三つ目は「セラピストとクライエントの関係性によって醸しだされる気の働き」を措定しています。
面接室の風水は、文字通り昨今流行の風水ですが、「天地の気の測定法」であり、「地形、風や水の流れ、方位などから、環境と人間の相関関係を精確に知ることによって、自然の動きに調和した人間の生活を組み立てる中国古代の特異な地理学」だそうです。
著者は阪神の芦屋にオフィスを構えているのですが、かなり風水的に良い場所らしく、それでも足りない要素があるので、室内に観葉植物や天然水晶をおいたりして場を整えているらしいです。
けっこうこだわっています。開業だから自分のやりたいように面接室を作れるのはいいですね。
ちなみに私の家も北と東西を山に囲まれ南に開け、風水的には良い場所なのですが、川がなく、水が足りないのがやや難点です。
どうすれば「運気」が開けるか、ドクター・コパに聞いてみたいところですな。
面接室の気の波動をよくするには、著者(と彼の師匠)は次のように考えて、実行しているそうです。
①部屋を簡素にして、物を多く置かない。
②物は自然の素材で人工的な素材を避ける。
③観葉植物と天然石を置く。
④自分が癒される物を置く。
⑤お香で絶えず部屋を浄化する。
⑥音楽(ヒーリングミュージック)を流す。
なるほど。
確かにこうしたら部屋の雰囲気は良くなりそう。
自分もいつか開業したら、工夫してみよう。でも生来のADD(注意欠陥)なもんで、物が片づけられず、本やら書類がいっぱいのカオスな空間になりそうな予感・・・・。
そして「セラピストとクライエントの気の働き」です。
気の存在である二者が出会い、コミュニケーションをすれば、当然気の次元でも交流が生じます。
そこで最も重要なのはお互いの信頼感だといいます。
心理療法における気の交流では、セラピストはクライエントの受信につとめる。そこで重要なことはお互いの信頼関係である。信頼関係があればお互いの気が交流する。健康度が高い人ほど交流しやすく、病的な人ほど交流しにくい。動機づけが高い人ほど交流しやすいし、動機づけが低い人ほど交流しにくい。また治りたくない人は特に交流しにくい。
一般のカウンセリングでいうラポール、アドラー心理学では相互尊敬・相互信頼の関係といいますが、そういう状態は気の次元での交流が盛んになっていることはわかります。
良い心理治療関係は、そのまま良い気功治療になっているというわけですね。
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January 14, 2008
山梨で、アドラー心理学に基づく親子関係セミナーSMILEが開かれます。
SMILE(スマイル)はSeminar of Mother(Father)-child Interaction with Love and Encouragement 日本語では「愛と勇気づけの親子関係セミナー」という意味です。
スマイルはアドラー心理学をベースによりよい親子関係を(すべての対人関係に応用可)築くためのセミナーです。
スタートは1月26日から2月9日、3月1日の全3回。
お問い合わせはスマイルネット山梨まで。
ペアレント・トレーニングは最近数あれど、アドラー心理学は世界的にもその先駆けとなっていました。SMILEは有料なだけにテキスト、プログラム内容共に充実しています。とても楽しく、子育てや人間関係について学べますよ。
1章 子どもの行動を理解しよう
2章 聴き上手になろう
3章 子どもを勇気づけよう
4章 誰の課題でしょう
5章 子どもを傷つけないで意見を伝えよう
6章 体験を通じて学ぶ機会を与える
7章 新しい家族のあり方
8章 社会性のある子どもに育てよう
難しい言葉は一切出ませんし、人間関係について学びたい人には絶対おすすめですよ。
山梨にお住まいでない方は、お近くでやっているかもしれません。ヒューマン・ギルドにお問い合わせ下さい。
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October 25, 2007
ちょうど1年ほど前、ヒューマン・ギルドで認知療法を学びました。認知療法を学ぶ
そこで講師だった坂本玲子先生(精神科医、山梨のアドラー仲間、山梨県立大学准教授、日本認知療法学会理事)に紹介されて、日本認知療法学会に入れていただいたのでした。
それで今週半ばには、東京にて開かれた学会のワークショップに初見参いたしました。
「カウンセリングに生かす認知行動療法」講師は、斯界ではかなり著名で、ある事情で是非お会いしたかったI先生。
このときを狙っていたのだ。
1日かけて、認知行動療法の基本原理を徹底して教えて下さいました。
ちゃきちゃきっと繰り出される言葉(先生江戸っ子?)は常に明快で、学ぶほどに頭がクリアーになる名講義は、認知行動療法への関心と「僕にもできるかも。あのケースにも、この人にもやってみよう」という気持ちが高まるのでした。
この療法によくあるイメージの「認知の歪みを修正する」のではなく、「認知の幅を広げる、やわらげる」という言葉が特に印象的でしたね。
そして休憩中に、ご挨拶。
この粗顔を披露するのはちょっと勇気が要ったのですが。
おずおずと近づき、「先生、あのお、わたくし、山梨の児童相談所にいて、武術をやってる者ですが」と言っただけで、「ああ」と合点がいかれ、驚かれた様子で、思わず笑みがこぼれていました。
わかっていただけて、ホッとした。
少し話をさせていただくとなんと、先生の知人が私の愚妹(東京の精神科クリニックでケースワーカーをやっていて、生意気にもアドラー心理学も学んでいる)の友人とわかりました。調子に乗って「ご縁がありますね」などと思わず不躾なことを言ってしまいました(^_^;)。
これである意味、現代心理療法のメインストリームに足を踏み入れたわけだし、真面目に勉強するぞ。
またひとつ、達人に近づいた・・・・。
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October 23, 2007
先週土日は前々回ここで紹介したアドラー心理学ベーシック・コースの前半が開催されました。
お手伝いと再受講の私は、師匠の先生と共に多くの時間を過ごせ、改めてアドラー心理学の復習をすることができました。
シンプルな体系のアドラー心理学ですが、多くの人と語り合いながら学び直すとまた多くの確認と発見があります。
その中で確認したのは「記憶は作られる」という言葉でした。
早期回想解釈というアドラー心理学特有の技がありますが、そこではクライエントの思い出をできるだけ詳細に聞き出し、「今、ここでの」その人の自己と世界についての認知構造について理解しようとします。
「今、ここで」が肝心なところで、けして「昔の原因」として見るのではないのです。
なぜなら、その人なりに記憶は作られるとアドラー心理学では草創期から考えているからです。
アドラー心理学の種13・早期回想
これはアドラー心理学の基本の「き」だから、当然私はわかっていましたが、先月行った日本心理臨床学会の特別講演会で、あの有名脳科学者茂木健一郎氏が全く同じことを脳科学の立場から主張していたことが思い出されて重なったのです。
講演で取ったメモを見ると、茂木氏は、
「記憶とは動的に変化するダイナミックなシステムである」それは「正確に記憶することを意味するわけではない」「未来に対して生き残るためには、記憶は何でもする」のであり、「世界を再構成、再統合する」「時間も再統合、構成される」
と述べていました。
記憶がそのようであるのは、「今と未来に役立つことにおいて適応的である」からです。
茂木氏はテレビで見るのと同様、とてもエネルギッシュでフランクな人物で、講演内容もおもしろくて好感を持ちました。
ただの理系人間ではないようです。
とにかく、100年近く続いたアドラー心理学の洞察というか、人間観が最新の脳科学とも通じているところがとても興味深く感じられたのです。
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October 16, 2007
山梨で初めてのアドラー心理学の講座「アドラー心理学ベーシック山梨コース」がもうすぐ始まります!
まだ少し申し込みができるようです。
今からでも間に合いますので、是非、この機会に、人間理解、人間関係問題の解決に抜群の実力を持つアドラー心理学の息吹に触れて下さい。
会場は石和温泉のすぐ側。近県の方も、大河ドラマで盛り上がる山梨の風土を楽しむことができますよ。
実は会場には私もスタッフとしてウロウロしています。アド仙人に会いたい人(?)は、是非来て下さいね(笑)。
アドラー心理学ベーシック山梨コース
10/20,21 11/3,4(土日) 4日間コース
会場:山梨県立青少年センター リバース和戸 第3研修室
講師:岩井俊憲
受講料:48,000円 (再受講24,000円)
問い合わせ、申込先 ヒューマン・ギルド
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October 13, 2007
このシリーズももう終わりにします。まだ心理臨床学会以来さらに、別のところで学んだことや紹介したいものもまだまだありますからね。
今回私的に最も、啓発されたのは、事例発表でアドラー心理学の実践者の発表があったことでした。
テーマは精神科デイケアでの勇気づけの実践ということで、発表者が患者さんに対して、勇気づけの原理・思想・技術に乗っ取った丁寧な関わりをされている様子が具体的に伝わってきて、とても印象的なものでした。
子どもだけでなく、精神障害者にももちろん勇気づけは有効で、それは援助者と利用者の双方を明るく、元気な方向へ導いてくれるのだと確信することができました。
日本最大の心理臨床家の団体であるこの学会で、アドラー心理学の発表を聞くことは初めてです。今まで見たことも聞いたこともなかったですね。
この発表後、思わず発表者と司会者に近づいて、
「じ、実は、僕もアドラーやっているんです(仲良くしてくださあい)」
と挨拶しましたが、向こうも喜んで下さって、多分本学会員でアドラーをやっている人は数人、4,5人程度ではないかと話し合いました。
そんなもんだから、多勢に無勢、学歴も実績もなく仲間もいない私は表に出ることは全く考えたことがありませんでした。
だから、今回事例を大勢の前に出された発表者の勇気には本当に感心しました。
同時に私も、何か頑張らなきゃな(何をどう頑張るのかは不明ですが)と、思いを新たにいたしました。
ありがとうございました。
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October 09, 2007
私、密かに長澤まさみちゃんのファンでありまして、連休中にやってたドラマ「ガンジス川でバタフライ」は格別の思いで楽しめました。
今をさかのぼること23年前、ドラマの主人公同様、インド各地を旅して強烈な思い出を作ったことがあるからです。
まさみちゃんが旅するインドの風景、街並みは、まさに私がまさみちゃんと同じ年頃に歩いた場所でした。
「あー懐かしい」という思いと同時に、インドの強烈な空気、人、街並み、喧噪がワッとフラッシュバックしましたよ。
ドラマの後半でまさみちゃんが到着したガンジス川畔の聖地、ヴァラナシーにも行きました。公開火葬で有名なところですね。
私は、そのガンジス川の畔で、蕩々たる大河の流れをいつまでもぼうっと見続けていましたね。
今やブリックスの雄、ITで鳴るインドも、やっぱり人も街も変わってないなと映像を見て思いました。
あそこで私の「魂の旅」は始まったのだ・・・なんてね。
でも実際、インドの旅以来、私は私なりの縁と方法、考えでその後様々な精神的遍歴をしてきたのではあります。
瞑想もその時以来様々なものを体験してきました。
マインドフルネスという概念につながるヴィパッサナーという瞑想もその中で経験したのでした。じっと自分の呼吸を見つめ、自分の感覚、心を見つめ続けるシンプルにして強力な瞑想法です。
タイなどの南伝仏教に連綿と伝わる原始仏教のこのメソッドが、6,70年代以降アメリカに渡ったものらしいです。
それが最先端の心理療法の世界に流れていったのです。
私はタイに渡って修行したというある青年僧が山梨出身だったので、ある時期地元で開かれていた瞑想会に出て学んだことがあります。
あとアドラー心理学のセミナーでも、ヴィパッサナー瞑想を主にするものがあって、集中的に体験したことがありました。
では、マインドフルネスとは何か?
ずっと以前トランスパーソナル心理学の論客、ケン・ウィルバーの本に「マインドフルネス」という言葉が出ていて、何だろうなと思ったことがありましたが、瞑想中のある状態を指す言葉だとは推察していました。
今回の発表者や著書によると、マインドフルネスとは、パーリ語の「サティ」の訳語、「心をとどめておくこと」で「ありのままの注意」を一般に意味するそうです。
それが今やうつ病に効果的であるとして、新しい認知行動療法の一つとして台頭しているとか。
多くの実践と実証的研究がなされてきているようです。
おもしろい展開だねえ。
今回の心理臨床学会では、その紹介に出会いました。早稲田大学のグループのポスターセッションと、自主シンポジウムが行われるのを知り、見に行きました。
内容についてはさらに長くなるし、不正確さを避けるため今回は書きませんが、いずれブックレビューなどで紹介していきましょう。
お話をうかがって、長年東洋の行法を「個人的に」「趣味的に」実践してきた者にとっては、とても面白く、将来が明るくなるのを感じました。
心理臨床界の「異端者」として、細々、コソコソとやってきた瞑想法が、アメリカでは堂々と心理療法の一角を占めるようになるとは。
さらに心理学科といっても実験系ばかりの印象で肌に合わず、若き日に勝手に授業やキャンパスを逃げ出して外の現場に飛び込んだ者としては、まさか母校でこのような研究をしている人が出ていたとは。
時代の流れを感じました。
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October 06, 2007
今回、今や主流となりつつある認知行動療法の著名なI先生の事例発表など聴講してとても、参考になりました。正体を明かそうと思わず声をかけようかと思ったのですが、なぜか恥ずかしがり屋で人見知りの私はできませんでした。次回にがんばろう。
認知行動療法はいろんな方が紹介や解説を書いているでしょうから、私は変わった療法を書いてみたいと思います。
特に興味を引いたのが、タッピング・タッチというものでした。緩和ケアやホスピス、在宅ケアなどで好意的に迎えられている新しい技法だそうです。
タッピング・タッチとは、指先の腹のところを使って、軽く弾ませるように左右交互に優しく叩くことを基本としたシンプルなケアの技法です。こころと体の緊張を取り戻すことによって、みんなで仲良く生活することの楽しさを思い出させてくれます。(当日資料より)
タッピングといえば、トラウマ的記憶を思い出しながらトントンツボを叩くTFT(思考場療法)が有名です。けっこう効果的で愛用していますが、これはそれに比べると、ゆったり、ゆっくりと柔らかーく背中や肩を叩く(というより、触れて拳を乗せるという感じ)ところが大分違いました。
心理的効果として、
・不安や緊張感が減り、リラックスする。
・肯定的感情(楽しい、ここちよい、気が楽になる等)が増える。
・否定的感情(いらだたしい、深刻、寂しい等)が減る。
・こだわりがほぐれ、積極的またはプラス思考になる。
・とても大切にされた、いたわってもらえた感じになる。
・幼い頃のことなどを思い出し、穏やかな気分になる。
だそうです。いいんじゃない。
事例発表もありましたが、ほとんどワークショップになって、参加者みんなで実習したのがよかった。
私は緩和ケア病棟にお勤めの心理士さんと組ませてもらいましたが、腰、肩、背中をゆったりとしたリズムでタッピングしてもらい、なんかほんわり暖かい気持ちになりましたよ。
とてもいい感じ。緩和ケアや弱った方にはとても素直に受け入れられるだろうと思いました。
のんびり、ゆったりするのが大切で、サルのグルーミングみたいです。
左右交互に叩くのがまたミソだそうで、EMDRに通じる原理があるのではないかと講師の中川一郎先生の話でした。
この先生もまた、スキンヘッドで真面目に修行しているお坊さんみたいで、ホリスティックやニューエイジ系にはよくありそうな雰囲気ですが、なんか面白いというか、とても暖かみのある方でした。
脱力名人を目指す私に、リラックス技法がまた一つ増えた。
私の現場では、発達障害児のお母さんグループとか虐待ケースの親子カウンセリングに使えそうです。
ホリスティック心理教育研究所
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October 03, 2007
26日ワークショップは「発達障害のある子どもの気になる行動に対する応用行動分析学によるアプローチ」で応用行動分析学を学びました。講師は井上雅彦先生。時々先生のブログを拝読しているので、とても楽しみにしていました。
会場は2,3百人ぐらいか大教室にびっしりと詰め込んだという感じで大盛況。行動分析学を学ぶならこの人というくらい、人気講師のようです。
山梨から遅れてきた私は、最後列近くの席しかなく、はるか遠くから先生のご尊顔を拝しておりました。
声もなかなか渋くて良くていい男でしたよ(キャッ)。
応用行動分析学(ABA)は知っている人はよくおわかりのように、とても単純です。ある問題となる行動の前後の環境の動きを明確にして、その環境の動きを操作して、目的の行動を操作しようとするものですよね。
井上先生もその原理は「イヤになるくらい単純なもの」と仰ってましたが、そこにオッカムのカミソリというか科学原理としての自信とプライドも感じましたね。
行動の前後に目を向けることによって、
・同じ機能(意味)でちがう行動(例えば「奇声を上げる」「他者をつねる」)をしている場合があるということもわかってきます。
・どんなときに起こりやすいかわかれば対応がしやすくなります。
行動単体でなく、文脈を捉えることが大事ということですね。アドラー心理学やシステムズ・アプローチに展開させていける発想です。
私も行動分析学の原理は、人生の骨組みだと思います。これを身につければ大抵の問題は解けます。感情的にならず冷静になっていられればね。
スキナーはホントに偉い。
ワークショップでは、発達障害児がよりよく対人関係や社会に適応するのを援助するためのアイデアに満ちておりました。
ABAに基づく「ストラテジー・シート」を使って行動の流れを分析して、よりよい操作をどうやって見出していくか、どうやって当事者や家族、教員らと話し合っていくかについての講義とワークが面白かったですね。
関西人らしくというか、アイデアを出すときは、まじめくさって考えるのではなく、ブレイン・ストーミングのように変なものでも臆さずどんどん出し合うことが大切とのこと。
高いところに昇って困る自閉症児に対して、「学校の高い木を全部切っちゃう」みたいなものでも可。
そういうのは甲州人の私も大好き、大得意。調子に乗り過ぎてクライエント、コンサルティーたちにあきれらないようにしなくちゃ。
以前アメリカの事情に詳しい方から、アメリカの「ABAマーケット」はすごいという話を聞いたことがあります。すごいというの障害児療育の主流になっていてかつ効果的というだけでなく、またお金を生む市場にもなっているというニュアンスでした。
日本はまだ特別支援教育や療育センターなど、公的機関中心のABA的援助ですが、これからは似たような感じになるかもしれません。
社会的マージナルを扱う私の福祉領域はどうなるかな。
発達障害児だけでなく、虐待の親子再統合や非行など、さまざまなケースでストラテジー・シートを使ってみたいと思います。
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August 30, 2007
ブリーフサイコセラピー学会初日のワークショップは、RDIに参加。
「RDI Relational Development Intervention 自閉症、アスペルガー症候群などを対象とした対人関係能力発達援助プログラム-家族の養育・ペアレンティングのサポート・援助を重視した療育プログラム」
自閉症、アスペルガー症候群への新しい療育として注目を集めつつあるRDIをホンの触りですが学ぶことができました。
本ブログでもずっと以前本邦初の邦訳書「RDI-対人関係指導法」を紹介したことがありましたが、はっきりいって同書ではいろいろ書いてあるわりには、どうも具体的なことがわかりませんでした。
講師の先生によると、当初なにかと高コストだったRDIも進化、変容を急速に遂げていて、今はより自然に生活の中で自閉症児に関わっていくソフトなやり方に変わっているそうです。今回はその辺を学ぶことができたのが収穫でした。
自閉症とはCo-regulationの欠如から中核的症状が現れるという考えの下に、そこへどう働きかけていくと良いか興味深いアイデアに満ちているようです。
Co-regulationとは「パートナーの連続的に移り変わる行動によって左右され、絶えず変更・修正されるような、個人の行動の連続的・継続的な展開」であり、複雑でダイナミックな人間のコミュニケーションに適応するには不可欠の能力とされています。
自閉症児はそこが神経学的な何らかの脆弱さゆえに発達させられず、防衛的に自閉症特有の状態像を現し、生きるために必要な「ダイナミックな知性」を伸ばすことができなかったと考えられるといいます。
どのようにそこに介入していくか、内容の詳細はここには書けませんが、日頃の臨床にとても貴重なアイデアをいただきました。ロールプレイで自閉症児になるのも面白い体験だった。
いつかもう少しマスターできたら、本ブログでももっと紹介したいですね。
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April 30, 2007
「現代に生きるアドラー心理学」
「アドラーを読む」
から、アドレリアンは物事や心理現象をどう見るか、改めて考えてみましょう。
両書ともギリシア哲学、アリストテレスの考え方から人間の認識の仕方を整理しているところが目を引きます。
アリストテレスが書いた「形而上学」では、これ(心の葛藤)を目的因と呼んでいます。アリストテレスは、左記の四つの原因を挙げ、私たちが物事の性質を理解するのに、それらを知っているべきだと考えました。
質量因・・・何であるか
作用因・・・どのようにしてそうなったのか
形相因・・・どんな形態/本質なのか
目的因・・・何のためか、またはその目的
うつ状態の女性の例を挙げて、もっとわかりやすくしてみましょう。
質量因・・・悲しげな様子。無気力で日々変動があり、精神運動制止を持つ。
作用因・・・生まれつき傷つきやすい性質を持っている可能性がある。片親の幼少時代になくした経験があり、夫に最近出て行かれたばかり。
形相因・・・気分(感情)障害があり、それが彼女自身や周りを苦しめている。不平を言い、「最悪な」気分になり、自分自身に批判的。
目的因・・・周りの者たち彼女のために尽くし、歩み寄り、彼女が別れた夫に復讐しようとすることを許すことになる(「あの男が私の人生をめちゃめちゃにしたんだ!」)
さまざまな心理療法「学派」で、それぞれ異なった原因を強調していますが、最初の三つの原因(質量因、作用因、形相因)はよく知られ、ほとんどの臨床家が実際に適用しています。アドラーは、四番目の目的因を強調しましたが、アドラー心理学は全体論であるため、目的因に重点を置きながらも、この四つ全てを重要視します。(「現代に生きるアドラー心理学」)
子どもの問題行動の「原因」には、生来的な発達障害があり(質量因)、親に虐待された心の傷があり(作用因)、多動性や攻撃性、注意欠陥障害を持っている(形相因)と、多くの心理臨床家は考え、描写しています。
我々臨床家、心理学者の考え方は、古代ギリシアの哲人に既に整理されていたのですね。それらが新しい心理学的理解と思い込んでいる人が多いこと。
知識の中身はともかく、我々の認識の枠組み自体は、古来からそう変わらないということでしょう。
アドラー心理学では、それらを含みながらももう一つ、目的因を第一に考えます。その子どもは、それらの「原因」を対人関係の場で何のために使っているのだろうか、と。
甘やかされた子どもがいるとする。その子どもが甘やかされているとしたら、母親は確かに起動因(作用因のこと)ではある。甘やかした子どもがいなければ、母親に甘やかされた子どもはいない。しかし、そのような母親に育てられた子どもは必ず甘やかされた子どもになるかといえばそうではない。子どもがそうなることを善しとする判断をしなければならない。あるいは、アドラーのいい方に従えば、子どもがその「創造力」(「個人心理学講義」12貢)によって、甘やかされることの目的を創り出すのでなければならない。(「アドラーを読む」)
アリストテレスを引用したこの心理学的原因理解は、アドラー心理学を学び出した頃に知って、随分頭がスッキリと整理された思いがしました。
その当時は野田俊作さんのオリジナルかと早合点していたけど、アメリカのテキストにもあったので、アドラーやその後継者たちは最初からそのように考えていたということなのでしょう。
精神分析学は当然作用因(幼少期の母子関係)と形相因(トラウマ)を強調するのでしょう。医学的診断や障害児臨床をやる場合はどうしても質量因に偏りがちです。
いろいろな臨床心理学を学ぶときに、これは質量因、作用因、形相因、目的因のどれに重点を置いているかを考えてみると相対的に位置づけることができていいかもしれません。
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April 28, 2007
以前利き脳研究から出たうさうさ脳テストについて書いたことがありますが(ううタイプ)、先日図書館で、その研究者坂野登京都大学名誉教授の本を見かけて、取り出して読んでみました。
しぐさでわかるあなたの利き脳
10年近く前の本で、脳テストについてはあまり書いてないのですが、著者は指組みと腕組みが利き脳と深く関係していることに気づき、科学的に研究している様子がわかりやすく書かれています。
また脳の情報処理の過程や、世間に未だに流布する右脳信仰のナンセンスさを批判しているところも、納得できます。
それより私がおやっと思ったのは、指組と利き脳に気づいた先駆者として、アドラーを坂野先生があげていることでした。
個人心理学の創始者であり、ユングとも親交のあった精神分析家のアドラーは、日本でもよく知られている。しかし、指組みで左の親指が上にくる人は無意識が優勢であり、右の親指が上にくる人は意識が優勢であると彼が書いていたことは知られていない。
その根拠について彼は何も述べてないが、たぶん彼の臨床的な経験によるのだろう。アドラーは、自分の考えが脳のはたらきと関係していることには気づいていなかったが、今風にいうと利き脳の違いが指組みの違いと結びついているということになる。
そういえば、そんなこと読んだことあるような・・・、忘れてたけど。観察力の達人のアドラーらしい話です。
さすが坂野先生、アドラーも読んでたんだ。
ちなみに私は、指組みも腕組みも左が上で、情報入力も出力も無意識(右脳)が優勢な非理性的人間なのです。
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March 27, 2007
気温の寒暖の差が大きくて何となく体調がすぐれません。
先週末は頭が痛くなったり、帰途につく運転の途中、胸がムカムカしてきて吐き気を催したこともありました。
年度末の忙しさ故でしょうか。確かに少々疲れております。
そんな中、児相恒例の家族療法の研修会。講師は家族療法家のA先生、いつも眠る間を与えない楽しい講義と達人的なカウンセリングの技法を見せてくれ、本県でも着実にファンが増えています。
今回は事例検討会、スーパーヴィジョンということで、私もひとつケースを出しました。
私らしく、ブリーフセラピーの質問技法とスコット・ミラーさん開発のスケーリング、アドラー心理学のライフスタイル診断を組み合わせたケースでした。
よく考えればクライエントさんは人格障害っぽくてけっこう難しいケースなのに、感情的に巻き込まれず、児相として適切に対処していると先生からお褒めの言葉をいただきました。やっぱうれしいね。
それより、自分なりの振り返りをしたときに、私は面接の中で、ある技法を使用するかどうするか決定するときに、自分の体の中に湧いてくる「感じ」に従っていることに改めて気づきました。
「あ、この人に、この場面で、これが使えるな」と直感に似た感覚がするときは、それが一見そぐわないように見えても、素直に従って使ってみると通じる、効く、盛り上がる、共感し合えるなんてことが起きます。
そういう感じがないときはやっても駄目というかパッとしない、うまくいかないときが多いような気がします。
そう言ったら先生からは、「その感じているっていうのがアセスメントしているってことなんじゃないかな」とおっしゃっていただきました。
確かにそうなのです、面接という複雑なコミュニケーション状況で、無意識的に高速で認知しアセスメントして、「次の手」を判断しているはずです。
ですがそれにしても、私はA先生みたいな優秀な心理学者さんたちと違って、論理として言葉で的確にその過程を表現することが苦手なタイプなんだな、表現型は触覚というか体感覚タイプなのかもしれないなと改めて思ったのです。
論理、アルゴリズムより、ある場面では直感を信用するということですね。
ライブ感覚に優れているということは、武道家としては良いことだし、臨床家としてもマイナスにはならないでしょう。人格障害だって感覚でなにげに突破しちゃうんだから。そういう問題のある人だってやりにくいと思ったことないからね(もちろんいつもうまくいくわけではありませんが)。
無手勝流に勝手にやっているのとは違うのだけど。
それでも、もう少し学問的、研究的な言語に移し替えることのできるようになりたいものです。
これ読んでくれている人には何のことかわからないでしょうけど、最近の実感でございます。
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January 17, 2007
児童相談所にいると、日々虐待やそれに関連するトラウマ的事象に遭遇するので、ここで改めてアドラー心理学的にトラウマとその心理療法について考えてみようと思っている今日この頃。
トラウマだってアドラー心理学の理論に立ち返って考えるとさほど難しい話はないのですが、世間、心理臨床界一般で流布するトラウマ学説とかなり乖離するところがあるので、どう表現するべきか少し考えているところでした。
そこへ、日本のアドラー心理学を代表する人の一人、奇才・変人の精神科医、野田俊作氏の講演記録を聴く機会を得ました。音声配信サービスとしてアドラーギルドの野田俊作ライブラリの今月号で売り出されています。
野田さんはとっても面白い人だけど、僕はタイプが違うためかあまり師事する気にはならなくて、時折明確な所論を参考にさせていただくという感じです。
彼は極端な聴覚タイプらしくて超論理派で、何の準備もなしで講演に入っても、そのままスラスラと理論的な話を展開していけるというステキな才能のある方です。原理的な考察をするときに参考にするには、この上なく便利な人です。
本記録は何年か前の富山での講演らしいのですが、アドラー心理学の原理から考えられるトラウマ説の明確な否定と、その間違った発想に基づいて臨床的、制度的な普及活動を続ける臨床心理士への批判のあまりの過激さに、来ていたアドラー心理学を知らない専門家(おそらく臨床心理士か)が、「何度も野田先生を殺そうと思った」ほどだそうです。
「ほう、そんなに過激なら僕もケンカのネタに使えるから是非聴きたいものだ」と思ったわけですね。
内容は、確かに長年臨床心理士のお偉方が伝えてきた内容と正反対、こりゃ真面目な臨床心理士ほど怒るわな、と納得。過激な話芸、おもしろかったですよ。勇気づけるのもうまいだろうけど、人を怒らせるのも上手な人だ。
アドラー心理学の目的論からは、心の中に実体としてトラウマがあるのではなく、またトラウマが症状を起こすと原因論的に見るのではなく、ある対人関係上の機能を果たしていると見るので、アプローチは他のものとやや変わってきます。
僕もアドラー心理学を学んでから全く同じように思っていたし、児相でたくさんのケースを見る中で、基本的にその発想でいけると思っていました。
だから基本的には同じ発想だと思いました。御大と一緒で良かった(?)。お勉強の甲斐があったかな。
最近野田さんはポストモダン思想から考察されているようで、元々ポストモダニスト的な僕とも関心がだぶりますね。昔は団塊の世代的な共同体主義者のように見えたけど、ようやくここまできたか(えらそう)。
それにしても野田先生、これほどの内容をなんできちんとした論文や書籍なんかの形で公刊したりして、世間、心理臨床界にオープンに問うていかないのかなあ。相変わらず、内輪向け、内輪受けの話ばかりしているようだね。この辺がねえ・・・(自粛)
本講演は今月のみの配信なので、トラウマといったテーマに関心のある方、アドラー心理学に怒りたい方(笑)、是非お勧めですよ。
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January 14, 2007
ブリーフセラピー、ソリューション・フォーカスト・アプローチを引っ張り続けた代表的セラピスト、インスー・キム・バーグさんが現地で10日に、亡くなったそうです。
昨年夫君のスティーブ・ド・シェイザー氏が亡くなったので、後を追うかのようですが、知らせによると「幸せそうに亡くなった」とのことです。
でも、早過ぎる死です。
私はブリーセラピーに関心を持って5,6年ですが、彼女の著書もたくさん読みましたし、ビデオも見たりして大変影響を受けました。
ありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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January 13, 2007
全国児童相談所研究会(略称児相研)というのがあります。児童相談所に勤めている人たちの全国的なネットワーク、研究団体です。任意の団体ですが、毎年欠かさず全国セミナーを開講したりしている活発なグループです。
昨年12月、その児相研が「障害者自立支援法に関する児相研の見解」というものを出しました。法律ができて1年経ち、この法律の欠陥が明らかになるにつれ、現状を黙って見過ごせないという思いをみんな感じていたということでしょう。
抜粋して大略を示します。
「障害を持った子供が安心して暮らせる社会を!-障害者自立支援法の根本的な見直しを求めます」というテーマで、先ず福祉サービスを利用すると、これまではその人の所得に応じて負担すればよい「応能負担」だったのが、原則的に1割を負担しなくてはならなくなる「応益負担」に変わったことについて述べています。
福祉の理念を根本から覆す「応益」負担
障害児にとって、発達保障の観点からみても施設での療育は不可欠です。また、障害のあるわが子の多動やパニックへの対応で心身ともに疲れ、施設の利用でかろうじて虐待を免れているという保護者も少なくありません。障害児を育てる多くの親には、健常児であれば特段の問題など生じないような日常の家事、育児にもさまざまな困難が生まれることが多く、こうした日々の営みへ行き届いた支援を行うことこそが、国や自治体の責務ではないでしょうか。・・・(中略)・・・
「障害児に対する福祉的施策を活用することは利益なのだから一律に相応の負担をせよ」という応益負担の考え方は、児童福祉法の根本原則に背くとさえ言えるのではないでしょうか。
私が以前からここでも批判した内容そのものです。全く正当な主張だと思います。
障害者の金を取る法
次に、障害児施設への契約制度が導入されたことについて、従来の措置制度から移行したことで、それまで児相が間に入ってしていた入所の調整や情報提供ができなくなり、かえって障害児の家庭の福祉サービスへのアクセスが困難になってしまっている現状が指摘されています。
障害児施設という社会的リソースは、地域によっては質、量ともに限られているために、契約制度にうたっているような対等、平等な契約なんて実際にはできていないのです。
また「事業者への報酬単価設定は、新たな困難をもたらしている」という節では、厚生労働省が障害児施設を経営する事業者への報酬単価を1.3%引き下げたことや利用料の1割が自己負担となったことで利用者が減少してしまい、施設の経営が著しく悪化、困難になっていることを指摘しています。
つまり、障害児を受け容れて療育を施す施設も、質・量ともに弱体化を招きかねない状況にあるのです。そうなっては、専門性をうたっていても実際は満足のいく内容の関わりができなくなる恐れがあります。
結局この法律は、少なくとも障害児の分野で見る限り、利用者を苦しめ、相談援助も受けにくくし、事業者にも困難を押しつけるものとなっているのです。
最後に意見書はこう結んでいます。私も全面的に賛成です。
児相の多くの仲間の思いが集まったものといえるでしょう。
障害児にこそ思い切った「社会的コスト」を!
障害者自立支援法は、このままでは障害者を突き放して自ら解決するよう求める「障害者"自己責任"法」に、あるいは障害者を福祉サービスから遠ざける「障害者"疎外"法」「障害者"自立阻害"法」にさえなりかねません。・・・(中略)・・・
本法の施行で、従来よりも大幅な負担増を迫られる障害児者とその家族にすれば、障害者福祉のコストは、逆に大幅に切り下げられてしまったというほかはありません。障害児が安心して暮らせる社会を作っていくことは、あらゆる人にとって安心できる社会を築くことになります。
私たちは、障害児施策に思い切った「社会的コスト」を投入することをあらためて強く訴え、障害者自立支援法の根本的な見直しを要望するものです。
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December 03, 2006
師走に入った週末、上京して私の学舎ヒューマン・ギルドにて「うつと認知療法セミナー」に参加しました。
認知療法、認知行動療法について私は、本を通してのほとんど独学なのですが、元々アドラー心理学と相性がよいのでなんとかそれっぽくやってきました。
またブログで知ったり教えていただいた情報やつながりの中で、少しはわかるようになってきたところもあります。
そんな中、念願していた「認知療法直接伝授」をしていただく機会を得ました。
講師は山梨県立短期大学助教授、精神科医の坂本玲子先生。そう、私の地元・山梨にいる人です。
実は以前から坂本先生は存じ上げていたし、直接お話したり飲み会の場にご一緒したこともあったし、職場もかぶってた時期もあったのですが、本格的に学ばせていただくのは初めてです。
アドラー心理学も医学部の研究生の時からヒューマン・ギルドで学ばれていて、アドレリアンとしても14,5年ですから、ほとんど私と同じくらいのキャリアがあります。
認知療法も長く大野裕先生のところなどで学ばれていて、実践を積まれています。この春にはフィラデルフィアのベック・インスティチュートで研修を受け、かのアーロン・ベックにもお会いしたとか。
こんな凄い方が近くにいたなんて。
しかも医者になるまでの道がおもしろくて、早稲田の文学部で国文学を学ばれて教員として社会人になってから医師の道を志されたとのこと、並大抵の知力体力意思力ではないようです。
しかも文学部にいたせいか、表現力があって、話が凄くおもしろいの。
まさに「変幻自在のキャラ姉さん」みたいな感じで、女子高生や今時の若い女性の口ぶりを真似ての恋愛話一人ロールプレイにはゲラゲラ笑った。
これは私には絶対できない芸当だ(みんな気持ち悪くて卒倒するに違いない)。
前から医者にしては面白い人だと思っていたけど、これほどとは。
もちろん治療的実力もしっかり持っておられます。
ヒューマン・ギルドでも何回か講座を持っていて、既に人気講師の地位を確立しつつあるようですし、これからの注目株と見ました。
内容は専門的なので省きますが、認知療法の初歩的なことから段階的にしっかりと伝えていただきました。
先生によると、ベックは初期にアドラー派とホーナイ派の訓練を受けたそうです。なるほど、やっぱりね。
良いものには感化されやすい私は、坂本先生の明るいエネルギーに触発されたみたい、これからの学びのターゲットは今さらだけど、認知療法にしよう!
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November 26, 2006
先週末横浜で開かれた「子ども虐待防止シンポジウム」に出張で参加。二日間のワークショップでした。
サインズ・オブ・セイフティー・アプローチ(SoSA)を学んできました。
オーストラリアのソーシャル・ワーカー、アンドリュー・ターネルという方が開発した、児童虐待の調査・面接に関する比較的新しい方法論です。
ブリーフ・セラピーや家族療法が元になっています。
従来からある虐待へのアプローチは、もっぱら親や家庭における虐待のリスクや危険性のアセスメントのみを行い、問題の解決とはそのリスクの軽減、消滅を目指すことと考えてきたといえます。
それは子どもの最悪の事態を避けるためには一見必要不可欠に思えるでしょうが、実はそれだけではうまくいかないことがよくあります。
よくあるのは、膨大なリスクアセスメントのリスト項目を検討することからくる判断の硬直化(イギリスではそれが顕著になってしまったとのこと)と親・家族との不要な関係の悪化が生じやすくなることです。
SoSAは、虐待家庭のリスクも正確に見ながらも、親や家族の安全性(セイフティ)、強み(ストレングス)、リソースも同時に見ていこうとするもので、しかもできるだけそのプロセスを親と共同でやろうとするものです。
そのために面接では一枚の大きめの紙やホワイトボードを使って、家族と一緒にアセスメント・シートを埋めていきます。
とてもシンプルかつポジティブな発想で、一見問題だらけに見える虐待家庭をバランスよく見ようとするところが素敵です。そうすれば、対立しがちな家族からも協力を得やすくなりますし、リスクもかえって正確に見通せるようにもなります。
虐待の解決とは、虐待をなくすこと(殴らないとか罵倒しないとか)だけでは不十分で、それに代わるもの、家族の良さ、強み、肯定的な側面を増大させることにあると考えているのですね。
酒でも犯罪でも何でもそうですが、「~するな」は効き目が薄いものです。具体的な「良いもの」を増やさないとならないと思います。
SoSAは、そういう発想に立っているところがいいですね。
私は3年前、ターネル先生が初来日してWSを開いたときに参加して、SoSAの使い勝手の良さに感心して、以来自分のケースの面接で使ってきました。とてもいいなあ、と実感しています。
だから自分にとって今回は二回目の学びです。一緒に参加した仲間や全国からの参加者はほとんどが初めてのようでした。少しずつ広がっているようです。
ターネル先生は、スキンヘッドでユル・ブリンナーみたいな人ですが、フランクな実践家といった感じで、なかなか良い雰囲気の方です。
ご承知の通り、全国で頻発する虐待の被害や事件を少しでも改善させるために、このSoSAが関係者の間にもっと普及してくれたらと願わずにはおれませんでした。
詳しくお知りになりたい方は
「安全のサインを求めて-子ども虐待防止のためのサインズ・オブ・セイフティー・アプローチ」A・ターネル著,金剛出版
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November 08, 2006
大学で心理学を勉強すると錯視をやりますね。なつかしいです。
しかしこれはすごい。
奥田先生のブログで紹介されていた、立命館大学教授北岡明佳先生のHP。おもしろい錯視図形がてんこ盛り。
どう?動いて見える?
職場の仲間にHPの図形をいろいろ見せたら、「動いて見える!」と言う人と「全然見えない」という人に別れました。僕にはグルグルに見えて、見えないなんて信じられないけど。
「俺、頭固いからな」と上司は言いながら去っていきましたが、そういうの関係あるんですかね。
面白いですね。
あまり見つめすぎて酔わないようにお気をつけ下さい。
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November 06, 2006
ある秋晴れの一日、相談所に通う子たちと一日富士北麓へ行楽。
午前中は陶芸教室、午後は芝生の広い公園で散策。
松林が周囲に広がるその一帯は、夏から秋にかけていろいろな種類のキノコが生えてきます。
私は10年ほど前、ビギナーズラックでこの辺りでなんと松茸を3本も採ったことがあるのです!
あの感激は忘れられない、100%天然物純国産の松茸でした。美味しかった・・・。
以来、詳しくはありませんがキノコ狩りが好きになりました。
子どもたちが遊具や芝生で遊ぶ中、私がキノコを採ってきて見せると男の子たちは関心を示して一緒に林の中を歩きました。
もう季節は晩秋で大きいのはなく、小さな名前も知らないキノコしかありませんでしたが、いちいち見つけては「これ毒?」とか聞いてきます。
「多分ね」と適当なことを言いながら、キノコの話をしました。
いくつか採って女子職員や女の子に見せます。アミタケの大きくなったやつにはみんな驚きますね。食べられるものもありましたが、間違って変なのを持って帰って食べるのは困るので、そのまま自然にお返ししました。
そんな中、一人元気な子が棒きれを見つけてきて、チャンバラを挑んできます。丁寧に私の棒も持ってきてくれました。
そこで応じなければ男じゃない、とチャンバラを始めます。
でもおもちゃの刀じゃない、でこぼことした棒なので当たると擦りむいてかなり痛そうです。
相手の子もそれなりに加減はしてくれますが、そこは子どもですから簡単にエスカレートします。「おりゃー」と棒を振り回してかかってきます。
私はまさか本気で反撃するわけにはいきませんから、攻撃を受け止め、いなし、さばくに留め、「やーっ」と軽く攻める振りをします。
相手の子は喜んでもっと打ちかかってきます。
そこをうまくコントロールしながら、子どものエネルギー、攻撃性を発散させるのがこういう遊びのミソですね。
コツは相手の攻撃を柔らかいタッチで受け止めたり流すことかな。ガツンと受けるとダメみたい。けっこう難しいよ。
その姿は、半身の姿勢で片手に棒を持ち相手を迎え撃つので、まさに普段学んでいる中国の剣術、太極剣や形意剣さながらです。
まるで映画「英雄/ヒーロー」のジェット・リーみたい(?)。
自分の身を相手の切っ先から守りながら、回り込んで攻める剣術の巧みさを、こんなところで学ぶことができましたよ。
ひとしきりチャンバラをして、「わー、もうダメ、降参降参」とギブアップしたら、やっと終わってくれました。
しかし、子どものエネルギーはすごいわ。
楽しかったけど、疲れて果てて帰りのバスは熟睡。
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October 15, 2006
14日夜のTBS系列「人間!これでいいのだ芸能人丸裸スペシャル”うさうさ脳”で本当の性格&相性がわかる」観ました?
性格なんて信じない、なんて日頃いいながら、この手の番組けっこう遊べて私好きです。
指組みと腕組みをして、それぞれ左右どちらの手が下になっているかで、性格がわかるのだそうです。
(1)右脳左脳~手と腕の組み方で本当の性格が分かる
手の指を組んだとき、親指が下にくるのは右、左?腕組みしたとき、手首が下にくるのは右?左?実はこの手と腕の組み方には、「脳のクセ」があらわれるという。
それによって、人の性格は4つのタイプに分けられることが判明。
「ささ脳」は、まじめで几帳面。
「うう脳」は、楽天的なマイペースタイプ。
「さう脳」は、世話好きなおおらかタイプ。
「うさ脳」は、個性豊かな負けず嫌いタイプ。
スタジオでは、出演者たちのタイプチェックを実施!さらに、有名人のタイプ分けなども参考にしながらそれぞれのタイプを探っていく。指や腕の組み方さえわかれば、気になるあの人の本当の性格が分かる!というおトクな性格診断。あなたはどのタイプ?http://www.tbs.co.jp/program/korede-e-noda.html
私は、完全に「うう脳タイプ」。幼い頃から右手が下だったな、左を下にしてみると気持ち悪くて仕方ない。
「楽天的でマイペース」、ふむ、まさにその通りだね、自己イメージそのものです。ささ脳では絶対ないのは確か、ただうさ脳は入っているような感じはします。
番組で流したうう脳タイプの人のVTRには、共通している面が感じられたな。家族にもやってみたら、「さう」と「うさ」がいて、みんな当たっている感じ、サンプル3個で今のところ100%当たりか?
何でも脳の情報処理に関係するとか、確か指組みは後頭葉(情報処理に関わる)、腕組みは前頭葉(表現に関わる)に関係して、そのそれぞれの左右どちらの脳が優位かによって4つに分けられるのだと言ってました。
その根拠づけ(権威づけ)として、京都大学名誉教授の坂野登氏、日本大学名誉教授の大村政男氏が登場、お二人とも心理学の世界ではその道の大御所ですよね。
では、マジか?
坂野氏は「利き脳」の研究をしていて、一般書も出してるようです。元ネタだったみたい。
http://www.bk1.co.jp/product/1597372
ああ、そうそう、番組では昔から脳と性格のタイプを研究した学者にデスモンド・モリスとあともう一人の有名学者(名前忘れた)と並んでアルフレッド・アドラーが写真入りで紹介されてました。
ほんとかよ?不覚にも不肖アドレリアン、知らなかった。
番組出演者でうう脳タイプは、高田純次と飯島愛、インパルスの二人、押切もえでした。実はこの人たち、もえちゃんはおじさんよく知らないけど、割と好感を持っているタレントだったのね。
特に高田純次なんて、昔からあのキャラ大好きだったの。実は私の隠れた自己理想、ロールモデルだったっていってもいいかも(表の理想キャラはアドラーとM・エリクソンってことで)。あの無責任発言と脳天気さ、スケベさがいいね。
うさうさ脳テスト、やるな。
亀田八百長疑惑でミソをつけたTBSなだけに、かなり不安ですが、遊べるかも、今度女の子と話するとき使ってみよう。
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September 27, 2006
先週末、日本家族研究・家族療法学会の地域ワークショップがこの地で開かれ、1日参加しました。
午前中の講演は、おもしろかったけど家族療法についてあまりご存じない方向けの内容だったかもしれません。実際山梨で家族療法をきちんとされる人はいないと思いますので、それは良い選択だったと思います。こちらはいまだに精神分析系が多いからね。
真面目な話、家族療法家ではないけど、私があの会場にいた山梨県人ではきっと一番詳しかったかも。
ただ、御大吉川悟先生が講演をされる予定だったのがご都合で来られなかったのは正直残念でした。
午後は分科会、私は児童虐待のところに出ました。講師は京都の児童相談所の課長さんの川崎二三彦氏、虐待やソーシャルワークについての本も出されていて、児相の業界では割と知られた人です。
感想としては、虐待問題には最善の解決というのはなかなかない、よりベターなものを選んでいかざるを得ない、解決してもいつもどこかに苦さが残る、といったお話に共感しましたね。
全くその通り。どこも苦労するところは同じだと思いました。
さて、真面目な話を聞くのもよいのですが、大会スタッフになっていたK先生に久しぶりにお会いしたのがうれしかった。山梨のE大学から中京地方に転出されたのですが、実は空手をたしなむ人で、大学の空手部の顧問もしておられました。
私の中国武術の稽古会にも見学・参加してくれたこともあり、とても気の置けない人です。
再会するといきなりK先生から、「ホームページされてますやろ?」と聞かれて、ドキッ、ばれちまった。まあ、山梨の心理士でこんなことしているのは一人だとすぐわかるもんね。
1年前はK先生の他にもう一人、私の稽古仲間に同じE大学のM先生という方がいたので、三人で山梨臨床心理士会武道部会を作るか、なんて冗談で考えていたのにお二人とも偉くなって外に出てしまい、残ったのはジモティーの私一人・・・。
そのK先生、最近沖縄古伝の空手、泊手というものを学び初めたら、かなりビックリしたそうです。
とにかく、ひたすら力を抜く稽古で、長時間型を練るそうです。ゆっくりと動く動作はとても微妙で、まるで太極拳みたいだとのことでした。
組み手稽古も太極拳の推手とそっくりなことをやっているそうで、ちょっと私とやってみたら、ほんとにそう!(しかし、学会中の大学の廊下で腕を交わし合い、妙な動きをするオヤジ二人・・・)
「本土のスポーツ空手とまるで違う」とおっしゃってました。やはり沖縄から本土に空手が伝わるとき、大事なところを隠して伝えたという説は本当のことかもしれません。
ついでにK先生の一言、「心理学の本より、武道の本を買いたいですわ」に激しく同意しました。
その他に、私が催眠を学んだ時の講師のY先生を見つけて声をかけさせていただいたりで、そんなこんなで、趣味と仕事が一体となった一日でした。
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September 20, 2006
山梨で、アドラー心理学に基づく親子関係セミナーSMILEが開かれます。
SMILE(スマイル)はSeminar of Mother(Father)-child Interaction with Love and Encouragement 日本語では「愛と勇気づけの親子関係セミナー」という意味です。
スマイルはアドラー心理学をベースによりよい親子関係を(すべての対人関係に応用可)築くためのセミナーです。
スタートは10月12日から毎週木曜の全8回行われます。講師はアドラー仲間の手島さん。お問い合わせはスマイルネット山梨まで。
ペアレント・トレーニングは最近数あれど、アドラー心理学は世界的にもその先駆けとなっていました。SMILEは有料なだけにテキスト、プログラム内容共に充実しています。とても楽しく、子育てや人間関係について学べますよ。
1章 子どもの行動を理解しよう
2章 聴き上手になろう
3章 子どもを勇気づけよう
4章 誰の課題でしょう
5章 子どもを傷つけないで意見を伝えよう
6章 体験を通じて学ぶ機会を与える
7章 新しい家族のあり方
8章 社会性のある子どもに育てよう
僕はまだ子どもも女もいない頃、仕事が終わってからヒューマン・ギルドまで通ってSMILEを受けていました。思えば当時は子育てなんかしていないにもかかわらず熱心なことですが、そこでの体験や学んだことは日常生活でずいぶん恩恵を受けました。女性にもてるようになったな(嘘)。
もちろんカウンセリングにもそのアイデアは十分使えました。
難しい言葉は一切出ませんし、人間関係について学びたい人には絶対おすすめですよ。
山梨にお住まいでない方は、お近くでやっているかもしれません。ヒューマン・ギルドにお問い合わせ下さい。
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September 16, 2006
大阪に久しぶりに来ました。関西大学で開かれる日本心理臨床学会のワークショップに参加するためです。ほんとは全日程参加したかったのですが、土曜は子どもの運動会があるため、やむを得ずとんぼ返りです。
だから無理して行くことないかなと迷いながら申請したら、ナラティブ・セラピーも認知行動療法も定員オーバーだかで外れ、第3か4希望の描画法になってしまいました。まあ、しゃあないと思いつつ参加です(講師の先生、ごめんね)。
お絵かきの心理テストは、子ども臨床には不可欠のアイテムですが、どうしてもお金を出して行くからには自分の好きな内容の講座に偏りがちなので、こういうのもかえっていいかもしれません。
それにこれまでは描画法が好きな職場の先輩たちがやっているのを見よう見まねでやっているところがあったので、専門に研究している先生のお話を聞くのはきっと役に立つはずです。
実際良かったですね。統合型HTPの入門者用の基本的なことが主でしたが、改めて実施する上での確認になりました。
また、21年前と現在の子どもの描画の比較を大量のスライドで見せてもらいましたが、これは面白かった。
今の子どもたちの絵は逸脱・病理群ではなくて、平均的レベルで見ても、明らかに幼い、統合性が低いことが示されていました。これはどういうことなのかな、と考えさせられましたよ。
ということであっという間に一日が終わって、新大阪まで大急ぎ、さっと目に入ったお土産を買って新幹線に飛び乗りました。
山梨にはその日の深夜に到着。疲れたわー。
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September 01, 2006
長年性格なるものを知る(ろうとする)仕事をしてきました。
でも、本心は性格なんて信じちゃいませんでした。アドレリアンは、性格なんてない、性格はほんとは変わりやすい、と信じているからです。
古くからある性格に対する人々や人格心理学の諸前提を批判し、心理学的に「正確」に説こうとしたのが、
「モード性格論-心理学のかしこい使い方」サトウタツヤ、渡邊芳之著,紀伊国屋書店
私たちの性格についての考え方には、二つの「常識的な仮説」が前提になっています
1.性格の経時的安定性
人の性格は時間が経過しても大きく変わることはないという考え方。意地悪な人は前から意地悪だし、これからも意地悪。「元気で明るい人は、明日も元気で明るいし、たぶん来年になってもそうでしょう」
2.性格の状況的一貫性
人の性格は状況や場面が違っても大きく変化することはないという考え方。「明るい人はさまざまな状況を通じてその明るさを発揮するものだし、内気な性格の人はいろいろな場面でその内気さを見せるでしょう」
性格テストなんて、この2つが前提されていなければ成り立ちようがないものです。でも著者達は、それを否定します。それには人格心理学の世界での「一貫性論争」「人か状況か論争」というもので大激論の末の結末だというのです(もちろん僕は参加してませんよ)。
多くの性格心理学者がミッシェル(筆者が引用する心理学者)の主張を否定すべく、性格の通状況的一貫性を実証的に確認しようと躍起になり、アメリカを中心にひじょうにたくさんの研究が行われました。しかし結論から言えば、それまで性格心理学者が暗黙に仮定していたような、性格の無条件の通状況的一貫性を証明するようなデータはまったくと言っていいほど得られず、逆に人の行動が状況の影響でどんどん変化すること、状況が大きく変われば同一人物の性格がまったく変わってしまうことが少なくないことが報告されました。また、性格の通状況的一貫性を実証したと主張されるデータも、そのほとんどが一定の条件の下だけで生じる一貫性を見出しただけでした。
その成果を踏まえ、筆者は、性格は変化しやすいものだという考えを前提に、性格をモードとして捉え、たくさんの性格モードの中から自由に選択し、使いこなしていこうと主張しています。
モード性格論は性格心理学の理論として以下のような立場をとります。
安定よりも変化を重視する。
均質性より多様性を重視する。
性格が安定しているように見えるなら、それは自分の問題ではなく環境の問題です。あるいは与えられている役割の問題かもしれません。環境や役割は固定的なものですから、もし自分の性格が凝り固まっているように思えたら、自分ではなく周りのことを考える必要があります。
また、性格は安定しているものだ、変わらないものだ、という思いこみが原因ということもあります。まず、自分の行動がいかに華麗に変化しているかを観察する工夫をしてみましょう。あなたの行動は相手によってかなり変化していることがわかるでしょう。
性格はほんとは変わりやすい、相手によって変化しているなんていうのは、まさにアドラー心理学が長年主張してきたことでした。
そういえば日本人による初めてのアドラー心理学本は野田俊作氏の「アドラー心理学トーキング・セミナー-性格はいつでも変えられる」(星雲社)でしたね。
相手によって行動を変えているのが当然だなんて、まさに使用の心理学だし、モードという固定的でない様式、やり方が性格の本当の姿だなんてライフスタイルそのものです。アドラー心理学にはパーソナリティーという概念が存在しません。性格とはあくまで、実体ではなく、スタイル、様式であり、個人の決断によって変えることができると考えているからです。
また、本書では均質化した集団からの距離、「量」を重視するのではなく、個性記述的なライフナラティブ(人生物語)を提唱しているところも、早期回想を語り直して治療するアドラー心理学とだぶります。
こうやって、アドラー心理学そのものでなくても、その発想の「危険性」と「まっとうさ」が認知され、心理学の世界に浸透していくのは喜ばしいことです。
著者達の文体は、世代のせいでしょうか、とても軽やかでわかりやすいです。同じ「暴き系」でも、そのずっと上の頼藤和寛さんたちとはちがったおもしろさがありますね。
一般書ですから、心理学に関心のある方ならどなたでも楽しめると思います。
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August 29, 2006
週末に横浜市立大学で行われた日本ブリーフサイコセラピー学会横浜大会に参加。
自分にとっての覚え、印象記として書きますが、参加した方以外には何が何だかわからないでしょう。ま、こんな所に行ったということで。
といっても私はここに入れていただいてまだ3年の新参者です。いわゆる解決志向、ブリーフセラピー自体はそれ以前から、独学的に実践していましたが。だから、新参者らしく、コソコソと目立たぬようにあっちこっちと歩き回っていましたよ。まだ友達があまりいないの(でも以前から知っている児相関係者が何人かいたのは何となく心強かった)。
何にせよ、ブリーフセラピーはさらにそのもっと前から学んでいたアドラー心理学と基本的発想、技法はまったくよく似ているので、特に違和感なく使うことができます。
初日はワークショップ。「トラウマとその周辺」という題で、臨床動作法など実習。単純に気持ちよかった。
2日目は、発表。児童虐待をブリーフの観点からアセスメントしたサインズ・オブ・セイフティー・アプローチの実践報告を、関西の情緒障害児短期治療施設にお勤めの心理士さんがしたのを拝聴。
リスクに偏りがちな従来の虐待のアセスメントを、ブリーフらしく安全性、リソースの視点も加味してバランスよくまとめようというのがサインズ・オブ・セイフティーです。オーストラリアのワーカー、A.ターネルさんという方が開発したものです。
私も日頃の面接やアセスメントで大変重宝しています。施設に積極的に導入している様子はとても参考になりました。関西はいつも新しいものに対して取り組みが早いね。
3日目は、言語心理学とNLPが専門の先生による、言語と身体の関係について、これはめちゃくちゃ面白かった。大量のスライドを使っての細かい話でついていくのが大変だったけど、ずいぶん知的刺激を受けました。
NLPはセミナーやカウンセリングのツールぐらいに思っていなかったけど、とても精緻な理論体系だということがわかりました。以前少しかじったことがあるくらいだったけど、改めて関心がわきました。
午後はかのミルトン・エリクソンの最晩年の弟子、エリクソン財団理事長のジェフリー・ザイク氏による講演。
氏の半生とセラピストの成長過程がエピソードたっぷりに語られて、我々「後輩」たちは身を乗り出すように聞き入っていました。
ブリーフセラピーというのは、技法中心、マニュアル化みたいな印象が持たれがちで、唱道する先生方も科学的というか中立的なイメージで語りがちだけど、本質はエリクソン心理学なんだなあ、というのが正直な感想。
フロイト心理学(精神分析学)、ユング心理学、アドラー心理学など、その点では創始者、源流にある人の思想、哲学を色濃く引き継いでいる心理学と同じタイプかもしれません。
それ自体は必ずしも悪いことではなくて、自身がどのような思想の基に理論、技法を用いているかを意識することは大事なことだと、私は思っています。
その他にも、休憩時間にRDIの最新の状況を詳しい先生からお聞きすることができたり、いろいろと情報収集もできました。時間がなくてお話ししたいS先生とできないこともあったのは残念でしたが、自分なりに楽しめた三日間でした。
もちろん中華街も美味しかった。
来年は長野だそうな。近くていいな。
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August 05, 2006
自閉症、アスペルガー症候群の人に接するご家族や、療育に携わったことのある人なら誰でも、味わう気持ちがあると思います。
届かない。こちらの気持ちが、そして彼/彼女の気持ちが。もっと、もう少し分かり合いたいけど、どうしても届かないというもどかしくも、寂しい感じ。
それが障害だから仕方ないという、半ばあきらめのような思いを持ちながら、これまで障害特性とどう付き合うか、どう彼らの「文化」に近づいていくか、に我々は心を砕き、表面的にでも社会適応的行動が取れるように「訓練」をしてきました。
それが有名なTEACCHであり、応用行動分析やソーシャル・スキル・トレーニングでした。
ここに、新しい注目すべき療育プログラムが本邦初公開となりました。
RDI「対人関係指導法」スティーブE・ガットステイン著(クリエイツかもがわ)
監訳者の一人に、杉山登志郎先生がいます。目をつけてたのね。
RDIの目標は、「自閉症を治す」。えーっという声が聞こえてきそうですが、その志や良し。
じゃあ、その中身はどうなの?ってことですが、なかなか良さげですよ。今まだ読み途中でレビューもできないし、実践もできないけど、対人関係、特に経験共有という視点からの発達心理学の知見・仮説の積み上げを基に、丁寧で詳細なアセスメントとプログラムが作られているようです。
RDIでは、自閉症スぺクトラムの子どもたちも、典型的な発達を示す子どもたちと同じ対人関係発達過程をたどるという前提に立ち、暦年齢に関係なく、実際に子どもがどのレベル・どの段階の対人関係発達を示しているかを、詳細にアセスメントするところから始まる。その際にビデオをふんだんに使用するところも特徴である。子どもの発達段階から適切な指導内容を選択し、さらに指導効果の評価を随時行い、次の段階へと進む。このように子どもの発達段階に対応した適切な指導を積み重ね、子どもたちが対人関係に関するスキルを着実に伸ばすことが重要であると考えている。(監修者あとがき)
あー、学びたいな。でも簡単にはできなくて、RDIの総本家、アメリカのコネクションズ・センターで長期に渡る養成プログラムを受けないとならないみたい。
The Connections Center
日本に解決志向ブリーフセラピーを紹介した一人のS先生が、3年前我が児相にブリーフの研修にお呼びして来て下さった時に、「今はRDIにはまっている、アメリカのそこまで行って学んできた」などとおっしゃってました。その先生によれば、かなり良くできたもののようです。
それ以来気になっていたのですが、やっとその片鱗を知ることができました。
本書を読んでみると、いろいろと使えそうなアイデアや方法があるようだから、少し工夫してみよう。
早くこの近くにもRDIのセラピストが増えてくれればいいな。
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June 27, 2006
一昨日、発達障害の臨床で著名な杉山登志郎先生(医師、あいち小児保健医療総合センター)が来県して、養護施設など福祉関係者に講演があったので、業務で参加しました。
「高機能広汎性発達障害と反応性愛着障害の抑制型との鑑別は最も困難なものの一つ」「一般的なADHDと虐待による多動性行動障害との鑑別も困難」というテーマを中心に、虐待にともなう多動性行動障害の神経生理学的研究、非虐待児の脳画像所見など、興味深い内容でした。
中でも、発達障害としての非虐待児への対応という視点が今求められていると強く主張されていました。
例として、チャウチェスク政権下で生じた大量のストリート・チルドレン(チャウチェスク・ベビー)に自閉症様症状を示していた子が多かったものの、里親など適切な環境に生活できるようになった後には劇的な改善をしたケースが少なくなかったことが紹介されていました。おそらく極めて劣悪な環境下におかれたことの影響因による愛着障害であったろうとのことです。
私も日々虐待を受けた子どもさんの判定(アセスメント)をしていて、虐待の影響と発達の遅れ、偏りの関係をどう考えるかに迷うことは多いので、大変参考になりました。
また、杉山先生は、最近自閉症の中核症状である社会性の問題を改善すること目標にして注目を集めつつあるRDIの本も翻訳されていました。私もRDIに注目していたので思い切って質問をさせていただきました。先生からは、RDIは被虐待児にも効果があるのではないかとのことでした。 RDI(対人関係指導法)
それから、我々や先生との共通認識として、我が国の虐待対策の中心が児童養護施設に担われていることの困難と限界がありました。人手が著しく不足した大舎制の問題と里親の数も減りつつある中で、各機関、施設のスタッフ達のできることは限られています。
まったく我が国は、何かあれば大騒ぎするけど、結局は「強きを助け弱きを挫く」国に成り下がってしまったようです。
短い時間でしたが、日々の臨床の中心である子ども虐待と発達障害に関する問題の整理に役立ちました。
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May 25, 2006
発達障害関係の面接や勉強をすると、よく「視覚優位」という言葉に出会います。耳からの刺激は時系列的、言語的な情報処理に関わるのに対して、目からの刺激は空間的、共時的情報の処理に関わり、自閉症やある種の発達障害のある人は、目からの視覚的情報処理が優勢に働いているという考え方です。
それを把握するための心理テストもあります。
また、NLPなどの催眠系コミュニケーション・スキルにも自分や相手の感覚タイプを知って使いこなすことを重視していますし、臨床的にはけっこう使えるという実感を持っています。
いつ頃からこういう感覚と認知、コミュニケーションの関連がいわれるようになったのかは知りませんし、科学的にどれくらい妥当かはわかりませんが、経験的には確かに人間にはそういう面があるなあと感じます。
私は、はっきりいって視覚・体感覚優位タイプなのは間違いがないな。
思い出すときは目玉をくっと上に向けて、そのシーンがヴィジュアルに浮かんでくるのを待ちますし、目を瞑ってイメージを作るのは割とスムーズにできるのですね。
それに、女の子を見るときは、反射的にお顔と胸を見ます(それは違うか)。
また、つい「~と見える」「うかがう」「感じる」「立場」という視覚・体感覚的言葉を使いがちです。
夢は常にカラーで、白黒の夢があるなんて信じられない。
セラピーでも、描画やユング派でもないのに箱庭をしたり、催眠やイメージセラピーなどの意識や感覚の変容を誘うもの、ジェノグラム(家系図)を作ったり、図や表をクライエントと見ながらするのが好みです。子どもとのプレイセラピーはまさに運動そのものだし。
じっと黙って話を聴くなんて飽きちゃうよ。大体「傾聴」って言葉がピンと来ないんだからねえ、ホンマにカウンセラーかいな。
実際話聞いているうちに、話の内容は忘れて、表情や動きに気を取られていることがあるもんな。それで良くなることがあるんだから、セラピーって何だかよくわからん。
武道だって、目で見て、身体を動かして、感じ取るといった見取り稽古が大事だと思っているし、結局は「不立文字」の世界です。
だからといって、言葉を軽視しているわけではないのよ。よろず学問は大好きだし、言葉の芸を磨くことに人生を賭けているともいえるわけで。
でもどうも、論理性が弱いのね。結構というか相当小難しい本が読みこなせるんだけど、自分では展開できないんだな。体感覚タイプの代表ともいえる長島茂雄のように、「ガーッと腰を入れろ」「来た球を振るだけ」なんて、感じで意味不明、再現不能のことばかり言ってしまいそう。
私のことを少し知っている人は、論理的な人間だと「誤解」してくれることがあるみたいだけど、実は頭の中でイメージや図、チャートが浮かんでいて、それを解説、実況中継しているのです。だから途中で別のイメージが浮かぶと、そっちに引っ張られて早口になって語り出すので、全体としてつじつまが合わなくなってしまうことがあります。視覚タイプの人はそういうことが多いらしいです。
本当に聴覚・論理的な人は、しゃべったことをテープ起こしすればそのまま論文や本になるような人らしい。うらやましい。
だから、自分はとても研究者タイプではないし、心理士は研究が大事といわれても、あまりそういうのに惹かれないんだな。そういうことは得意な人がやればいい、自分は「お好きにどうぞ、その成果は上手に楽しく使わせていただきますから」って感じ(これは体感覚タイプ的言葉ね)。
それより、どう全体的に俯瞰して見るか(これは視覚タイプ的言葉)に関心が向かうのです。
とにかく、自分の感覚タイプを知ることは、自分自身とうまく付き合っていくには役に立つことが多いようです。
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May 20, 2006
疲れているときは、ネタがあれども書く気がおきず、こんなときは本のレビューが一番。
児童相談所に赴任して、また改めて自閉症や発達障害児、それも幼児期のお子さんに接することが多くなりました。
田舎なもので近くに療育の専門機関がなくて、保育園や幼稚園に行きながらうちに通ってきてくれる方が多いので、親御さんに紹介したり、自分が一緒に取り組むのに適当な本を探していました。
自閉症へのABA入門 親と教師のためのガイド、シーラ・リッチマン著
本書は自閉症や行動分析学を専門にされる先生のブログなどで、好意的、積極的に勧められています。と思ったら訳者の一人は勝手にリンクさせていただいている「戦う行動科学者」奥田健次先生でした。
自閉症の基本的理解から不適応行動への対応、日常生活スキル、コミュニケーションからきょうだいや地域社会との関わりまであって、普段の相談活動に頻出する話題ばかりです。
改めて勉強してみよう。
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May 10, 2006
発達臨床の専門誌「発達 106号」(ミネルヴァ書房)に興味深い記事がありました。「孔子の国の子供たち 理想の先生」山本登志哉
幕末から明治にかけて埼玉県で寺子屋を開いていた大野雅山(1825~1901)という先生の日記が実におもしろい。この先生はとても生徒達に慕われていたようで、村に報徳碑が建てられて祝われたほどの偉い人らしいです。
その雅山先生が、手を焼いた「問題児」文吉(10歳)の記録をつけていました(「文吉行作日記帳」)。
三月一七日 今日は小刀を持って裏庭に植えておいた木を切り歩き、それを止めるとののしり、また友達の持ち物を切る。机の下で昼寝をし、机を重ねてその上に座り、全然言うことを聞かない。全く困り切ってしまう。
四月三日 この日も一字も習わず読まず、ただ机や文庫の上を歩き回って、教室中を騒がせ、止めればののしる。
四月一七日 実に師匠を師匠と思わず、困り果てて筆舌に尽くしがたい。全く言うことを聞かず、教室でおちんちんを出して他の子に見物させ、これを止めようとしても全然聞き入れない。こんな子どもは百人に一人もいない。
五月二日 千人に一人もいない(現代語訳)。
いいぞ、おもしろいぞ、文吉君。幕末のADHD児に困り切った雅山先生は、「実に難渋至極、これ師匠の不運なり」という嘆きの言葉も記していたそうです。
でもさらに興味深いのは、
それほどの「問題児」に対し、雅山先生は口で止めるばかりでそれ以上に断固とした対処をせず、ただ困った困ったとぼやくだけだということです。少なくともこの日記が続く六月一五日まで、文吉はほぼ毎日のように寺子屋に通い、そして雅山先生はそれを追い出すことをしていません。
それでは雅山先生は「指導力」がなかったかというとけしてそうではなく、みんなから尊敬される先生でありました。実はこんな光景は当時の日本の寺子屋では日常茶飯事、当たり前のことだったらしいのです。
寺子屋を描いた当時の浮世絵には、やんちゃをして先生を困らせる絵がいっぱいあり、また当時の日本の教育水準をほめていた西洋人の記録にもそういうことがあるそうです。
そもそも古来より日本には、子どもには本来「野生」というべきものがあり、むやみに押さえつけるのはよくない、伸び伸びとさせるのがよいといった子ども観があったらいいですね。
筆者の山本氏は、
「日本の伝統学級崩壊」と表現できそうな姿が見えますが、そこには日本的秩序がある。明治以降の軍隊式一斉授業とこの伝統的日本的秩序の矛盾が噴出しているのが現在ではないでしょうか。
いずれにせよこの「おおらか」な教育への姿勢は、文吉に断固として対処しない雅山先生にもよく現れており、そういう先生が多くの門弟から慕われて顕彰されていたということになります。
と述べています。
本誌には、雅山先生の肖像画も載っているのですが、これが実に優しそうなお爺ちゃんなんだな。文吉君に振り回される姿が、目に浮かびます。
こんな寺子屋みたいな学校だったらいいな。
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April 28, 2006
少し前のニュースですが、私の世界ではちょっとした明るい話題です。児童相談所でカウンセリングや心理テストを担当する児童心理司(私もそうよ)を増やしてくれるそうです。
児童心理司に配置基準 福祉司3人に2人以上
児童相談体制の在り方を検討していた厚生労働省の研究会(座長・山縣文治(やまがた・ふみはる)大阪市立大教授)は23日、児童相談所で子供の心理診断やカウンセリングをしている児童心理司について「児童福祉司3人に対し2人以上を目安とし、1対1を目指す」との配置基準を設けることを決めた。
厚労省は相談所の運営指針に盛り込む方針。虐待の急増で「子供の心のケア」の必要性が高まっており、将来的に心理司の数を増やす考えだ。
厚労省によると、虐待に悩む子供や家族の支援では、児童心理司のほか、生活相談や家庭環境の調査をする児童福祉司がチームになって当たる必要があるとされるが、福祉司が全国に約2000人いるのに対し、心理司は約900人で、人数不足が指摘されている。(共同通信) - 3月23日21時3分更新
ここ数年、児童虐待がクローズアップされる中で緊急対応を求められる児童福祉司(ケースワーカー)が全国の児童相談所でいくらか増員されました。でも心理職たる児童心理司はほとんど何も音沙汰なしだったので、ようやく光が当たったという感じです。
児童福祉司とペアになって動くことが多い仕事なので、当然同じくらいいなきゃいけないのに、全国的に実際はかなりアンバランスだったのですね。財政難、人員削減の嵐の中ですが、是非、そうなってほしいです。仲間は一杯いた方がいいね。
虐待だけでなく、子育て一般の悩みや障害児療育、非行、不登校も扱うし、子どもに関われば当然親御さんに関わり、その中で夫婦関係、家族関係も扱うこともあるので、大人の心理療法だってやるし、ホントに幅の広い臨床活動ができますよ。
地域に出向いていくことが多いので、臨床心理士会にいわれなくても「臨床心理学的地域援助」も自然にできますし。
学部卒でも院卒でも、また臨床心理士であってもなくても、公務員試験に受かればよいのでとても公平にチャンスが開かれています(ただ今は不景気で狭き門かな。自分の時はバブルでラッキーだったけど)。
やる気のある人、待ってます(^-^)。
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April 19, 2006
ようやく新しい職場にも慣れ、前任者から引き継いだケースのクライエントさんに次から次へと会い続ける日々。だんだんカンが戻りつつあるかな。
児童相談所ってその名の通り子どもの相談所なんだけど、普通の方はどういうイメージなんだろ。今は児童虐待で子どもを保護するところでしょうか、やっぱり。一昔前私が子どもの頃は「悪いことをしたら連れて行かれるところ」というイメージでしたね。でも、知らない人の方が多いかもしれません。
法律(児童福祉法)では、児童相談所は18歳以下の子どものあらゆる相談に応じるところとなっています。「あらゆる」ですよ「あらゆる」。それこそ子育て、生活、障害、虐待、非行から医療的な問題まで何でもやって来ますし、受けなくてはなりません。だから私もいろいろなタイプの面接をするのよ。
もちろん「あらゆる」相談すべてを解決するのは一人の心理職だけでは無理なので、様々な職種や機関と連携していくわけです。でも都市部なら、専門機関や民間の社会資源がいくつもあって、分担し合っていけるところが多いのですが、地方の農村部、山間部はそういうのがとても少ないので、公的相談機関である児相が引き受けなくてはならないことが多いのです。
地方は自然が豊だからケースの問題が楽だということはありません。むしろ社会学的には、都市化の周辺地域は問題が起こりやすいという話もあり、疲弊する地方経済や格差社会の影響を家庭はもろに受けることになります。
だからスペシャリストであると同時にジェネラリストというか、得意不得意があるのは仕方ないとしても、いろいろな知識や経験が必要になります。職業や子育てなんかの「人生経験」だって、ないよりはあった方がもちろんよいでしょう。
だから、自分なりの専門の心理学の枠の中だけでやりたい人(例えば治療構造にこだわるとか)には、枠がなくて(というか流動的で)やりにくいだろうな。
よく「児相で働くにはどうしたらよいのですか」と心理職希望の方から聞かれるのですが、基本的には学問というより、子どもと遊べる人、女性(ほとんどのクライエントは母親なので)と生活の細々としたことを含めて話ができる人、でもって相談意欲の乏しいケース(虐待者とか)にも何とかこちらの土俵に引っ張り込めるだけのコミュニケーション力のある人が適性のある人かな。
ああ、大変だ。
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April 10, 2006
本当のことがわかる!図解 心理学のことが面白いほどわかる本
一般書ですが、題名に違わず面白かったので紹介します。
性格や人間関係、やる気、恋愛、テレビゲーム、自殺・・・たくさんのトピックを心理学的正確さを損なうことなく、実にわかりやすく、上手に解き明かしてくれています。
専門家が読んでも、心理学をどう一般の人に伝えたらよいのか考えるときに、大変参考になると思います。私のような現場の人間は、「クライエントではない、その周辺の一般の人」(両親や親族だったり、学校の先生や民生児童委員みたいな地域の協力者など)に対して、心理学的な専門用語を使わずに、どうやってメッセージを伝えるかに腐心することが多いのですが、この本はその役に立ちそうです。前書きに、
「心理学を学ぶ」ということは、他の学問のように「知識をたくさん身につける」ことではなく、「心理学的な見方を身につける」ことなのです。私たちがそうした「心理学的な見方」を身につけると、自分のこころや行動が今までとはずいぶん違って見えてくるだけでなく、日常的な悩みや、自分の行動上の問題についても、それまで思いもよらなかったような解決法のアイデアが生まれてくるのです。
とあって、その通りだと思いました。
わけても、著者たちの「心理学的な見方」は主に行動分析学に拠っているのもよいですね。
本書では、「やる気をくじく、起こすメカニズム」について、家庭や仕事、学校教育の問題とその解決法を行動分析学の視点からクリアーに説いています。ここまではっきりとわかりやすく書いたものは、これまであまりなかったのじゃないかな。
思いつきのような評論を述べ立てる評論家や教育学者などは、まずこの地点まで下りて現実を見るべきですよ。
この立場から説いたものは、明確だけど科学的に厳密に語ろうとしてかえって冷たい印象を与えるきらいがありますが、著者達は基本的に明るい方なのでしょう、文章からはとてもユーモアの感覚を感じます。
行動分析学がいうように、ほんとうは世界はとてもシンプルなのかもしれない。でも頭脳の働きが過剰で妄想を持ちがちな現代の人間は、その真実に耐えることができず、それを糊塗し、変わらないでいるための複雑怪奇な言語体系(精神分析学みたいな)を作り出したのではないかとさえ私は思うことしばしばです。
いずれにしても、いろいろな場でお勧めできる本だと思います。
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April 01, 2006
異動のために机や本棚を片づけたり、整理していたら、ヘイリーの「戦略的心理療法」を見つけたり野田俊作氏の論文集を発掘して、読んだりしたので全然進まない。
そんな中、この二人が言語化しようとした心理療法の戦術とか方程式といったものについて考えてみました。
野田氏によれば、すべての心理療法は同じ論理構造を持っているといいます(「心理療法学の科学性をめぐる電子書簡より」)。その公式とは、
随意的なAをしなさい→そうすれば、不随意なBが起こるだろう
私の目を見なさい→そうすれば、眠くなるだろう
自由連想をしなさい→そうすれば、治癒するだろう
箱庭をしなさい→そうすれば、心の中がわかるだろう
・・・・・・
Aには他にも催眠や行動療法の各技法など心理療法の技が何でも入ります。Bにはクライエントが望んでいる現象なら何でもよいのです。
「すべての治療的コミュニケーションの構造はこうなっていて、催眠も精神分析も来談者中心療法も、その他治療というものは、みんなこの点では共通だ」
というのです。
でも、これでは範囲が大きすぎるきらいがありますね。
先祖供養をしなさい→そうすれば、~がよくなるだろう
憑き物祓いをしなさい→そうすれば、以下同文
なんてのも入ってしまい、「真っ当な」心理療法家、カウンセラーが一緒にされたくないものまで入ってくる恐れがあります。でも、もしかしたら真実はそうかもしれませんよ。
AとBには、真の意味での因果的/論理的な関連はなくてもいいのです。Aは随意的な行為であればなんでもよく、Bは患者が起こることを望んでいる不随意な現象であればなんでもよくて、その上で治療者と患者との間に、「AをすればBがおこる」という公式についての(明示的もしくは暗黙の)合意がありさえすれば、実際に、AをすればBが起こるのです。
まさに「魔術の構造」です。一般の人や科学に携わる人たちが、心理療法に抱くいかがわしいイメージは、きっとどこかでこの論理構造に気づいているからかもしれません。
ポイントは、セラピストとクライエントが、共有し同意し合っている「心の文化」があり、その上で共有する「治癒の論理」があれば、後はなんとでもなるかもしれない、ということです。「『Aの手続きをしてもらえば治る』と信じている人にはAの手続きしてあげれば治る」(野田)のです。
私はこの日本のある地域では有能なセラピストでいられるかもしれませんが、アフリカの何とか族ではまるで役立たずになってしまうでしょう。
私はこの発想を知ったとき、ちょっとした解放感というか自由の感覚を得ました。アカデミックな狭いパラダイムにこだわることなく、エスニックなものに依拠することの方がより治療的になれる可能性があるからです。多少いかがわしくても、それが相手と共有できていればいいんだ、と。
もっとも今の日本はとても均質化しているので、あえてそこまで思考の前提を掘り下げる必要はないことが多いと思いますが。
現代のシャーマンになれる秘訣がここにあるかも。
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March 24, 2006
人事異動の内示がありました。
異動の内示の日。朝から山梨県職員の皆さんはそわそわと落ち着かない気分でいたことでしょう。でも今年度の自分は異動の対象外だと思っていたから「安心だね」なんていって気楽な気分でいたら、連絡が入り、なんと児童相談所に配属とな!
でも異動先は、県内に二つある児相のより田舎の方の児相でした(山梨全体が田舎ですが)。10年以上前にいたことのあるところです。懐かしいですけど。
今までチラチラと書いてきたとおり、今年度の私は更生相談所で身体障害関係の相談業務なので、最近は障害者自立支援法施行前のために、急ピッチで各種事務作業に没頭している真最中でした。なのに、非情の辞令が下されます。
人事当局は何を考えているんだ、この混乱的状況をどうしてくれるんだと嘆いても、どうにもならない。後は後任に任せて、新しい職場でがんばるしかないわな。
いやーサラリーマンはつらい。今度の職場は自宅からとっても遠いの(;_;)。
そんなわけで、またもや戦場のような臨床現場に駆り出されることになりました。
またこれまで以上に全能力、技術を振り絞ってやっていきますよ。ブログで学んだことも生かしながらね。
楽しくお仕事やりましょ。
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March 15, 2006
先週末、職場関係の研修で家族療法を学びました。
講師は文教大学の秋山邦久先生。
受講者は児童相談所職員や県立精神病院の心理士、更生相談所や福祉施設の職員など、県内の公的機関に勤める福祉、心理の業務に携わる方々、要するに私にとってはお仲間であります。
実は今回の講師の秋山先生は、私が是非お呼びしようとスタッフに薦めた方なのです。昨年秋のある学会に参加した時(リラックスしました)、そこで秋山先生がなさった事例発表を聞いたら大変おもしろかったのと、われわれと同じくある県で児童相談所に長くお勤めなさっていたという経歴を知って、勝手に親近感を持ってしまい、不躾にも講師をお願いしたところ、快く応じて下さったのでした。
先生からは「システムとしての家族の見方とアプローチの仕方」をテーマに、家族療法の基本的視点、技法についてお話ししていただきました。私とほんの数人以外は、家族療法について初めて接したんじゃなかったかな。
特に、観察することの重要性を強調され、暖かく観察すること、そして家族(システム)に入れていただくこと(ジョイニングですね)、そこから解決の方向へと小さな変化を起こしていく、といった話が私には印象的でした。
また、人を「見る」には、「監視する=悪いところ探し」、「観察する=良いところ探し」の二つがあって、我々児童相談に携わる者は、徹底的に良いところを見続けていくことが大切である主旨の話には大いに共感しました。
少年犯罪やいじめなど何か起こると、マスコミや教育界など社会はすぐに、再発防止とか「心の闇を照らす」とかいって、監視するといった見方に偏りがちです。
私たち親や援助職は、あくまで暖かい視点は維持していきたいものです。
家族療法はシステム理論やサイバネティクスといった理系的イメージの理論や言葉、変化や介入といった指示的スタンスから、個人療法から入ったある種の立場の人たちからはなかなかなじめないみたいですけど、根底にある人間哲学はとても暖かいものなのです。
少なくとも、児童臨床をする人にとっては、必須アイテムだと思います。
私は20年来のベイトソン・ファンであり、頭脳をベイトソンによって作り変えたようなものなので(勝手に師事した恩師たち3・グレゴリー・ベイトソン)、彼が源流になっている家族療法はとても関心の高い心理療法でした。
自分は家族療法家とはいえないけれど、これまでちまちまとあっちこっちで学んできて、今回バリバリの家族療法家である秋山先生から学ぶ機会を得たことは、とてもよい復習と新たに学び続ける決意をする気持ちになりましたよ。
それにしても、先生の講義はおもしろかった。長時間まったく飽きさせず、笑いもしっかりと取り、堅い理論とケースへの応用の絶妙なバランス、さすがコミュニケーション理論を体現されていると感心しました。
この私が、講義で一度も眠らなかったのはほんとに久しぶりです(いつもはほんと、よく眠るの、ここだけの話)。
この地でも仲間とともに、家族療法をはじめ、より効果的な心理療法を実践し、根付かせていきたいと思った時間でありました。
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January 31, 2006
帰ってきました、三日間の研修から。口内炎もほぼ完治し、おいしくお食事をいただけるようになり、ほんとによかった。どうも私は体質的に口内炎になりやすいようなので、気をつけなきゃ。
研修はかのエリクソン催眠のワークショップ、講師はミルトン・H・エリクソン財団のチーフトレーナー、ブレント・ギアリー先生、長身、長髪でロックミュージシャンみたいなルックスでとてもミステリアスな雰囲気の方でした。
内容はとてもよかったです。実習中心で、三日間たくさんの方と組んでトランスに入れたり、入れられたりでとても気持ちがよかった。おまけに私は先生のデモンストレーションの時に「誰かボランティアやってくれる人いませんか」と言われた時に、ここぞ!とパッと手を挙げて被験者にさせていただくこともできました。
ここ数年、催眠にはまっていたのですが、改めて受講してとてもよい復習になりました。おかげで少しはスムーズに誘導できるようになったかもしれません。
振り返ってみれば、自分は長い間意識状態を変えるテクニックをあれこれと探し、体験してきたような気がします。
自律訓練法やシルバ・マインド・コントロールというイメージ瞑想法みたいなのに高校時代に触れていたし、座禅もしたし、ヨガやTM瞑想にも顔を出したこともあります。意識をトリップさせるトランスパーソナル心理学のブリージング・セラピーにも一時期よく行ったことがことがあります。
呼吸法や気功法、武術だってそうだし、なんかこういったものが主で、心理学は従という趣さえあります。もの好きといえば確かにそうですね。変性意識ジャンキーとでもいおうか(^^)。でも、おもしろいんだよな。
別に空を飛びたいとか(笑)、悩みを解消したいというのはなかったんですけどね。ただ自分を変えたい、高めたいという動機はあったかな。その結果どうなったかは、わかりませんが・・・。チョイ変オヤジにはなれたかな。
催眠を学ぶなら、尊敬する大名人、ミルトン・エリクソンのメソッドを学びたいと願い続け、ここ数年でそれもかないました。あとは技を磨くばかりだな。
エリクソンとアドラーは、幼い頃病弱だったこと、そこから類い希な観察力を身につけたこと、コミュニケーションの達人で、未来志向で常識性を重んじたことなど、時代や育った国は違うけれども似ているところが多いと思っていました。
結局自分のライフスタイルというか、人生のテーマとでもいうか、好みとするところをグルグルと回りながら遍歴を続けてきたし、これからもそうなるのだろうなと思います。
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January 20, 2006
昨年の終わり頃ですが、ブリーフセラピー系の代表的なセラピストの一人、ビル・オハンロンという方の来日ワークショップに参加したので、その感想を述べてみます。
以前からこの先生の著書は翻訳されたものは読んでいて、特にエリクソン催眠についての本はとても面白くて自分にとって役に立ったので、楽しみにしていました。オハンロン先生は、とても柔らかい感じの方で、学者というよりアーティストという風情の方でした。予想通りで大変好感を持ちました。こんな方です。Bill O`Hanlon
ブリーフセラピーは理論的には、未来志向、問題や病理より解決や変化を強調する、指示的カウンセリングであるなど、アドラー心理学と発想や理論は似ていますが、さらに面接現場で使いやすいように、たくさんの巧妙な質問技法がマニュアル的に構成されているところに特徴があります(特にソリューション・フォーカスト・セラピーと呼ばれる一派ですね)。
けっこう便利で実践的、効果的で、私もお気に入りです。
オハンロン先生は、とかく解決に向けてマニュアル的、機械的に適用されがちなブリーフセラピーに対して、クライエントの訴えにも十分な配慮を行うことの大事さを強調しています。今回は、「ロジャースを一ひねり」したとおっしゃいながら、あまり形やマニュアルにとらわれすぎない柔軟なやり方を提案していました。その自らのやり方を他のブリーフセラピーと区別するために、可能性療法と名づけています。
その内容は多岐に渡り、とても実践的でしたが、二日間のワークショップの終盤になって人の健康さ、リソースを考える時に、スピリチュアリティーがとても重要であることを訴えていたのが私にとっては特に印象的でした。
スピリチュアリティーは、「小さな自己」あるいはパーソナリティーを越えたものを意味しています。「より大きな自己」あるいは制限されたパーソナリティーを越えたものの体験は、どんなものでもスピリチュアリティーの構成要素であります。その中に人々が自分を越えたものとつながることを可能にする道筋があります。どんな体験でもその道筋たり得ます。ある人々にとっては、役に立たない、あるいはアピールしないものもいくつかあるかもしれません。
まるでトランスパーソナル心理学ですね。
単に症状や問題がないだけでなく、自己意識を越えた大きいものにどう関わっているかが、精神の健康にとって本質的に大切だというのです。
そこで関わる対象や方法は、必ずしも狭い意味での宗教的なものではなくてもよく、ダンスやセックス、運動などの身体を通して学ぶもの、コミュニティーに貢献すること、自然の中で過ごすこと、芸術作品と接することなど、その人にとって最適なものであればよいのです。
オハンロン先生は、スピリチュアリティーの中身について、3つのCとしてまとめています。
1 つながり(Connection)-あなたの小さな孤立した自我やパーソナリティーを越えて、あなたの中の、あるいは外にある、より大きな何かへとつながりましょう。
2 思いやり(Compassion)-自分や他人、世界に対抗するよりも、むしろ「ともにいると感じる」ことで、自身や他の人への態度を和らげましょう。
3 献身(Contribution)-他の人や世界に対し、利己的でない奉仕をしましょう。
まるでアドラー心理学の共同体感覚みたい。同じように共同体感覚も精神的健康のバロメーターと言われています。
比較的ドライで現実的なブリーフセラピストの中で、オハンロン先生は、けっこう宗教性も大事にする、柔軟で広い視野をお持ちの方のようです。お若い頃ヒッピーをやっていたこともあったというので、当時のことだからニューエイジ・カルチャーにも親しんでいたのかもしれません。また、オハンロン先生は、アメリカのブリーフセラピーはアドラー派との交流もあるとおっしゃっていたので、あるいはその影響もあるのかもしれません。
当たり前だけど、アメリカ人もブッシュやネオコン連中のような凶暴な思想の持ち主ばかりではないのですね。特に弱者の側につくのが使命のセラピストに、そういう人がいるのはよくわかります。
割りにその雰囲気が濃いユング心理学やトランスパーソナル心理学だけでなく、スピリチュアリティー、精神性を、新しくて実践的なセラピーの中にもどう位置づけていくかという流れが生まれつつあるのかもしれないと思った研修でした。
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January 19, 2006
以前、将棋がうまくなりたい、羽生善治の頭脳を理解したいとヘボ将棋家が夢想しましたが(なりたいもの、やってみたいこと)、時々愛読している文-体・読本というブログ(スポーツ・マッサージをやっている方らしいのですが、心と体の問題に関してなかなかおもしろい引用情報が多いですよ)で、対局中の羽生さんの脳波は瞑想型なんだということが出ていました。
羽生の強さはどこに隠されているのか。かつて羽生と谷川の対局中の脳波を調べる科学的な実験が行われた。日本医科大学情報科学センターの河野貴美子氏はこう解説する。
「お二人を比較すると、谷川さんが集中型なのに対し、羽生さんは瞑想型でした。羽生さんの場合、非常にリラックスされていて、いわば座禅を組んで瞑想している高僧のような脳波が出ている。専門的に言うと、羽生さんは通常のときβ波が脳の左右対称にあるんですが、対局の中盤になるとβ波が右脳に移り、そのときご本人は『イメージだけでやっています』というお答えでした。終盤になると、β波は左脳に移りましたが、かなり論理的な確認作業をしていることがわかりました」
週刊誌の記事からの転載で厳密なものではありませんが、こういうレポートは以前よくマスコミとかでやっていたように思います。禅の高僧やヨガの達人の脳波がα波が出ているとか、右脳がどうしたとか。あ、でもこの記事だとβ波になっているな。その領域が活動中という意味だと思うけど、瞑想の脳波はα波だということをよく言われていたな、どうなっているんでしょ。
私など、自慢じゃないですが、長年の気功、瞑想生活でαもβも自由自在よ。だからといって頭がよくなったかは不明。でも、悟りを開いていないのは確かなり。
イメージ形成力は、割とあるかなという気もしますが、比較しようがないしね。
プロ棋士ともなれば、頭の中でありありとイメージできているでしょうし(目隠しして対局できるなんて信じられない)、羽生さんが一流棋士の中でも格別に違う特異的なところって、こういう生理学的な研究だけではわからないでしょうね。
芥川賞作家の保坂和志さん(山梨出身)の「羽生」(朝日出版)という本を読んだら、羽生善治さんは、それ以前の棋士とは将棋についての「認識論」が決定的に違うのだとか。「世界があって言葉がそれに名前をつけたのではなく、言葉があるから<世界>が世界として初めて人間にとって意味を持つようになった」という現代哲学の言語観にも通じる<脱・人間中心>の世界観なのだそうです。
ちょっと要約しにくいので、関心のある方はお読み下さい。理解が進んだら書いてみます(当分先でしょう)。
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January 10, 2006
諸説ある臨床心理学の学派をどのように見ていくか、というのは、理論の統合や横断的資格が叫ばれている昨今でも、この世界の永遠のテーマのような気がします。
今回は、日本に初めて本格的にアドラー心理学を紹介した精神科医の野田俊作先生が、以前書いた所論(「折衷主義をめぐって」『アドレリアン第2巻第2号』所収、1988年、日本アドラー心理学会)を基にしながら考えてみたいと思います(自分なりの読解、解釈ですから、もちろん文責は我にありです)。
ちなみに野田先生は一時期学んだことはありますが、私の直接の師というわけではありません。それでも私の知る限り、日本屈指の天才肌の理論家、治療者として認めておりますし、自分なりにかなり影響を受けた方でもあります。
一口に臨床心理学といっても、一つの固まりのようなものではなく、三つの相、次元に分けて考えることが肝要とのこと。それは理論、メタ理論(思想)、技法です。
まずは理論
これは一般に臨床心理学理論と教科書的に呼ばれるものを指します。精神分析等の各力動心理学、行動療法、家族療法等々、それぞれの流派には独特の理論を有していて、それに基づいて心理療法を行うことは周知の通りです。
ポイントは、まず最初に治療構造、コミュニケーションがあって、そこで起こる現象から臨床家、理論家が理論を「見出し」、析出してくるということです。
フロイトは彼自身のパーソナリティーと上流階級の婦人のヒステリー患者との「疑似親子関係的状況」という治療構造から、精神分析を「創造」しました。
いったん治療理論が出てくると、「人はおのれの知っているものを見出す」という西洋のことわざそのままに、治療構造はますます治療理論を証明する事実が出てくるような方向に傾いていくだろうと思います。こうして、はじめはそれほど違わなかった治療構造と治療理論とは今ではまったく違ったものになってしまいました。
臨床心理学の歴史は、たまたまある治療構造、コミュニケーションの中からこしらえた治療理論でなにかしらうまくいくことが出てくるために、自己成就的に理論が強化、発展していったということだったのかもしれません。
アドラー心理学的な治療構造、理論の中では、転移・逆転移について考える必要がほとんどないのもこのためです(臨床家の中にはそれが信じられない人がいるらしい)。
そしてメタ理論(思想)
これは直接の観察に基づくものではないし、実際には検証不能の説明理論です。つまり、一種の妄想体系です。
イドやリビドーとか心的装置論、集合的無意識や元型論、共同体感覚や使用の心理学、還元主義や科学主義、感情の起源や機能とか、もっと雑ぱくにいうと人間観、世界観みたいなものです。
検証不能ならそんなものなければいいじゃないかといきそうだけど、そうはいかない。これなくしては実際の治療は成り立たないものです。それは臨床家に力を、クライエントにメッセージの意味を与えるものです。
山の中を地図なしで歩くのが危険であるように、メタ理論なしで治療をすると道に迷います。しかしこのことはメタ理論の科学としての正しさを保証する根拠にはならない。山の地図は山では便利だけど都会では使えない。メタ理論は特定の治療構造の中での地図ではあっても、人間精神の地図ではない。一部の書斎心理学者たちのように、フロイト派やユング派のメタ理論をあたかも科学的真理であるかのようにふりかざして、治療室外の一般社会の出来事の説明に使うのは、文学として面白くても、心理学としては暴挙であると思います。
最後に技法
これは、理論やメタ理論と違って、かなり自由に他派の技法を借用できるように思われます。
行動療法の諸テクニックや催眠、箱庭や描画などの表現療法など、臨床心理学の蓄積してきた技法を立場を越えて使うことは可能だと思います。ただ、理論とメタ理論によってその意味づけが変わることがあるわけです。
私なんかも年の功で、技だけは豊富に持ってますよ。おかげで「引き出しがたくさんある」「マジック」なんて言われることもあるくらいで・・・。一見まとまりがないのですが、自分としてはアドラー心理学やブリーフセラピーのメタ理論の下で意味づけて使っていることになるのでしょうけど。
では、よくいわれる臨床心理学派間の折衷は可能なのでしょうか。
基本的には無理だというのが野田氏の考え。
アドレリアン・カウンセリングとロジェリアン・カウンセリングというものは存在するけれど、その混合物はアドレリアン・カウンセリングとロジェリアン・カウンセリングの折衷ではなくて、実は折衷派という新しい流派であって、その構成要素になった諸流派とは独立の一派だと考えるべきではないでしょうか。自動車の部品と飛行機の部品を使ってモーターボートを作ることはできますが、それは自動車でも飛行機でもなくモーターボートであるように。
特にメタ理論(思想)の折衷はほとんど不可能。「メタ理論は妄想体系であり、その一部でも変更すると全体の構造が変わってしまうシステムだから」です。
確かに、精神分析とユング心理学と行動療法の思想的折衷なんて、到底考えられない。キリスト教とイスラム教だけでなく、これを私は「臨床心理学の百年戦争」と呼んでいます。
これを乗り越えようとする努力や実証的研究もあるようですが、思想闘争は常に残るでしょうね。だからこそ純粋に科学というより、人間的、文化的営みともいえるのではないかという思います。
ちょっと引用が多くなりましたが、私は、この理論/メタ理論(思想)/技法という視点を持つことで、臨床心理学について論じ合ったり、学ぶときに、お互いがどこに足場を置いているのかを相対化しながら理解することができるように思っています。
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December 27, 2005
常々思うのですが、臨床心理士ほど不可思議な「資格」はないのではないでしょうか?国家資格ではないのに、まるでそんなイメージが世間で持たれてて、心理の仕事をするには持っていないと何か後ろめたい感じさえする、心理臨床家になるには、持ってて一人前みたいな、実態と合わない変な権威があります。その反面、それに対して根強い反発、非難もありますね。
でも私のいる世界では、持っていることは全く採用条件ではありませんし、法律的にも、そうなっていません。おそらく今後もそのための法改正はないでしょう。
それでも今や若い心理希望者は猫も杓子も取りたがっています。私だって、心理職としてのサバイバル、お仲間との友好的お付き合いのために取ったから人のことは言えないけどね。
はっきり言って、資格を持っていてもいなくても、これまで各相談機関、治療機関で立派に業務をこなしている人は僕を含めて(あ、違うか)たくさんいます。ということは、あった方が良いかもと認めた上で、国家資格の必要性は本当にあるのかしら?という疑問は一応出しても良いよね。それが絶対的に必要でもないのは現実が表しているといえる部分もあるわけで。
それでも今や私の周辺でも、トップ次第で、実力や経験が明らかにある方が資格を持っていないだけで、それほどでもない臨床心理士より評価や処遇が落ちるなんてことがあり得る状況になってきています。まあ、どちらにしても大した扱いじゃないかもしれないけど、首にされちゃかなわない。
医師になりたくても医師免許がなければなれないのは明らかだから、ブラック・ジャックでもなければ、あきらめは簡単につきます。でも臨床心理士でなければ、心理職として認められないというのは、今の段階では早計、短慮、不公平、不利益に過ぎるというものです。
もちろんこれらは、臨床心理士のみの問題ではありません。むしろ、臨床心理士を巡る「社会的問題」というべきものです。
そんな曖昧な状況から脱却してほしくて、これまで臨床心理士会の主張するような、多分野に渡る汎用的な国家資格の必要性、それによる専門性の確保や向上等のことに妥当性はあるかもしれないと私も思っていました。確かにいろいろな面で、スケール・メリットがあるということは良いことが多いでしょうからね。臨床的スタンスは相容れないところが多いながらも、一応支持はしてましたよ。
でもなんかスッキリしない。特に汎用的な国家資格になることはほんとによいことなのか、別にならなくてもよいのではないかという気も、ごく最近ふと強烈に湧いてきたのです。国家資格になってよいことなんてほんとにあるの?
この資格問題については、今年前半の医療心理師推進側と臨床心理士会の国家資格法案を巡るバトルをきっかけに、専門的なブログがいくつかできて、真摯な議論がなされています。私も、ほんとに気楽な感じですが何回かコメントさせていただきました。
臨床心理職国家資格のための緊急ブログ 心理職の国家資格化実現検討委員会
来年以降、紆余曲折はありながら、こういった関係者の努力によって、国家資格へとつながっていけばいいという思いもないわけではないです(冷め気味だけど)。
でもその一方で、今私は、そんな真面目な場で発言するほどではなく、多分に直感的、思いつき的だけど、どうしても抜けない疑問を表してみたくなっています。大体みんなが合意していることに、うさんくささ、疑問を持つタイプなんだな。
これから時折このブログでも、「臨床心理士問題」を巡る自分の「違和感」を出してみようかと思っています(関係、関心のない方は無視して下さいね)。
「国家」はいるか?
臨床心理士はすべての領域に通じる「心の専門家」なんだそうな。まともな謙虚さのある人は自分がそうだとは思ってないでしょうけど、うたい文句はそうなんだって。
ではその「心の専門家」に国家が資格を与えるとはどういうことか?国家が承認を与える「こころ」とは?具体的なイメージができないけど、どうもそこが私にはいつも気色が悪い。
公務員の私が言うのは変だけど、皆さん、国家を信用しすぎてない?
はっきりいって私は今の国家に何の信用もおいていません。その理由はいちいち書きませんけど、わかる人にはわかるでしょう。自分の国家資格の免状に「小泉純一郎」とか彼の命じた厚生労働大臣の名前があると思うだけでうんざりしてくる。
そういえば河合翁は小泉に任命されて文化庁長官になったんだっけ?あらやだ。
そんな個人的な思いは別にして、国家が臨床心理士の「利用価値」に気づけば(大いに価値ありと私は見ています)、国民の「心の操作官」にさせることだってあり得ます。国家の考える「心のあるべき姿」に向かって世論を誘導したり、政府の無策の言い訳に使われたり(スクールカウンセラーがそれに近いかも。奥田健次の教育改革ぶろぐろ部)、近い将来徴兵制が敷かれることになれば、徴兵検査で我々は若者の心理検査をすることになるかも・・・(あり得ないと思う?)。先ずは「抵抗勢力」医師会の力を少しでも削ぐために、臨床心理士は使えるかな。
立派な理念が制度化、現実化すれば当初の思いとは正反対の方向に進んでしまうことは歴史的にもよくあることです。
臨床心理士の法制化がなかなか進まず根強い反対勢力や批判があるのも、学者間やセクト間の権力闘争、思想闘争以外に、「単なる治療者用資格」に収まらない問題をどこかで感じているからではないか、という気がするのです。その点では医師免許や自動車整備士とかの他の国家資格の方が、あり方としてはシンプルです。
逆に言えば、こんな風に国民をたらし込めますよ、支配層にとって都合がよいですよなどと政治家や官僚に利益を陰に陽に示せれば、一気に資格化は進むでしょう。老賢人河合翁、がんばって下さい。(^^)
臨床心理学は科学だし、まじめな人たちが臨床現場でやっているだけだからそんなことはあり得ない、と断言してよいのかどうか。確かに科学という側面もありますが、心理療法には思想的、文化的営為という面も少なからずあるからです。フロイト以降、社会の常識に対するアンチテーゼ、カウンターカルチャーとしての役割も果たした臨床心理学は、支配体制側の飼い犬として収まってしまうのでしょうか(もう収まっているか)。
じゃあどうすればいいんだといわれると困るけど、私は、国家は「こころ」に介入するべきではない、逆に我々から、医療とか最低限の領域に資格範囲を狭めさせるというのがよいのではないかと(現時点では)思ってます。
その点では医療心理師の発想は一理あるかもしれません。あとは我々で自由にやろうぜ、大事になのは国家に認められることではなく、「学の独立」(ワセダワセダ♪)だと思うのだ(今でも文科省にぶら下がっているけど)。
免許は、「心の一部の修理工」に対してだけでいいんじゃないかな。
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December 23, 2005
前回の描写と説明からさらに思いついたことがあるので、書き進めてみます。
カウンセリングや心理療法で使用される言葉の用い方を考えてみると、描写することが説明することより大事かなと思うのです。
伝統的精神分析には、説明による洞察が治療的という考え方がありましたが、果たしてどうなんでしょ?
最近は問題についての説明が必ずしも問題解決につながらないという考えるセラピーが増えているようです。抽象レベルの高い言葉で構成された「説明」より、クライエントが語る物語をどう捉えるか、という具体的な描写のレベルの言葉の扱い方に注目が集まっているように思えます。
クライエントの話すことをそのままなぞるような、ロジャース派によく見られる受容的なアプローチは、「描写重視」ではあります。ただ、例えは悪いかもしれないけれど、あまりうまくない子どもの作文を「うまいね、よく書いたね」と誉めるだけで、「こう書いたらもっとうまくなるのに」と教えることを禁じてしまっているような気が、私にはするのです。自然に作文がうまくなることは多くはないかも。優しすぎる先生は私には物足りないな。
数年前、エリクソン催眠の大御所、J・ザイク先生のワークショップに参加したとき、ザイク先生が、「催眠家は人間バイオフィードバックになること」とおっしゃったのが心に残っています。相手をよく観察して、小さな変化を捉え、それを増幅して伝えることを意味しているのだと思いました。「足の裏に床の感触を感じ取れるかもしれません・・・・そして、ゆったりと呼吸しているのを感じ取れます・・・・そうすると・・・・」と細かく細かく催眠家は、相手の変化を描写してフィードバックしていきます。相手はそれを確認し体験しながら、トランスに入っていきます。
催眠家が小説家になるのですね。
行動分析法や認知行動療法の手順も、クライエントから出される行動や認知の描写を手際よく整理していくことに主眼が置かれているような気がします。
クライエントの描く小説をもっとよい作品にするために校正する編集者のような役割でしょうか。具体的、実践的であまり観念的な説明に飛ぶことはありません。
アドラー心理学やナラティブ・セラピーも描写重視の心理学で、その背後に「深層」や「原因」を探ったりはしません。
でも科学たるべきは臨床心理学は、説明をしないわけにはいきません。今後も社会の要請に応じて、様々な心の問題に対して、「心理学的説明」を求められ、答えていくことは続くでしょうし、そういう役割を担う学者先生はマスコミや論壇に登場することでしょう。
優等生的には、描写的言語も説明的言語もどちらも必要、共に高めていくことが専門家のあるべき姿だなんてことになるのでしょうか。臨床心理士試験にはこういう人が合格ね。
でもね、優秀な作家で優秀な評論家はほとんどいないのです。もしかしたらそれぞれのレベルの言葉を操るには違う資質が必要なのかも、と私は見ています。
私は正直言って、説明なんかどっちでもいいや、面白いか、役に立てばね(^_-)。
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December 21, 2005
実は私、割と文学青年で、恥ずかしながら大学時代は友人と文芸同人誌をやっていたこともあります。今の学生さんはブログとかあるから、そんなことをやる人はいないのかな。
数年前には、山梨在住のミステリー作家で、出版社を経営している岩崎正吾氏が主宰する小説教室に通って文学修行をしていたこともありました。でも結局、自分は小説を書くより、口先を動かしていることに適性があることがわかって、小説家は断念、心理臨床に専念することにしたのでした(*^_^*)。
その教室で岩崎氏から学んだことで特に印象的だったのは、「描写と説明を区別すること」ということでした。
下手な小説書きは、描写するべきところを説明してしまうといいます。基本的に小説とは、登場人物の行動や表情、動き、または風景や人間関係を描くことで、読者に感じさせてわかってもらうことを目指すべきものです。でもそこで下手な人は、「彼女はうれしかった」「愛していた」「怒った」とかいう抽象度の高い言葉で説明をしてしまうのです。
「女は残酷だ!」という作者の「思想」を小説で表現したいなら、そこを安易に説明せずに物語として丁寧に描写するべきなのに、「『女は残酷だ!』と彼は思った」と書いてしまうということですね。読者はそんなの興ざめですよね。
描写と説明がゴチャゴチャになってしまった文章ほど、読みにくいものはありません。
それぞれは言語の次元が違うというか、描写は個別的、事例性、生ものであるのに対して、説明は一般的、抽象性、事後的であるといえるかもしれません。
物語とは、本来描いて描ききることで、読者に「感じ取らせる」もののようです。ここまでは小説のイロハ。
ひるがえって、我が臨床心理の世界で表される文章は、と考えてみると、例えば「心理臨床学研究」なんかの事例研究の論文には、とても読みにくいものが多いような気が、以前から私にはしていました。論者の文章力がないためかと思っていましたが、どうやら描写(カウンセリングの過程など)と説明(それについての心理力動の解釈や因果関係の説明)が混ざっていることに拠るのではないかと最近思い至りました。
もちろん論文だからそれなりに章立てされて体裁や区別はできているけれども、それでも同一紙面上にあるだけで、私には混ざって見えてしまうのです。まるで小説とその評論を同時に読んでいるようなもので、頭の中があんまりすっきりしません。まあ、描いているといっても逐語録的なだけだし、小説みたいに描ききったらおもしろすぎて、かえって審査を通らないでしょうけどね。
また、きっとそのケースについて、論者の頭の中にある「説明」と私のそれとはずれて違っていることもあるかもしれません。
では説明だけの文章(理論、統計的な研究論文など)はどうかというと、論理は明快だからわかるはわかるのだけれど、自分的にはどうしてもおもしろくない、知りたいことは少ないなあと感じるのですな。
元々私は、説明にそんなに関心が向かないタイプなのかもしれません。解釈より生きること、考えるより動くことが好きなのです。だから心理テストの解釈の勉強会はいつも途中で飽きて眠ってしまう。でも実習的なワークショップは流派や技法を問わず大好きです。
こういうの、頭が具体的操作レベルっていうのかしら?
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December 07, 2005
前記の最近、社会派のトラックバック先、「奥田健次の教育改革ぶろぐろ部」の奥田先生から、二度トラックバックをいただき、あまつさえご自身のブログでもご紹介いただきました。おまけに、最近、武闘派(笑)とタイトルまでもじっていただいて(笑)。
いやあ光栄の極みですね。ブロガー冥利に尽きるというか。
自分は心理臨床オタクな人間には山ほど出会って嫌な思いをしてきた。
一方、臨床家でも味があるなと思う人は、必ず何か心理学以外の「道」にあって「道」を探求しておられる気がする。そして、そうあるべきだと思っている。合気道でも、茶道でもよい。
求道者たちは年齢の上下や立場の上下など関係なく、ただひたすら学び続けているのだ。そういう意味では、大学などの組織で年齢や立場の上下、学閥などがある世界では、所詮は趣味レベルの人間ばかりで埋め尽くされているといえよう。
そういうわけで、自分はもうこの業界では異端者のようであるが、これからも「道」を極めていきたい。
私に味があるかどうかはわかりませんが、珍味であることは間違いがございません(*^_^*)。
少なくとも、反骨精神と道を極めんとする志はあるつもりです。一見柔らかいけどタフな心理臨床家になりたいものですね(これを中国武術では外柔内剛といいます)。
もともと臨床心理学は、精神分析にせよ行動科学にせよ、その時代に支配的な文化、価値観に対してカウンター・カルチャーであった面は強かったと思います。でも、最近はどうなんだろ。国家資格になったら、支配者側に変にからめ取られなければいいけどね。
これからも、自分の現場を重視するのはもちろんのこと、それ以外の世界で見聞し、体験したことをリンクさせて、何かおもしろい言葉を紡いでいきたいと思っています。
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November 11, 2005
昼休みにブログを回って見ていたら、しゅう兄さんの臨床心理士的生活というブログで、
あなたの脳タイプチェック
なんてのがありました。こんなのくだらないものに手を出してはいけない、妥当性はどうなんだ、なんてぶつくさいいながらも、つい心理屋の性としてやってしまいました。ついでに職場の心理職の仲間にもやってもらったら、しばし大受け。みんな好きよね。私の結果は、
あなたの頭脳タイプ:新感覚推進タイプ
社長になれる度数:99%
あなたは既に何らかの形で、代表か社長またはリーダー的存在で活躍していることでしょう。一風変わった感覚を持つ個性派です。自由主義で枠にはまらず、規制されることを何より嫌います・・・。
あなたの知能領域:図形的空間的センスにとらえ、考えたり憶えたりする能力に優れています。
あなたの知能活動:「転換思考型」ひらめきが良く、逆転の発想などまったく別の角度からの視点をもって考えられるタイプ。発見・発明タイプ。
うーん、なかなかやるじゃないの。まさに私の自己イメージそのものだな。というより、こういう自己チェック型の質問(紙)は、自分みたいな自己受容度が極端に高い人間には当然よく当たって見えるよね。それに、そこにかぶせるタイプというかレッテルがポイントで、これが「思いつき衝動突進タイプ」とでもなっていたら、「やかましい!」となるところです。うまくリフレイミングしてくれました。
誉められたみたいでうれしいな。
よし、いっちょ開業でもしたろうかな、という気分になりました(^_-)。
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November 07, 2005
「人間以外のものに生まれ変わるとしたら、何になりたいですか?」と聞く転生願望という質問技法があります。アドラー心理学のライフスタイル診断をするときに、その人の自己理想や人生目標を探ったりするのによく使われます。心理テストというほどのものではない、ごく単純な質問ですが、けっこう答えに個性やバリエーションが出ておもしろいし、それを巡ってクライエントさんと楽しく話し合うネタにもなるので、割りと私はよく使います。
経験では、中学生辺りの子だと「鳥」がすごく多いですね。理由を聞くと「飛べるから」「自由だから」とよく言います。やっぱり現状に窮屈というか、制限を超えて自由を求める気持ちは思春期らしいですね。また、さらに詳しく聞いていくと、鳥にも「タカ」や「インコ」「雀」とか全然違うイメージだったりして興味深いです。特に非行少年なんか基本的にエネルギーがあるから鳥とか獣が出やすいけど、乱暴なことばかりして問題視されていた子が意外にも「犬。室内犬。かわいがってもらえるから」と答えたのには驚きました。その子なりのいろんな思いがあるんだなあと改めて気づかされましたよ。また、引きこもり的な子からは「なまこ」とか「炬燵」なんて、自分には絶対思いつかないユニークなのが出てきたりして、その子らしくておもしろいなあと思うことがたくさんあります。
ちなみに私は、迷うことなく虎です。武道が好きになるくらいだから強くなりたいのは昔からあったのですが、なぜか小さい頃からライオンでもティラノザウルスでもなく、虎なのです。タイガーマスクの影響かなあ。ライオンみたいに群れを作らず、森林の中を一人(一匹)孤高に生きていく無敵の強者、そしてあのきれいな縞模様と優美な動き。強さと孤独と美を兼ね備えた虎が大好きなのです。子どもと動物園に行っても、いつも虎の檻の前でうっとり見ています。虎には私の自己理想やライフスタイルがきっと反映されているのでしょう。きっと自分は、「虎だ、おまえは虎になるのだ!」と自己暗示的に言い聞かせてきた人生なのだ。ちなみにそのためか、阪神ファンです。
みなさんはどうですか?
そこでさらに考えてみました。私みたいに歴史好きのクライエントさんがもし来てくれたら、「歴史上の人物で、誰に生まれ変わりたいですか?」なんてどうかな?武田鉄矢だったら坂本龍馬、小泉首相なら織田信長でしょうね、文句なく。その人の究極の自己理想が出るかも。でも最近の子は歴史意識がまるでないから、使う機会はなさそうね・・・。まあ単に歴史談義で盛り上がりたいだけなのかもしれないけど。
私の場合は、実は義経じゃなくて(前世で経験済み?)、何といっても真田幸村と島津義弘なのです。信長、家康なんてとんでもない、って感じで、武田信玄や宮本武蔵は好きだけど、それほど入れ込んでないのね。真田幸村は伝説的人物なのでご存じの方も多いでしょう。父昌幸と上田城にこもって徳川軍を二度も撃退し、大阪の陣でも冬は真田丸で存在感を示し、最後の夏の陣では家康本陣に突進して、あわやというところまで家康を追いつめながら力尽きて討たれたのでしたね。忍者ものでお馴染み、昔からのヒーローです。島津義弘は、関ヶ原の戦いで少数ながら西軍について、西軍が小早川秀明の裏切りで総崩れになった時に、唯一家康本陣への決死の中央突破を敢行して、大いに武威を示しながら薩摩へ逃げきることに成功し(「島津の退き口」と呼ばれます)、さらにその後西軍の武将たちはみんな家康によって領地を没収されたり減封になったのに、島津だけは武力と政治力を示しながら自己の領土を守りきったのでした。
二人に共通するのは、限りなく強くてクレバー、少数を持って多勢にぶつかり、筋を通しながら、名も実も取るしたたかさ(真田は幸村が武名を上げ、兄信之が徳川について幕末まで家名を保ったのでした)を兼ね備えていることです(事実はどうだったかはわかりませんよ。あくまで私がこしらえた「物語」かもしれません。それでいいのです)。こんな風に生きたいなあ。
あなたは誰がいい?
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October 31, 2005
これまでアドラー心理学の共同体感覚という考え方について紹介をしてきました。
アドラー心理学の種10・共同体感覚 共同体感覚のスペクトル
あ、それからこの間行われた臨床心理士の試験問題に、選択肢のひとつとして、アドラーと共同体感覚が出たらしいですね。時代も変わったもんです。このブログを読んで下さった受験生の方は(いるのかな)、正解できましたね(^_^)v。
共同体感覚の思想的定義、意味づけについては話したので、今回は実際の臨床や生活上、どんな風によいことがあるのか考えてみたいと思います。心理療法やカウンセリングの治療目標ということなら、症状消失とか社会適応とか、わかりやすく簡単にいえばいいのに、「共同体感覚の育成」なんてわざわざこなれない言葉を使うからには目的があるかも。きっといいことがあるはず!
でも共同体感覚を知っていたり、理解すれば劇的に治療効果が上がるとか、よく治るとかそういうことはあまりないらしいです。残念。
ではどんな意味があるのか。私は、それは治療目標について自分がどんなスタンスでいるべきかをセラピスト側が吟味することにおいてだと思っています。
心の問題とは何かについて、個人とその周囲の共同体(家族、学校、地域、社会・・・)との関係のミスマッチング、葛藤、悪循環であると見た時(多くの心理臨床学ではそう見ているはずです)、そこから「治る」とは、その人が属する共同体への復帰、そしてその人に対する共同体からの承認が成立したときと考えることは妥当かもしれません。
心理療法の結果、見事不登校の子どもが学校に行けるようになって、ついでに親御さんや学校の先生から「元気に通ってきています。よくなりました。ありがとうございました」と認めてもらえれば満点というイメージでしょうか。
その問題で苦しんでいるクライエントが当座は救われたのだから、多くの場合はそれでいいのだと思います。そんな風にうまくできれば、きっと優秀なセラピストです。私も一応はプロですから、ほとんどの場合はクライエントの主訴に沿った対応をします。
でも時には、クライエントが戻るべき共同体は、ほんとうにそこだろうかという反省が必要な時があるかもしれません。極端な場合、ナチスのような全体主義社会みたいに、その人の所属する世界の方が狂っている時、そこでの「不適応」は正常の印かもしれないからです。実際今の社会は、はっきりいって反共同体感覚的ですからね、たとえ治ったとしても幸せにはなかなかなれないのです(僕らみんなそうね)。
前にも説明したように、アドラー心理学でいう共同体とは、現実の社会とは必ずしも重なりません。家族や学校、職場だけでなく、地域や国家でもなく、個人が関係するすべての環境を意味しているのです。そんな心の中にある共同体へ関わる意志というものが誰にでもあるのではないか、それを健全に育てることが、ひいては現実の社会に対して建設的な行動につながるのではないかとアドラー心理学では考えていると思います。
よく「この子は社会性がなくて」とか「協調性が足りない」という「問題」を聞くことがあります。現象的には確かにそういうこともあるかもしれませんが、ほんとうにすべてをその一言で片づけられるのかという疑問が私にはあります。彼の共同体感覚は普通の人とは違うあり方をしているのかもしれない。そう思ってみるのは無駄ではないでしょう。
そうして彼の共同体感覚を感じ取って信頼することができれば、こちらは自信を持って、「社会適応しなくてもいいんじゃないの」「人のことはいいから、自分のことをもっとやろう」とか言ってあげられるし、その方が治療的であり、共同体感覚の育成になることがあるかもしれません。
共同体感覚という言葉を使う使わないにかかわらず、こういうスケールの大きい、ある意味非現実的かもしれないイメージを持つことで、現実のミニマムなあれこれをリフレーミングする文脈になるのではないかと考えています。
アドラー心理学の核心で最良の部分ですが、まだうまくいえません。取りあえず今回はここまで。また考えていきます。
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October 18, 2005
いよいよ世紀の運動科学者、高岡英夫氏に登場していただきます。僕がこの約10年間、直接学ばせていただいている武術や心理学を除けば、最も知的、身体的に大きな影響を受けた方であります。今まで紹介した方々(頼藤和寛さんやベイトソン)と違って、まさに現在進行形の方でありますので、世間的な評価は定まっていないかもしれませんが、僕が見るに、心身問題を巡る理論と実践において、氏は歴史に残るほどの「天才性」を発揮していると思っているのです。
高岡氏は最近ゆる体操でブレイクして、出版数は飛躍的に増えたし、メディアにもよく出ていて、ついにはNHKにまで登場するようになりましたが、氏の展開する、本質的にかなりぶっ飛んでいるはずの身体意識論を承知した上で出てもらっているのか(そんなはずないね)、意味もなく心配しちゃってます。別に危ない思想ではなく、かなり本質的で真っ当な議論を氏はされていると思うのですが、現在の学問の枠組みをかなりはみだしているといっても過言ではないですからね。それに氏は、ただ頭がよいだけじゃなくて、合気などの武術の達人であり、それを公開したり、ゆる体操みたいな臨床的な可能性のある技法を創り出して実証的な研究をしているところにも、僕なんかはしびれちゃいますね。
ここでは、スポーツや武道の記号論的分析や評論から画期的なトレーニング理論、身体意識論、リラクセーション体操「ゆる」の普及など多岐に渡る氏の仕事を紹介する余裕ないので、あえて説明なしに語ります。知らない方には何のこっちゃでしょうから、関心が出たら当たってみて下さい。
運動科学総合研究所
先ずは、僕がどんな風に高岡理論と接したかを簡単にお話しします。10年ちょっと前、まだ僕が20代だった頃、ちょっとした壁に突き当たっている時期がありました。太極拳などの柔拳を学んで何年か経った頃で、ようやく実力がつき始めたこと実感していましたし、これは武道的に大変高度で強いものだと確信していましたが、自分自身はまだそれにほど遠い状態なのも確かでした。簡単にいうと十分に「力が抜けない」のです。脱力がなかなかうまくできない。力を抜いているつもりでも、実際に上のレベルの人と推手をすると全く歯が立たない。普通の人よりは脱力ができていたと思いますし(動作法の講習なんかで「すごく抜けてるね」なんて言われてましたよ)、友人のフルコンタクト空手家と手合わせしてもひけは取りませんでした。でも我が派の上級者とやると当たり前だけど、レベルが違いすぎるのです。「どうしたらああなれるだろうか」と自問自答していました。
それから「もう一つの壁」もありました。学問的というと格好はいいのですが、身体と意識、心と体の関係をどう考えたらいいのか、長年取り組んでいる自分の臨床心理学的実践と武道や気功の実践とどうつながっていくのかが、なかなか見えなかったのです。東洋と西洋というか、二つの文化間の乖離が僕の認識の中で埋まらないのです。
気を中心にした東洋の身体観は、西洋科学的認識論からはナンセンスなものしか見えません。気を科学的に研究すると称する学者もいましたが、脳波がどうしたとか生理学的な対応関係を推測するものが中心でした。心理学というか人文科学からは、「心身相関」「心身一如」がお題目のように唱えられていても、具体的なメカニズムの説明に乏しいと思えました。また現象学などの身体論的哲学は、やけに抽象的で、そのまま使えるものではありません。最近は、精神科のデイケアや老人のリハビリなどで気功法を取り入れているところも出始めていますが、まだ実用・レクリエーション・レベルにとどまっているように見えました。僕は前にカミング・アウトしたように、心理芸者であって、研究者ではありませんが、自分の芸に一貫した「ことば」を持っていたいとは思っていたのです。そうしないと自他に実践内容を説明できないのでね。
そんな時期、毎月購読していた武道専門誌「秘伝」(BABジャパン)に登場したのが売り出しはじめの高岡英夫氏でした。まだゆる体操や身体意識論を本格的に展開する前でしたが、養神館の塩田剛三先生などの武道家との対談シリーズやトレーニング理論や武道・格闘技の記号論の記事を毎号読んでみると、「これはすごいかも」と直感が確信に変わっていきました。僕はアドラーでも柔拳でも、あまり世間で知られないうちに目をつけるという目端が利くところがあるのですが、高岡氏についてもまさにそうでした。「お主、ただ者ではないな」と素直に思えたのです。
それからは読みまくりましたね。各種武道や格闘技を記号論や構造主義、弁証法をベースに驚くほど正確に分析した「空手・合気・少林寺」(恵雅堂出版)と「武道の科学化と格闘技の本質」(同)、当時流行していた単純な筋トレは一流の道にあらずとして、意識と身体的トレーニングとの融合を説いた「鍛錬」シリーズ(同)、そしてデビュー間もなき若きイチローがオリックスで200本安打を放って世間の注目を浴び始めた時期に彼の卓越性を早々と予言して、初めて身体意識という概念を提出した「意識のかたち」(講談社)・・・・。身体じゃなくて僕の頭だけは、かなり高岡式トレーニングを受けましたよ。おかげで、考える力がついた気がします。
そして、ついには氏の主宰する団体のワークショップにも何度も足を運ぶようになり(千葉の市川や東京でよくやっていました)、実際にそのメソッドのいくつかを学ばせていただくこともできました。高岡氏も著書とは異なり、厳しい部分はありながらもとても気さくな方で、この上なく面白い方と知ったのもよかったですね。でも立ち姿は、やはりさすがという雰囲気がありました。
その成果は・・・、すごい!おもしろい!やった!の連続でした。少なくとも当時僕の感じていた壁のいくつかは乗り越えることができたと思います。先ずは、脱力のレベルが上がって技が効きやすくなりました。僕の生徒も「さらに強くなった」と納得してくれました(もちろんいまだに達人のレベルではありませんよ)。学問的にも、身体意識論を軸にすることで曖昧だった心身相関の問題を解く糸口が見つかったように思えたのです。
それで氏の理論と実践のおもしろさに、一時は臨床心理の道を捨てて本気でこの世界に関わろうかと思ったこともありましたが、学び続けるにはコストも時間もかかるし、他にも学ぶべきことはいっぱいあるので、やはり自分のフィールドはここだと思い直して、今は地道に自分の鍛錬を続けているところであります。
高岡氏の理論と実践はまだ進化と拡大を続けてるようです。僕も一ファンとしてできるだけフォロー、応援していきたいと思っています。ここでも、僕の理解の範囲で心理学に関心のある方にもわかっていただけるように、高岡理論の紹介をしていくつもりでいます。
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October 14, 2005
先日、というかちょっと前になりますが、山梨在住でアドラー心理学を学んでいる方たちと、甲府で会食をしました。小学校の先生と主婦でスマイル・リーダーをやっている方と僕みたいな心理臨床家の4人で、ファミレスで安いパスタとドリンクサービスだけで3時間ぐらいねばったかな。
お互いの存在は以前から知っていたけど、まともに会って話をしたのはこの時が初めてだったので、何となく自己紹介的なところから、お互いのアドラー心理学との出会いのいきさつや、教室やふだんの生活での実践のこと、ライフスタイル診断のコツみたいなところ、地方から東京に出てカウンセリングの勉強することの大変さについて、等々いろんなことをお喋りしました。楽しかったな。
一地方都市で、主な臨床家のほとんどが精神分析志向ばかりの状態の中で、アドレリアンを一人で気取っていた頃は常に孤独をかこっていましたが、こちらにもお仲間ができたことは本当にありがたく、うれしく思っています。皆さん、僕以上に熱心ですごかった。
それに心理臨床家でなくて、教師や主婦というところがいかにもアドラーらしいですね。治療共同体という概念は、アドラー心理学の専売特許ではないですが、まさに我々が目指しているのは治療共同体なのです。地域や組織やネットワークが、そのように治療的に、勇気づけ的に動いていることを、大なり小なり求めているのですね。
ただ、その実践はけっこう難しいところで、運動家的に熱心に活動されている方も全国にはいらっしゃいますが、僕は基本的にそういうムーブメント志向あるいは巻き込み型ではないので(世捨て人志向?)、これまで臨床現場以外に動くことはしてきませんでした。その辺が僕の限界なんだけど、これからは、いろんな方が、それぞれの立場で実践していくお手伝いはしていこうと考えるようになってきています。
まだ小さな滴だけど、少しずつこの地にも浸透していったらいいな、と感じているところです。
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October 01, 2005
再び共同体感覚について考えてみます。共同体感覚に科学的定義はない、と前回書きましたが、同じようにアドラー心理学では、共同体感覚の「起源」とか「可能性の中心」とかいった思想的、学問的考察にはあまり関心を払わないようです。せいぜい、人間は集団で生きなければならないとか、未熟な状態で生まれてくるとかいったある意味当たり前のところから出発しているみたいです。
そういう学問的厳密さや深さを、アドラー心理学ではあまり求めないのですね。あくまでも援助の学として存在したいということなのでしょう。そこらが現代の思想家や文芸評論家あたりに今ひとつアドラーが受けない理由でしょう。アドラーで古事記や昔話、小説を分析しても面白くないでしょうからね。
でも現場的には、アドラー心理学に直接間接に関係なくても、同じような発想に基づいた心理療法が続々と登場している最近の流れを見ると、精神分析のくびきから100年かかって脱しているのは明らか、1910年頃の二人のケンカは「勝負あった」と見るのはひいき目に過ぎるでしょうかね。まあ精神分析もフロイト以来、いろいろな脱皮を繰り返して、我々の姿とそう変わらなくなってきているみたいだし、今さらどうでもいいことでしょうけど。
それはさておき、共同体感覚に類する概念って他にどんなのがあるのかな?普通にいう「仲間意識」とか「隣人愛」「人類愛」、発達心理学なんかの「社会性」とか「道徳性」や「基本的信頼感」とか、大分昔の実存主義のアンガージュマンとかとも関わりそう。また共同体感覚には、現実の社会や他者に対する関係性だけでなく、自他の境界を越える「トランスパーソナルな意識」というのとも関係するという考えもあるそうですよ。
共同体ということばは、人間社会だけでなく、全宇宙との同一化の態度が内包されている。共同体ということばには、人間仲間への愛だけでなく、自然への愛が、さらには、無生物への愛さえも包含されている。それはすべての命あるものたちへの、大地への、海への、空への、われわれの美意識にもとづく親近感である。それはコミュニオンの感覚、本質的にわれわれに好意的な宇宙との交感の感覚である。 ルイス・ウェイ(野田俊作訳)
けっこうぶっ飛んでますね。これは完璧に人間社会を越えたトランスパーソナル的な発想です。でも共同体感覚は、「近代的自我の超克」なんていうようなある種の思想や、ユングやトランスパーソナル心理学みたいに文学的というか神秘めかしていないで、われわれの日常感覚と連続的に広がっていくというイメージが強いような気が僕にはします。
以前富士山麓で仕事をしている時は、職場を囲む森を歩いたり、立ち止まって気功をするのが大好きでした。じっと耳を澄ませて身体の内外の「気」の感覚を研ぎ澄ませていると意識が透明になって、そこにある自然の命との一体感を確かに感じました。その一方、麓の広大な森のあちこちに虫食いのように存在する道路やゴルフ場を見る度に、胸が痛みました。確かにあの森に僕はコミュニオンの感覚を持っていたのだと思います。
ユダヤ人にこういう感覚が普通にあるのか知りませんが、アドラーは第1次世界大戦に軍医として従軍した時、戦争の惨状を見て、「今人類に必要なものは共同体感覚だ」と直感したそうです。「大量破壊兵器」が歴史上初めて登場した第1次世界大戦は、その後の戦争のモデルになったといいます。アドラーの直感は、現代にストレートにつながっているのです。
その直感は、その後の反戦運動や「宇宙船地球号」的なグローバルな意識、トランスパーソナルやエコロジー思想につながるものを心理学的に先取りしていたものといえるかもしれません。
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September 05, 2005
我が地、山梨でアドラー心理学に基づく親子関係セミナーSMILEが開催されます。
SMILEとは、Seminar of Mother(Father)-child Interaction with Love and Encouragement、「愛と勇気づけの親子関係セミナー」という意味です。アドラー心理学をベースによりよい親子関係を築くためのセミナーです。親子関係だけでなく、あらゆる対人関係に応用できます。1回2時間ほど、全8回のコースで、10月21日からの毎週金曜日甲府で行います。詳細はスマイルネット・山梨にお問い合わせ下さい。講師(SMILEリーダー)はそこを主宰するアドレリアン・ママの手島初江さんという素敵な方です。きっと面白いよ。僕はその応援団です。それでは、SMILEの章立てを紹介しましょう。
1章 子どもの行動を理解しよう 2章 聴き上手になろう 3章 子どもを勇気づけよう 4章 誰の課題でしょう 5章 子どもを傷つけないで意見を伝えよう 6章 体験を通じて学ぶ機会を与える 7章 新しい家族のあり方 8章 社会性のある子どもに育てよう
いわゆる心理教育、ペアレント・トレーニングというやつですが、アドラー心理学らしくとても楽しく学べるプログラムです。テキスト輪読やロールプレイなどいろいろなやり方で、アプローチします。仕事柄、最近は精神医療関係のSSTや児童虐待の親教育のプログラムを見聞きすることがありますが、アドラー心理学には、アメリカでもかなり先駆けてこの手のグループ・セミナー/セラピーを手がけてきた実績があります。いかにも心理学というより普通の日常語を使っていますし、子どもの問題行動のコントロールより、勇気づけていくことを目指しているので、行動療法系のプログラムよりマイルドで暖かい印象を僕は感じています。
臨床の知を日常生活に応用した、ひとつモデルになると思います。いかがですか。
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August 12, 2005
お暑うございます。勝手にお世話になった方々を顕彰する久々の恩師シリーズ、再開します。書きたいことが次々に浮かんでくるので、最初の頃やってことを忘れてました。
自慢するほどのことではありませんが、僕が一番長く勝手に(陰で)私淑しているのは、実はアドラーでもM・エリクソンでもなく、現代思想の賢人とか知の巨人とも呼ばれる、かのグレゴリー・ベイトソンなのです。といっても、この世界は何でもそうですが、知っている人はすごく知っている、知らない人はさっぱり、というものの代表格かもしれませんね。でもこの小さなブログで、なんと紹介したらよいのかわからないほど、関わった領域が多岐にわたり、スケールの大きな学者、思想家なのです。
先ずは略歴。グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson,1904~1980)。英国生まれケンブリッジ大学で生物学を学び、人類学に転じ、ニューギニア、バリ等でフィールドワーク。1942年サイバネティックスと出会い、大きな影響を受ける。戦後は動物生態学、精神医学、コミュニケーション論にも関心を広げ、ダブルバインド理論で名をはせる。精神医学や心理療法、現代思想などに大きな影響を与えた。主著に「精神の生態学」(Steps to an Ecology of Mind,1972)(佐藤良明訳、新思索社)。「精神と自然」(Mind and Nature)(佐藤良明訳、新思索社)がある。晩年はニューエイジ運動、新しいサイコセラピーの実験場として知られていたカリフォルニアのエサレン研究所で過ごしていた。
アホで体育会系な僕はベイトソンの言説を正確に引いたり、立派な論文をものにすることは不可能です。この機会に検索したら、結構本格的なサイトやブログがあることがわかったので、ご紹介します。ベイトソン研究会 クレアトゥーラの庵 グレゴリー・ベイトソンの学際的研究
ガッツのある人は著書に是非トライしてみて下さい。僕は、ベイトソンの深い思索をヒントに、日々の物事や臨床を考えていくことで、ベイトソンの「思想」について語るより、ベイトソンで生きる、「ベイトソンする」試みをしてみたいと常々思っていました。だから、ここではベイトソンからの情報と僕の何かが交流してできたあるマインド・システムの軌跡のお話です(その方がベイトソン的?)。
あれは84年頃、大学入学後に入った妖しいサークル「W大神秘学研究会」の最初の集まりの時、僕の隣にいた1年上の先輩(西洋哲学科にいて後にAIの研究者になった人でした)が、黙々と読んでいたのが「Mind and Nature」(邦訳「精神と自然」)でした。「へー、すげえ、大学生って原書で読むんだ」と田舎者はいたく感心して、そこで紹介してもらって読み始めたのが、ベイトソンの深みにはまるきっかけとなりました。
最初は「精神と自然」、それからまだ「精神の生態学」として翻訳の出ていなかった「Steps to an Ecology of Mind」を何回も何回も読み返しました。そのうち次第に翻訳や紹介が思想誌やF・カプラなどのニューサイエンス系の本なんかに出てくるようになり、だんだん全体像が自分にも見えてきました。特に翻訳者の佐藤良明さんの記事はわかりやすくて面白くて、見つけては熱心に読んでいました。ただ、それでベイトソンを理解したか?と聞かれると「うーん」、ベイトソンってどんなこといっているの?と聞かれても、「一言ではちょっとな、何だろう・・・うーん」ってな具合で、全然うまく伝えられないのでした(*^_^*)。でもそれは僕だけではないみたいです。「天使のおそれ」(青土社)を翻訳をした星川淳氏も「では、肝心の理解の方はどうかというと、それがよくわからない。どうも彼のものは『これ』という実体が残らないのだ。まさに実体がなく関係性のネットワークだけがあるという感じで、つかみどころがない。いくら読んでも自分の中へ消えてしまう」と述べていて、その通りなのです。
でも有名なダブルバインド理論、遊びとファンタジーの理論、分裂生成、メタ学習理論、イルカのコミュニケーション研究、サイバネティクスなどから定義される新たな精神の姿・・・・。まぶしかったですね。ベイトソンは精神や自己という現象を脳みそや皮膚の中の単なるイベントととらえるのではなく、
人間の唯一真実の自己とは、人プラス社会プラス環境からなる全サイバネティック・ネットワークである。
わたしはさまざまな生命体の