June 23, 2017

心理療法とヒーリングの共通構造

 臨床心理士などがする心理療法・カウンセリングと、巷のヒーラー、セラピストと呼ばれる人々(野の医者)の治療には何か違いがあるのでしょうか。
 
 もちろん中身やそこで使われる言葉に違いがあるのは当然です。特に臨床心理士には、「一緒にするな」と怒る人も多いかもしれません。
 
 しかし両方の世界を知る者としては、そうでもないぞ、意外に近いんじゃないか、という印象を私はずっと持っていました。特に精神分析学とユング心理学はそうです。私のやるアドラー心理学も例外ではありません。では、どんなところでしょうか。
 
 東畑開人著『野の医者は笑う』(誠信書房)に、医療人類学と著者の体を張ったフィールドワークから得た結論が参考になるので、メモします。関心のある方は本書をお読みください。
(引用開始)
 心の治療は時代の子である。現代の外科医が幕末日本で活躍するドラマがあったが、体の医学についてはそういうことが可能でも、心の治療では不可能だ。
 心の治療では時代の生んだ病に対処し、時代に合わせた癒しを提供するものなのである。その時代その時代の価値観に合わせて姿を変えていかざるを得ない。   p245
 
 ここまで再三書いてきたように、野の医者たちに会う中で私が得た結論は、心の治療には「イワシの頭も信心から」のメカニズムが根深く埋め込まれているということだ。
 つまり、ジェローム・フランクという精神科医が見抜いたように、心の治療はクライエントがいかに治療者を信頼し、希望を抱くかにかかっている。  p265
 
 信じさえすれば、皆同じように病が癒えるわけではない。治癒は一つではないのだ。心の治療は、それぞれの治癒へと病者を導くのだ。  p266
 
 治癒とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方は一つではない。  p266
 
 精神分析なら悲しみを悲しめるようになること、ユング心理学ならその人が生きてこなかった自己を生きていくこと、人間性心理学なら本当の自分になっていくこと、認知行動療法なら非合理な信念を捨て去り生きていくこと、マインドブロックバスターならマーケティングにさとく経済的に独立して生きていくこと、X氏なら軽い躁状態になって素早く起き上がること。   p267
 
 心の治療はニュートラルではない。無色透明な健康をもたらすものではあり得ない。
 すべての心の治療が、独自の価値観をもっている。ここにあるべき生き方が含まれている。
 あるべき生き方を目指して、治療者たちは治療技法を考案する。その技法は、その治療法の独特の価値観を暗に明にクライエントに伝達する。クライエントはそれを自分なりに取り込んで、自分の新しい生き方を作り出す。ここに治癒が生まれる。  p268
 
 心の治療とは、クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである。  p268
 
(引用終わり)
 
 
 全く同意します。
 
 そして歴史的に、治療者側の価値観に最も自覚的だったのがアドラー心理学であることも記しておきたいと思います。
 

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June 19, 2017

『野の医者は笑う』

 今年上半期、一番面白い本でした。知的に面白いだけでなく、実際に笑い転げました。そのくらい面白い。
 
 
 気鋭の臨床心理士、心理学者が勤務地であった沖縄で、いわゆるスピリチュアル、ヒーリングの濃い世界をどっぷりとフィールドワークした(浸かった)ドキュメントです。
 その体験を通して、「心の治療とは何か」「人が癒されるとは?」という根源的な問いを考察しようという、実に意欲に満ちた「研究報告」です。
 
「野の医者」とは、精神科医でも、公的機関に勤めるような臨床心理士やカウンセラーでもない、全く在野にいて、世間の人たちの心身のさまざまな悩みに応えようとしている人達です。
 
 キーワードはたくさんありますが、オーラとか前世とか、なんとかマッサージとかレイキとかアロマとか、一昔前は精神世界、代替医療、今はスピリチュアルなどと呼ばれる分野で活動している治療者たちです。
 
 皆さんの周りにもいらっしゃるでしょう。
 普通「まともな」臨床心理士、心理学者はそういう妖しいものと自分たちは違うと、敬して遠ざけるかするものです。
 でも実際多くのクライエントさんは、精神科とカウンセリングと野の医者の治療を渡り歩いたり、並行して受けていることが多いものです。それぞれの分野の治療者は、内心ではそれを快く思っていないかもしれません。
 
 しかし著者は生来なのか、臨床心理士にしては(ユング派の牙城、京大出身!)、実に軽いノリで、沖縄の有名、無名のセラピスト、ヒーラー、「野の医者」たちをどんどん渡り歩き、時には指圧の痛みで悲鳴を上げたり、時には野の医者と語り合ったり、セミナーの参加者たちと喜びを共にします。
 
 沖縄だから伝統のユタを取材するのかと思ったら、意外にも最近都市で勃興して沖縄に入ってきたスピリチュアル系の人たちに多くアプローチしているのがまた興味深い。沖縄でもけっこう盛んみたいです。
 
 そして本書の最後に考察される、「心の治療の本質」とは?。
 
 これは私も常日頃考えていることとほぼ符合しました。このポストモダンの時代、基礎心理学や認知行動療法のような科学主義でなければ、けっこう納得がいく結論ではないかと思います。
 
 是非、「まともな」心理士、カウンセラーさんはお読みください。
 
 ところで、著者は臨床心理から野の医者の世界に分け入った人ですが、実は私は野の医者が臨床心理の世界に入ってきたようなものかもしれません。これまで私が学んだり接してきたものをいうと、ちょっと著者に匹敵するか、もしかしたらそれ以上かもしれません。
 だって太極拳とか気功法とか30年もやっていると、その世界とのお付き合いは必然的にあるんだもん。
 
 ただ、正確には私は、完全に野の医者ではなく、完全に普通の臨床心理士でもないかもしれません。なんかその境界線にいるというか。
 
 だから逆に、私の心の治療に関する表現は抑制的で、あまりそれを表に出すことはありませんでした。正面から野の医者の世界をこのブログや臨床心理の世界で表すことはしてこなかったし、野の医者の世界の人たちにことさら臨床心理学や精神医学の話をすることもしませんでした。こういう分野は好きだけどどこか冷めているというか、両方の世界を使い分けている自分がいます。
 
 そして、野の医者の世界と臨床心理の世界をつなぐものとして、有用なのが、実はアドラー心理学なのです。
 実際私に限らず、アドラー心理学を学ぶ人たちの中に、野の医者系の人たちが少なからずいらっしゃるのは事実です。
 これは他の学派にはあまりないことかもしれません。
 
 確かにユング派とスピリチュアル系は関連性はあるのですが(本書でも著者が出会った人との驚くべきつながりが描かれています)、ユング派の人はなんとかそれとは違うものとして区別しようとしていて、スピ系の人は自分なりの世界観に勝手にユング心理学を取り入れようとしている感じがします。(外からの視点ですが)。
 まあ、ユング心理学は今は大学や学会で権威的立場を得ていますが、スピ系とかなり類縁関係にあるのは間違いないでしょう。ユング自身、ユングの家系がそうだったみたいですし。
 
 アドラー心理学がスピ系の人たちに働きかける仕方は、ユング心理学とは違うように思われます。
 
 それは、ぶっ飛びやすい野の医者の心を、現実にグラウンディングさせることです。
 
 実に現実的で、神とか霊とか(無意識とか自我も!)登場しないフラットな世界観のアドラー心理学を野の医者が学ぶことは、実はとても意味があることだと私は思っていました。
 私が少しはまともな臨床心理士になれたのも(?)、アドラー心理学が間に入ってくれたからかもしれません。
 
 そしたら、著者の東畑先生、今度はアドラー心理学にも目をつけたみたいで、先日ヒューマン・ギルドをご訪問、その勢いか「自分のタイプを知りよりよく悩もう-フロイトとユングの心理学」という講座をやることになったみたいです。
 最近注目していただけに、驚きました。アドラーもフィールドワークするのか?
 
 私はその日は仕事で残念ながら参加できませんが、アドラーの牙城でフロイトとユングを学ぶ、これも面白いですね。
 
 
 

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May 26, 2017

進化に生き残った自閉症

 今日、26日は身延町に行き、「山梨県看護協会峡南地区支部」の総会で、看護師、保健師さん約60人に「看護に活かすアドラー心理学」というテーマで講演をしました。
 
 短い時間の中で、目的論だの共同体感覚だのいってもわけわかんなくなるだろうから、今回は、劣等感と勇気づけに絞ってお話しさせていただきました。劣等感はみんな身に覚えがあるだろうし、勇気づけは看護の基本コミュニケーションになり得ると思うので、是非学んでほしいところだからです。
 ほとんどが女性のためか、皆さんノリが良く、ワークも楽しくやっていただけたようです。
 
 ところで、先日NHKスペシャルで発達障害の特集番組がありました。
 発達障害プロジェクト なんてのもやっているみたいです。
 
 番組では、感覚過敏に焦点を当てて、当事者の世界をわかりやすく再現していたと思います。けっこう参考になったのではないでしょうか。
 
 番組には専門家として、信州大学教授で前山梨県こころの発達総合支援センター所長の本田秀夫先生が出ていました。先生の山梨時代は、ケースを通して当オフィスと連携させていただいたので、ご活躍の様子でうれしかったです。
 
 ご著書も紹介したことがあります。
 
 その発達障害者特有の感覚の世界がなぜ存在するのか、生物学的にどういう意味があるのかを考察した、面白い記事があるので、リンクします。私が日ごろ思っていたことを生物学のニューロダイバーシティ(脳多様性)の考えからうまく説明してくれているからです。
 よかったらご覧ください。
 
 発達障害の過剰診断が問題になることがありますが、診断された人が他の疾患や障害に比べてあまりにも多くなったからです。けして多数派ではなくマイノリティーではあっても、そのボリュームは厚いといえます。中には不適切な診断もあると思いますが、どうしても多くなってしまう現実はあります。なぜなのか。
 
 本記事によれば、つまり発達障害は遺伝的に淘汰されなかったわけで、それは生物学的に意味があったのだろうということです。私もそう思います。そして自閉症とそうでない人たちが協同し合ってきたことが歴史を作り、今日の人類文明の発展に至ったと考えられます。
 
(転載はじめ)
社会がこれほど産業化する以前の人類の生活を考えた場合、今日なお数理的な思考や生物に非常な関心を示し、学校でもすぐれた成績をのこすことからもうかがえる自閉症者のスタンスと、そうでない人のスタンスのいずれが欠けたとしても、人類の今日の繁栄はなかったのかもしれないのだ。

 ニホンザルの近縁であるアカゲザルの群れでも、集団外の脅威にもっぱら注意を払うサルと、仲間同士の社会的交流の調整にエネルギーを注ぐサルがいて、しかもサルがどちらの役割をはたすかは遺伝的にきまっている(専門的には遺伝的多型があるという)ことが報告されているが、人間にもこうした特徴はうけつがれているらしい。

 社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いをめぐらす人物がいる――前者こそが自閉症者であることは改めて指摘するまでもないだろう。

 先史時代、われわれの祖先が狩猟採集に依存した生活をおくっていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」にたけていた存在と、社交にたけた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献をはたしたと考えられる。

 生物が同一の空間・場所にあって同じ景観に接したところで、その認識する世界は種によって多様である。
(転載終わり)
 
 きっと昔々の宗教家とか平安時代の和歌の達人とかは、自然の微かな変化も敏感に感じ取って独特な感性で言語化した自閉症的な人たちだったのでしょう。
 
 一方でADHD的な人は、関羽や張飛みたいに白刃の中を暴れまわって武勇を誇る豪傑になったのかもしれません。
 
 私なんかは現世では武術家を気取ってますが、ほんとは戦いが嫌いだから、前世はきっと戦場から逃げて、自閉症的な貴族かお坊さんのお世話でもしていたのかもしれません。今とあまり変わらないな。
 
 それにしても現代の機械文明、情報化社会は自閉症的な人たちが作ったのだとしても、それに彼らの多くが感覚的に合わずに逆に苦しめられてしまうとは、なんか皮肉な感じもします。

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May 22, 2017

『スピリチュアル・カウンセリング入門』

 カウンセリング、心理療法の将来を考えたときに、いわゆるスピリチュアルに向かっていくものが主な領域の一つになると思っています。
 
 スピリチュアルとは何か、というのは置いておいて、人々の関心も、それに付随して専門家の関心もはこれまで以上にそこに向かうだろうという予感がするのです。
 
 実証的な心理学のポジティブ心理学的な流れ、臨床心理学のマインドフルネス、ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)、そしてアドラー心理学への注目の次はそれをさらに進めたものを探ることになるかもしれません。
 
 社会が豊かになってスピリチュアルに向かうというのは、「衣食足りて~」といえばそうだけど、その意味はAIやら自動運転やら何やらが進化し、人々が労働や知的作業から解放され(アホになるともいえる)、一方で共謀罪みたいなものが推し進められ極端に監視・管理社会になって、時には仕組まれて世界のどこかで戦争やテロも(支配層によっては適度に)起こされ、閉塞感はあっても人々は普通にしていれば取りあえず楽しく生きることはできるから、「何かつまらんな、あの世のことでも考えるか」という意識になるためかもしれません。
 
 
 この2月の日本臨床・教育アドラー心理学研究会の大会で諸富先生が講演してくださったときに知った本です。当日の書籍売り場で買いました。せっかくだから、サインしてもらえばよかった。
 
 なんでも本書は、3.11の後の日本に対して生じた諸富先生なりの危機的意識の中で、「魂を込めて」(と講演会でおっしゃっていた覚えがある)書き下ろしたものらしいです。けして妖しい内容ではなく、かなり地に足の着いたしっかりとしたものになっています。
 
 その内容についてはいずれ。
 
 最終章にはあの河合隼雄先生が対談に登場しています。
 諸富先生と河合先生が、本ブログでも言及した吉福伸逸さんと80年代のトランスパーソナル心理学の思い出を語っているのは当時の貴重な証言でもあります。
 
 実は私、これから老後に向かって、普通の臨床とは別に、アドラー心理学とスピリチュアリティーをテーマにした研究、著述をしようと目論んでいます。野田先生や岡野先生らがこれまでに著わした「仏教とアドラー心理学」ものとはまったく違った切り口になると思います。きっと大きな反発(あるいは無視)を招くことになるでしょう。
 
 そのためにも、この辺の文献を集めていこうと思っています。
 
 

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May 17, 2017

『人間科学におけるエヴィデンスとは何か』

 心理学は、科学的とは何か、何がエヴィデンスになるのかについて喧々諤々と議論してきた歴史があります。
 
 私は研究者ではありませんが、アドラー心理学を学び、伝える機会が増える中で、何を拠り所にしたらいいか考える時があります。
 実は私は、「これが正しいアドラー心理学だ」といっても、あまり意味がないような気がしていました。ただの内輪向けです。つまりアドラー心理学界隈での差別化をしたい場合にだけ使えるということです。
 
 一方で、若い頃から竹田青嗣先生の著書を通して現象学に触れてきたので、自分が使うとしたらその辺かなと当たりはつけてきました。
 ただ、現象学も現代思想も簡単じゃないからいまだ半可通の域を出ませんが。
 
 
 著者たちの立場は量的研究ではなく、質的研究と現象学の立場から、心理学等におけるエヴィデンスを根元的なところから考えようとしています。
 
 私にはとても刺激的で、アンダーラインをいっぱい引きました。
 
 「自然科学のエヴィデンスと人間科学のエヴィデンスのちがいの問題」が、近代ヨーロッパの学問における「主観・客観一致の難問」にまで遡るものであることをまず指摘します。そのうえで、学問の客観性とは客観世界との一致ではなく、じつは「共通了解をどうつくりあげるか」という問題であることをフッサール現象学にもとづいて明快に示します。 (プロローグ)
 という竹田先生は、実証主義の心理学を丁寧に批判していて、私が昔から心理学に感じていた疑問に対してある答えを与えてくれています。でも多分、普通の心理学者はこういうところはあまり意に介さないかもしれないけど。結局、実証主義者と現象学者の溝は埋まらないような気もします。
 
 本書では、現象学の実践として、現象学的還元による「本質看取」の方法がワークショップのスタイルでわかりやすく説明されています。これは、「勇気」とか「共同体感覚」などのアドラー心理学をやっている人には自明の概念を改めて検討するときに使えると思いました。
 
 今度どこかでやってみてもいいかもしれません。
 
 本書を契機に、また現象学や質的研究にトライしてみたくなりました。
 特に臨床心理学を原理的、哲学的に考えたい人には良書だと思います。
 

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May 10, 2017

ブリーフサイコセラピーワークショップ-児島達美セミナー

 やまき心理臨床オフィスの八巻秀先生(駒澤大学教授)から、素敵なセミナーのご案内をいただきました。
 
 日本のブリーフサイコセラピーを支え、創り上げてきた功労者の一人、児島達美先生(長崎純心大学教授)が、関東に来てくださいます。
 私たちブリーフセラピストの間では有名な先生ですが、関東近辺のカウンセラー、臨床心理士の人たちはあまり先生のお名前をご存じないかもしれません。
 
 そこで、セミナーに先立って、児島先生とはどのような人なのか、オフィスの先生方で紹介しているサイトがあります。力入っていますね。
 
  児島達美 先生 略歴
 
1950年、長崎生まれ福岡育ち。上智大学大学院教育学専攻博士後期課程修了。
東京都立駒込病院心身医療科他非常勤カウンセラー、九州大学医学部附属病院心療内科助手、三菱重工長崎造船所メンタルヘルスサービス室長を経て、2000年4月、長崎純心大学人文学部人間心理学科教授に就任。    2017年3月、退職。
日本家族研究・家族療法学会;認定制度委員長(認定スーパーヴァイザー)。
日本ブリーフサイコセラピー学会;元会長。
日本心身医学会;代議員。
長崎県臨床心理士会;会長。
 児島達美先生から皆様へのメッセージ
 
 私の心理臨床家としての道筋をつけてくれたのは、主に家族療法とブリーフセラピーと呼ばれる一群のアプローチです。私にとって、そこから学んだ最大のものは“言葉が心をつくる”ということでした。私たちは、通常、心をすでにある内実をもったものとして認識しており、また、そうすることで社会生活は維持されてもいるのですが、実は、そうした心の内実は言葉によってつくられていくものなのです。
  ところが、一旦、心が内実化されると、心の製作者としての言葉のありようは忘れ去られてしまうもののようです。これを機に、あらためて“言葉が心をつくる”ということを参加者の皆さまと味わうことができれば幸いです。
 
 私も日本ブリーフサイコセラピー学会などで遠くからお見かけして、ダンディーな先生だなあといつも感心していました。私にないものを持っている(笑)。
 
 ただ地理的に離れていることもあって、なかなか児島先生とは縁ができなかったので、今回、是非参加したかったのですが、残念ながら同日同時刻に別の仕事が入っていて行くことができません。
 ブリーフサイコセラピーの真髄を学ぶまたとないチャンスですので、是非、ご参加ください。
【ブリーフサイコセラピーワークショップ-児島達美セミナー-のご案内】
◆研修内容|
• ブリーフサイコセラピーの講義
          • ライブ・ケースコンサルテーション

◆日 時   2017年6月4日(日)
          ◆時 間   10:00~17:00
          ◆定 員   50名さま
          ◆講 師   児島 達美 先生(元 長崎純心大学教授、長崎県臨床心理士会;会長)
          ◆場 所   たましんRISURUホール 5F 第一会議室
          ◆参加費   15,000円 (学生 12,000円)  ※事前振込とさせて頂きます。
          ◆参加対象  教育・司法・医療・福祉・保育・産業分野の専門職の方 および 学生


詳細・お申込み : やまき心理臨床オフィス
        〒190-0022 東京都立川市錦町1-19-21
          TEL: 042-523-8240 (火・木が比較的つながります)

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April 27, 2017

大人の稽古

 湯川進太郎『空手と太極拳でマインドフルネス』(BABジャパン)では冒頭に、中年期を過ぎた人たちが目指すべき心得が提出されています。
 
「大人の稽古」をしようということです。
 
 若い頃のように筋力、力を中心にした稽古によって、より早く動き、より強くなることを目指すのではなく、加齢による身体の変化に応じた、あるがままの心身を活かした稽古をするべきということです。
 
 武術・武道・格闘技は、とにかく「勝つこと」「どっちが強いか」「何が強いか」に終始したり、見た目の派手さや高い採点を得ることを中心にしてしまいがちです。特に競技系の武道はそうですが、意外に合気道や中国武術でもその傾向はうかがえます。
 人は、特に若いうちは、他者との比較優劣、他者からの評価にこだわってしまうものだからです。『嫌われる勇気』が売れる所以です。
 
 著者は、武術の稽古はそれではいけないといいます。
 
 (引用開始)
 稽古の内容は、年齢とともに変わっていくのです。加齢(エイジング)の流れに沿って、稽古の質を意識的に変えていく必要があるのです。「青年(若者)の武術」の稽古をするのではなく、40歳を超えたら「大人の武術」の稽古をしていくべきです。そうでなければ身体を壊しますし、稽古もいつまでも続きません。 …(中略)…
 
 そうして変わっていく技の内容や質は、一つの技術的な成熟であり、武術という伝統文化に対する思想的な成熟であるともいえます。そしてそれは、加齢に伴う身体的な仕様の変化に柔軟に対応した、心身の変化でもあるでしょう。 …(中略)…
 
「大人の武術」は、他者と比較したり他者の評価を気にしたりしません。私が私として、年齢に合った術を練る。そして、年齢に合った身体の調整をする。年齢に合った身体操作をする。それこそが「大人の武術」の稽古です。    p24-25
 (引用終了)
 全くその通りです。
 
 特に高齢化社会になった今では、護身術を身につけたり強くなることも当然大事ですが、そのためにも今の年齢の心身の状態に合ったやり方で稽古するべきです。
 
 50を過ぎた身としては、私は太極拳などの内家拳をやっていてほんとに良かったと思います。特に頑健でも運動好きでもなかった私が、今でも若い頃以上に相当元気に動けているのも、「無理しない武術」を習ってきたからであることを実感しています。
 
 元々空手家の著者は40を過ぎてからぎっくり腰になったショックと太極拳との出会いが、そのような発想の転換を生んで、本書につながったみたいなので、特に空手系の激しい武術を学ぶ人に向けてメッセージを送っているように感じられました。
 
 中高年の武術家同志諸君、是非、参考にしてください。
 
 

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April 25, 2017

『空手と太極拳でマインドフルネス』

 武道を心理学的に語る時に、いまや格好の概念があります。
 
 最近注目のマインドフルネスです。
 
 糸東流空手道と楊式太極拳を会得した気鋭の心理学者が、「大人の武道修行者」のために書いた本が、
 
 
 著者のメッセージは一貫しています。
 
 武術を通してマインドフルネスに至る道こそが「武道」である
 ということです。
 
 武道による精神修養効果は、昔から武道指導者、修行者からさんざん言われていることで、だから体育必修化の根拠にもなったわけですが、それがどんな内実を持つかについては、明確ではありませんでした。よく言えば自由に言い放題だったわけですが、多分に根性論、印象論の域を出ませんでした。
 あるいは知的な人は、内田樹先生のように思想的に武道を語るというのはありました。古くは弁証法の空手家・南郷継正なんて人もいましたね。
 
 でも心理学を応用した武道論はあまりなくて、一部の武道家が、精神分析学の防衛機制とかを用いているのを見たことがありますが、、それらは武道の効果のある一面を切り出しただけで、「武道体験」自体には届いていなかったと思います。
 それが、マインドフルネスとフローという概念が出てきて、割といい線いっている表現が可能になりました。ちなみに本書ではマインドフルネスとフローの違いも説明されています。
 
 著者が推すのはフローではなくて、マインドフルネスで、武道は本来何を体験するところか、何を目指すべきがマインドフルネスで明確にできると主張しています。
 これが今の心理学のパラダイムで説明できる武道の最先端だと思います。
 
 

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April 15, 2017

コンテキスト、プロセス、コンテンツ

 前回に続き、 『吉福伸逸の言葉』(コスモス・ライブラリー)より、メモします。
 吉福さんはセラピーを3つの要素から考えて、実践していました。
 
 コンテキスト、プロセス、コンテンツです。
 
 コンテキストはセラピストが作る場、雰囲気です。
 コンテンツはクライエント、セラピーの参加者がセラピーの場で表すもので、内容は十人十色です。
 吉福さんはセラピーにおいて、セラピストがクライエントのコンテンツをあらかじめ決めておくのを禁じていました。それはあくまで本人が自発的に、自然に現すべきものと考えたのでしょう。
 
「吉福さんは、セラピストが唯一、クライエントに本格的に提供できるのはコンテキストだけだと断言しています。 p41」
 
 ではそのコンテキストは何かというと、一般にはセラピストとクライエントの関係性やセラピストの志向する心理学的理論だと思いますが、吉福さんは究極のところ、セラピストの人間観、世界観のようなもので、いうならばセラピストの「人間の器」としかいいようがないものであると考えていました。それが、暗黙にクライエントに強い影響を与えているとしていたようです。
(引用開始)
 例えば、セラピストが怒りとはよくないものだと考えていたとします。するとそのセラピーの場では怒りというものが出てきにくくなります。セラピストが怒りというものに十分向き合っていない場合、セラピーの現場に怒りが出てきたとき、十分に対応することができません。セラピストの限界がそのままセラピーの現場に出てきてしまいます。 p41
(引用終わり)
 これは本当にそうだと思います。いわゆる苦手な人、苦手な問題、苦手な関係性はセラピストならみんな多かれ少なかれあると思います。
 
「セラピストの人間存在そのものがコンテキストなのです。 p42」
 
 そして、セラピーで最重要なのがプロセスです。
 
「プロセスとは、一言で言えば、セラピーの現場で起きるすべてのことです。
 濃密なコンテキストの内側で起きることは、ポジティブなことであれネガティブなことであれ、何らかの治癒的な経過の一つだと考えられます。 p46」
 
 プロセスはその人の自然治癒の経過そのものと吉福さんは考えるので、セラピーでは徹底してそのプロセスを信頼していきます。
(引用開始)
「コンテキストを提供することによって、参加者が、何が起こってこようと恐怖感や拒絶感なしにそれに触れていくことができるような状況を作るのが、セラピストに先ず要求される役割です」と吉福さんは言います。
 実際にはセラピストが用意したゲームや作業を通して、プロセスが起こり始めます。
 大切なことは、それら発言するさまざまな症状(プロセス)に対して、決めつけたり判断したりしないということです。  p47
(引用終わり)
 とにかくそのプロセスをクライエントや参加者がしっかり体験できるように、セラピストはその場にい続ける、という感じだと思います。
 この認識論からは、いわゆる病理論や診断行為は吹っ飛んでいます。
 
 具体的に吉福さんがどのようにプロセスを扱ったかは、本書に印象的なエピソードがいくつもあります。
 私も見たことがありますが、本当に解釈とか説明とかはなく、ただその場で必要なワークは提示して、そこで起こることをできるだけ表に出させようとしているのを側で見届けているように見えました。
 参加者は時に激しい反応を示したのですが、当時私は参加者としてそれを見て、人はこんな風になっても大丈夫なんだと、妙に納得した覚えがあります。以後、多少のことではビビらなくなったのは良かったかもしれません。
 
 もしそんな吉福さんがご存命で、最近の心理療法界をどう見るか聞いたとしたら、「型にはまりすぎている」、「人を本当の意味で自由にしていない」、と一喝するかもしれません。
 
 プロセスを信頼しきるとは、もしその人に症状やトラウマなるものがあったとしても、あくまで大切なのは、それを含めた生命としての治癒プロセスであり、それを促進させよ、ということでしょう。例えばトラウマがあって、過去に何があったかわかったり、脳科学的に脳がどうなっているかがわかったとしても、それはトラウマの原因でも本質でもなく、単なるプロセスに過ぎない、という風に考えたかもしれません。
 
 過激に聞こえるでしょうか。
 
 科学としての心理学は「行動の予測と制御」ですから、「予想するな、制御するな」というのは真逆かもしれせん。
 
 ただ、大きな枠組みでは、制御というか、ワークによって流れを作り、落ち着くところに落ち着くはずだという予測(信頼)はしていたといえるかもしれません。対象としている時間軸が普通のセラピストより長かったとも考えられます。
 また、吉福さんは行動科学としての心理学を否定していたわけではなかったことも念のため記しておきます。本書でも吉福さんは、「9割は認知行動療法で対応できる」と言っていたとあります。
 これは吉福さんが元々、「人間は機械である」という認識論をベースにした20世紀最大の神秘思想家、グルジェフをベースにしていたことがあったと私は推測しています。グルジェフについては、長くなるのでもうここでは言いませんが。
 
 とにかく、是非答えをうかがってみたかったです。
 
 

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April 13, 2017

『吉福伸逸の言葉』

 私にとっては個人的な思い出がわいてくる本です。
 
 80年代、日本にトランスパーソナル心理学、ニューエイジ運動を紹介した立役者、2013年に亡くなった吉福伸逸さんの言葉をお弟子さんたちが集めた追悼本といえます。
 
 
 
 
「吉福さんは、ニューエイジ、ニューサイエンス、トランスパーソナル心理学といった、1970年代にアメリカで起こった新しい思想、学問分野を日本へ最初にもたらした立役者です。
 現在、日本で心理療法、ボディワーク、スピリチュアリティ、エコロジー、ホリスティック医療といった分野で第一人者として活躍している方々の多くが、1980年代に吉福さんの影響を受けています。 p2」
 
 といっても最近の臨床心理士、カウンセラーはその名を知らない人が多いのではないかと思います。吉福さん自身も確かに卓越したセラピストではありましたが、別に学者でもなかったし、何かの資格があるわけではなりませんでした。対外的には翻訳家という感じでした。
 しかし、その語学力と人脈、何より圧倒的な存在感で、80年代の精神世界の渦の中心であったのは間違いありません。
 
 吉福さんは当時玉石混交のニューエイジ運動の「玉」の部分だけを抽出し、翻訳して日本に紹介し、ワークショップを展開し、当時流行していたフランス現代思想に対して「アメリカ現代思想」として、対峙させていました。
 特に物理学者のフリッチョフ・カプラ、トランスパーソナル心理学の論客、天才ケン・ウィルバーの翻訳は大きな功績でした。
 
 その中で、ユング派の泰斗、河合隼雄先生もトランスパーソナル心理学に関心を示すようになり、共編著も出しました(『宇宙意識への接近』(春秋社)。河合先生も、『宗教と科学の接近』(岩波書店)という、トランスパーソナル心理学に共感を示す本を出したりしました。
 
 私は大学生時代、サークルの先輩に吉福さんを紹介されて、ある種「衝撃」を受け、学び始めました。
 ないお金をかき集めて吉福さんの講座やワークショップに足しげく参加していました。
 その結果…大学の心理学に関心が薄れ、劣等生になってしまいました(笑)。
 
 吉福さんは、最近主流の「心の治療」のための心理療法ではなく、「自己成長」のための心理療法を極限まで目指していたと思います。統合失調症のような精神病でさえ、けして「病理」ではなく、「成長」の契機ととらえることを主張されて、統合失調症を治さない、症状のプロセスに任せるという前衛的な運動もしていました。
 
 本書にもありますが、若い頃ジャズミュージシャンだった吉福さんは、ワークショップやグループセラピーでは前もって段取りを決めることがなく、あくまで即興的に、その場でやることを決めていたようです。本書によれば、 「プロセスを徹底的に信頼する」という姿勢だったそうです。
 参加者たちを観察し、その場を感じ取って動き、出来合いのプログラムをそのまま実行するということは絶対にありませんでした。そのための方法として、ブリージングといって一種の過呼吸を意識的に長時間続けたり、サイコドラマをしたり、ボディーワークをしたり、意識変容をおこすためにいろいろやっていました。
 
 一度、合宿式のワークショップで、高名な中国武術家・松田隆智先生を呼んで(吉福さんと友だちだったそうです)、形意拳のワークをしたこともありました。私はもう形意拳を習ってたから難なくできたけど、他の普通の参加者は大変だったもしれません。もちろん、みんな楽しんでました。
 
 とにかく今の心理療法にはない過激さがあった感じがします。最近はこういう心理療法を志向する人は、めっきりいなくなってしまいました。確かに日本人には刺激が強くて警戒されそうだし、即興的過ぎて普遍化、標準化はできないですからね。
 
 私は本書を読んで、吉福さんの、太くて厳しくて優しい声が聞こえてくる気がしました。
 
 キャラも能力も、今やっていることも全然違うし、結局同じような道を歩んだとはいえないけれど、やっぱり若い頃受けた影響は大きい、と本書を読んで感じました。無意識のうちに吉福さんの考え方や、やっていたことをモデルにしている自分が多々あることに気づいたからです。
 
 もし吉福さんに出会っていなかったら、私は今頃、普通の心理学を研究している平凡な学者にでもなっていたかもしれません。よかったのか悪かったのかわからないけど。
 
 本書を見て、吉福さんのお弟子さんたちが、その後を継いで頑張ってくれているようで、心強い思いもしました。トランスパーソナル心理学も近いうちに学び直してみたいと思います。
「普通の心理療法」にマインドフルネス瞑想が入る昨今、次に来るものの中に、トランスパーソナル心理学的なものへの再注目があるかもしれません。
 

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