September 16, 2017

トラウマと瞑想

 マインドフルネス瞑想を使ったトラウマ治療を解説した大谷彰『マインドフルネス実践講義』(金剛出版)の最後の方に、トラウマ治療の今後について示唆的なことがサラっとあります。
 
 マインドフルネス瞑想を治療に使う臨床マインドフルネスは、トラウマの苦痛を和らげ克服し、ポストトラウマ成長(Posttraumatic Growth : PTG)を目指すのに対して、本来のマインドフルネス瞑想を継承してきた仏教側(本書ではピュアマインドフルネス)の見解が引用されています。
 
(引用開始)
 
 ピュアマインドフルネスのパラダイムでは仏教の教える無常(amica)と無我(anatta)の観点からトラウマ体験を捉えます。これは大パリニッタパーナ経仏典にある次の偈に明示されています(中村,1980)。
 
 つくられたものは実に無常であり、生じて滅びるきまりのものである。
 生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。
                          (中村元=訳,pp160-161)
 
 トラウマ体験とそこから生じるPTSD症状も「つくられたもの」であり、「生じては滅びるきまり」に従います。この原理を理解し、トラウマからの苦痛ををありのままに捉え、それから自由になることが「安楽」となるのです。これはけしてトラウマを否定したり、PTSD症状を忍従することではありません。むしろマインドフルネスによって・・・
                                         p145
(引用終わり)
 
 やさしい大谷先生は臨床家らしく最後の方に、「これはけしてトラウマを否定したり…することではありません」と注釈を入れていてその通りなのですが、でも、ある意味で否定と言ってもいいことにもなり得ると思います。別にそれは悪い意味ではありません。
 
 瞑想の果てに「すべてはつくられたものである」「すべては空である」と世界の空性を自覚することが「悟り」であるなら、当然その境地からすればトラウマだって「空」のはずです。
 
 トラウマには本当は根拠はない、と悟ったときに真の解放が来るのは、論理的に必然のように思われます。
 
 その道には慈悲、コンパッションというのもありますが、別に瞑想も仏教もヒューマニズムではないと私は思います。生命の実相を悟る道に過ぎません。ただそれで食っている坊さんたち始め、その業界人は、いろいろ継ぎ足して言うでしょうけど。
 
 だからトラウマに苦しむ人は、瞑想や何らかのスキルで症状や辛さを処理できるようになったら、次はここを目指せばいいのです。
 
 今のトラウマ学の最先端はトラウマの脳を含む身体への影響らしいですが、その緩和のために瞑想を使うのは、ボディーワークの一つとして扱っているということになるでしょう。別にそれが悪いわけではなく、今の臨床マインドフルネスの在り方であり、限界ということです。私もそのために使っています。しかし、身体に縛られていては空には至れません。
 
 これは私の妄想ですが、マインドフルネス瞑想を始め効果的なトラウマ治療が出尽くした後に臨床家が至るのは、あるいは気づくのはこの境地かもしれません。
 
 ということは、その昔、アドラーがいみじくも言った、「トラウマは存在しない。ショックがあるだけだ」という考え方に近づくことになりそうです。またもアドラーさん、先走っている。
 
 ただ、それは簡単な道ではないでしょう。だって坊さんたちが何年も山で修行して悟るようなことだから。
 
 しかし、これも未来は意外に簡単に至れるようになるかもしれません。実はその方法の青写真は私にはあるのですが、あまりにも現代臨床心理学のパラダイムの外なので、いつか確信を得たら発表したいと思います。いや、ないかなあ。
 
 

| | TrackBack (0)

September 12, 2017

『マインドフルネス実践講義 マインドフルネス段階的トラウマセラピー』

 マインドフルネス瞑想を臨床でさらに実践的、効果的に使うための必読書です。
 
 
 以前大谷先生のWS体験(マインドフルネスの基礎と実践)や著書をアップしましたが(マインドフルネス入門講義)、本書は前作の続編であり、さらに詳細に心理療法でいかにマインドフルネス瞑想を使うかを説いています。
 
 マインドフルネス瞑想の全体像と科学的エビデンスをできるだけ網羅しながら、トラウマ治療にどうやってこれを用いるかを説明しています。
 それをマインドフルネス段階的トラウマセラピー(Mindfulness-Based Phase-Oriented Trauma Therapy : MB-POTT)と呼びます。
 
 私には、以前からこのやり方でいけるのではないかと思っていたこととほぼ同じ内容が書かれてあって、権威からお墨付きをいただいたみたいで、勇気づけられました。
 
 瞑想を使ってセラピーをやるには、けっこうセンシティブな感覚と、瞑想や変性意識に関する詳しい知識や経験が必要だと思います。やはり相応の瞑想体験はあった方がいいのはいうまでもありません。
 ただ、別に悟りを目指すわけではないのだから、ある程度経験のある人には、意外に難しいことではないと思います。
 
 本書を読むことは、マインフルネス臨床のエッセンスを受け取る契機になるかもしれません。
 

| | TrackBack (0)

August 26, 2017

『ディスコースとしての心理療法』

 長く日本の家族療法、ブリーフセラピー、ナラティブ・セラピーをけん引してきた児島達美先生(長崎純心大学教授)の論文、記事をまとめた本で、これらの分野に関心のある私には大変面白く、参考になる内容でした。
 
 
 ディスコースは「言説」とセラピーや現代思想界隈で訳されることが多いと思います。ただの言葉や文章というより、言葉によって出来上がる思考の枠組み、意味づけ、現実のあり方なども含まれている思います。いわゆる社会構成主義といわれる立場でよく使われます。
 
「心理療法は内面の何かを明らかにしたり、行動をあつかうものではなく、つまるところ、ディスコースである」という筆者の立場がそのまま書名になっています。
 
 なんか難しそうに聞こえるかもしれませんが、臨床やカウンセリングをやっている人ならとても実践的な内容であることが本書を読むとわかっていただけると思います。
 
 本書では入門書にありがちな、家族療法やブリーフセラピーなどをわかりやすく解説するというより、それらを筆者がどう思っているか、どう付き合ってきたか、自身の臨床歴と共に語られています。ナラティブ・セラピーに至っては、いまだ「輪郭を明瞭につかめないでいる」とまで告白しています。
 その上で、それらの最新のセラピーの魅力について十分に語ってくれています。
 
 確かにナラティブ・セラピーの本は、文字がやたら多くてページに詰まっているものが多く、読んでもすっきりした感じがしないので、わかりにくいと感じてしまうことは私にもよくあります。解決志向アプローチに比べて、つい敬遠してしまう。
 
 私は本書で、ナラティブ・セラピーの見取り図ができました。
 
 本書の後半は、筆者と筆者の友人の和田憲明先生(故人)がスーパーヴィジョン(SV)をしている章がけっこうあり、とても興味深いものばかりでした。うつ病、統合失調症、小学生の子どもの3つのケースですが、逐語録と共に、かなり丁寧に参加者が語り合っています。
 その中でSVを受けた人がまとめたところが面白かったのでメモします。
①面接を構造化しなくてはならない。 → 必ずしもそれが役に立つとは限らない。
②患者の言動・行動には心理的な意味がある。 → 聞いてみないとわからない。
③妄想を症状として捉える。 → 妄想には文化がある。
④面接の解釈。 → 患者とのやりとりから見出す。
⑤行き詰った面接 → 楽しく・気持ち良く・おもしろおかしく。  p195
 
 ほんとにその通りですね。
 中級者向けの本かもしれませんが、自分のセラピーを見直すのに役立つと思います。
 

| | TrackBack (0)

August 13, 2017

『人生を変える幸せの腰痛学校』

 このお盆、夏休みの読書に最適でしょう。子どもの読書感想文にはまだ早いかもしれないけれど。
 
 
 多くの人が悩んでいる腰痛、椎間板ヘルニアとか脊柱管狭窄症とか診断されて、手術を受けたり、整形外科、整骨、整体などなどを巡り歩いている人はたくさんいるでしょう。
 
 でもそれで本当に治ったか?
 本当に今の治療法(西洋、東洋問わず)は正しいのか?
 
 どこかおかしいと思っているあなた、本書を読めば目からうろこ、新しい世界が開けますよ。
 
 腰痛には心(正確には心理・社会的因子)、痛みを感じる脳の働きが絶対的に大きな役割を果たしていることが科学的にわかってきています。
「思い」や「考え」が腰痛を作っているなんて、ほとんどの腰痛には身体的治療は必要ないなんて、にわかには信じられないかもしれません。しかし、どうやら確かなようです。
 
 したがって治療の幹になるのは、認知行動療法と運動です。
 (内容紹介)
 
ようこそ、世界最先端の腰痛治療「認知行動療法プログラム」の世界へ──
世界初! 読んで治す、腰痛改善のための物語

ある小さなクリニックの休診日に行われる「慢性腰痛改善プログラム」。そこにたまたま集った、年齢、職業、家庭環境、痛みの内容が異なる6人の“腰痛難民"たち。講師は元大学病院整形外科勤務の不思議な先生だった──
「腰痛を治したければ、腰痛を治そうとしたらアカンのですわ」
「ほとんどの椎間板ヘルニアは痛みと無関係」
「腰痛は風邪と同じ、自己限定性疾患です。自分で治せます」
「どの専門家からどんな説明を受けるかでその後の人生が大きく変わってしまうんです」
「人間てね、自分が思てるよりずっとずっとすごいんですよ」
「プラシーボ効果は、すでに力が備わっているという証拠です」
「いい気分は、自信や行動力を取り戻してくれる」………
8週間にわたる授業によって、腰痛に対する6人の「思い込み」と「誤解」が少しずつ解き放たれていく……。
物語を読み進めていくうちにあなたの脳に刻まれている間違った常識が覆される、世界で初めて【腰痛の改善】を目的に書かれた真実のストーリー。
 そう、小説仕立てで、とても面白い。登場人物たち、腰痛難民の苦しみ、悲しみ、そして希望とともに回復に至るストーリーが巧みで共感を呼びます。
 
 作者の伊藤さんは、実はアドラー仲間で、この初夏、日本支援助言士協会のアドラー心理学合宿でお会いした時に本書をいただきました。伊藤さん、画期的で素敵な本をありがとうございます。お話しさせていただくと伊藤さんは、なんと以前から本ブログに来てくれていたそうです。ありがたいことです。
 
 だから本書には認知行動療法だけでなく、アドラー心理学もきちんと言及されています。またゆる体操などに通じる体をゆるめることの大切さも、説かれています。
 
 かといって本書は悪い意味で科学的な雰囲気ではなく、身体への敬意、身体の未知の力への信頼がベースになっていて、嫌みがないのがまたいいですね。
 
 私としては当たり前のことが、こうやって表に出てきてくれてうれしいです。
 カウンセリングの副読本にしよう。
 

| | TrackBack (0)

June 23, 2017

心理療法とヒーリングの共通構造

 臨床心理士などがする心理療法・カウンセリングと、巷のヒーラー、セラピストと呼ばれる人々(野の医者)の治療には何か違いがあるのでしょうか。
 
 もちろん中身やそこで使われる言葉に違いがあるのは当然です。特に臨床心理士には、「一緒にするな」と怒る人も多いかもしれません。
 
 しかし両方の世界を知る者としては、そうでもないぞ、意外に近いんじゃないか、という印象を私はずっと持っていました。特に精神分析学とユング心理学はそうです。私のやるアドラー心理学も例外ではありません。では、どんなところでしょうか。
 
 東畑開人著『野の医者は笑う』(誠信書房)に、医療人類学と著者の体を張ったフィールドワークから得た結論が参考になるので、メモします。関心のある方は本書をお読みください。
(引用開始)
 心の治療は時代の子である。現代の外科医が幕末日本で活躍するドラマがあったが、体の医学についてはそういうことが可能でも、心の治療では不可能だ。
 心の治療では時代の生んだ病に対処し、時代に合わせた癒しを提供するものなのである。その時代その時代の価値観に合わせて姿を変えていかざるを得ない。   p245
 
 ここまで再三書いてきたように、野の医者たちに会う中で私が得た結論は、心の治療には「イワシの頭も信心から」のメカニズムが根深く埋め込まれているということだ。
 つまり、ジェローム・フランクという精神科医が見抜いたように、心の治療はクライエントがいかに治療者を信頼し、希望を抱くかにかかっている。  p265
 
 信じさえすれば、皆同じように病が癒えるわけではない。治癒は一つではないのだ。心の治療は、それぞれの治癒へと病者を導くのだ。  p266
 
 治癒とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方は一つではない。  p266
 
 精神分析なら悲しみを悲しめるようになること、ユング心理学ならその人が生きてこなかった自己を生きていくこと、人間性心理学なら本当の自分になっていくこと、認知行動療法なら非合理な信念を捨て去り生きていくこと、マインドブロックバスターならマーケティングにさとく経済的に独立して生きていくこと、X氏なら軽い躁状態になって素早く起き上がること。   p267
 
 心の治療はニュートラルではない。無色透明な健康をもたらすものではあり得ない。
 すべての心の治療が、独自の価値観をもっている。ここにあるべき生き方が含まれている。
 あるべき生き方を目指して、治療者たちは治療技法を考案する。その技法は、その治療法の独特の価値観を暗に明にクライエントに伝達する。クライエントはそれを自分なりに取り込んで、自分の新しい生き方を作り出す。ここに治癒が生まれる。  p268
 
 心の治療とは、クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである。  p268
 
(引用終わり)
 
 
 全く同意します。
 
 そして歴史的に、治療者側の価値観に最も自覚的だったのがアドラー心理学であることも記しておきたいと思います。
 

| | TrackBack (0)

June 19, 2017

『野の医者は笑う』

 今年上半期、一番面白い本でした。知的に面白いだけでなく、実際に笑い転げました。そのくらい面白い。
 
 
 気鋭の臨床心理士、心理学者が勤務地であった沖縄で、いわゆるスピリチュアル、ヒーリングの濃い世界をどっぷりとフィールドワークした(浸かった)ドキュメントです。
 その体験を通して、「心の治療とは何か」「人が癒されるとは?」という根源的な問いを考察しようという、実に意欲に満ちた「研究報告」です。
 
「野の医者」とは、精神科医でも、公的機関に勤めるような臨床心理士やカウンセラーでもない、全く在野にいて、世間の人たちの心身のさまざまな悩みに応えようとしている人達です。
 
 キーワードはたくさんありますが、オーラとか前世とか、なんとかマッサージとかレイキとかアロマとか、一昔前は精神世界、代替医療、今はスピリチュアルなどと呼ばれる分野で活動している治療者たちです。
 
 皆さんの周りにもいらっしゃるでしょう。
 普通「まともな」臨床心理士、心理学者はそういう妖しいものと自分たちは違うと、敬して遠ざけるかするものです。
 でも実際多くのクライエントさんは、精神科とカウンセリングと野の医者の治療を渡り歩いたり、並行して受けていることが多いものです。それぞれの分野の治療者は、内心ではそれを快く思っていないかもしれません。
 
 しかし著者は生来なのか、臨床心理士にしては(ユング派の牙城、京大出身!)、実に軽いノリで、沖縄の有名、無名のセラピスト、ヒーラー、「野の医者」たちをどんどん渡り歩き、時には指圧の痛みで悲鳴を上げたり、時には野の医者と語り合ったり、セミナーの参加者たちと喜びを共にします。
 
 沖縄だから伝統のユタを取材するのかと思ったら、意外にも最近都市で勃興して沖縄に入ってきたスピリチュアル系の人たちに多くアプローチしているのがまた興味深い。沖縄でもけっこう盛んみたいです。
 
 そして本書の最後に考察される、「心の治療の本質」とは?。
 
 これは私も常日頃考えていることとほぼ符合しました。このポストモダンの時代、基礎心理学や認知行動療法のような科学主義でなければ、けっこう納得がいく結論ではないかと思います。
 
 是非、「まともな」心理士、カウンセラーさんはお読みください。
 
 ところで、著者は臨床心理から野の医者の世界に分け入った人ですが、実は私は野の医者が臨床心理の世界に入ってきたようなものかもしれません。これまで私が学んだり接してきたものをいうと、ちょっと著者に匹敵するか、もしかしたらそれ以上かもしれません。
 だって太極拳とか気功法とか30年もやっていると、その世界とのお付き合いは必然的にあるんだもん。
 
 ただ、正確には私は、完全に野の医者ではなく、完全に普通の臨床心理士でもないかもしれません。なんかその境界線にいるというか。
 
 だから逆に、私の心の治療に関する表現は抑制的で、あまりそれを表に出すことはありませんでした。正面から野の医者の世界をこのブログや臨床心理の世界で表すことはしてこなかったし、野の医者の世界の人たちにことさら臨床心理学や精神医学の話をすることもしませんでした。こういう分野は好きだけどどこか冷めているというか、両方の世界を使い分けている自分がいます。
 
 そして、野の医者の世界と臨床心理の世界をつなぐものとして、有用なのが、実はアドラー心理学なのです。
 実際私に限らず、アドラー心理学を学ぶ人たちの中に、野の医者系の人たちが少なからずいらっしゃるのは事実です。
 これは他の学派にはあまりないことかもしれません。
 
 確かにユング派とスピリチュアル系は関連性はあるのですが(本書でも著者が出会った人との驚くべきつながりが描かれています)、ユング派の人はなんとかそれとは違うものとして区別しようとしていて、スピ系の人は自分なりの世界観に勝手にユング心理学を取り入れようとしている感じがします。(外からの視点ですが)。
 まあ、ユング心理学は今は大学や学会で権威的立場を得ていますが、スピ系とかなり類縁関係にあるのは間違いないでしょう。ユング自身、ユングの家系がそうだったみたいですし。
 
 アドラー心理学がスピ系の人たちに働きかける仕方は、ユング心理学とは違うように思われます。
 
 それは、ぶっ飛びやすい野の医者の心を、現実にグラウンディングさせることです。
 
 実に現実的で、神とか霊とか(無意識とか自我も!)登場しないフラットな世界観のアドラー心理学を野の医者が学ぶことは、実はとても意味があることだと私は思っていました。
 私が少しはまともな臨床心理士になれたのも(?)、アドラー心理学が間に入ってくれたからかもしれません。
 
 そしたら、著者の東畑先生、今度はアドラー心理学にも目をつけたみたいで、先日ヒューマン・ギルドをご訪問、その勢いか「自分のタイプを知りよりよく悩もう-フロイトとユングの心理学」という講座をやることになったみたいです。
 最近注目していただけに、驚きました。アドラーもフィールドワークするのか?
 
 私はその日は仕事で残念ながら参加できませんが、アドラーの牙城でフロイトとユングを学ぶ、これも面白いですね。
 
 
 

| | TrackBack (0)

May 26, 2017

進化に生き残った自閉症

 今日、26日は身延町に行き、「山梨県看護協会峡南地区支部」の総会で、看護師、保健師さん約60人に「看護に活かすアドラー心理学」というテーマで講演をしました。
 
 短い時間の中で、目的論だの共同体感覚だのいってもわけわかんなくなるだろうから、今回は、劣等感と勇気づけに絞ってお話しさせていただきました。劣等感はみんな身に覚えがあるだろうし、勇気づけは看護の基本コミュニケーションになり得ると思うので、是非学んでほしいところだからです。
 ほとんどが女性のためか、皆さんノリが良く、ワークも楽しくやっていただけたようです。
 
 ところで、先日NHKスペシャルで発達障害の特集番組がありました。
 発達障害プロジェクト なんてのもやっているみたいです。
 
 番組では、感覚過敏に焦点を当てて、当事者の世界をわかりやすく再現していたと思います。けっこう参考になったのではないでしょうか。
 
 番組には専門家として、信州大学教授で前山梨県こころの発達総合支援センター所長の本田秀夫先生が出ていました。先生の山梨時代は、ケースを通して当オフィスと連携させていただいたので、ご活躍の様子でうれしかったです。
 
 ご著書も紹介したことがあります。
 
 その発達障害者特有の感覚の世界がなぜ存在するのか、生物学的にどういう意味があるのかを考察した、面白い記事があるので、リンクします。私が日ごろ思っていたことを生物学のニューロダイバーシティ(脳多様性)の考えからうまく説明してくれているからです。
 よかったらご覧ください。
 
 発達障害の過剰診断が問題になることがありますが、診断された人が他の疾患や障害に比べてあまりにも多くなったからです。けして多数派ではなくマイノリティーではあっても、そのボリュームは厚いといえます。中には不適切な診断もあると思いますが、どうしても多くなってしまう現実はあります。なぜなのか。
 
 本記事によれば、つまり発達障害は遺伝的に淘汰されなかったわけで、それは生物学的に意味があったのだろうということです。私もそう思います。そして自閉症とそうでない人たちが協同し合ってきたことが歴史を作り、今日の人類文明の発展に至ったと考えられます。
 
(転載はじめ)
社会がこれほど産業化する以前の人類の生活を考えた場合、今日なお数理的な思考や生物に非常な関心を示し、学校でもすぐれた成績をのこすことからもうかがえる自閉症者のスタンスと、そうでない人のスタンスのいずれが欠けたとしても、人類の今日の繁栄はなかったのかもしれないのだ。

 ニホンザルの近縁であるアカゲザルの群れでも、集団外の脅威にもっぱら注意を払うサルと、仲間同士の社会的交流の調整にエネルギーを注ぐサルがいて、しかもサルがどちらの役割をはたすかは遺伝的にきまっている(専門的には遺伝的多型があるという)ことが報告されているが、人間にもこうした特徴はうけつがれているらしい。

 社会的周縁に存在し、自然界のなかで自分たちがどう生きていくかに思いをめぐらす人物と、集団・社会内で互いの利益を調整し、どう上手くやっていくかに思いをめぐらす人物がいる――前者こそが自閉症者であることは改めて指摘するまでもないだろう。

 先史時代、われわれの祖先が狩猟採集に依存した生活をおくっていたころ、天候の変化をよんだり、動物の習性を知ったり、あるいは簡便な道具を作成したりするための「ナチュラリストとしての才覚」にたけていた存在と、社交にたけた存在が相補的に機能することが、人類の地球上での生活圏の拡大に多大の貢献をはたしたと考えられる。

 生物が同一の空間・場所にあって同じ景観に接したところで、その認識する世界は種によって多様である。
(転載終わり)
 
 きっと昔々の宗教家とか平安時代の和歌の達人とかは、自然の微かな変化も敏感に感じ取って独特な感性で言語化した自閉症的な人たちだったのでしょう。
 
 一方でADHD的な人は、関羽や張飛みたいに白刃の中を暴れまわって武勇を誇る豪傑になったのかもしれません。
 
 私なんかは現世では武術家を気取ってますが、ほんとは戦いが嫌いだから、前世はきっと戦場から逃げて、自閉症的な貴族かお坊さんのお世話でもしていたのかもしれません。今とあまり変わらないな。
 
 それにしても現代の機械文明、情報化社会は自閉症的な人たちが作ったのだとしても、それに彼らの多くが感覚的に合わずに逆に苦しめられてしまうとは、なんか皮肉な感じもします。

| | TrackBack (0)

May 22, 2017

『スピリチュアル・カウンセリング入門』

 カウンセリング、心理療法の将来を考えたときに、いわゆるスピリチュアルに向かっていくものが主な領域の一つになると思っています。
 
 スピリチュアルとは何か、というのは置いておいて、人々の関心も、それに付随して専門家の関心もはこれまで以上にそこに向かうだろうという予感がするのです。
 
 実証的な心理学のポジティブ心理学的な流れ、臨床心理学のマインドフルネス、ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)、そしてアドラー心理学への注目の次はそれをさらに進めたものを探ることになるかもしれません。
 
 社会が豊かになってスピリチュアルに向かうというのは、「衣食足りて~」といえばそうだけど、その意味はAIやら自動運転やら何やらが進化し、人々が労働や知的作業から解放され(アホになるともいえる)、一方で共謀罪みたいなものが推し進められ極端に監視・管理社会になって、時には仕組まれて世界のどこかで戦争やテロも(支配層によっては適度に)起こされ、閉塞感はあっても人々は普通にしていれば取りあえず楽しく生きることはできるから、「何かつまらんな、あの世のことでも考えるか」という意識になるためかもしれません。
 
 
 この2月の日本臨床・教育アドラー心理学研究会の大会で諸富先生が講演してくださったときに知った本です。当日の書籍売り場で買いました。せっかくだから、サインしてもらえばよかった。
 
 なんでも本書は、3.11の後の日本に対して生じた諸富先生なりの危機的意識の中で、「魂を込めて」(と講演会でおっしゃっていた覚えがある)書き下ろしたものらしいです。けして妖しい内容ではなく、かなり地に足の着いたしっかりとしたものになっています。
 
 その内容についてはいずれ。
 
 最終章にはあの河合隼雄先生が対談に登場しています。
 諸富先生と河合先生が、本ブログでも言及した吉福伸逸さんと80年代のトランスパーソナル心理学の思い出を語っているのは当時の貴重な証言でもあります。
 
 実は私、これから老後に向かって、普通の臨床とは別に、アドラー心理学とスピリチュアリティーをテーマにした研究、著述をしようと目論んでいます。野田先生や岡野先生らがこれまでに著わした「仏教とアドラー心理学」ものとはまったく違った切り口になると思います。きっと大きな反発(あるいは無視)を招くことになるでしょう。
 
 そのためにも、この辺の文献を集めていこうと思っています。
 
 

| | TrackBack (0)

May 17, 2017

『人間科学におけるエヴィデンスとは何か』

 心理学は、科学的とは何か、何がエヴィデンスになるのかについて喧々諤々と議論してきた歴史があります。
 
 私は研究者ではありませんが、アドラー心理学を学び、伝える機会が増える中で、何を拠り所にしたらいいか考える時があります。
 実は私は、「これが正しいアドラー心理学だ」といっても、あまり意味がないような気がしていました。ただの内輪向けです。つまりアドラー心理学界隈での差別化をしたい場合にだけ使えるということです。
 
 一方で、若い頃から竹田青嗣先生の著書を通して現象学に触れてきたので、自分が使うとしたらその辺かなと当たりはつけてきました。
 ただ、現象学も現代思想も簡単じゃないからいまだ半可通の域を出ませんが。
 
 
 著者たちの立場は量的研究ではなく、質的研究と現象学の立場から、心理学等におけるエヴィデンスを根元的なところから考えようとしています。
 
 私にはとても刺激的で、アンダーラインをいっぱい引きました。
 
 「自然科学のエヴィデンスと人間科学のエヴィデンスのちがいの問題」が、近代ヨーロッパの学問における「主観・客観一致の難問」にまで遡るものであることをまず指摘します。そのうえで、学問の客観性とは客観世界との一致ではなく、じつは「共通了解をどうつくりあげるか」という問題であることをフッサール現象学にもとづいて明快に示します。 (プロローグ)
 という竹田先生は、実証主義の心理学を丁寧に批判していて、私が昔から心理学に感じていた疑問に対してある答えを与えてくれています。でも多分、普通の心理学者はこういうところはあまり意に介さないかもしれないけど。結局、実証主義者と現象学者の溝は埋まらないような気もします。
 
 本書では、現象学の実践として、現象学的還元による「本質看取」の方法がワークショップのスタイルでわかりやすく説明されています。これは、「勇気」とか「共同体感覚」などのアドラー心理学をやっている人には自明の概念を改めて検討するときに使えると思いました。
 
 今度どこかでやってみてもいいかもしれません。
 
 本書を契機に、また現象学や質的研究にトライしてみたくなりました。
 特に臨床心理学を原理的、哲学的に考えたい人には良書だと思います。
 

| | TrackBack (0)

May 10, 2017

ブリーフサイコセラピーワークショップ-児島達美セミナー

 やまき心理臨床オフィスの八巻秀先生(駒澤大学教授)から、素敵なセミナーのご案内をいただきました。
 
 日本のブリーフサイコセラピーを支え、創り上げてきた功労者の一人、児島達美先生(長崎純心大学教授)が、関東に来てくださいます。
 私たちブリーフセラピストの間では有名な先生ですが、関東近辺のカウンセラー、臨床心理士の人たちはあまり先生のお名前をご存じないかもしれません。
 
 そこで、セミナーに先立って、児島先生とはどのような人なのか、オフィスの先生方で紹介しているサイトがあります。力入っていますね。
 
  児島達美 先生 略歴
 
1950年、長崎生まれ福岡育ち。上智大学大学院教育学専攻博士後期課程修了。
東京都立駒込病院心身医療科他非常勤カウンセラー、九州大学医学部附属病院心療内科助手、三菱重工長崎造船所メンタルヘルスサービス室長を経て、2000年4月、長崎純心大学人文学部人間心理学科教授に就任。    2017年3月、退職。
日本家族研究・家族療法学会;認定制度委員長(認定スーパーヴァイザー)。
日本ブリーフサイコセラピー学会;元会長。
日本心身医学会;代議員。
長崎県臨床心理士会;会長。
 児島達美先生から皆様へのメッセージ
 
 私の心理臨床家としての道筋をつけてくれたのは、主に家族療法とブリーフセラピーと呼ばれる一群のアプローチです。私にとって、そこから学んだ最大のものは“言葉が心をつくる”ということでした。私たちは、通常、心をすでにある内実をもったものとして認識しており、また、そうすることで社会生活は維持されてもいるのですが、実は、そうした心の内実は言葉によってつくられていくものなのです。
  ところが、一旦、心が内実化されると、心の製作者としての言葉のありようは忘れ去られてしまうもののようです。これを機に、あらためて“言葉が心をつくる”ということを参加者の皆さまと味わうことができれば幸いです。
 
 私も日本ブリーフサイコセラピー学会などで遠くからお見かけして、ダンディーな先生だなあといつも感心していました。私にないものを持っている(笑)。
 
 ただ地理的に離れていることもあって、なかなか児島先生とは縁ができなかったので、今回、是非参加したかったのですが、残念ながら同日同時刻に別の仕事が入っていて行くことができません。
 ブリーフサイコセラピーの真髄を学ぶまたとないチャンスですので、是非、ご参加ください。
【ブリーフサイコセラピーワークショップ-児島達美セミナー-のご案内】
◆研修内容|
• ブリーフサイコセラピーの講義
          • ライブ・ケースコンサルテーション

◆日 時   2017年6月4日(日)
          ◆時 間   10:00~17:00
          ◆定 員   50名さま
          ◆講 師   児島 達美 先生(元 長崎純心大学教授、長崎県臨床心理士会;会長)
          ◆場 所   たましんRISURUホール 5F 第一会議室
          ◆参加費   15,000円 (学生 12,000円)  ※事前振込とさせて頂きます。
          ◆参加対象  教育・司法・医療・福祉・保育・産業分野の専門職の方 および 学生


詳細・お申込み : やまき心理臨床オフィス
        〒190-0022 東京都立川市錦町1-19-21
          TEL: 042-523-8240 (火・木が比較的つながります)

| | TrackBack (0)

より以前の記事一覧