本日7月23日の「どうする家康」はついに本能寺の変で、新解釈と共に岡田信長の鮮烈な最期が素晴らしかった。
岡田准一さん、俳優としてはもちろん、一武術家としても尊敬しております。NHKの「英雄たちの選択」でMCをやっていた時、岡田さんは実は武田ファンで、山県昌景のファンとおっしゃっていたので、いつか信玄か昌景を是非、やっていただきたいです。
さて、家康はこの後、一気に飛躍することになります。
本能寺の変後の畿内は山崎の合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いと織田政権の内部抗争が続きますが。その背後で、家康は武田氏滅亡後に信長の家臣たちが治めていた甲斐、信濃をちゃっかり掠め取ったからです。
このプロセスは謎が多く、どうしてもその直前の「神君伊賀超え」が注目されるので、ドラマで取り上げられることはありませんでした。「真田丸」で少しだけあったくらいかな。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長、信忠が殺されます。
堺にいた家康一行はその伊賀超えを行い、5日に岡崎に戻ったといいます。
すぐさま家康は旧武田遺臣の懐柔に動くよう、家臣に命じたようです。
変の知らせが届いた旧武田領は大混乱に陥り、信濃や上野にいた織田の重臣たちは命からがら逃げ帰りました。
当時、信長から命じられて甲斐を治めていたのは河尻秀隆。あまり知られていませんが信長の父・信秀の時代から仕え、信長の躍進に常に従っていた武将です。黒母衣衆筆頭、嫡男信忠の側近を務め、織田本軍を任されていました。勝頼は死んだとはいえ、織田軍は武田の本拠地である甲斐を鎮圧しなければならなかったわけで、信長の秀隆への信頼はかなり厚かったと推測されます。
もし信長が生きていて信忠にスムーズに政権が移っていたら、秀隆はナンバー2になっていたかもしれず、秀吉や家康の芽はなかったかもしれません。歴史は変わっていたでしょう。
「武田を根切りにせよ」との信長の命を受けて、秀隆も武田家臣たちを探し出して殺す執拗な「武田狩り」をしたと伝わっています。
本能寺の変の後もその責任感故か、秀隆は甲斐の府中(甲府)に留まりました。これが彼にとっては悲劇となりました。
その河尻秀隆に、武田遺臣たちが一斉に襲い掛かり、6月15日に殺されてしまったのです。
秀隆を討ち取ったのは山県昌景の家臣だった三井弥一郎といわれます(『甲陽軍鑑』)。弥一郎やその場にいた侍たちは、長篠の戦で討ち死にした主君の仇を討ったと勝鬨をあげたことでしょう。
変からわずか2週間足らずの事件でした。
よく歴史解説書や歴史好きユーチューバーは、ここで甲斐に「一揆が起こった」といいますが、明らかに百姓一揆の類ではなく、軍事訓練を積んだ軍事組織の動きであり、戦慣れした武田遺臣たちによる蜂起だったといっていいでしょう。
しかし、地元の土地勘のある私からすると、この一連の流れは不自然なほど極めて迅速であると、以前から不審に感じていました。
織田軍の執拗な武田狩りを逃れて山や奥地に潜んでいた武田遺臣たちが、どうやって畿内の最新情報を得られて、すぐさま蜂起できたのだろうか。
実はこの背後に家康が絡んでいたことが当時の資料から推測できると、専門家からも言われていました。私もこの時代の研究者の講演会で聞いたことがあります。
まずは6月2日、本能寺の変。
テレビやネットニュースがあるわけでもなく、人々は「信長が死んだぞ、死んだかもしれないぞ、どっかに生きているかもしれないぞ」と噂話に翻弄されたこともあったでしょう。情報の確認に時間がかかったかもしれません。
「本能寺で信長が死んだらしい」と確度が高まるまで、多少時間がかかりそうです。遠く甲斐の武田遺臣たちはどうやってそれを納得したのか。「よし今だ、織田を追い払うぞ!」なんて下手に動いたらやぶ蛇になるかもしれないのに。
6月5日、家康、岡崎城帰還。武田遺臣の懐柔へ動き出すのは早くて6日以降でしょう。岡崎から甲斐まで馬でも2日、足では3日はかかりそう。
ということは9日か10日ころから、家康による武田遺臣たちへの懐柔が始まったと考えられます。でも、どうやって彼らが潜んでいたところを見つけたんだろう。甲斐は山深いよ。
京からの直接の情報も甲斐に届くには時間がかかり、早くて6月6,7日辺りだったでしょう。でもそれを知って各地で隠れ潜んでいた遺臣たちが連絡を取り合うのはやはり容易ではなかったはずです。
でもなぜか、極めてスムーズに連携ができていたとしか思えません。
メールもLINEもないのに。
武田と徳川、双方にキーパーソンがいたのかもしれません。
さらに足の速い連絡係でもいたのか、それでも真昼間に馬で走り回ったら目立つから、夜間に行動していたのか、やはり武田の忍びたちがその役を担っていたのかもしれません。
もしかしたら家康配下の伊賀の忍びたちも協力していたのではないか、なんて想像が膨らみます。
そして、「本能寺で信長は確かに死んだ」と、家康サイドから家臣や忍びを通して武田遺臣たちに伝えられたのかもしれません。
甲府盆地に住む私には、どうやってこの混乱と千載一遇のチャンスを武田遺臣と家康たちが連携して生かしたのかにとても興味があります。
この間、家康は本田信俊という家臣を甲府に派遣し、秀隆に面会させました。
信俊は「危ないからここを去った方がいい」と秀隆に忠告したようです。
しかし秀隆は、「家康が甲斐を狙っているのではないか」と疑い、その場で信俊を殺してしまいました。それで徳川方が怒って、武田方に加担したという話もあるようですが、それは徳川方の名分を立てるためで、実は話が逆で徳川が武田遺臣たちと内通していたのを秀隆が見破ったのでしょう。実際のその後の徳川の動きを見れば、秀隆が正しかったのがわかります。
そして10日辺りから武田遺臣たちの間で作戦が急遽練られ、各地の侍や土豪たちたちが密かに動き出したのでしょう。
遂に14日辺りで蜂起。軍事行動を起こします。
そして15日に甲府の秀隆の館(躑躅が崎館、今の武田神社付近といわれます)を襲います。織田方にも相当の軍勢がいたから戦闘になったでしょうが、一気に片が付いたみたいです。織田の兵士たちはどうなったかはわかりません。
このように記録を追っかけていくと徳川も武田遺臣もあまりにも手際のよい動きで、実は家康は本能寺の変を事前に知っていて、あらかじめ用意をしていたとか、甲斐に手を回していたのかと疑ってしまいます。
その方が無理がない気がしますが、どうなんでしょうか。
実際この時期の記録はほとんどなく、誰が、どのようなプロセスを経て実行したのかは謎らしいです。ただ、結果は諸資料に明記されています。
前述したように、6月15日秀隆は討ち取られ、首はさらされ、胴体は逆さまにされたまま近くに埋められました。かわいそうに秀隆は信長への恨みを一心に背負った形になってしまいました。
秀隆が埋められた場所は、今も「河尻塚」として残っています。
私も訪ねたことがありますが、住宅街の中、誰にも注目されず寂しい佇まいの場所でした。
以上、細々と長々と自分の拙い見方を書いてしまいましたが、歴史的大事件の裏で、はるか遠い地方にも後の日本史の流れを決めるような出来事が進行していたのです。
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