November 02, 2009

武田勝頼は生きていた!

 歴史では、武田信玄の息子で、その後を継いだ武田勝頼は織田・徳川連合軍に攻め立てられ、最後は甲斐の国(山梨)の天目山(現甲州市の山奥)に追い詰められ討ち取られ、武田家は滅亡したことになっています。

 しかし、最近実は武田勝頼は逃げ延びることができ、はるばる四国まで落ちていたことと主張し、地域興しにまでなっているところがあるらしいです。

 その驚きの地はなんと四国は、土佐。

 その地には古くから勝頼が落ち延びてきて、名を変えて生き延び、活躍していたという伝説が根強く伝えられているそうです。なんでも勝頼や諏訪ゆかりの寺社や伝承が数多くあるとか。
 武田勝頼の会というのがあって、地道な考証を重ね、山梨や諏訪への調査もしてきたそうです。

名だたる戦国武将・武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」は、定説では天正10年(西暦1582)天目山で自害したとされていますが、高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609)8月25日64歳で逝去され、鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。

 「武田勝頼土佐の会」は、土佐(高知県)における武田勝頼落人伝説に基づき、
 2009年8月に武田勝頼が没後400年を迎えることからこれを記念するとともに、
この地で伝えられてきた「玄蕃踊り」(踊りの象徴である「花台」も復活!)や「玄蕃太鼓」を通して、さらに周辺地域の民俗芸能団体もご参加いただき、地域を元気に盛り上げていくイベントを開催するものです。

 いいですね、まさに歴史ロマンです。

 私は山梨生まれの武術家ですから、当然武田ファン。

 勝頼が生きていたなんて面白いじゃないですか。
 いや、実際そうかも。当時の首実検なんて、実際それが本人かどうかわからないことが多かったそうだし。

 武田勝頼は父信玄があまりにも偉大で、しかも長篠の戦いの大敗とその後の滅亡のために徒に評価が低いきらいがありますが、実はとても強くて有能だったという評価も最近出てきています。
 実際武田の版図は勝頼の代で最大になっていますし。
 時代の流れが味方しなかったのでしょうね。

 そんな勝頼の遺徳を遠く土佐の地で偲んでくれているなんて、うれしいじゃないですか。

 是非、応援したいと思います。

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April 03, 2009

日本とシルクロード

 再び「シルクロードの経済人類学」に戻ります。

 シルクロードの日本への影響といえばは、正倉院の宝物などがまず浮かびますが、栗本慎一郎氏は本書で、北のシルクロードは古代日本にただの文物以上の甚大な影響を与えたと考えています。

 なぜなら、まず、中国や朝鮮から日本海を渡って日本(九州付近)に来るのは、鑑真和上の例にもあるように危険極まりないルートであったのに対して、北のシルクロードから日本(北海道、東北)に渡るのは、台風やシケにあう確率が低く、はるかに簡単・安全だったからです。
 だからたくさんの人が公式、非公式に日本に来ていたかもしれないのです。

 実際、8世紀中国東北部を支配した渤海への派遣は(遣隋使4回、遣唐使15回に対し)35回もあったそうです。しかも100人規模の国レベルの公式派遣「団体旅行」が14回もあったそうです。

 要するに、奈良(平城京)は、唐を通じてかすかにペルシアと繋がっていたのではない。北のシルクロードの東端としてシルクロードの一角に画然と位置を占め、直接セミレチア方面と繋がっていたと考えるべきなのである。

 その結果は日本にどうだったのか。まさに日本、日本人の「かたち」の大枠を作ったそうです。

 この北のシルクロードに日本が関わったと一口に言っても中身はさまざまあるが、最も大きなことは王権のあり方、領域統治のあり方だ。初期の法のあり方もここに加わる。そして(これから期待される最大のものは)言語である。すなわち七世紀以降の律令制の整備と官僚制度および法概念の整備であって、これらはまさしく天皇制の基盤確立に繋がるものだ。またそこに宗教観までもが加わるとすれば、「関わった」というより「基本的要素を引き継いだ」とさえ言いうるのではないか。

 私たちは古代日本には中国の影響が最大であったと思い込んでいますが、どうもその比重は大分減るかもしれません。
 長くなるけど、栗本氏の大事な視点なので引用します。

 これら多くの基礎となるものをこれまでの歴史学では「中国から」あるいは「中国から朝鮮を経て」来たと言ってきたが、間違いである。技術的なもの(たとえば漢字)は確かに多数、中国朝鮮からやってきている。中国朝鮮の影響を日本が受けなかったことは絶対ない。しかし、主要な要素は「中国朝鮮を通らずに北から」日本へやってきたと考えるべきだ。
 たとえば法概念のように、確かに一見中国から日本に持ち込まれたように見えるものでもそうだ。法や慣習の原点をよく調べると元は北方の遊牧民の世界において育まれたものが中国へ持ち込まれて、それが日本に来たと考えるべきものが多い。そもそも中国は、随や唐の大帝国が成立するまで紀元前からずっと北方世界の影響下に合ったからである。そして随や唐も鮮卑族の影響下に建国された帝国であったことが(いささかの政治的な判断に基づいて)不当に無視されていることも問題だ。要するに、これまでもとはすべて中国のものだと言われてきた「風水」や道教的な諸要素も、いずれも元来は北のシルクロードのものであったと考えることができる。確かにそこに漢民族文化の味付けがあったことも間違いない。だが、日本人はそれらの基となる北の文化とはなじみの深い民族であったから、必ずしも中国経由でそれを採り入れる必要はなかったのである。

 古事記の天孫降臨の話はそれを象徴しているのかもしれません。
 栗本氏は、奈良の飛鳥、特に蘇我氏がその渡来人の「王」であり、「5世紀末にいたる最新の北ユーラシアの政治や宗教の具体的知識を持って外交も内政も執り行おうとした」と推論しています。
 さらには天皇(スメラミコト)という言葉には、明らかに言語的に北ユーラシアと関連があるそうです。

 こう考えると、歴史は深いなあと思います。

 私たちは北方遊牧民の血が入っているのかもしれません。

 時が下って、源義経が奥州からモンゴルに渡ってチンギスハンになったという伝説が生まれたのも、私たちが忘れてしまった北の道の記憶がまだ残っていたのかもしれません。

 もしかしたら武田信玄の系譜も元をたどればそうかも。

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May 14, 2007

解説・風林火山2 諏訪の秘密

 大河ドラマ「風林火山」は最近諏訪を巡る攻防がテーマになっていますね。

 領主の諏訪頼重を自刃に追い込み、その娘(ドラマでは由布姫)を自分の側室にするなんて、武田晴信は当時から今でもひどい印象を持つ人がいるようですが、ことはなかなか単純ではないようです。

 諏訪頼重は「風林火山」に限らず、これまでの小説やドラマでは、武田にあっという間に滅ぼされたことと神職であったということからか、何となく弱々しげに描かれることが多かったと思います。

 しかし、諏訪は、大きな丸太を急峻な坂から落としてそれに乗っかろうとする有名な御柱祭にあるように、なかなか荒い気性の土地らしいですね。

 そのルーツにはやはり、武田と同じく朝鮮騎馬民族の影が見えるのです。

岩崎正吾著「武田信玄はどこから来たか」(山梨ふるさと文庫)から引いてみます。

いうまでもなく、諏訪には諏訪大社がある。全国に5600ほどある諏訪神社の本社である。古くから神の土地なのである。

 ここには明らかに渡来系と思われる神事が、さまざま伝えられている。御船祭りといって、船を御輿にして担ぐ。山国に御船祭りはおかしいが、祖先が海を渡って来たことを神事にしているのだろうと言われている。同じ性質のものだと考えられる神事に、御渡りという冬のものがある。諏訪湖が結氷した時、諏訪大社の神官が氷の上を渡る儀式だ。

 御渡りは、大河では山本勘助が初めて由布姫を見た場面に出ていましたね。最近は温暖化で諏訪湖も結氷しないらしいけれど、なかなか神秘的な光景らしいです。

 大陸や朝鮮から渡ってきた自分たちのルーツを、思い返す行事だったのでしょうか。

 また、正月に氷の中から冬眠中の蛙を掘り出し、串差しにして、神に捧げる儀式がある。昔は蛙などではなく動物を生け贄にしたらしいが、近年は蛙で代用している。蛙こそいい迷惑だが、生きた動物を殺して捧げるというのは、農耕民族における神事ではなく、狩猟民族、騎馬民族に特有のものである。

 ほう、これは珍しい。旧約聖書なんかによく出るけど、生け贄の儀式が日本でもこんなところにあったとは。

 大祝(諏訪頼重もそうだった)の即位式の服装には、北方騎馬民族の影響があると、地元の考古学者、藤森栄一氏は述べている。・・・・ここでいう北方騎馬民族とは、一応高句麗ではないかと考えられている。諏訪付近には、高句麗遺跡だと考えられている積石塚が分布しているからだ。

 積石古墳は、私の家の近くにもありますね。長野から山梨一帯にあるようです。やはり古代朝鮮の人たちが移り住んできた名残なのでしょうか。

 渡来系、騎馬民族系の影響が見られる諏訪の湖には、その水底に巨大な竜蛇が住んでいるといわれている。諏訪大明神が竜蛇であることは、古来からよく知られている。そして、この竜蛇信仰は、新羅において盛んだったものである。

 こう考えると、諏訪という土地は、高句麗系と新羅系が交じり合い、融合している場所ではないかという気がする。

 高句麗系の諏訪氏と、新羅系の武田氏、両者の歴史は相当に深いといえるでしょう。

晴信(信玄)はそれを統合しようとしていたのかもしれません。

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April 16, 2007

解説・風林火山1 佐久をほしい理由

 大河ドラマ「風林火山」では、ここのところ信州佐久地方の取り合いがテーマになっていますね。

 佐久は甲斐の国山梨の北北東、八ヶ岳を左に見て今の清里、野辺山を過ぎて長野に入った辺りの、佐久平と呼ばれる広い地域です。

 諏訪勢と関東管領上杉と武田が佐久を取ったり取られたりという情勢から、武田晴信が最後は押さえます。

 ではなぜあの時代、彼らは執拗に佐久を求めたのか、武田は信州に攻め込んだのか?

 よく信州には有力な戦国大名がいなかったから、という説明がなされて、それはその通りなのですが、それ以上の理由があったのかもしれません。

 以前「武田信玄はどこから来たか」で紹介したミステリー作家で郷土史研究家の岩崎正吾さんは、「馬を得るため」といいます。
 なぜなら、佐久には古来から広大な牧(馬の牧場)があり、名馬の産出場として全国に鳴り響いていたからです。朝廷に献上する官営の牧があったといいます。

 既に甲斐も、「甲斐の黒駒」と日本書紀にあるほどの名馬を出す地域でありました。
 この時代、馬は農耕にも土木にも運輸にも、もちろん合戦にも使え、時には食料にもなる重要な社会資源でありました。
 馬を制する者が国を制したのです(後に鉄砲が合戦で重要になっても、明治まであらゆる領域で馬の重要性は変わるものではなかったといっていいでしょう)。

 岩崎さんによれば、信玄が佐久を支配下に置いたことは、トヨタと日産が合併したようなものだとのことです。

 ちなみに山梨中部南部辺りに多い望月さんというのは、この時代に佐久にある「望月の牧」から移住してきた人々の末裔らしいです。

 佐久を取ったことで、単に領土が広がっただけではない理由で、武田の力は一気に増すことになったのだと思われます。

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January 29, 2007

「武田信玄はどこから来たか」

 大河ドラマ「風林火山」の出足は好調のようで何よりです。このまま盛り上がってほしいものです。

 しかし、戦国最強と言われる武田騎馬隊とはいったい何なのか、武田信玄はどうして強かったのか、などという素朴な疑問が山梨土着民の私には以前からありました。
「強かったから強かったのだ」では答えになりませんね。

 元々甲斐の国は貧しい土地で気候は厳しく人口が少ないところです。隣国の駿河の今川、相模の北条の方がかなり豊かで人口も多かったはずです。国力が小さいはずなのに、なぜ武田は強くなれたのか。

 一部には、日本の戦国時代には、歴史ドラマや西洋の騎馬隊のような馬の集団突撃みたいなものはないはずだとして、騎馬隊の存在を否定する研究者もいます。
 しかし昔から「武田の騎馬隊」という印象が根強くある以上、何らかの根拠があると考えてもいいでしょう。

 そこで、昔私に小説を指南してくれた山梨在住のミステリー作家、岩崎正吾さんの「武田信玄はどこから来たか」に、その疑問に対するユニークな答えがあります。

 信玄はなぜ強かったのであろうか。・・・・
 そう思い、調べ始め、山梨の「騎馬の伝統」というものに気がついた。山梨には古代から、走るのにすぐれた良い馬がいた。もちろん、乗る道具としての馬は、大陸から伝来したものである。
 また古代において、騎馬で戦う技術を持った人たちがいた。馬を自在に操るだけでなく、そうしながら刀をふるい、馬上で弓を射ることの出来る人々である。これらが簡単な技術でないことは、わたしたちにも想像がつく。良き先達者を持ち、長い厳しい習練をへて、獲得できる技術だったろう。
 さらにまた、生き物である馬を育て、増やし、乗る道具として訓練するのも、容易ではあるまい。これにも長い間の習練で培った、プロの技術というものが必要とされたろう。
 つまり、簡単に馬に乗って戦いに加わったというが、そこには高度な「騎馬文化」の裏付けがなければ不可能だった。文化というものは、高いレベルの技術はもちろんだが、それと一体となる精神がなければならない。

 武田が勃興する遙か以前、日本書紀に既に甲斐の国は優秀な馬の産地であったこと、そこに高度な「騎馬文化」が存在し、勇猛な戦士がいたことが記載されているそうです。
「甲斐の黒駒」と呼ばれたり、聖徳太子がそれに乗って空を飛んだとか、壬申の乱で「甲斐の勇者」と呼ばれる武士が活躍して大海人皇子(後の天武天皇)を助けたと思われる記事があるそうです。

 大和朝廷の時から甲斐にはいくつもの大きな牧(馬の牧場)があって、甲斐の黒駒として、そのブランドは全国に鳴り響いていたのです。

 おそらくそれを支えたのは、当時の朝鮮の強国で、遊牧民族の新羅系の渡来人ではないかというのが、岩崎さんの推理です。
 実際山梨には、巨摩(コマ:新羅や百済と並ぶ古代朝鮮の国、高麗の発音)とか古代朝鮮の名残と思われる地名が最近まで残っていました。

 そして甲斐源氏、武田氏の祖とされる平安時代の源義光は新羅三郎義光と名乗っていたことがその証ではないか、と考えられるのです。新羅の字が同じだし、教科書では「シラギ」と読んでましたが、実際の古代朝鮮語の発音は「シルラ」だったそうで「シンラ」とほとんど重なります。

 その他にも岩崎さんは本書で、武田家の騎馬民族的特徴を興味深くいくつか描き出しています。

 古代から連綿として続いた大陸~朝鮮から伝わる騎馬文化の頂点に武田信玄がいたということになります。

 ということは、先祖代々この地にいたと思われる私も騎馬民族の末裔ってことになるのかな?
 どうりで定住を嫌い、荒っぽいわけだ(笑)。

本書は地方出版社で出しているので、下記に直接お求め下さい。
 岩崎正吾と山梨ふるさと文庫

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