February 12, 2021

『諏訪大社と武田信玄』

 最近なぜか諏訪大社に興味を持ち、いろいろ調べています。ここでもその感想を書きました。

『諏訪の神』

 戦国呪詛合戦

 武光誠著『戦国武将の謎に迫る! 諏訪大社と武田信玄』(青春出版社)は、神話・古代から現代までの諏訪大社の歴史を描いたものです。

『古事記』では、諏訪大社に祀られている建御名方神(タケミナカタノカミ)はなぜか貶められていますが、やはり大和朝廷の神道(我々が親しんでいる天照大御神を頂点とする神道)の流れとは違うことが本書でも確認できます。

 著者によれば、諏訪地方の指導者は、「縄文人の系譜をひく農耕民の首長(守矢家の祖先)」というかなり古く長い歴史の上に、3~4世紀の「出雲系の信仰を持つ首長」、7世紀後半の「大和朝廷の文化を持つ馬を用いた首長(諏訪家の祖先)」という経過があるのではないかということです。

 諏訪大社の神道は、少なくとも3層構造になっていると考えられます。

 加えて、諏訪には奈良時代以前は仏教はほとんど入ってこず、神仏習合も鎌倉時代初めまでなかったそうです。

 その結果タイムカプセルみたいに、古代の神道が色濃く残っていることになりました。

 私としては、本書によって奈良、平安、鎌倉と続く諏訪の歴史を初めて知ることができて勉強になりました。

 そのように良い本なのですが、問題も感じました。

 タイトルにある武田信玄に関する記述が少なく、4分の1もないのです。

 その前後の武田家の歴史も書いてますが、看板に偽りあり、という感じです。

 別に『諏訪大社の歴史』で十分な内容なのですが、多分、出版社の販売戦略のために武田信玄をくっつけたのでは、とも思いました。

 おまけに著者(明治学院大学教授)は信長びいきなのか、専門が古代史らしいので知らないのか、織田軍が武田勝頼を滅ぼすときに諏訪大社を焼き討ちしたことは書いてありません。

「織田政権は、諏訪大社を軽く扱った」「民衆の反感を買った」とあるだけです。

 諏訪大社の歴史で、焼き討ちに遭ったのは大変な出来事のはずです。

 比叡山延暦寺の焼き討ちを「信長は比叡山延暦寺を軽く扱った」、東大寺の焼き討ちを「松永久秀は東大寺を軽く扱った」と記述したら大変不正確に思えます。

 実際、本能寺の変での信長の横死を神長官守矢信実は、「諏訪大明神の神罰」と断じたくらいだから(平山優『武田家滅亡』)、かなり恨まれたのでしょう。ここはもう少し当時の信仰者の心情も入れてほしかったですね。

 ともあれ、諏訪大社の歴史を学ぶにはとても良い本と思います。

 

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February 01, 2021

明智光秀と快川和尚

 大河「麒麟がくる」はいよいよ最終回。前回(1月31日)も緊張感のある場面が続き、見応えがありました。

 ドラマの中盤では、ついに武田家が滅び、信長と家康が諏訪で落ち合って喜び合う場面がありました。

 まさに先日のここで紹介した、諏訪大社が織田軍によって焼き討ちされた頃、ということです。

 戦国呪詛合戦

 もちろんドラマではそんなことには全く触れず、この後安土城での家康饗応の宴へと進んでいきました。

 実は諏訪に着いた後の織田・徳川軍は、そのまま甲斐に入りました。

 そして織田軍は、武田家の菩提寺で信玄の墓があった恵林寺を、敵方の武将をかくまったとの咎で焼き討ちしてしまいました。

 恵林寺は臨済宗の名刹で、正親町天皇(坂東玉三郎さんが演じてた)より国師の称号を得ていた名僧、快川紹喜が住職でした。信玄や勝頼はじめ多くの人からの崇敬を集め、快川の弟子は伊達政宗の師匠にもなったそうです。

 ですから、当時の仏教界のトップクラスの人物だったのですが、残念ながらこの時焼死してしまいました。有名な「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という偈を遺したと伝えられています。

 快川紹喜ーWikipedia

 実はこの快川和尚、美濃の土岐氏の出身とも伝えられています。だから明智一族という説もあり、昔の大河「国盗り物語」では、近藤正臣演じる明智光秀が快川和尚と対面しており、焼き討ちにショックを受ける場面があったように覚えています。幼い頃なのでうろ覚えですが。

「麒麟がくる」の時代考証を担当した小和田哲男先生も、恵林寺焼き討ちが光秀謀反の引き金の一つになった可能性があると述べていたネット記事があったので、今回も少しそういう場面があるかと期待しましたが、さすがにいきなりそれを入れると話が散漫になってしまうからか、全く触れられませんでしたね。

 まあ、いいです。

 この件も含めて、以前この時期の甲斐の状況を書いたことがあります。

 本能寺の変前後の甲斐

「麒麟がくる」は初めて光秀がよい意味でクローズアップされて、とてもよいドラマでした。

 最後が楽しみです。 

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January 26, 2021

戦国呪詛合戦

 前回の『諏訪の神』に触発されて諏訪大社の話の続きになります。佳境を迎えた大河「麒麟がくる」に乗っかってもいます。

 今回同ドラマは、三方ヶ原の戦いも長篠の戦も「ナレ戦」というかセリフですっ飛ばしたので、その裏ストーリーになりますね。

 戦国武将が敵を倒すために神社仏閣に祈祷をしたことはよく知られています。当時は誰でもやっていたことです。

 神仏のご加護を得ると言えばきれいな言い方だけど、気に食わない奴を呪い殺そうとしていたと言えるわけです。

 織田信長も例外ではなく、天正10年(1582年)、武田勝頼をついに攻め滅ぼすときにも盛大に「呪詛」をかけています。

 平山優著『武田氏滅亡』(角川選書)によると、信長は正親町天皇や誠仁親王の協力も得て、奈良興福寺、石清水八幡宮、吉田神社、三千院、青蓮院、本願寺、そして伊勢神宮に先勝祈願の祈祷をさせています。

 まさに当時の宗教界・スピ勢力のオールスターです。

 これに対して、勝頼側の祈祷は同書には記されていませんが、当然諏訪大社をはじめとする甲信の武田領の寺社が行ったでしょう。

 何より諏訪大社は、勝頼を守るために必死の祈祷をしたかもしれません。

 なぜなら勝頼は、信玄の4男でありながら、諏訪家の血を継ぐ者でもあり、父の死で武田家を継ぐまでは「諏訪四郎勝頼」と名乗っていたからです。

 つまり勝頼は武田家の重臣であったと共に、諏訪大社の神主というか「大祝(おおほうり)」であったからです。当然祭祀などについても詳しかったかもしれません。

 まさに西の神々と東の神の対決ですが、しかしこの呪詛合戦はいかにも多勢に無勢な感じもします。

 しかも、ちょうどこの時、浅間山が大噴火を起こしたのでした。

 これは多大なショックを人々に与えたみたいです。

「浅間山噴火について、正親町天皇の祈祷により、信長に敵対する勝頼を守護する神々がすべて払われてしまった結果であり、この噴火は一天一円(世の中)が信長に従うようになる現象だと『多聞院日記』が記したのには、こうした背景があった。 p732」

 という記録があり、まさに信長側の呪詛が「効いた」結果とみんな思ったことでしょう。

 これを持って心理的には勝負がついたといえるかもしれません。武田側の人心も離れてしまったようです。

「朝敵」とされ、神仏にも見放されたイメージがついてしまった勝頼は、進退窮まります。

 この後信濃、甲斐に織田・徳川・北条が侵攻し勝頼は自害、武田家は滅びますが、上諏訪に到着した織田軍は方々に火を放ち、諏訪大社を焼き討ちして壮麗な伽藍は灰燼に帰してしまいました。勝頼が天正6年から7年にかけて、精魂を込めて造営したものだったそうです。

 ああ、もったいない。

 ところが、3月11日に勝頼が自害したわずか3か月弱の6月2日、本能寺の変で信長があっけなく討たれてしまいました。

 これを知って、諏訪大社関係者は大いに喜んだことでしょう。

「後に、神長官守矢信実は、本能寺の変で織田信長が横死したことについて、諏訪大明神の神罰であると断じている。 p641」

 そう思ったのも当然でしょうね。

 結局ほとんど同時期に二人は相次いで殺されたわけで、このサイキックな戦い、呪詛のかけ合いは引き分け、両者痛み分けに(というより両者痛い結果に)なったといってよいでしょう。

  

 

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July 16, 2019

『武田三代』

 大河ドラマ「真田丸」で時代考証を担当した平山優先生の『武田三代』(サンニチ印刷)は、武田信虎・信玄・勝頼の軌跡を、豊富な写真とビジュアル資料でまとめた、戦国武田氏の格好の入門書です。

 特に、信玄や勝頼に比べてこれまであまり描かれることのなかった(ドラマでは、もっぱら悪役でしたね)信虎の事績を詳しく載せているのはすばらしいところです。

 私もとても勉強になりました。

 今年は甲府ができてちょうど500年、甲府市はいろいろなお祭りや企画を催していますが、実は甲府を作ったのは武田信虎なのです。それまで武田氏の本拠はその隣の石和近くにありましたが、それを信虎が永正16年(1519年)、甲府市北部の相川扇状地、現在の武田神社に館を移し、家臣たちもその周辺に住まわせたのが始まりです。

 このように創始者と年代がはっきりしている都市の例は、全国でも大変少ないそうです。しかも家臣の武家たちを本領から切り離して城下に住まわせるのは、豊臣や徳川の時代には当たり前ですが、大変先駆的だったそうです。

「いくつかの制約はあるものの、豊臣政権の政策を遥かに先取りする画期的な性格を持っていたといえよう。信虎の先進性は際立っていると思われる。 p21」と平山先生は述べています。

 甲府を作ったり、分裂していた甲斐の国を統一したり、やはり信虎も大変優秀な人だったのでしょう。息子・信玄の飛躍は、信虎なしにはなし得なかったのは明らかです。

 そういうわけで、最近は信虎の再評価がされるようになってきました。

 いつか大河で改めて、武田三代のドラマがあるといいですね。

 本書はさらに武田氏関連の場所を網羅した大きな地図が付録でついています。これを見るのもとても楽しい。これを頼りに、中部、東海、上州をドライブしようかと思いました。

 歴女、歴男は是非。

 

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April 24, 2019

社会の複雑性が神を生んだ

 知人に教えてもらったのですが、慶應大学が興味深い研究をプレスリリースしました。神への信仰は、人類史のどの辺で発生したかという研究です。ビッグデータを扱った、いかにも今風の研究のようです。

(転載貼り付け始め)

 社会の複雑性によって「神」が生まれた? -ビッグデータ解析により世界の宗教の起源を歴史的に解明ー

慶應義塾大学環境情報学部のパトリック・サベジ特任准教授、オックスフォード大学のハーヴェイ・ホワイトハウス教授、ピーター・フランソワ教授、コネチカット大学のピーター・トゥルチン教授らの国際共同研究グループは、「セシャット(Seshat)」と呼ばれる人類進化史に関する大規模データベースの構築とそのビッグデータ解析を行い、社会の複雑性の進化が原因となって、世界中の宗教や「神」の信仰が生み出された可能性を明らかにしました。本研究の成果は、英国の科学雑誌『Nature』誌に3月20日(現地時間)に掲載されました。

研究グループは、1万年にわたる人類進化の歴史的記録データ(世界400以上の国家に関する20万件以上の歴史的記録データ)について、オープンアクセスのデータベースを構築し、セシャットと名付け世界に公開しました。また、なぜ人類が大規模かつ複雑な社会で互いに協力するように進化したのか、その科学的な検証を行うために、セシャットのビッグデータ解析を行いました。研究の結果、これまで唱えられていた既存の理論に反して、「神の信仰」は、「社会的複雑性」が進化した結果生まれたものであることが示されました。人類学者、歴史学者、考古学者、数学者、進化論者、コンピュータサイエンティストが共同して発見したこの成果は、ビッグデータ解析の発展が、人類進化の歴史や起源の解明に変革をもたらすことを示唆しています。

 

 

(転載貼り付け終わり)

 本論文によると、これまで宗教の起源は何かという問いには諸説あって、有名なのは「神の信仰」仮説というもので、人々が「神」を信仰し、社会にとって協力的でない人々を「神」が罰すると信じることで、結果として人々が公正に協力し、大規模な社会が形成されるというものだったそうです。ただ、それは検証されてはいませんでした。検証しようがなかったのかもしれません。

 本研究グループは、2011年にセッシャットと呼ばれるオープンアクセスのデータベースを構築して、世界中の人類学者、歴史家、考古学者、科学者の専門知識を結集したそうです。そうして集めたビッグデータを統計解析しました。

 結論として、「神の信仰は社会的複雑さの増大に先行するのではなく、むしろ後続する傾向にあることが明らかになりました。さらに、宗教的儀式は、神の信仰が生まれる何百年も前に出現する傾向にありました。これらの結果は、宗教的儀式を通じた集団行動が、人々の協力関係を促し、大規模な人類社会を形成する要因となった可能性を示唆しています」とのことです。

 なんか当たり前のような気もしますが、厳密には新しい理論ということなのかもしれません。あるいは西欧人には意外な結論だったのでしょうか。

 善悪をジャッジする神が最初ではなく、人々が協力し合うために「神」が必要になったといえそうです。これはアドラー心理学の「人の本性は葛藤ではなく、協力である」という前提にも通じるし、神道の「結び」とも通じるように思えます。

 宗教やスピリチュアリティについて、何か書いたり話したりする時に引用できそうです。

 

 

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April 12, 2019

神道の流派

 人が集まり、動くところには必ず離合集散、権力闘争、縄張り争いがあるものですが、和の国・日本を象徴する神道でも例外ではありません。

『神道入門』(新谷尚紀著、ちくま新書)には、古代から続いてきた神道の流れがいかに分化、展開していったかのアウトラインがうかがえます。特に鎌倉から室町時代にかけて、様々な神道流派が勃興したようです。平安時代に神道は仏教、取り分け密教と混交して、神仏習合していきながら、学術的には、鎌倉時代に両部神道とか伊勢神道とか呼ばれているものがあったそうです。詳しいことはここでは省きます。

 私が縁あって学ばせていただいているのが、おそらく古代からの宮中祭祀を伝承していた白川神道というものですが、それは歴史上常に表舞台にあったわけではなく、むしろその性格上裏舞台というか、天皇家に直接仕えるものであったためにそれほど目立たない存在だったように思われます。しかし、まぎれもなく神道の正統派であることは間違いありません。

 しかし、室町時代に勢力を伸ばしたのが吉田神道といって、応仁の乱の混乱期に卜部兼倶(1435~1511)という人が特に発展させ、江戸時代になっても神道界で中心的な力を持っていたようです。時の権力者に認められたためですが、そもそもこの卜部家は元々白川家の家人として奉仕している立場でした。家来だったのが、勝手に独立したようなものでしょうか。

 本書によると卜部兼倶は、「積極的にみずから経典を偽作し」「新たな神道説を強引に主張し、それを広めていく」ことをしていたそうです。それが人々に受けて、権力者も気に入ったわけで、ずいぶんだと思いますが、中世の神道ではそのような経典の偽作、ねつ造はよくあったことらしいです。

 しかし、江戸時代に入って、さすがに学者たちは吉田神道の問題に気づいて、猛烈な批判が出てくるようになりました。

 そして、そこで改めて、神道界のサラブレッド・白川神道が注目されたそうです。

(引用開始)

 そうして、吉田神道への批判が高まるとともに、あらためて脚光を浴びたのが平安時代末期以来、神祇官の神祇伯の家柄であった白川家であった。神祇伯としての白川家は、宮中の内侍所や清涼殿における恒例及び臨時の天皇の神拝に際して、その作法の伝授や、天皇の名代として神事に奉仕することによって、宮廷祭祀に重要な役目を担ってきていた。また、二十二社のうちの松尾社・伏見稲荷・大野野社・広田社については、白川家が神社伝奏の立場を前代以来ずっと保持していた。 p152

(引用終わり)

 そして幕末まで、吉田神道と白川神道は各地で激しい門人争奪を繰り広げたそうです。

 私が聞いた話では、富士山信仰(江戸時代には富士講と呼ばれていた)をしていた人たちには白川神道を学んだ人が多かったそうです。

 明治になって国家神道ができあがってくると、白川神道はまた世に隠れた存在になったのですが、新書とはいえ研究者によるしっかりした解説書に、私の知る白川神道がきちんと記述されていることに、私としてはうれしさを覚えました。

 平成の時代の終盤になって、白川神道は一部の人たちに再び知られるようになりました。

 令和になるとどうでしょうか。個人的には、アドラー同様、ブレイクの予感がしています。

 

 

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February 18, 2019

『武田氏滅亡』

 武田信玄の後継者・勝頼はどのような人物だったのか、武田氏はどうして滅びたのか。これまで名門・武田氏が勝頼の代で滅びたことから、小説やドラマで暗愚の武将と描かれがちだったのですが、近年勝頼の再評価が進んでいます。

 同時代の文書を元に詳細に勝頼の生涯を辿っていく、平山優著『武田氏滅亡』(角川選書)を、時間をかけて少しずつ読み進めて、ようやく終わりました。751ページという大著で、それ自体「自立」することができるほどの厚さであり、私は仕事や心理学系の読書の合間に読んでいたので、読破するのになんと1年もかかりました。

 その分、速読ならぬ「味読」というか、じっくりと、まるで勝頼と同時代を生きているかのような気分になりました。本を閉じた時は静かな感動に襲われました。小説でも物語でもなく、歴史研究書なのに。

 信玄の四男・勝頼は心ならずも、と言っていいと思うけど、信州の伊奈の高遠城主だったのが、信玄の後を継ぐことになってからは、まさに家を保ち、盛り立てるための奮闘の人生でした。

 一般に勝頼は、長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗して一気に滅びたかのようなイメージですが、実際は長篠以後7年間持ちこたえ、むしろ「武田信玄時代より広大な領国を誇るに至った。とりわけ北条氏は、勝頼による北条包囲網に苦しみ、関東の領国を侵食され、悲鳴を上げていた。 p748」のです。北条は、北関東から攻める勝頼や真田昌幸らの活躍で、押しつぶされる危機にありました。

 家康も勝頼に撃破されかねない状況に置かれたこともあり(大雨で富士川が増水して武田軍が渡れず、家康は逃げきれた)、やはり信玄の子だけあって、かなりの戦上手であったことは間違いがないでしょう。

 それが最後は、まるでオセロでバタバタと白黒がひっくり返るかのように、一気に滅亡に追い込まれてしまいました。本書によれば、信長も北条氏政もまさかあんなにあっさりと武田氏が崩れていくとは予想していなかったみたいです。当の勝頼もそうだったでしょう。

 勝頼が譜代家臣たちの裏切りに遭い、織田軍に天目山に追い詰められ自害した天正10年(1582年)冬、信州・甲斐の冬は大変厳しく、「織田軍は信州の豪雪と寒気による氷結に苦しみ、さらに兵粮の欠乏も加わって困難な状況にあったらしく、陣中から脱走するものが後を絶たなかった。 p699」、「この年の甲信は厳冬で寒気が厳しく、積雪も甚だしかったといい、信忠(信長の嫡男で武田討伐軍の総大将だった=ブログ主注)の中間(ちゅうげん)が28人も凍死するほどであった。 p699」というから、一見織田軍の圧勝のようなイメージですが、実態はひどいものだったようです。今でもこちらの冬は県外の人は(北海道の人でさえも)、つらいと言うからね。侍に仕える中間や足軽は、ほとんど野宿みたいなものだっただろうから、堪らなかったでしょう。

 だから、最後まで勝頼には勝機はあったといえます。ナポレオンやヒトラーを撃退したロシアのごとく、長期戦に持ち込めたら歴史は変わったかもしれません。 

 昨年、著者の平山氏は、勝頼を取り上げたNHKBSの歴史番組に出た時、「勝頼はつくづく運のない人だったとしか言いようがない」と総括していました。私もそう思わざるを得ません。本当にかわいそうな人だと思いました。

 本書には戦国武将や同時代の人たちの手紙や文書のやり取りが事細かく紹介されているのですが、それらを著者の解説付きで読むと、勝頼だけでなく、信長も家康も、北条も上杉もみんな、先が見えない中で必死に生きる道を模索していたことがうかがえます。一歩間違えば、誰もが滅びる可能性がありました。

 実際勝頼の死後、わずか3か月弱で信長と信忠は本能寺の変で殺されます。まさに一寸先は闇。勝頼さん、あともう少し頑張れたら…。

 本書で歴史のダイナミズムと繊細さを感じ取ることができました。

 また、私が甲州人だから感じるのかもしれないけれど、本書は学術書でありながら、苦しみの多かった勝頼の鎮魂の書でもあると感じました。

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June 02, 2018

志村けんの先祖は武田家家臣

先日NHKの「ファミリーヒストリー」で志村けんさんが出ていました。

 

「東村山音頭」で知られたように、東村山市出身の志村さんですが、その先祖はなんと山梨にいたことがわかりました。それも戦国時代、山梨が甲斐と言われていた時代です。

 

 地元民には周知のことですが、確かに山梨には志村姓の人が多くいます。私のアドラー仲間の同僚にもいます。

 

 注目すべきは、志村さんの先祖は、武田家家臣の中でももっとも有名な人物、山県昌景の家臣の可能性が高いということでした。山県昌景といえば武勇に優れた猛将で、赤備えの軍団を率い、後の井伊や真田の赤備えのルーツになったことで知られています。

 

 その山県の家臣に「志村又左衛門」という人がいて、長篠の戦で昌景が討ち死にしたときに、敵からその首を取り返したという記録が残っています。番組では、有名な「長篠の合戦図屏風」で、志村又左衛門が首を抱えて前線から脱出している姿が描かれているのが映っていました。

 

 有名な武将ではなく、一介の家臣が名前付きで描かれているのは珍しいのではないかと思います。その当時でも敵味方に知られた功績だったということでしょうか。

 

 武田が滅びた後、志村姓の人たちは徳川家に仕えます。その忠誠をの証を立てた「壬午起請文」に、志村姓がいくつもあるそうです。

 

 その他にも北条家に下った志村さんたちもいて、彼らも後に武蔵野国に移り住んだそうなので、徳川ルート、北条ルートの志村さんたちがいたようです。

 

 いずれにしても志村けんさんの本家は、江戸時代その地域では名主だったそうで、名主になるには相応の実力がないとなれないので、やはりルーツは武田家関係だったのではないかという結論でした。

 

 解説は武田家研究、真田家研究などで知られた平山優先生でした。

 

 面白いですね。

 実際に志村一族以外にも徳川に下った武田遺臣の多くが、多摩地方に移り住んだと聞いているので、その可能性は高いのではないかと思いました。彼らは「八王子千人同心」と呼ばれていました。

 

 八王子千人同心ーWikipedia

 

 後に江戸末期、その地域で盛んになったのが剣術、天然理心流、新撰組の近藤勇や土方歳三らの剣で知られていますね。近藤家は八王子千人同心だったそうです。

 

 ちなみに先の「壬午起請文」には、我が深澤姓もいくつかあります。私の先祖は徳川に下っても江戸に行かず、甲斐にとどまったのかもしれませんが、武田信玄の指揮のもと、志村けんさんの先祖と共に戦ったかもしれないと思うと、なんだか楽しい気分になりました。

 

 志村けんの祖先・父・母のルーツがすごい!武田信玄との関係も

【ファミリーヒストリー】志村けんのルーツは「武田信玄の家臣説」が浮上

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December 22, 2017

井伊家に再就職

 大河「おんな城主直虎」が先日終わりましたね。
 昨年の「真田丸」は全回コンプリートしましたが、今年は6、7割くらいかな、観たのは。それでも面白かったと評価しています。
 
 ほとんど実像がわからない人物だったから、1年間ストーリーを創り上げるのは大変だったと思います。その分、脚本家やスタッフの想像力を発揮する余地が大きかったでしょう。
 
 特に本能寺の変で、話題になった明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」を明らかに下敷きにしたのは良かったです。明智光秀と徳川家康の共同謀議説です。歴史ドラマでは、初めての試みでしたかね。ただ、全面的に採用ではなく、信長は本当は家康を殺す気はなかったという「本当はいい人」説という落ちでしたが。
 
 ラストのラストで、元服して侍大将になった井伊直政に、武田の赤備え隊が配属されたシーンがありました。武田ファン、戦国好きなら周知のことですが、武田家滅亡後潜んでいて、織田信長が倒れた直後に反乱を起こして織田勢を甲斐から追っ払った武田の旧臣たちは、かなり多くが徳川家康の配下に就きました。その数は500人とも800人にもなったそうです。
 
 つまり職を失った侍たちが再就職を果たしたのです。
 
 武田家の歴史を記した有名な史書「甲陽軍鑑」では、最後はなぜか武田の滅亡時ではなく、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで終わっています。
 
 井伊隊に属した武田の旧臣たちは、再就職後の晴れの舞台として燃えたのでしょう、直政と共に突撃、豊臣勢を蹴散らし、池田恒興や森長可といった織田家家臣で秀吉についた有力武将を次々に討ち取りました。長篠の戦い以降やられっぱなしだったから、「この野郎!」と奮い立ったのに違いありません。
 その活躍から直政は「赤鬼」と呼ばれるようになりました。
 
 つまり「甲陽軍鑑」は、滅びたとはいえあの武田軍だった侍たちが、「俺たちはここにいるぞ!」と世にアピールした書でもあったと思います。
 

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April 12, 2016

京都と靖国

 先日の記事で紹介した『京都ぎらい』(朝日新書)で井上章一先生は、私の歴史感覚ととても近いものがあると感じました。先生は洛中ならぬ「洛外人」という京都文化の辺境人からくる視点であり、歴史の深いところを透視しようとしています。それは明治維新や靖国神社への違和感です。
 明治維新を無血の革命だとみなしたがる人も一部にいるが、それは正しくない。前にもふれたが、あの政権は、越後長岡や会津の流血を経たうえで、なりたった。成立後も西南戦争などで多大が犠牲をだしている。
 
 だが、明治の新しい体制は、自分たちがほろぼした政敵の鎮魂につとめていない。会津戦争などの死者たちが怨霊になるかもしれないと、おびえはしなかった。そのあたりをおそれるそぶりも、会津への冷淡な戦後処理に明らかだが、見せてはいない。
 
 新政権が慰霊の対象としたのは、討幕派、いわゆる官軍側の戦死者だけである。自分たちの味方になって死んだ者の霊は、招魂社、のちの靖国神社をもうけ、合祀した。しかし、彼らが賊軍とみなした側の死者については、その霊的な処理を怠っている。 
 
 政権樹立後の内戦についても、事情は変わらない。招魂社、靖国神社は西南戦争の敗者、西郷隆盛らをまつろうとしなかった。佐賀の乱をおこした江藤新平らの霊も、そのままほったらかしている。日清戦争後の対外戦争でも、慰霊の対象となったのは、味方の戦死者のみである。
 中世までの怨霊思想にしたがえば、敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだったろう。   p205~206
 
 嵯峨でそだち、後醍醐天皇をまつった天龍寺になじんできたせいだろう。私は敵を供養する考え方に、さして違和感をいだかない。霊的な信仰をもたない現代人だが、それでもわかるところはあると思っている。
 むしろ、味方の慰霊ばかりを気遣う靖国のやり方に、ためらいをおぼえる。  p208
 
 だが、私は靖国のあり方に、むしろ新しい近代の影を読む。保守的という点では、怨霊思想の残渣をとどめる自分のほうが、よほど後ろ向きである。靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない。  p208
 
 私も井上先生も中世人のメンタリティーを保持している日本人に近く、本当はこっちが真の保守じゃないかという感覚です。実は、靖国が国の柱だとか後生大事に思う人々は伝統主義者でも保守派でもなく、普通の近代人なのだろう。
 私は国旗や国歌、日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことも、いぶかしく思っている。あんなものは、東京が首都になってからうかびあがった、新出来の象徴でしかありえない。嵯峨が副都心だった平安鎌倉時代には、まだできていなかった。そこに、たいしした伝統はないんじゃあないかと、彼らには問いただしたくなってくる。  p210
 私は日の丸は嫌いじゃないし、君が代は退屈なたらたらした音楽と思ってたけど、短歌を時間をかけて歌っているだけと思えば面白いと感じることもあります。ただそれを「近代主義者」に押し付けられるのは気持ちが悪い。そこになにがしかのウソや支配の意図を感じるからでしょう。
 
 また、もし靖国を作った側にも怨霊思想が残っていたとしたら、戦死した味方の兵士たちの霊が、自分たちが彼らに強いたうウソがばれて怨霊になって自分たちに祟るのを恐れたから英雄に仕立て上げようと考え出したという読みもあるかもしれません。その方が日本的です。
 
 

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