June 02, 2018

志村けんの先祖は武田家家臣

先日NHKの「ファミリーヒストリー」で志村けんさんが出ていました。

 

「東村山音頭」で知られたように、東村山市出身の志村さんですが、その先祖はなんと山梨にいたことがわかりました。それも戦国時代、山梨が甲斐と言われていた時代です。

 

 地元民には周知のことですが、確かに山梨には志村姓の人が多くいます。私のアドラー仲間の同僚にもいます。

 

 注目すべきは、志村さんの先祖は、武田家家臣の中でももっとも有名な人物、山県昌景の家臣の可能性が高いということでした。山県昌景といえば武勇に優れた猛将で、赤備えの軍団を率い、後の井伊や真田の赤備えのルーツになったことで知られています。

 

 その山県の家臣に「志村又左衛門」という人がいて、長篠の戦で昌景が討ち死にしたときに、敵からその首を取り返したという記録が残っています。番組では、有名な「長篠の合戦図屏風」で、志村又左衛門が首を抱えて前線から脱出している姿が描かれているのが映っていました。

 

 有名な武将ではなく、一介の家臣が名前付きで描かれているのは珍しいのではないかと思います。その当時でも敵味方に知られた功績だったということでしょうか。

 

 武田が滅びた後、志村姓の人たちは徳川家に仕えます。その忠誠をの証を立てた「壬午起請文」に、志村姓がいくつもあるそうです。

 

 その他にも北条家に下った志村さんたちもいて、彼らも後に武蔵野国に移り住んだそうなので、徳川ルート、北条ルートの志村さんたちがいたようです。

 

 いずれにしても志村けんさんの本家は、江戸時代その地域では名主だったそうで、名主になるには相応の実力がないとなれないので、やはりルーツは武田家関係だったのではないかという結論でした。

 

 解説は武田家研究、真田家研究などで知られた平山優先生でした。

 

 面白いですね。

 実際に志村一族以外にも徳川に下った武田遺臣の多くが、多摩地方に移り住んだと聞いているので、その可能性は高いのではないかと思いました。彼らは「八王子千人同心」と呼ばれていました。

 

 八王子千人同心ーWikipedia

 

 後に江戸末期、その地域で盛んになったのが剣術、天然理心流、新撰組の近藤勇や土方歳三らの剣で知られていますね。近藤家は八王子千人同心だったそうです。

 

 ちなみに先の「壬午起請文」には、我が深澤姓もいくつかあります。私の先祖は徳川に下っても江戸に行かず、甲斐にとどまったのかもしれませんが、武田信玄の指揮のもと、志村けんさんの先祖と共に戦ったかもしれないと思うと、なんだか楽しい気分になりました。

 

 志村けんの祖先・父・母のルーツがすごい!武田信玄との関係も

【ファミリーヒストリー】志村けんのルーツは「武田信玄の家臣説」が浮上

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December 22, 2017

井伊家に再就職

 大河「おんな城主直虎」が先日終わりましたね。
 昨年の「真田丸」は全回コンプリートしましたが、今年は6、7割くらいかな、観たのは。それでも面白かったと評価しています。
 
 ほとんど実像がわからない人物だったから、1年間ストーリーを創り上げるのは大変だったと思います。その分、脚本家やスタッフの想像力を発揮する余地が大きかったでしょう。
 
 特に本能寺の変で、話題になった明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」を明らかに下敷きにしたのは良かったです。明智光秀と徳川家康の共同謀議説です。歴史ドラマでは、初めての試みでしたかね。ただ、全面的に採用ではなく、信長は本当は家康を殺す気はなかったという「本当はいい人」説という落ちでしたが。
 
 ラストのラストで、元服して侍大将になった井伊直政に、武田の赤備え隊が配属されたシーンがありました。武田ファン、戦国好きなら周知のことですが、武田家滅亡後潜んでいて、織田信長が倒れた直後に反乱を起こして織田勢を甲斐から追っ払った武田の旧臣たちは、かなり多くが徳川家康の配下に就きました。その数は500人とも800人にもなったそうです。
 
 つまり職を失った侍たちが再就職を果たしたのです。
 
 武田家の歴史を記した有名な史書「甲陽軍鑑」では、最後はなぜか武田の滅亡時ではなく、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで終わっています。
 
 井伊隊に属した武田の旧臣たちは、再就職後の晴れの舞台として燃えたのでしょう、直政と共に突撃、豊臣勢を蹴散らし、池田恒興や森長可といった織田家家臣で秀吉についた有力武将を次々に討ち取りました。長篠の戦い以降やられっぱなしだったから、「この野郎!」と奮い立ったのに違いありません。
 その活躍から直政は「赤鬼」と呼ばれるようになりました。
 
 つまり「甲陽軍鑑」は、滅びたとはいえあの武田軍だった侍たちが、「俺たちはここにいるぞ!」と世にアピールした書でもあったと思います。
 

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April 12, 2016

京都と靖国

 先日の記事で紹介した『京都ぎらい』(朝日新書)で井上章一先生は、私の歴史感覚ととても近いものがあると感じました。先生は洛中ならぬ「洛外人」という京都文化の辺境人からくる視点であり、歴史の深いところを透視しようとしています。それは明治維新や靖国神社への違和感です。
 明治維新を無血の革命だとみなしたがる人も一部にいるが、それは正しくない。前にもふれたが、あの政権は、越後長岡や会津の流血を経たうえで、なりたった。成立後も西南戦争などで多大が犠牲をだしている。
 
 だが、明治の新しい体制は、自分たちがほろぼした政敵の鎮魂につとめていない。会津戦争などの死者たちが怨霊になるかもしれないと、おびえはしなかった。そのあたりをおそれるそぶりも、会津への冷淡な戦後処理に明らかだが、見せてはいない。
 
 新政権が慰霊の対象としたのは、討幕派、いわゆる官軍側の戦死者だけである。自分たちの味方になって死んだ者の霊は、招魂社、のちの靖国神社をもうけ、合祀した。しかし、彼らが賊軍とみなした側の死者については、その霊的な処理を怠っている。 
 
 政権樹立後の内戦についても、事情は変わらない。招魂社、靖国神社は西南戦争の敗者、西郷隆盛らをまつろうとしなかった。佐賀の乱をおこした江藤新平らの霊も、そのままほったらかしている。日清戦争後の対外戦争でも、慰霊の対象となったのは、味方の戦死者のみである。
 中世までの怨霊思想にしたがえば、敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだったろう。   p205~206
 
 嵯峨でそだち、後醍醐天皇をまつった天龍寺になじんできたせいだろう。私は敵を供養する考え方に、さして違和感をいだかない。霊的な信仰をもたない現代人だが、それでもわかるところはあると思っている。
 むしろ、味方の慰霊ばかりを気遣う靖国のやり方に、ためらいをおぼえる。  p208
 
 だが、私は靖国のあり方に、むしろ新しい近代の影を読む。保守的という点では、怨霊思想の残渣をとどめる自分のほうが、よほど後ろ向きである。靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない。  p208
 
 私も井上先生も中世人のメンタリティーを保持している日本人に近く、本当はこっちが真の保守じゃないかという感覚です。実は、靖国が国の柱だとか後生大事に思う人々は伝統主義者でも保守派でもなく、普通の近代人なのだろう。
 私は国旗や国歌、日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことも、いぶかしく思っている。あんなものは、東京が首都になってからうかびあがった、新出来の象徴でしかありえない。嵯峨が副都心だった平安鎌倉時代には、まだできていなかった。そこに、たいしした伝統はないんじゃあないかと、彼らには問いただしたくなってくる。  p210
 私は日の丸は嫌いじゃないし、君が代は退屈なたらたらした音楽と思ってたけど、短歌を時間をかけて歌っているだけと思えば面白いと感じることもあります。ただそれを「近代主義者」に押し付けられるのは気持ちが悪い。そこになにがしかのウソや支配の意図を感じるからでしょう。
 
 また、もし靖国を作った側にも怨霊思想が残っていたとしたら、戦死した味方の兵士たちの霊が、自分たちが彼らに強いたうウソがばれて怨霊になって自分たちに祟るのを恐れたから英雄に仕立て上げようと考え出したという読みもあるかもしれません。その方が日本的です。
 
 

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March 17, 2016

長州藩はなかった!

 明治維新の主役である長州藩は実は存在しなかった、としたらどうでしょう。驚きですね。
 
 実際に存在したのは「萩藩」でした。
 
 長州とは地域名で、山梨(甲斐)は「甲州」、長野は「信州」というのと同様です。だから「長州藩、高杉晋作でござる」とは絶対に言っていなかったはずです。
 
 苫米地英人さんの「明治維新という名の洗脳」(ビジネス社)は、私たちがいかに適当にごまかされて、「素晴らしい明治維新」という幻想を持つように仕向けられたかに気づかされます。
「志のある若者たちによる無血革命」「維新によって内戦を避け、植民地化を免れた」などとよく聞きましたが、私は子どものころからおかしいな、と感じていました。なんてかわいくないんでしょう。
 
 だから本ブログでも度々歴史好きを表明していながら、実は司馬遼太郎を面白いとは思っても、感心したことも信じたことはなかったです。
「坂本龍馬ねえ、まあ確かにかっこはいいねえ」という感想でした。否定はしないけど、「嘘があるなあ」という直感とでもいうか。小説だから当然だけど、世間や周囲は、司馬遼太郎が描くことがあたかも史実であるかのように思い込んでいる人が圧倒的でした。だから違和感はありましたね。
 
 問題の一つは、なぜ「萩藩」と言わず、小説でもドラマでも絶えず「長州藩」が使われ続けたかです。どうして私たちはそれを疑いもなく信じ続けたのか。そこに明治維新の本質や大きな盲点(スコトーマ)があるはずです。それは今の社会・政治体制につながっています。
 
 本書は丁寧に文献研究されたうえで、論理的な推理を加えてあり、明治維新に関して頭を整理するには好著です。
 

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March 05, 2016

『天正壬午の乱』

 今、「真田丸」で取り上げている時期は、歴史学で「天正壬午の乱」と呼ばれる天正10年(1582年)3月の武田滅亡と6月の本能寺の変の後からその年末まで、甲斐、信濃で起こった領土争奪戦です。
 
 信長の突然の死で権力の空白地帯になった地に、北条、徳川、上杉が侵入して3つどもえの戦いを展開します。ドラマであったように、まさに調略の限りを尽くした謀略戦が展開されました。
「真田丸 第8回『調略』」では真田昌幸が武田家での元同僚、春日信達を騙してまでして北条と徳川を振り回そうとする様子が描かれていました。昌幸、「パパ、とても怖い」と息子・信繁に恐れられてしまいましたね。
 
 史実でも確かに信達は、北条方(昌幸が行ったと伝えられる)からの調略に応じようとしたのが上杉方に露見して、磔になったそうです。北条方は攻め手をなくして上杉との決戦はあきらめ南下して、甲斐に侵入した徳川との戦いに臨むことを決断します。昌幸は殿(しんがり)として信濃に残りました。
 
 実際にドラマみたいにわざと露見するように真田昌幸、信伊兄弟が仕組んだかは、わかりませんし、いくら昌幸でもそこまではできないでしょう。三谷さんは史実の流れは壊さずに、独自の脚色をしています。
 
 この天正壬午の乱が歴史ドラマで描かれるのは、多分初めてのことだと思います。多くの人は知らないと思います。その意味でも私は「真田丸」にとても注目しています。
 近畿で織田家重臣の羽柴秀吉や柴田勝家らが権力闘争をしていた時期に、東国ではこのような争乱が起きていたのです。
 
 しかし近年、この天正壬午の乱は、単なる地方の局地戦ではなく、のちの日本史に大きな影響を与えたことがわかってきました。
 
 平山優著『天正壬午の乱』(戎光祥出版)は、この乱を詳細に研究した結果をまとめた傑作です。そもそも「天正壬午の乱」と名付けたのは、著者の歴史学者・平山先生です。本書は先生の長年の研究成果といえます。
 
 ちなみにこの平山先生、山梨県立中央高校の教諭です。中央高校は山梨を代表する定時制高校です。私が関わった不登校・引きこもりの子どもたちが何人も入学しました。あるいは入学させました。私は、平山先生とは面識がありませんが、実はケースを通して間接的に関わっているとはいえるわけです。その点でも勝手に親近感を持っています。
 何より、いろいろな生徒がいる学校で教師をしながら、専門の研究活動でも名をあげるとは本当に素晴らしい、と感心します。
 
 この争乱は、単に大名同士が戦ったというだけではなく、勝敗の帰趨を決めたのは、その地方を治める国衆と呼ばれる昌幸のような人々や主君を失った武田遺臣たちでした。徳川家康や上杉景勝、北条氏政は彼らを味方に引き入れることに腐心しました。
 本書は、その様子が当時の文書の流れや各軍団の動きを丹念に追いながら、この乱の推移を詳細に描いています。小説ではなく、完全に実証的スタイルの論文ですが、実に面白い。
 
 特に私は甲信地方の地形や地名、山や道の場所がわかっていますから、本書で記される山城や街道を疾駆する軍勢をリアルにイメージして楽しむことができました。
 
 ドラマでこの乱に関心を持たれたら、是非手に取っていただきたいです。
 

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February 08, 2016

本能寺の変前後の甲斐

 7日の「真田丸」はいきなり本能寺の変でした。吉田綱太郎演じる織田信長は前回存在感を一瞬示しただけで、最後のシーンさえありませんでした。あっさり消えた感じです。大物役者の入れ替わりが激しいです。
 
 実際武田滅亡から本能寺の変までわずか3か月弱なので、信長の死がいかに唐突だったかがわかります。ドラマでもあったように、さすがの真田昌幸も仰天したことでしょう。武田びいきとしては、勝頼公、もう少し粘れたらよかったのに、という思いがします。
 
 武田滅亡後の甲斐の領主になったのは織田家の重臣、河尻秀隆です。信長の草創期から活躍し、黒母衣衆筆頭、織田軍の副将格だったそうです。
 河尻秀隆 Wikipedia
 
 武田一族が滅んだとはいえ、甲斐にはまだたくさんの武田の武将や侍が潜んでいたので、鎮圧しきれてはいません。
 信長の絶対の信頼がある武将が据えられたのは当然です。兵も相当数いたでしょう。秀隆は織田本軍を任されていたから、遠征軍の大将の羽柴秀吉などと同格かそれ以上だったかもしれません。信長の嫡男、信忠の教師的立場だったそうだから、もし本能寺の変がなくて、織田政権が続いたらナンバー2として君臨していたかもしれません。でも、今、普通の人は誰もその名を知らないですよね。それは本能寺の変の直後、歴史から姿を消してしまったからです。
 
 伝えられるところによると秀隆は、武田を憎む信長の命で、武田遺臣を誘い出し、見つけ出しては殺しまくっていたそうです。そのためおそらくは、甲斐の山々などに潜伏していた武田侍たちに相当恨みを買われていたでしょう。
 
 ちなみにこの時期の信長、信忠は宿敵・武田を葬ったことで、有頂天になって、元々あった攻撃性が噴出していたように私には感じられます。比叡山延暦寺と違って、政治的勢力ではない武田の菩提寺の恵林寺を、家臣をかくまったというだけで焼き討ちしたり、かなりやりたい放題でした。その時の国師・快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」は有名ですね。
 
 ついでにいうと、この快川和尚は土岐氏の出身で、明智光秀と同じです。しかも光秀の師匠だったのではないかという本もありました。恵林寺の焼き討ちの時、光秀軍は何人かの僧をそっと逃がしたと恵林寺には伝わっているそうです。
 光秀にとっては目の前で師匠が焼き殺されたのですから、相当な思いが生じたのかもしれません。本能寺の変の政治的黒幕や理由は様々な説がありますが、光秀個人の心に火をつけたのには、これもあったかもしれません。
 
 本能寺の変が甲斐にも伝わった直後、燎原の火のごとく甲斐は一揆に包まれます。一揆といっても百姓の一揆などではないと思われます。信長の死で動揺しているとはいえ、逃げるために必死の織田軍と戦うのですから、組織化された武装集団であったはずです。
 
 そして秀隆は今の甲府市岩窪町で、武田24将の一人で赤備えで有名な山県昌景の家臣に討ち取られてしまいます。山県は長篠の戦で討ち死にしていますから、主君の仇をとった形になります。
 武田遺臣たちはよほど腹に据えかねていたのでしょう、秀隆の死体は逆さまにして埋められたといいます。今もその首塚は岩窪町の片隅にあります。私も見たことがあります。 河尻塚
 
 本能寺の変が6月2日、秀隆が殺されたのが6月18日(15日という本も)だったので、わずかな期間に素早く正確な情報伝達と組織的な軍事行動があったからできたことに違いなく、武田遺臣たちの情報ネットワークが生きていたと推察されます。
 
 そして、織田の武将が追い払われて空白地帯になった甲斐、信濃に徳川と北条、上杉が加わり、三谷さんが「三国志みたいだ」と喜んでいた「天正壬午の乱」が起こります。独立した真田昌幸らの活躍もここから始まります。どう描かれるか(これまでのドラマ通り描かれないのか)楽しみです。
 

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January 18, 2016

真田丸:武田勝頼の最期

 昨日の「真田丸第2回」は、前回に続き武田家滅亡に翻弄される真田家でした。何となく雑感を。

 脚本の三谷幸喜さんが「敗れる側に興味がある」と常々言っていたように、今回ほど武田勝頼(平岳大)がクローズアップされ、かっこよく描かれたことはなかったと思います。信長、家康の敵役か父信玄に劣る愚鈍な武将という描き方が多かったですからね。

 勝頼が切腹する時に武田信玄の幻、亡霊(?)が現れて、「父上、申し訳ござりませぬ、お怒りでございますか・・・・四朗を叱ってくださりませ」のくだりは甲州人ならジンと来てしまいます。

 その信玄の幻が時を同じくして、真田昌幸(草刈正雄)の眼前にも現れます。昌幸はすべてを察し慟哭します。昌幸は子どもの頃から信玄を師として側に仕え、信玄から「我が眼」と呼ばれ、周りからも「小信玄」と呼ばれていたそうですからね。自分を育んでくれた主家滅亡という思い通りいかぬ現実に内心忸怩たるものがあったでしょう。

 ちなみにこの幻の信玄を演じたのは殺陣師の林邦史朗さんのようです。長年大河の殺陣を担当し、毎年チョイ役でもちょこっと出ていて、マニアには見つけるのが楽しみです。林さんは日中の武術に通暁している名人です。今回は信玄の鎧兜を着けて目しか出ていませんでしたが、迫力がありました。

 ところで、源義経や豊臣秀頼、真田信繁(幸村の)ように非業の死を遂げた人について、日本人はそっと慕い、各地に「実は生きていた」という生存伝説が残っています。武田勝頼にもあるのです。ずっと以前本ブログで紹介しましたが、実は昌幸の手引きで四国は土佐まで落ち延びて、長曽我部の領地でひっそり生きていたというのです。興味深いですね。
 実際勝頼の首は、たくさんある首の中でどれかわからなくなり、勝頼の家臣に確認させたという話をどこかで読んだことがあるので、その人が「これかなー、きっとこれです!」と主人を慮って、あるいは察してテキトーなことを言えば、そのままだったかもしれません。

武田勝頼は生きていた!

甲斐と土佐の源氏ネットワーク

 そして徳川家康演じる内野聖陽さんが、「武田が滅んでもなぜかうれしくない」と苦虫をかみつぶしたような顔で言います。それはあなたが山本勘助だったからだろうと、「風林火山」のイメージがダブって面白かったですね。

 実際、この後信長は甲斐の武田の侍たちを根絶やしにしようと探し出しては殺しまくりますが(ドラマであったように温水さん演じる最後に勝頼を裏切った小山田信茂は親子共々首を刎ねられます。私の実家のすぐ側の甲斐善光寺でした)、家康は秘かに大量の武田遺臣を雇い入れます。それが後年の井伊の赤備えになるのはよく知られています。

 武田信玄を敬慕した家康と、山本勘助だった内野さんをだぶらせたセリフは、これも三谷マジックでしょうか。

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January 11, 2016

真田信繁(幸村)は甲府育ち

 大河ドラマ「真田丸」が始まりましたね。
 本当なら昨年やるはずだったのが、NHKの何とかという会長が安倍首相にすり寄って無理やりねじ込んだと噂される「花燃ゆ」が見事にこけて、井上真央ちゃんがかわいそうでした。だってつまんなかったから仕方ない。大河好きの私の母親も途中から観なくなっていました。

「真田丸」は真田好き、武田好きの私もしっかりフォローさせていただきます。素人ながら歴史男子として、勝手な解説、突っ込みもさせていただきます。

 第1回は武田家崩壊の中で揺れる真田家が描かれました。堺雅人演じる真田信繁(幸村)が、韮崎の新府城を発つ前日か、甲府盆地と南アルプスの景色を見て、これが最後になるかもしれないからよく見ておけ、といった感じのセリフを言っていました。

 三谷幸喜さんの意図はわかりませんが、私はこれは信繁にとって生まれ故郷との別れのシーンと解しています。
 一般に真田は信州、上田のイメージが強いと思いますし、その通りでいいのですが(今頃は盛り上がっているでしょうね)、実は真田信繁は甲府生まれ、甲府育ちと考えられています。少なくとも武田滅亡の機に上田に戻る前までは(ドラマでは16歳らしい)。

 父親の真田昌幸が武田信玄、勝頼の重臣として「お館様」のお側近くにいたからですね。そもそも昌幸は、長篠の戦で真田家を継いでいた兄2人が戦死したためにやむを得ず信州の真田家を継いだので、それまでは幼少のころから甲斐の武田家の中で暮らし、奥近習という信玄の側近を務め、武田一族の武藤家に婿養子にまでしてもらっていたから、武田家を担うエリートでした。その子の信繁は完全に甲州人といってもいいかもしれません。

 だから信繁も「ほうけ?(そうなの?)」「~ずら」「ててて(驚くときの言葉)」と甲州弁を喋ってたかも。

 第1回の舞台の新府城には子どもの頃の遠足で行きましたし、今でも何度も通りかかったり、時には入ったことがあります。今は静かな森だからデートには最適、フフフ。でも夜には亡霊が出るとのうわさも。

 新府城

 巨大な河岸段丘で断崖絶壁の上にあり、昌幸が普請したと言われています(異説もあります)。織田の侵攻の前、もっと早く完成していたら、真田昌幸・武田勝頼vs織田信長の決戦があったかもしれませんね。後年、上田城で徳川を撃退した昌幸ですから、信長との戦いも見物だったかもしれません。

 今の新府城は、ひっそりとした寂しい小山です。歴史を偲ぶには良いところです。

 それにしても「武田崩れ」と言われる、武田滅亡時の様子は悲惨、哀れにつきますね。重臣たちの裏切り続出の崩壊過程について、知人の山梨出身の作家は、「甲州人の悪いところが出たね」と言っていました。利に敏く、忠誠心より独立心が強く、外から来た人間には厳しいところというニュアンスでした。勝頼は元々諏訪の人でしたからね。もちろん戦国のならいと言えばそうなのでしょうけど、生粋の甲州人の私としても、何か腑に落ちてしまうところです。よそ者扱いすると厳しいんだよな、ここは。
 私など、あんな終わり方をさせてしまって、武田勝頼公には申し訳ない気持ちがしてしまうのです。

 1年間、大河で楽しめそうです。

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August 17, 2014

「本能寺の変 431年目の真実」

 いやー、面白かった。
 この夏一番!

 明智憲三郎「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)は、書店で見て面白そうだなと思っても読むべき本や文献が多いのでしばらく控えていましたが、私の信頼する人たち(歴史の目利き)がとても高い評価を与えているのを見て、たまらず買ってしまいました。

 そしてやはり面白くて一気に読んで、おかげで仕事がはかどらなかった。

 著者はなんと明智光秀の子孫、当然光秀の「名誉回復」が目的とはいえるでしょうけど、これまでの本能寺の変の描き方が、ワンパターンで一方的だったのは間違いないし、みんな「日本史最大の謎」と言いながら、結局なんだかよくわからないね、で終わっていたのがそれに決着をつけるくらいの力はあります。

 私も長年の疑問が根こそぎ氷解する気がしたものです。
 実際、アマゾンのページには織田信長や森蘭丸らの「当事者」のご子孫の方々までが、「そうだったんだろう」と太鼓判を押しているくらいです。

 なぜそれほどの説得力を持つかというと、情報システム分野が専門の著者の論理的思考が、基礎的文献を丁寧にあたることで定説の矛盾や不足を排し、「事実」を推測しているからであって、それはとても興味深い読書体験になります。

 もちろん本書も仮説だから、間違いや反論も当然あるでしょうけど、、今後の本能寺の変論争は、著者の説を無視することはできないでしょう。

 また、多少でも歴史や学問を愛する人なら、著者の姿勢には好感を持つでしょう。

 ではどのような内容か、光秀はなぜ謀反を起こしたのか。
 本能寺の変はどのように起こって、それは歴史にどのようなインパクトを与えたのか。
 それは豊富な情報量のある本書を読んでいただきたいです(他サイト、ブログにあらすじはけっこう出ています)。
 キーパーソンは信長、光秀、秀吉はもちろんお互いに策謀を巡らし、家康もけして傍観者ではなく、最重要な働きをしたのが長曽我部元親、細川藤孝(こいつが食えない奴なんだ)、イエズス会とそこから信長の小姓になった黒人奴隷・彌助など。

 本能寺の変はけして光秀の妄想や病的錯乱によるものではなく、ち密に計算された権力闘争であり、それゆえに一つ一つのミスや読み違えが致命傷に至ったことがわかります。

 本書はそれまでの歴史物、ドラマの本能寺の変の描写に見直しを迫る説得力があります(でも、大方は従来の「定説」にしがみついていくでしょうけど)。

 それでも、一度は本書のストーリーに基づいた歴史ドラマを見てみたい。あまりにも違ってみんな仰天するでしょう。光秀はジャニーズでいいから(ボク的には山Pがいいのではないかと)。

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April 13, 2014

「栗本慎一郎の全世界史」

 経済人類学者・栗本慎一郎先生の「意味と生命」(青土社)は、若い頃何度も読んだ本で、私のものごとの認識方法の重要なところを作っています。
 その栗本先生の「遺作」ともいえる(本人がそう言っている)のが「栗本慎一郎の全世界史」(技術評論社)です。
 一度目はざっと読んで軽くイメージを作り、二度目は精読したらぐっと頭に入ってきて、面白くて興奮しました。

 世界史の隠れた主役はギリシア・ローマの西欧人や東アジアの中国人ではなく、ユーラシアの騎馬民族であったという論は、日本の古代やユダヤ人問題とも絡んで非常に面白い。

 日本については、

 日本の文化は中国や朝鮮とは全く違う文化だ。北満州やその先の北ユーラシアとむしろ直接的に繋がっている。
 まず、日本列島の文化ははじめから世界的に孤立していなかった。青森の三内丸山遺跡は紀元前3500年ほどからのものだ。ただそれが世界とどう繋がっていたのかは、はじめから問題外にされてきた。
 だが時期的に言って、ユーラシアの歴史と連携することを理解しなければならない。特に、太陽信仰における文化的要素の繋がりである。  p16

 ということで、栗本先生によれば、そもそも日本は漢字文化圏ではないそうです。実際には漢字は、古代日本語を基軸にすることは変えずに、「補助」として使ったにすぎません。もっと大きなネットワークの中にいたということです。

 古代日本とユーラシアのつながりについて、太陽のネットワーク(日本中の夏至線と冬至線の交点にたくさんの遺跡、聖地が設定されたこと)、聖方位(北を、実際の真北から20度西に振った方角を北とする考え。何とペルセポリスと鹿島神宮は同じ設計思想で作られているという)、大王(オオキミ、スメラミコト、後の天皇)の誕生(神武天皇)の日本神話と古代スキタイ神話が全く同じ物語構造をしていることなどを例示しながら、強く主張しています。

 ちなみにヤマトのヤマについては、東イランから中央アジアでは「霊界」を意味する言葉で、トは古日本語で場所ですがユーラシアでも場所を表していたらしい。ヤマトとは「よい霊の場」「祖霊の地」という意味になります。ユーラシアにも、ヤマトはたくさんあるのではないかとのことです。興味深いですね。   

 本書は日本を含めた世界の歴史の骨組みを、経済人類学、生命論的視点から一気通貫的に俯瞰しています。個別の事実の実証が歴史学であるという研究者、歴史家(他の科学者、学者も普通そうでしょう)ではたどりつけない、見いだせないところを思想家が喝破した、というものです。

 歴史好きは視点を大きく揺さぶられるかもしれませんが、哲学の生命論に対する関心がないと、ちょっと難しいかもしれません。是非、トライしてください。

 

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