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これいいよ!

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August 07, 2023

天正壬午の乱

 8月6日の「どうする家康」では、織田家臣による清須会議から柴田勝家・お市の方自害まで一気に進み、ムロ秀吉の奇怪さが際立ちました。

 その背後で家康は、甲斐、信濃を手に入れようと動いていましたね。

 本ブログでもこの辺のことは度々書いていますが、いわゆる「天正壬午の乱」と呼ばれる徳川・北条・上杉による甲斐・信濃・上野の争奪戦です。三谷幸喜さんはこれを「三国志」みたいとお気に入りのようで、「真田丸」ではこの辺りもしっかり描いていました。

 今回はちょこっとでしたが、家康が韮崎市にある新府城に入場した場面や、現在の笛吹市御坂町で北条と徳川が激突した黒駒の合戦も描かれていました。

 新府城は武田勝頼が最後に築いた城で、大変立派な普請だったようですが(一説には真田昌幸が関わったとか)、まだ建設途上で織田軍の侵攻に遭い、勝頼はあえなく捨ててしまったのでした。

 家康はその新府城で北条軍と対陣していたみたいです。

 北条との合戦は、甲府盆地から河口湖方面に抜ける御坂峠でありました。

 私の家から車で15分くらいで、現在はかなり整備されて広い道ですが、当時は狭い峠道で大軍を奇襲するにはちょうどよかったでしょう。

 ドラマでは家康は井伊直政に「召し抱えた武田の家臣をおまえにやる、将になれ」と言い、直政がうれしがるシーンがありました。

 家康が武田遺臣を井伊直政隊として組み込み、それが信玄の重臣・山県昌景の赤備えにならって井伊の赤備えとなったのは有名な話。

「失業中兼お尋ね者」だった武田遺臣たちは再就職が果たせ、ようやく安心したことでしょう。

 その数、500とも800ともいわれますから、家来や家族も入れればかなりのボリュームです。

 私のご先祖もその中にいたかもしれません。

 実質的に武田軍を吸収した徳川軍は飛躍的に強化され、この後の小牧・長久手の戦いにつながっていくのです。

天正壬午の乱-Wikipedia

July 23, 2023

本能寺の変直後の甲斐

 本日7月23日の「どうする家康」はついに本能寺の変で、新解釈と共に岡田信長の鮮烈な最期が素晴らしかった。

 岡田准一さん、俳優としてはもちろん、一武術家としても尊敬しております。NHKの「英雄たちの選択」でMCをやっていた時、岡田さんは実は武田ファンで、山県昌景のファンとおっしゃっていたので、いつか信玄か昌景を是非、やっていただきたいです。

 さて、家康はこの後、一気に飛躍することになります。

 本能寺の変後の畿内は山崎の合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いと織田政権の内部抗争が続きますが。その背後で、家康は武田氏滅亡後に信長の家臣たちが治めていた甲斐、信濃をちゃっかり掠め取ったからです。

 このプロセスは謎が多く、どうしてもその直前の「神君伊賀超え」が注目されるので、ドラマで取り上げられることはありませんでした。「真田丸」で少しだけあったくらいかな。

 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長、信忠が殺されます。

 堺にいた家康一行はその伊賀超えを行い、5日に岡崎に戻ったといいます。

 すぐさま家康は旧武田遺臣の懐柔に動くよう、家臣に命じたようです。

 変の知らせが届いた旧武田領は大混乱に陥り、信濃や上野にいた織田の重臣たちは命からがら逃げ帰りました。

 当時、信長から命じられて甲斐を治めていたのは河尻秀隆。あまり知られていませんが信長の父・信秀の時代から仕え、信長の躍進に常に従っていた武将です。黒母衣衆筆頭、嫡男信忠の側近を務め、織田本軍を任されていました。勝頼は死んだとはいえ、織田軍は武田の本拠地である甲斐を鎮圧しなければならなかったわけで、信長の秀隆への信頼はかなり厚かったと推測されます。

 もし信長が生きていて信忠にスムーズに政権が移っていたら、秀隆はナンバー2になっていたかもしれず、秀吉や家康の芽はなかったかもしれません。歴史は変わっていたでしょう。

「武田を根切りにせよ」との信長の命を受けて、秀隆も武田家臣たちを探し出して殺す執拗な「武田狩り」をしたと伝わっています。

 本能寺の変の後もその責任感故か、秀隆は甲斐の府中(甲府)に留まりました。これが彼にとっては悲劇となりました。

 その河尻秀隆に、武田遺臣たちが一斉に襲い掛かり、6月15日に殺されてしまったのです。

 秀隆を討ち取ったのは山県昌景の家臣だった三井弥一郎といわれます(『甲陽軍鑑』)。弥一郎やその場にいた侍たちは、長篠の戦で討ち死にした主君の仇を討ったと勝鬨をあげたことでしょう。

 変からわずか2週間足らずの事件でした。

 よく歴史解説書や歴史好きユーチューバーは、ここで甲斐に「一揆が起こった」といいますが、明らかに百姓一揆の類ではなく、軍事訓練を積んだ軍事組織の動きであり、戦慣れした武田遺臣たちによる蜂起だったといっていいでしょう。

 しかし、地元の土地勘のある私からすると、この一連の流れは不自然なほど極めて迅速であると、以前から不審に感じていました。

 織田軍の執拗な武田狩りを逃れて山や奥地に潜んでいた武田遺臣たちが、どうやって畿内の最新情報を得られて、すぐさま蜂起できたのだろうか。

 実はこの背後に家康が絡んでいたことが当時の資料から推測できると、専門家からも言われていました。私もこの時代の研究者の講演会で聞いたことがあります。

 まずは6月2日、本能寺の変。

 テレビやネットニュースがあるわけでもなく、人々は「信長が死んだぞ、死んだかもしれないぞ、どっかに生きているかもしれないぞ」と噂話に翻弄されたこともあったでしょう。情報の確認に時間がかかったかもしれません。

「本能寺で信長が死んだらしい」と確度が高まるまで、多少時間がかかりそうです。遠く甲斐の武田遺臣たちはどうやってそれを納得したのか。「よし今だ、織田を追い払うぞ!」なんて下手に動いたらやぶ蛇になるかもしれないのに。

 6月5日、家康、岡崎城帰還。武田遺臣の懐柔へ動き出すのは早くて6日以降でしょう。岡崎から甲斐まで馬でも2日、足では3日はかかりそう。

 ということは9日か10日ころから、家康による武田遺臣たちへの懐柔が始まったと考えられます。でも、どうやって彼らが潜んでいたところを見つけたんだろう。甲斐は山深いよ。

 京からの直接の情報も甲斐に届くには時間がかかり、早くて6月6,7日辺りだったでしょう。でもそれを知って各地で隠れ潜んでいた遺臣たちが連絡を取り合うのはやはり容易ではなかったはずです。

 でもなぜか、極めてスムーズに連携ができていたとしか思えません。

 メールもLINEもないのに。

 武田と徳川、双方にキーパーソンがいたのかもしれません。

 さらに足の速い連絡係でもいたのか、それでも真昼間に馬で走り回ったら目立つから、夜間に行動していたのか、やはり武田の忍びたちがその役を担っていたのかもしれません。

 もしかしたら家康配下の伊賀の忍びたちも協力していたのではないか、なんて想像が膨らみます。

 そして、「本能寺で信長は確かに死んだ」と、家康サイドから家臣や忍びを通して武田遺臣たちに伝えられたのかもしれません。

 甲府盆地に住む私には、どうやってこの混乱と千載一遇のチャンスを武田遺臣と家康たちが連携して生かしたのかにとても興味があります。 

 この間、家康は本田信俊という家臣を甲府に派遣し、秀隆に面会させました。

 信俊は「危ないからここを去った方がいい」と秀隆に忠告したようです。

 しかし秀隆は、「家康が甲斐を狙っているのではないか」と疑い、その場で信俊を殺してしまいました。それで徳川方が怒って、武田方に加担したという話もあるようですが、それは徳川方の名分を立てるためで、実は話が逆で徳川が武田遺臣たちと内通していたのを秀隆が見破ったのでしょう。実際のその後の徳川の動きを見れば、秀隆が正しかったのがわかります。

 そして10日辺りから武田遺臣たちの間で作戦が急遽練られ、各地の侍や土豪たちたちが密かに動き出したのでしょう。

 遂に14日辺りで蜂起。軍事行動を起こします。

 そして15日に甲府の秀隆の館(躑躅が崎館、今の武田神社付近といわれます)を襲います。織田方にも相当の軍勢がいたから戦闘になったでしょうが、一気に片が付いたみたいです。織田の兵士たちはどうなったかはわかりません。

 このように記録を追っかけていくと徳川も武田遺臣もあまりにも手際のよい動きで、実は家康は本能寺の変を事前に知っていて、あらかじめ用意をしていたとか、甲斐に手を回していたのかと疑ってしまいます。

 その方が無理がない気がしますが、どうなんでしょうか。

 実際この時期の記録はほとんどなく、誰が、どのようなプロセスを経て実行したのかは謎らしいです。ただ、結果は諸資料に明記されています。

 前述したように、6月15日秀隆は討ち取られ、首はさらされ、胴体は逆さまにされたまま近くに埋められました。かわいそうに秀隆は信長への恨みを一心に背負った形になってしまいました。

 秀隆が埋められた場所は、今も「河尻塚」として残っています。

 私も訪ねたことがありますが、住宅街の中、誰にも注目されず寂しい佇まいの場所でした。

 以上、細々と長々と自分の拙い見方を書いてしまいましたが、歴史的大事件の裏で、はるか遠い地方にも後の日本史の流れを決めるような出来事が進行していたのです。

 

July 16, 2023

武田勝頼伝説を巡って

 本ブログは歴オタの側面もあって、これまで武田勝頼関連の記事をいくつも上げてきました。

 何年も前の記事ですが、再びここで日の目を見させていただきます。

 その中で何よりユニークなのは、「実は武田勝頼は生きていた」という生存伝説があることです。

 勝頼は、四国の香宗我部氏(あの長曾我部氏ともかかわりがあるらしい)を頼って落ち延びたという伝説が古くから土佐のある地域にあって、町興しに利用されているとか。

 武田勝頼は生きていた!

 甲斐と土佐の源氏ネットワーク

 源義経、真田信繫(幸村)みたいなものですね。日本人のこういう判官びいきなところは私は好きです。

 今もその地域にはその伝説を伝える武田勝頼土佐の会というのがあって、活動しているようです。

 実際、土佐の源氏のルーツは甲斐源氏にあるらしいので、なまじ根拠のない話ではないようです。

 とても良い場所みたいで、一度訪ねてみたいですね。

 他に呪詛というオカルト的側面からこの武田滅亡時のことを扱いました。

 戦国呪詛合戦

 「伊勢神宮をはじめ信長寺社勢力 対 勝頼諏訪大社」という呪詛合戦で、数においてここでも勝頼は圧倒的不利。

 天津神(アマツカミ)・仏教連合対国津神(クニツカミ)という構図といえそう。

 神道や神話に詳しい人はわかるよね。

 折悪しくちょうどこのタイミングで浅間山の大噴火が起こり、人々は「正親町天皇の呪詛が効いた」と思ったことでしょう。

 これによって、人心が勝頼から離れてしまいました。

 しかし武田滅亡後のわずか2か月少しして今度は本能寺の変で、諏訪を蹂躙した信長と信忠が殺されます。

 壮麗な神殿を織田軍に焼き討ちされた諏訪大社の神長官・守矢信実は、変を聞いて「諏訪大社の神罰である」と喜んだということなので、この戦いは呪術レベルでは引き分けというべきでしょう。

 クニツカミ、善戦でした。

 他に甲斐に侵入した織田軍は武田家の菩提寺である恵林寺を焼き討ちして、正親町天皇から国師の称号を得ていた名僧・快川和尚を殺します。

 ここにも明智光秀と快川和尚の関係が以前からあって、この事件をきっかけに光秀に謀反の思いが強化されたとの伝説があります。

 明智光秀と快川和尚

 恵林寺は「どうする家康」の最後の紀行のところで紹介されていました。焼き討ちされた恵林寺は、家康が再建させて今に至っています。

「どうする家康」はいよいよ本能寺の変。日本史最大の事件の余波で、全国各地域でもさまざまドラマが展開されていたはずです。ここでも当時の甲斐の様子をレポートします。

July 11, 2023

武田滅亡時の侍たち

 7月9日放送の「どうする家康」は、松潤家康の変貌ぶりが面白かったですね。

 冒頭の武田氏が遂に滅亡を迎えるシーンも、武田ファンとしては感慨深いものがありました。

 今回は眞榮田郷敦さん演じる武田勝頼が雄々しくかっこよく、近年の勝頼再評価の研究動向を表したものになりました。

 実際にもドラマにあった通り、最後はわずか40人前後が付き従うという絶望的な状況で、兵たちは勝頼が自害する時間を稼ぐために襲い来る織田兵に向かって獅子奮迅の戦いぶりだったようです。その間勝頼は妻の北条夫人と嫡男・信勝と果てたのでした。

 その戦いで、特に土屋昌恒という侍は「片手千人斬り」で知られ、狭い崖路で落ちないように片手で蔓をつかみながら、片手で刀を振るい、織田の兵を斬っては崖に蹴り落としを繰り返したと伝えられます。その下には日川という川があり(今もあります)、落とされた兵士たちの血で染まり、地元では「三日血川」と呼ばれたそうです。

 最後の最後になって、ようやく武田らしさが発揮されたような気がします。

 勝頼の自害後に昌恒もようやく自害しますが、これは単なる作り話ではなく、当時から彼の奮戦ぶりは知られていたようで、織田方、徳川方の記録にもあって称賛されていたようです。

 家康も当然注目して、混乱を母親と脱出して潜んでいた嫡男・忠直を見つけ出して召し抱え、側室の阿茶局に育てさせ、上総久留里藩の大名にしました。すごい厚遇で、いかに家康が昌恒を評価したかが分かります。きっと忠義の武士の鑑として、家臣たちにモデルとして示したかったのでしょう。

 他に、武田が滅亡してからも頑強に抵抗していたのが、駿河の田中城にこもっていた依田信蕃。これも歴史好きには隠れた名将として知られています。

 徳川方はついに城を落とせず、信蕃は穴山信君や徳川の大久保忠世の説得でようやく開城しました。ちょうどドラマで家康が富士山麓で信長を接待する前頃でしょうか。

 信長は「武田の武将は皆殺しにせよ」との厳命を下していましたが、家康は信蕃を匿い、遠江に潜伏させました。

 そして2か月後の本能寺の変後に、家康は信蕃を召し抱えます。

 つまり家康はこの時期既に信長の命令を無視していたわけで、今回松潤家康が「信長を殺す」と最後に言い放って視聴者を驚愕させましたが、案外本当に腹に一物、面従腹背でいたのだと思います。

 こういう歴史の裏を想像するのは楽しいですね。

June 18, 2023

信長の診断名は?

 織田信長は強烈な個性を放っているために、後世さまざまな解釈がなされてきました。

 歴史家、一般の人は「天才」の一言ですませがちですが、「心がひねくれた」我々心理屋、精神医学関係者はそこに病理性も見ます。

 信長は確かにIQは高かったでしょうが、どう考えてもまともな人には感じられないからです。

 最近YouTubeに上がっていた歴史番組に、精神科医の岡田尊司氏が興味深い見解を述べています。

【BS11』偉人・敗北からの教訓「織田信長・驚愕!本能寺の変には伏線が!」2023年6月3日放送分見逃し配信

 信長は、本能寺の変だけでなくそれまでも何度も裏切られており、しかも相手がなぜ裏切ったかを理解できなかったらしいことなどから岡田氏は、「現実より大きな自己を自分だと思い込む」「人の気持ちを理解する、読み取る力が弱いこと」「自分中心に全部考えて、周りの人を称賛者あるは自分の好きなように利用することのできる道具のような存在とどちらかに見てしまう」というところは自己愛性パーソナリティ障害、「既存の権威を何とも思わない、蹴散らかしてやろうとする」ところは反社会性パーソナリティ障害を疑っています。

 私は前にも述べたように、自閉スペクトラム症を考えていて、共感性が乏しいところはこちらの方が当たっている気がします。

 確かに、成し遂げた驚くべきエネルギー量を考えると、パッションや恨みをバネにするパーソナリティ障害的なところもうかがわれます。

 ただ、自閉症的な人にもビル・ゲイツはじめ、IT産業など、リーダーとなって独特な活躍をする人もいるから、そちらもあり得ると思います。

 もちろん会えるわけはないのでわかりませんが、こういう思考実験は楽しく、アセスメントの良い練習になります。

 動画は6月26日までの配信なので、興味のある方はお見逃しなく。

 

June 15, 2023

長篠の戦いの真実

 11日放送の「どうする家康」は長篠・設楽が原の戦いでした。

 最近の学説の「鉄砲三段撃ちはなかった」が採用され、五月雨式に撃っていく形になっていました。

 大敗して武田家を滅ぼした凡将とされがちだった武田勝頼も、メチャクチャかっこよく描かれていて、「強い武将」としての再評価を反映したものになっていました。眞栄田郷敦君もかっこよかった。

 それはよかったのですが、

 しかし戦いそのものは、これまで通りのの紋切り型の踏襲。

 無謀にも突進する武田軍に織田・徳川軍の鉄砲が火を噴いて、バタバタと倒れていくというシーン。

 実際はそうではなかったということが分かってきているのに、黒澤明の「影武者」や「ラスト・サムライ」へのオマージュか、時代劇王道のワンパターンを敢えて演出したのか。

 同ドラマの時代考証の一人平山優先生の記事は、ドラマとは全く違う戦いの像を解説しています。

 岡田信長が言ったような「これからの戦い」なんてなかったし、一瞬でけりがついたわけでもないし、早朝から昼過ぎまで何時間も丁々発止で戦い続けて、双方多くの死者を出したのでした。

 15,000の武田には1,000丁以上は鉄砲があり、35,000の織田・徳川には3,000丁で、比率的には同じくらいだったようです。

 結局、勝敗の分けたのは、当時の西日本優位の経済力の差といったところでしょう。

 武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない・・・教科書が教えない長篠の戦いで信長が勝った本当の理由

February 28, 2022

『武田信虎』

 大河「鎌倉殿の13人」、なかなか面白いですね。

 あの時代は内戦と内ゲバが、武士同士だけでなく朝廷や貴族、親族内でも繰り広げられて、戦国時代よりも生々しく荒々しい気がします。

 今は純粋な小栗旬演じる北条義時がどのようにして、冷酷な権力者になっていくのか、あるいはいかないのか、楽しみです。

 このドラマの中で甲斐の武田信義を八嶋智人さんが演じています。八嶋さんはいつもちょっと軽いキャラを演じるので、ちょっと心配なんだけど(笑)、武田信義は武田信玄のご先祖様になり、実はこの時代でも武田氏は大活躍していました。放送されているこの時点では、源氏では一番勢力があったようです。

 頼朝は石橋山の合戦で大敗して千葉に逃れましたが、信義は信濃、甲斐、駿河で連戦連勝で平家を破っていました。その後の有名な富士川の合戦でも、実際は平家軍と武田軍の戦いだったようです。

 ただそれでは頼朝の体面が悪いので、水鳥が飛び立つ音で平家軍は逃げ去ったという話にしたのではないかという説をどこかで読んだ記憶があります。

 ただ武田氏はあまりに勢力が強くなりすぎて頼朝に警戒され、信義は政治的に次第に追い詰められ、鎌倉で嫡男を殺され、失意のうちに亡くなります。その後鎌倉幕府は武田氏を攻撃し、滅亡の寸前までいってしまいました。

 その辺をドラマではどのように描くのか、楽しみです。

 その後の甲斐国内は分裂と抗争を繰り返し、ようやく室町時代後期にさしかかる頃に武田信虎によって統一されます。

 武田信玄のお父さんですね。

 ただこれまで信虎は、信玄の引き立て役みたいなってしまい、とんでもなく暴虐な主君として描かれていました。

 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』(戎光社出版)は、歴史学者による丁寧な文献調査と考察によって信虎の真の姿に迫った労作です。

 10歳で家督を継いだ信虎は、必死に武田家を立て直し、戦いに明け暮れた人生を送りました。

 不運だったのは、信虎がいくら活躍してもこの時代は天災や飢饉が多く、物価高で民衆は苦しみ、国力を高めることができなかったことです。

 結果民衆の恨みを買うことになってしまいました。それが暴君というイメージを作ってしまったみたいです。

 しかし今の県都・甲府を作ったのはまぎれもなく信虎であり、山梨の礎を作った偉大な人物であることには間違いがありません。

 山梨県民は本書を一度は読むべきです。とても厚いけど。

 

April 22, 2021

『戦国の忍び』

 忍者とは何者か、実際どのようなことをしていた人たちだったのか、歴史学的に資料からきちんと研究した、貴重で面白い本です。

 平山優著『戦国の忍び』(角川新書)

 著者は武田氏、真田史研究の第1人者で大河「真田丸」の時代考証を担当した先生、山梨在住でなんと高校の先生でもあります。斯界では著名な方ですね。

 本書では、武田、上杉、織田、徳川、伊達、北条など戦国大名たちが雇っていた忍びの実態が古文書の引用と現代語訳で説明されていて、忍びの「労働条件」や「働き方」がうかがえて、すごく面白い。

 ただ、資料的にきちんと裏付けながら進むので、忍びの技を学ぶとか、ドラマチックな物語を期待してはいけません。

 忍びをやっていたのはどういう人たちだったかというと、有名な伊賀、甲賀といった元侍身分だけでなく、多くがアウトロー出身でした。当時は「悪党」と呼ばれる人たちだったそうです。飢饉や災害で食い詰めた庶民や身を持ち崩した侍、罪人で罪一等を減じられる代わりに忍び働きを命じられた人たちなど、その出自は多様でした。

 彼らは、諜報、索敵、待ち伏せ、暗殺、略奪、放火などの任務を務めていました。常に命がけで、侵入先で敵の忍びや兵士に見つかれば即戦闘になるので、損耗率、死亡率は高かったようです。戦国の戦というと日中行われた、大規模で華々しい戦いばかりが話に出ますが、実際の戦は忍びがいなければ成り立たなかったのでした。そのため、各大名は大量の忍びを抱えなくてはならなかったようです。

 一つの戦や城攻めに、100人単位、あるいは千人ほどの忍びが動員されたこともあったそうです。

 小田原合戦を前に関東管領・上杉憲正が「忍びはいくらでも必要だ」と話した文書もあるそうで、「彼らが常に補充を必要とされる存在、すなわち損耗率が高い人々だったことを窺がわせる」ということです。

 それでも正式に侍になれたり、土地がもらえるわけではなく、その時だけのお給金がもらえる「非正規雇用」でした。 

 戦国にハローワークがあれば、「忍び募集(随時)、給与:契約金・支度金の一時支給、ボーナスあり(敵地での略奪)、勤務時間24時間、期間:敵城の落城まで」といった求人が常にあったということになるでしょうね。

「戦場では頼りになる存在だが、素行不良で、その任務も決して洗練されているとはいえぬものとして、武士からは、蔑視の対象ともされていた。」というから、一生懸命やっても評価されにくい、かなりブラックな仕事でした。

 とても勉強になりました。

 一度、このようなリアルな忍びをテーマにした時代劇を見てみたいとも思いました。

 まさに現代のわれわれ、非正規労働者の共感を呼ぶことでしょう。

 

February 12, 2021

『諏訪大社と武田信玄』

 最近なぜか諏訪大社に興味を持ち、いろいろ調べています。ここでもその感想を書きました。

『諏訪の神』

 戦国呪詛合戦

 武光誠著『戦国武将の謎に迫る! 諏訪大社と武田信玄』(青春出版社)は、神話・古代から現代までの諏訪大社の歴史を描いたものです。

『古事記』では、諏訪大社に祀られている建御名方神(タケミナカタノカミ)はなぜか貶められていますが、やはり大和朝廷の神道(我々が親しんでいる天照大御神を頂点とする神道)の流れとは違うことが本書でも確認できます。

 著者によれば、諏訪地方の指導者は、「縄文人の系譜をひく農耕民の首長(守矢家の祖先)」というかなり古く長い歴史の上に、3~4世紀の「出雲系の信仰を持つ首長」、7世紀後半の「大和朝廷の文化を持つ馬を用いた首長(諏訪家の祖先)」という経過があるのではないかということです。

 諏訪大社の神道は、少なくとも3層構造になっていると考えられます。

 加えて、諏訪には奈良時代以前は仏教はほとんど入ってこず、神仏習合も鎌倉時代初めまでなかったそうです。

 その結果タイムカプセルみたいに、古代の神道が色濃く残っていることになりました。

 私としては、本書によって奈良、平安、鎌倉と続く諏訪の歴史を初めて知ることができて勉強になりました。

 そのように良い本なのですが、問題も感じました。

 タイトルにある武田信玄に関する記述が少なく、4分の1もないのです。

 その前後の武田家の歴史も書いてますが、看板に偽りあり、という感じです。

 別に『諏訪大社の歴史』で十分な内容なのですが、多分、出版社の販売戦略のために武田信玄をくっつけたのでは、とも思いました。

 おまけに著者(明治学院大学教授)は信長びいきなのか、専門が古代史らしいので知らないのか、織田軍が武田勝頼を滅ぼすときに諏訪大社を焼き討ちしたことは書いてありません。

「織田政権は、諏訪大社を軽く扱った」「民衆の反感を買った」とあるだけです。

 諏訪大社の歴史で、焼き討ちに遭ったのは大変な出来事のはずです。

 比叡山延暦寺の焼き討ちを「信長は比叡山延暦寺を軽く扱った」、東大寺の焼き討ちを「松永久秀は東大寺を軽く扱った」と記述したら大変不正確に思えます。

 実際、本能寺の変での信長の横死を神長官守矢信実は、「諏訪大明神の神罰」と断じたくらいだから(平山優『武田家滅亡』)、かなり恨まれたのでしょう。ここはもう少し当時の信仰者の心情も入れてほしかったですね。

 ともあれ、諏訪大社の歴史を学ぶにはとても良い本と思います。

 

February 01, 2021

明智光秀と快川和尚

 大河「麒麟がくる」はいよいよ最終回。前回(1月31日)も緊張感のある場面が続き、見応えがありました。

 ドラマの中盤では、ついに武田家が滅び、信長と家康が諏訪で落ち合って喜び合う場面がありました。

 まさに先日のここで紹介した、諏訪大社が織田軍によって焼き討ちされた頃、ということです。

 戦国呪詛合戦

 もちろんドラマではそんなことには全く触れず、この後安土城での家康饗応の宴へと進んでいきました。

 実は諏訪に着いた後の織田・徳川軍は、そのまま甲斐に入りました。

 そして織田軍は、武田家の菩提寺で信玄の墓があった恵林寺を、敵方の武将をかくまったとの咎で焼き討ちしてしまいました。

 恵林寺は臨済宗の名刹で、正親町天皇(坂東玉三郎さんが演じてた)より国師の称号を得ていた名僧、快川紹喜が住職でした。信玄や勝頼はじめ多くの人からの崇敬を集め、快川の弟子は伊達政宗の師匠にもなったそうです。

 ですから、当時の仏教界のトップクラスの人物だったのですが、残念ながらこの時焼死してしまいました。有名な「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という偈を遺したと伝えられています。

 快川紹喜ーWikipedia

 実はこの快川和尚、美濃の土岐氏の出身とも伝えられています。だから明智一族という説もあり、昔の大河「国盗り物語」では、近藤正臣演じる明智光秀が快川和尚と対面しており、焼き討ちにショックを受ける場面があったように覚えています。幼い頃なのでうろ覚えですが。

「麒麟がくる」の時代考証を担当した小和田哲男先生も、恵林寺焼き討ちが光秀謀反の引き金の一つになった可能性があると述べていたネット記事があったので、今回も少しそういう場面があるかと期待しましたが、さすがにいきなりそれを入れると話が散漫になってしまうからか、全く触れられませんでしたね。

 まあ、いいです。

 この件も含めて、以前この時期の甲斐の状況を書いたことがあります。

 本能寺の変前後の甲斐

「麒麟がくる」は初めて光秀がよい意味でクローズアップされて、とてもよいドラマでした。

 最後が楽しみです。