July 16, 2019

『武田三代』

 大河ドラマ「真田丸」で時代考証を担当した平山優先生の『武田三代』(サンニチ印刷)は、武田信虎・信玄・勝頼の軌跡を、豊富な写真とビジュアル資料でまとめた、戦国武田氏の格好の入門書です。

 特に、信玄や勝頼に比べてこれまであまり描かれることのなかった(ドラマでは、もっぱら悪役でしたね)信虎の事績を詳しく載せているのはすばらしいところです。

 私もとても勉強になりました。

 今年は甲府ができてちょうど500年、甲府市はいろいろなお祭りや企画を催していますが、実は甲府を作ったのは武田信虎なのです。それまで武田氏の本拠はその隣の石和近くにありましたが、それを信虎が永正16年(1519年)、甲府市北部の相川扇状地、現在の武田神社に館を移し、家臣たちもその周辺に住まわせたのが始まりです。

 このように創始者と年代がはっきりしている都市の例は、全国でも大変少ないそうです。しかも家臣の武家たちを本領から切り離して城下に住まわせるのは、豊臣や徳川の時代には当たり前ですが、大変先駆的だったそうです。

「いくつかの制約はあるものの、豊臣政権の政策を遥かに先取りする画期的な性格を持っていたといえよう。信虎の先進性は際立っていると思われる。 p21」と平山先生は述べています。

 甲府を作ったり、分裂していた甲斐の国を統一したり、やはり信虎も大変優秀な人だったのでしょう。息子・信玄の飛躍は、信虎なしにはなし得なかったのは明らかです。

 そういうわけで、最近は信虎の再評価がされるようになってきました。

 いつか大河で改めて、武田三代のドラマがあるといいですね。

 本書はさらに武田氏関連の場所を網羅した大きな地図が付録でついています。これを見るのもとても楽しい。これを頼りに、中部、東海、上州をドライブしようかと思いました。

 歴女、歴男は是非。

 

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April 24, 2019

社会の複雑性が神を生んだ

 知人に教えてもらったのですが、慶應大学が興味深い研究をプレスリリースしました。神への信仰は、人類史のどの辺で発生したかという研究です。ビッグデータを扱った、いかにも今風の研究のようです。

(転載貼り付け始め)

 社会の複雑性によって「神」が生まれた? -ビッグデータ解析により世界の宗教の起源を歴史的に解明ー

慶應義塾大学環境情報学部のパトリック・サベジ特任准教授、オックスフォード大学のハーヴェイ・ホワイトハウス教授、ピーター・フランソワ教授、コネチカット大学のピーター・トゥルチン教授らの国際共同研究グループは、「セシャット(Seshat)」と呼ばれる人類進化史に関する大規模データベースの構築とそのビッグデータ解析を行い、社会の複雑性の進化が原因となって、世界中の宗教や「神」の信仰が生み出された可能性を明らかにしました。本研究の成果は、英国の科学雑誌『Nature』誌に3月20日(現地時間)に掲載されました。

研究グループは、1万年にわたる人類進化の歴史的記録データ(世界400以上の国家に関する20万件以上の歴史的記録データ)について、オープンアクセスのデータベースを構築し、セシャットと名付け世界に公開しました。また、なぜ人類が大規模かつ複雑な社会で互いに協力するように進化したのか、その科学的な検証を行うために、セシャットのビッグデータ解析を行いました。研究の結果、これまで唱えられていた既存の理論に反して、「神の信仰」は、「社会的複雑性」が進化した結果生まれたものであることが示されました。人類学者、歴史学者、考古学者、数学者、進化論者、コンピュータサイエンティストが共同して発見したこの成果は、ビッグデータ解析の発展が、人類進化の歴史や起源の解明に変革をもたらすことを示唆しています。

 

 

(転載貼り付け終わり)

 本論文によると、これまで宗教の起源は何かという問いには諸説あって、有名なのは「神の信仰」仮説というもので、人々が「神」を信仰し、社会にとって協力的でない人々を「神」が罰すると信じることで、結果として人々が公正に協力し、大規模な社会が形成されるというものだったそうです。ただ、それは検証されてはいませんでした。検証しようがなかったのかもしれません。

 本研究グループは、2011年にセッシャットと呼ばれるオープンアクセスのデータベースを構築して、世界中の人類学者、歴史家、考古学者、科学者の専門知識を結集したそうです。そうして集めたビッグデータを統計解析しました。

 結論として、「神の信仰は社会的複雑さの増大に先行するのではなく、むしろ後続する傾向にあることが明らかになりました。さらに、宗教的儀式は、神の信仰が生まれる何百年も前に出現する傾向にありました。これらの結果は、宗教的儀式を通じた集団行動が、人々の協力関係を促し、大規模な人類社会を形成する要因となった可能性を示唆しています」とのことです。

 なんか当たり前のような気もしますが、厳密には新しい理論ということなのかもしれません。あるいは西欧人には意外な結論だったのでしょうか。

 善悪をジャッジする神が最初ではなく、人々が協力し合うために「神」が必要になったといえそうです。これはアドラー心理学の「人の本性は葛藤ではなく、協力である」という前提にも通じるし、神道の「結び」とも通じるように思えます。

 宗教やスピリチュアリティについて、何か書いたり話したりする時に引用できそうです。

 

 

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April 12, 2019

神道の流派

 人が集まり、動くところには必ず離合集散、権力闘争、縄張り争いがあるものですが、和の国・日本を象徴する神道でも例外ではありません。

『神道入門』(新谷尚紀著、ちくま新書)には、古代から続いてきた神道の流れがいかに分化、展開していったかのアウトラインがうかがえます。特に鎌倉から室町時代にかけて、様々な神道流派が勃興したようです。平安時代に神道は仏教、取り分け密教と混交して、神仏習合していきながら、学術的には、鎌倉時代に両部神道とか伊勢神道とか呼ばれているものがあったそうです。詳しいことはここでは省きます。

 私が縁あって学ばせていただいているのが、おそらく古代からの宮中祭祀を伝承していた白川神道というものですが、それは歴史上常に表舞台にあったわけではなく、むしろその性格上裏舞台というか、天皇家に直接仕えるものであったためにそれほど目立たない存在だったように思われます。しかし、まぎれもなく神道の正統派であることは間違いありません。

 しかし、室町時代に勢力を伸ばしたのが吉田神道といって、応仁の乱の混乱期に卜部兼倶(1435~1511)という人が特に発展させ、江戸時代になっても神道界で中心的な力を持っていたようです。時の権力者に認められたためですが、そもそもこの卜部家は元々白川家の家人として奉仕している立場でした。家来だったのが、勝手に独立したようなものでしょうか。

 本書によると卜部兼倶は、「積極的にみずから経典を偽作し」「新たな神道説を強引に主張し、それを広めていく」ことをしていたそうです。それが人々に受けて、権力者も気に入ったわけで、ずいぶんだと思いますが、中世の神道ではそのような経典の偽作、ねつ造はよくあったことらしいです。

 しかし、江戸時代に入って、さすがに学者たちは吉田神道の問題に気づいて、猛烈な批判が出てくるようになりました。

 そして、そこで改めて、神道界のサラブレッド・白川神道が注目されたそうです。

(引用開始)

 そうして、吉田神道への批判が高まるとともに、あらためて脚光を浴びたのが平安時代末期以来、神祇官の神祇伯の家柄であった白川家であった。神祇伯としての白川家は、宮中の内侍所や清涼殿における恒例及び臨時の天皇の神拝に際して、その作法の伝授や、天皇の名代として神事に奉仕することによって、宮廷祭祀に重要な役目を担ってきていた。また、二十二社のうちの松尾社・伏見稲荷・大野野社・広田社については、白川家が神社伝奏の立場を前代以来ずっと保持していた。 p152

(引用終わり)

 そして幕末まで、吉田神道と白川神道は各地で激しい門人争奪を繰り広げたそうです。

 私が聞いた話では、富士山信仰(江戸時代には富士講と呼ばれていた)をしていた人たちには白川神道を学んだ人が多かったそうです。

 明治になって国家神道ができあがってくると、白川神道はまた世に隠れた存在になったのですが、新書とはいえ研究者によるしっかりした解説書に、私の知る白川神道がきちんと記述されていることに、私としてはうれしさを覚えました。

 平成の時代の終盤になって、白川神道は一部の人たちに再び知られるようになりました。

 令和になるとどうでしょうか。個人的には、アドラー同様、ブレイクの予感がしています。

 

 

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February 18, 2019

『武田氏滅亡』

 武田信玄の後継者・勝頼はどのような人物だったのか、武田氏はどうして滅びたのか。これまで名門・武田氏が勝頼の代で滅びたことから、小説やドラマで暗愚の武将と描かれがちだったのですが、近年勝頼の再評価が進んでいます。

 同時代の文書を元に詳細に勝頼の生涯を辿っていく、平山優著『武田氏滅亡』(角川選書)を、時間をかけて少しずつ読み進めて、ようやく終わりました。751ページという大著で、それ自体「自立」することができるほどの厚さであり、私は仕事や心理学系の読書の合間に読んでいたので、読破するのになんと1年もかかりました。

 その分、速読ならぬ「味読」というか、じっくりと、まるで勝頼と同時代を生きているかのような気分になりました。本を閉じた時は静かな感動に襲われました。小説でも物語でもなく、歴史研究書なのに。

 信玄の四男・勝頼は心ならずも、と言っていいと思うけど、信州の伊奈の高遠城主だったのが、信玄の後を継ぐことになってからは、まさに家を保ち、盛り立てるための奮闘の人生でした。

 一般に勝頼は、長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗して一気に滅びたかのようなイメージですが、実際は長篠以後7年間持ちこたえ、むしろ「武田信玄時代より広大な領国を誇るに至った。とりわけ北条氏は、勝頼による北条包囲網に苦しみ、関東の領国を侵食され、悲鳴を上げていた。 p748」のです。北条は、北関東から攻める勝頼や真田昌幸らの活躍で、押しつぶされる危機にありました。

 家康も勝頼に撃破されかねない状況に置かれたこともあり(大雨で富士川が増水して武田軍が渡れず、家康は逃げきれた)、やはり信玄の子だけあって、かなりの戦上手であったことは間違いがないでしょう。

 それが最後は、まるでオセロでバタバタと白黒がひっくり返るかのように、一気に滅亡に追い込まれてしまいました。本書によれば、信長も北条氏政もまさかあんなにあっさりと武田氏が崩れていくとは予想していなかったみたいです。当の勝頼もそうだったでしょう。

 勝頼が譜代家臣たちの裏切りに遭い、織田軍に天目山に追い詰められ自害した天正10年(1582年)冬、信州・甲斐の冬は大変厳しく、「織田軍は信州の豪雪と寒気による氷結に苦しみ、さらに兵粮の欠乏も加わって困難な状況にあったらしく、陣中から脱走するものが後を絶たなかった。 p699」、「この年の甲信は厳冬で寒気が厳しく、積雪も甚だしかったといい、信忠(信長の嫡男で武田討伐軍の総大将だった=ブログ主注)の中間(ちゅうげん)が28人も凍死するほどであった。 p699」というから、一見織田軍の圧勝のようなイメージですが、実態はひどいものだったようです。今でもこちらの冬は県外の人は(北海道の人でさえも)、つらいと言うからね。侍に仕える中間や足軽は、ほとんど野宿みたいなものだっただろうから、堪らなかったでしょう。

 だから、最後まで勝頼には勝機はあったといえます。ナポレオンやヒトラーを撃退したロシアのごとく、長期戦に持ち込めたら歴史は変わったかもしれません。 

 昨年、著者の平山氏は、勝頼を取り上げたNHKBSの歴史番組に出た時、「勝頼はつくづく運のない人だったとしか言いようがない」と総括していました。私もそう思わざるを得ません。本当にかわいそうな人だと思いました。

 本書には戦国武将や同時代の人たちの手紙や文書のやり取りが事細かく紹介されているのですが、それらを著者の解説付きで読むと、勝頼だけでなく、信長も家康も、北条も上杉もみんな、先が見えない中で必死に生きる道を模索していたことがうかがえます。一歩間違えば、誰もが滅びる可能性がありました。

 実際勝頼の死後、わずか3か月弱で信長と信忠は本能寺の変で殺されます。まさに一寸先は闇。勝頼さん、あともう少し頑張れたら…。

 本書で歴史のダイナミズムと繊細さを感じ取ることができました。

 また、私が甲州人だから感じるのかもしれないけれど、本書は学術書でありながら、苦しみの多かった勝頼の鎮魂の書でもあると感じました。

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June 02, 2018

志村けんの先祖は武田家家臣

先日NHKの「ファミリーヒストリー」で志村けんさんが出ていました。

 

「東村山音頭」で知られたように、東村山市出身の志村さんですが、その先祖はなんと山梨にいたことがわかりました。それも戦国時代、山梨が甲斐と言われていた時代です。

 

 地元民には周知のことですが、確かに山梨には志村姓の人が多くいます。私のアドラー仲間の同僚にもいます。

 

 注目すべきは、志村さんの先祖は、武田家家臣の中でももっとも有名な人物、山県昌景の家臣の可能性が高いということでした。山県昌景といえば武勇に優れた猛将で、赤備えの軍団を率い、後の井伊や真田の赤備えのルーツになったことで知られています。

 

 その山県の家臣に「志村又左衛門」という人がいて、長篠の戦で昌景が討ち死にしたときに、敵からその首を取り返したという記録が残っています。番組では、有名な「長篠の合戦図屏風」で、志村又左衛門が首を抱えて前線から脱出している姿が描かれているのが映っていました。

 

 有名な武将ではなく、一介の家臣が名前付きで描かれているのは珍しいのではないかと思います。その当時でも敵味方に知られた功績だったということでしょうか。

 

 武田が滅びた後、志村姓の人たちは徳川家に仕えます。その忠誠をの証を立てた「壬午起請文」に、志村姓がいくつもあるそうです。

 

 その他にも北条家に下った志村さんたちもいて、彼らも後に武蔵野国に移り住んだそうなので、徳川ルート、北条ルートの志村さんたちがいたようです。

 

 いずれにしても志村けんさんの本家は、江戸時代その地域では名主だったそうで、名主になるには相応の実力がないとなれないので、やはりルーツは武田家関係だったのではないかという結論でした。

 

 解説は武田家研究、真田家研究などで知られた平山優先生でした。

 

 面白いですね。

 実際に志村一族以外にも徳川に下った武田遺臣の多くが、多摩地方に移り住んだと聞いているので、その可能性は高いのではないかと思いました。彼らは「八王子千人同心」と呼ばれていました。

 

 八王子千人同心ーWikipedia

 

 後に江戸末期、その地域で盛んになったのが剣術、天然理心流、新撰組の近藤勇や土方歳三らの剣で知られていますね。近藤家は八王子千人同心だったそうです。

 

 ちなみに先の「壬午起請文」には、我が深澤姓もいくつかあります。私の先祖は徳川に下っても江戸に行かず、甲斐にとどまったのかもしれませんが、武田信玄の指揮のもと、志村けんさんの先祖と共に戦ったかもしれないと思うと、なんだか楽しい気分になりました。

 

 志村けんの祖先・父・母のルーツがすごい!武田信玄との関係も

【ファミリーヒストリー】志村けんのルーツは「武田信玄の家臣説」が浮上

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December 22, 2017

井伊家に再就職

 大河「おんな城主直虎」が先日終わりましたね。
 昨年の「真田丸」は全回コンプリートしましたが、今年は6、7割くらいかな、観たのは。それでも面白かったと評価しています。
 
 ほとんど実像がわからない人物だったから、1年間ストーリーを創り上げるのは大変だったと思います。その分、脚本家やスタッフの想像力を発揮する余地が大きかったでしょう。
 
 特に本能寺の変で、話題になった明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」を明らかに下敷きにしたのは良かったです。明智光秀と徳川家康の共同謀議説です。歴史ドラマでは、初めての試みでしたかね。ただ、全面的に採用ではなく、信長は本当は家康を殺す気はなかったという「本当はいい人」説という落ちでしたが。
 
 ラストのラストで、元服して侍大将になった井伊直政に、武田の赤備え隊が配属されたシーンがありました。武田ファン、戦国好きなら周知のことですが、武田家滅亡後潜んでいて、織田信長が倒れた直後に反乱を起こして織田勢を甲斐から追っ払った武田の旧臣たちは、かなり多くが徳川家康の配下に就きました。その数は500人とも800人にもなったそうです。
 
 つまり職を失った侍たちが再就職を果たしたのです。
 
 武田家の歴史を記した有名な史書「甲陽軍鑑」では、最後はなぜか武田の滅亡時ではなく、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで終わっています。
 
 井伊隊に属した武田の旧臣たちは、再就職後の晴れの舞台として燃えたのでしょう、直政と共に突撃、豊臣勢を蹴散らし、池田恒興や森長可といった織田家家臣で秀吉についた有力武将を次々に討ち取りました。長篠の戦い以降やられっぱなしだったから、「この野郎!」と奮い立ったのに違いありません。
 その活躍から直政は「赤鬼」と呼ばれるようになりました。
 
 つまり「甲陽軍鑑」は、滅びたとはいえあの武田軍だった侍たちが、「俺たちはここにいるぞ!」と世にアピールした書でもあったと思います。
 

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April 12, 2016

京都と靖国

 先日の記事で紹介した『京都ぎらい』(朝日新書)で井上章一先生は、私の歴史感覚ととても近いものがあると感じました。先生は洛中ならぬ「洛外人」という京都文化の辺境人からくる視点であり、歴史の深いところを透視しようとしています。それは明治維新や靖国神社への違和感です。
 明治維新を無血の革命だとみなしたがる人も一部にいるが、それは正しくない。前にもふれたが、あの政権は、越後長岡や会津の流血を経たうえで、なりたった。成立後も西南戦争などで多大が犠牲をだしている。
 
 だが、明治の新しい体制は、自分たちがほろぼした政敵の鎮魂につとめていない。会津戦争などの死者たちが怨霊になるかもしれないと、おびえはしなかった。そのあたりをおそれるそぶりも、会津への冷淡な戦後処理に明らかだが、見せてはいない。
 
 新政権が慰霊の対象としたのは、討幕派、いわゆる官軍側の戦死者だけである。自分たちの味方になって死んだ者の霊は、招魂社、のちの靖国神社をもうけ、合祀した。しかし、彼らが賊軍とみなした側の死者については、その霊的な処理を怠っている。 
 
 政権樹立後の内戦についても、事情は変わらない。招魂社、靖国神社は西南戦争の敗者、西郷隆盛らをまつろうとしなかった。佐賀の乱をおこした江藤新平らの霊も、そのままほったらかしている。日清戦争後の対外戦争でも、慰霊の対象となったのは、味方の戦死者のみである。
 中世までの怨霊思想にしたがえば、敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだったろう。   p205~206
 
 嵯峨でそだち、後醍醐天皇をまつった天龍寺になじんできたせいだろう。私は敵を供養する考え方に、さして違和感をいだかない。霊的な信仰をもたない現代人だが、それでもわかるところはあると思っている。
 むしろ、味方の慰霊ばかりを気遣う靖国のやり方に、ためらいをおぼえる。  p208
 
 だが、私は靖国のあり方に、むしろ新しい近代の影を読む。保守的という点では、怨霊思想の残渣をとどめる自分のほうが、よほど後ろ向きである。靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない。  p208
 
 私も井上先生も中世人のメンタリティーを保持している日本人に近く、本当はこっちが真の保守じゃないかという感覚です。実は、靖国が国の柱だとか後生大事に思う人々は伝統主義者でも保守派でもなく、普通の近代人なのだろう。
 私は国旗や国歌、日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことも、いぶかしく思っている。あんなものは、東京が首都になってからうかびあがった、新出来の象徴でしかありえない。嵯峨が副都心だった平安鎌倉時代には、まだできていなかった。そこに、たいしした伝統はないんじゃあないかと、彼らには問いただしたくなってくる。  p210
 私は日の丸は嫌いじゃないし、君が代は退屈なたらたらした音楽と思ってたけど、短歌を時間をかけて歌っているだけと思えば面白いと感じることもあります。ただそれを「近代主義者」に押し付けられるのは気持ちが悪い。そこになにがしかのウソや支配の意図を感じるからでしょう。
 
 また、もし靖国を作った側にも怨霊思想が残っていたとしたら、戦死した味方の兵士たちの霊が、自分たちが彼らに強いたうウソがばれて怨霊になって自分たちに祟るのを恐れたから英雄に仕立て上げようと考え出したという読みもあるかもしれません。その方が日本的です。
 
 

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March 17, 2016

長州藩はなかった!

 明治維新の主役である長州藩は実は存在しなかった、としたらどうでしょう。驚きですね。
 
 実際に存在したのは「萩藩」でした。
 
 長州とは地域名で、山梨(甲斐)は「甲州」、長野は「信州」というのと同様です。だから「長州藩、高杉晋作でござる」とは絶対に言っていなかったはずです。
 
 苫米地英人さんの「明治維新という名の洗脳」(ビジネス社)は、私たちがいかに適当にごまかされて、「素晴らしい明治維新」という幻想を持つように仕向けられたかに気づかされます。
「志のある若者たちによる無血革命」「維新によって内戦を避け、植民地化を免れた」などとよく聞きましたが、私は子どものころからおかしいな、と感じていました。なんてかわいくないんでしょう。
 
 だから本ブログでも度々歴史好きを表明していながら、実は司馬遼太郎を面白いとは思っても、感心したことも信じたことはなかったです。
「坂本龍馬ねえ、まあ確かにかっこはいいねえ」という感想でした。否定はしないけど、「嘘があるなあ」という直感とでもいうか。小説だから当然だけど、世間や周囲は、司馬遼太郎が描くことがあたかも史実であるかのように思い込んでいる人が圧倒的でした。だから違和感はありましたね。
 
 問題の一つは、なぜ「萩藩」と言わず、小説でもドラマでも絶えず「長州藩」が使われ続けたかです。どうして私たちはそれを疑いもなく信じ続けたのか。そこに明治維新の本質や大きな盲点(スコトーマ)があるはずです。それは今の社会・政治体制につながっています。
 
 本書は丁寧に文献研究されたうえで、論理的な推理を加えてあり、明治維新に関して頭を整理するには好著です。
 

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March 05, 2016

『天正壬午の乱』

 今、「真田丸」で取り上げている時期は、歴史学で「天正壬午の乱」と呼ばれる天正10年(1582年)3月の武田滅亡と6月の本能寺の変の後からその年末まで、甲斐、信濃で起こった領土争奪戦です。
 
 信長の突然の死で権力の空白地帯になった地に、北条、徳川、上杉が侵入して3つどもえの戦いを展開します。ドラマであったように、まさに調略の限りを尽くした謀略戦が展開されました。
「真田丸 第8回『調略』」では真田昌幸が武田家での元同僚、春日信達を騙してまでして北条と徳川を振り回そうとする様子が描かれていました。昌幸、「パパ、とても怖い」と息子・信繁に恐れられてしまいましたね。
 
 史実でも確かに信達は、北条方(昌幸が行ったと伝えられる)からの調略に応じようとしたのが上杉方に露見して、磔になったそうです。北条方は攻め手をなくして上杉との決戦はあきらめ南下して、甲斐に侵入した徳川との戦いに臨むことを決断します。昌幸は殿(しんがり)として信濃に残りました。
 
 実際にドラマみたいにわざと露見するように真田昌幸、信伊兄弟が仕組んだかは、わかりませんし、いくら昌幸でもそこまではできないでしょう。三谷さんは史実の流れは壊さずに、独自の脚色をしています。
 
 この天正壬午の乱が歴史ドラマで描かれるのは、多分初めてのことだと思います。多くの人は知らないと思います。その意味でも私は「真田丸」にとても注目しています。
 近畿で織田家重臣の羽柴秀吉や柴田勝家らが権力闘争をしていた時期に、東国ではこのような争乱が起きていたのです。
 
 しかし近年、この天正壬午の乱は、単なる地方の局地戦ではなく、のちの日本史に大きな影響を与えたことがわかってきました。
 
 平山優著『天正壬午の乱』(戎光祥出版)は、この乱を詳細に研究した結果をまとめた傑作です。そもそも「天正壬午の乱」と名付けたのは、著者の歴史学者・平山先生です。本書は先生の長年の研究成果といえます。
 
 ちなみにこの平山先生、山梨県立中央高校の教諭です。中央高校は山梨を代表する定時制高校です。私が関わった不登校・引きこもりの子どもたちが何人も入学しました。あるいは入学させました。私は、平山先生とは面識がありませんが、実はケースを通して間接的に関わっているとはいえるわけです。その点でも勝手に親近感を持っています。
 何より、いろいろな生徒がいる学校で教師をしながら、専門の研究活動でも名をあげるとは本当に素晴らしい、と感心します。
 
 この争乱は、単に大名同士が戦ったというだけではなく、勝敗の帰趨を決めたのは、その地方を治める国衆と呼ばれる昌幸のような人々や主君を失った武田遺臣たちでした。徳川家康や上杉景勝、北条氏政は彼らを味方に引き入れることに腐心しました。
 本書は、その様子が当時の文書の流れや各軍団の動きを丹念に追いながら、この乱の推移を詳細に描いています。小説ではなく、完全に実証的スタイルの論文ですが、実に面白い。
 
 特に私は甲信地方の地形や地名、山や道の場所がわかっていますから、本書で記される山城や街道を疾駆する軍勢をリアルにイメージして楽しむことができました。
 
 ドラマでこの乱に関心を持たれたら、是非手に取っていただきたいです。
 

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February 08, 2016

本能寺の変前後の甲斐

 7日の「真田丸」はいきなり本能寺の変でした。吉田綱太郎演じる織田信長は前回存在感を一瞬示しただけで、最後のシーンさえありませんでした。あっさり消えた感じです。大物役者の入れ替わりが激しいです。
 
 実際武田滅亡から本能寺の変までわずか3か月弱なので、信長の死がいかに唐突だったかがわかります。ドラマでもあったように、さすがの真田昌幸も仰天したことでしょう。武田びいきとしては、勝頼公、もう少し粘れたらよかったのに、という思いがします。
 
 武田滅亡後の甲斐の領主になったのは織田家の重臣、河尻秀隆です。信長の草創期から活躍し、黒母衣衆筆頭、織田軍の副将格だったそうです。
 河尻秀隆 Wikipedia
 
 武田一族が滅んだとはいえ、甲斐にはまだたくさんの武田の武将や侍が潜んでいたので、鎮圧しきれてはいません。
 信長の絶対の信頼がある武将が据えられたのは当然です。兵も相当数いたでしょう。秀隆は織田本軍を任されていたから、遠征軍の大将の羽柴秀吉などと同格かそれ以上だったかもしれません。信長の嫡男、信忠の教師的立場だったそうだから、もし本能寺の変がなくて、織田政権が続いたらナンバー2として君臨していたかもしれません。でも、今、普通の人は誰もその名を知らないですよね。それは本能寺の変の直後、歴史から姿を消してしまったからです。
 
 伝えられるところによると秀隆は、武田を憎む信長の命で、武田遺臣を誘い出し、見つけ出しては殺しまくっていたそうです。そのためおそらくは、甲斐の山々などに潜伏していた武田侍たちに相当恨みを買われていたでしょう。
 
 ちなみにこの時期の信長、信忠は宿敵・武田を葬ったことで、有頂天になって、元々あった攻撃性が噴出していたように私には感じられます。比叡山延暦寺と違って、政治的勢力ではない武田の菩提寺の恵林寺を、家臣をかくまったというだけで焼き討ちしたり、かなりやりたい放題でした。その時の国師・快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」は有名ですね。
 
 ついでにいうと、この快川和尚は土岐氏の出身で、明智光秀と同じです。しかも光秀の師匠だったのではないかという本もありました。恵林寺の焼き討ちの時、光秀軍は何人かの僧をそっと逃がしたと恵林寺には伝わっているそうです。
 光秀にとっては目の前で師匠が焼き殺されたのですから、相当な思いが生じたのかもしれません。本能寺の変の政治的黒幕や理由は様々な説がありますが、光秀個人の心に火をつけたのには、これもあったかもしれません。
 
 本能寺の変が甲斐にも伝わった直後、燎原の火のごとく甲斐は一揆に包まれます。一揆といっても百姓の一揆などではないと思われます。信長の死で動揺しているとはいえ、逃げるために必死の織田軍と戦うのですから、組織化された武装集団であったはずです。
 
 そして秀隆は今の甲府市岩窪町で、武田24将の一人で赤備えで有名な山県昌景の家臣に討ち取られてしまいます。山県は長篠の戦で討ち死にしていますから、主君の仇をとった形になります。
 武田遺臣たちはよほど腹に据えかねていたのでしょう、秀隆の死体は逆さまにして埋められたといいます。今もその首塚は岩窪町の片隅にあります。私も見たことがあります。 河尻塚
 
 本能寺の変が6月2日、秀隆が殺されたのが6月18日(15日という本も)だったので、わずかな期間に素早く正確な情報伝達と組織的な軍事行動があったからできたことに違いなく、武田遺臣たちの情報ネットワークが生きていたと推察されます。
 
 そして、織田の武将が追い払われて空白地帯になった甲斐、信濃に徳川と北条、上杉が加わり、三谷さんが「三国志みたいだ」と喜んでいた「天正壬午の乱」が起こります。独立した真田昌幸らの活躍もここから始まります。どう描かれるか(これまでのドラマ通り描かれないのか)楽しみです。
 

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